いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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前の記事にちょっと追加だが

2011年05月22日 17時52分12秒 | 社会全般
(追加というか、直接的にはあんまり関係ないかな。)


東電とその一派からすると、裁判所が判断を下すというような事態は、むしろ恐れていたはずです。不確実性が高まるから、です。行政サイドほど圧力や工作が効かないから、ということでしょう。政治家や官僚等であれば、動かしようがあるから、ということです。なので、「3条但書を適用する」と行政サイドが判断してしまえば、損害賠償請求は「全て国が持つ、面倒をみる」ということにできる、と考え、その為にインフォーマルな力を行使して行政に働きかけ、裁判所判断を封じようとするのは当然ということになるでしょう。ヘタに裁判所の判断が先に出されて、「いや法的には、天災地変には該当しませんよ」とか大々的に言われてしまおうものなら、大変なことになってしまうから(笑)。
国が「賠償責任は私です」と判決前に宣言してしまうと、東電に賠償請求する利益というのはなく、判決の上でも「国に請求するのが正しいので、国に請求して下さい」ということで、裁判を終結させられるはずですからね。


もしも、本気で国と法解釈を争うつもりがあったのなら、東電は勿論、銀行だって動くことは不可能ではなかったはず。
ノーアクションレターのような制度があるのですよ。法令適用事前確認手続をまず出して、緊急の追加融資をする前に「3条但書の適用になるか、否か」ということを聞くことはできたはずだ(民事訴訟が提起されて以降であれば、行政庁が答えない(回答を避ける)ということはあるので、返答が得られないかもしれない)。

東電にしても、原子力損害賠償補償契約の補償金請求(原子力損害賠償補償契約に関する法律)があるはずで、条文上の解釈を確認したいのであれば、「賠償措置の有無の確認」とか「請求権が東電に存在しない(=天災地変条項(施行令1条2号)適用の為)ことの確認」とか、行政庁の公式見解を確認することはできたはずである。
こうした、所謂フォーマルな手続きを踏んでしまうと、証拠として解釈論が残ってしまうのと、法解釈上の行政側裁量(悪く言えば曖昧さとか恣意性とか)を利用したい(=賠償責任を逃れる為の3条但書適用を確約させる)ということが達成できなくなる虞がある、ということだったろう。法的に戦うということになると、要するに「表の戦い」になってしまい、手練手管を利用し政治力や財界影響力などの全力行使でどうにかできるという「裏の戦い」からは外れてしまう、ということを最も恐れたのであろう、と。

ク●どもの考えそうなことって、どうせそんなもんだろう。


だから、本気で3条但書適用を争うのであれば、裁判での決着となろうとも、行政側解釈に挑まなければ覆せるはずもないということだ。しかし、これをやってしまうと、フォーマルな手続きとなってしまう為、東電とその一派の実力行使が中々及ばなくなるから残念無念ということだったのだろう(笑)。

結局のところ、東電と一派のヤツラがやろうとしていたのは、これまで通りに「内々で処理、いいように処理、我らの利益になるように処理」ということでしかなかった、ということだろう。


因みに、拙ブログで裁判所の判断に従うよりない、と書いた(笑い者の「東電救済スキーム」)のは、判決云々ということではないぞ。倒産会社それとも更生会社としての、更正計画とかの再建手続は、裁判所が決定を下すものであるから、それに従え、というものだ。

そういう公的な再建計画に従う(例えば会社更生法適用とか民事再生法適用等)のが困難であるというのなら、昔みたいにメインバンクを中心とした銀行団と再建企業が協力して、いうなれば「私的更生計画」を目指すよりないんじゃないの、という話だ。
どこまで資金手当てが可能か判らないが、更正会社に準じた処理を自発的にやって、賠償に備えた引当なりを積んでみて、それでもどうしても不足する(会社が本当に倒産してしまう、債務超過に陥るのが確実)というのなら、はじめて国(と国民)が負担しましょう、支援しましょう、というのが筋なのではないのか。メインバンク時代であれば、率先して債権放棄を示したのが銀行であり、メインバンクが債権を一番カットする姿勢を見せなければ、他の金融機関に「どうか減免して下さい」なんて頼めなかったんじゃないの?
せいぜいが「なに、殿様商売を気取ってんだよ、お宅が頑張って削ってないのに、何でウチがかぶらにゃならんのよ」ということで突っぱねられて終わり、みたいなもんだ。


ところがどっこい、東電はもとより、銀行団にしても、どこからどう見ても更正会社に準じた態度でもなく自覚もないようですから、だったら、放置でいいんじゃないですか、自分たちの好きなようにやったらいい、それで倒れたら法的手続きに移行したっていいんじゃないの、という話だわな。倒産に準じた状態じゃない、まともな一流企業のまんまでやれるんだ、という自信がみなぎっているようですから、だったら「国の支援・援助」なんざ、金輪際必要ないんじゃございませんかね、ということですわ。
東電と銀行なりマーケットなりで、自分たちの好きなように法に基づいて処理したらいいんじゃございませんの、という話なんだわ。

そうすりゃ、債権放棄をしろなんてアホな政府(笑)にも言われずに済むわけだし。
自分たちの好きなようにやれるでしょうが。
経団連や全銀協の言う、法に基づいた処理、法理論に則った処理というものが達成されるでしょう、ということを言っているんだよ。どうしてそれをやらないのか?
やれるはずなのに、やろうとしないのは何故なのか?


ま、こんなもんなんだろうね。
所詮、出鱈目を言うくらいしか能のない連中なので、人の懐を当てにすることしかできんわけだよ。
勿論、自分たちの腹を痛めたくはないから、全部他人の金で手当てするわけさ。
他人の金というのは、税金であったり、電気料金という名の強制徴収資金だわな。
で、何でも国の責任、国の金を当てにしておきながら、都合のいい部分だけはマーケットの論理を振りかざすという、出鱈目「学者もどき」と一緒ってことだな。


学者を名乗っていながらにして、堂々と出鱈目を披露し、それを恥とも思わない人はいるんだな、ということか。
社会的に肩書きだとか地位とかが偉くたって、同じく出鱈目を言い募るというのが尽きないのと一緒だね、と。


日本社会のダメさ加減を痛感させてくれて、有難う。



小幡績氏の全く間違った論説

2011年05月22日 15時56分45秒 | 法関係
小幡績氏の論説には、全くの誤りであるとしか思えない部分が含まれている。

はてなブックマーク - ごく普通に東京電力の賠償スキームを考える : アゴラ - ライブドアブログ

(以下に一部引用)

賠償の対象は審議会などの検討を経て決定する。風評被害などをどこまで賠償するかは審議会の検討を踏まえて、内閣が最終的に判断、決定し、賠償を行う。この範囲については、個別被害者から訴訟を受ける可能性があり、それは司法判断となる。また現在進行中であるから、賠償責任も範囲も本来は確定しないはずだ。だから、国が全責任を取るのはおかしいという議論がありうるが、同時に一義的に東京電力の責任と内閣が断定的に発言するのもおかしい。したがって。正式には決定できない。
原賠法第三条但し書きを適用してすべてが国の責任であると判断しない限りは最終的な責任主体は確定しない。ということは、逆に言うと、一義的に東京電力の責任という判断はいかなるロジックをもっても誤りである。個人的な意見として東京電力に責任を負わせろという投書が新聞に掲載されるのはありうるが、権威ある日刊紙が社説としてそう断定するのですら、社説の立場としては難しく、ましてや、政府が断定することはありえない。ここにも政府の完全な論理的誤りが存在する。これは裁判所で決まるもので、政府の意見はあるだろうが、司法判断を待つしかない。だから、現実には最終的な賠償責任主体を確定せずに走るしかない。


========


大学の教官ということらしいのですが、酷い間違いが多すぎるのではないかと思われます。ウソを書いている部分について、見てゆくことにします。以下、小幡氏の記述した問題部分を赤で表示します。


ア)国が全責任を取るのはおかしいという議論がありうるが、同時に一義的に東京電力の責任と内閣が断定的に発言するのもおかしい。したがって。正式には決定できない。

ここで言う「正式には決定できない」ということの意味ですが、異議申立てなどがあって訴訟となれば、最高裁まで行く可能性があり、そういう点で「最高裁判決が確定しないと正式決定ではない」という言い分なのかもしれません。確かに最高裁判決が出されるまではどうなるか不明、ということならば、殆どの事柄についてそのようになってしまいます。
曖昧な言い方を避けるということならば、
・行政府は決定できる権限を有する
・しかし、その決定(処分)が確定しているとは言えない
・行政訴訟等で司法判断によって覆される可能性は残されるから
というふうに、正確に表現すべきでしょう。

そもそも政府には、決定する権限がありますから、内閣が「東京電力の責任」と決めてそれを公表(発言)することはできます。小幡氏のいう「発言するのもおかしい」というのは、行政府が決めたことについてではなく、「発言するのは不適切(場面、時期、内容、影響等々を考慮すると)」という意味合いでならばあり得るかもしれませんが、政府が「東電が賠償責任を負う」という判断を下すのが誤りという見解ならば、それは間違いです。


イ)原賠法第三条但し書きを適用してすべてが国の責任であると判断しない限りは最終的な責任主体は確定しない。

前項以上に酷いウソがこれです。
前にも述べた通り、「原子力損害の賠償に関する法律」3条及び4条により、原子力事業者が責任主体であり、他の者はあり得ません。3条但書が適用された場合には賠償義務を負う者はなく、原子力事業者は免責されると同時に、国の賠償責任も消滅します。但書適用の場合において、国は「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする(17条)」とされており、賠償義務を負うものとは解せられません。
「但書を適用して全てが国の責任」とか、「責任主体は確定しない」というのは、全くの出鱈目と言ってよいでしょう。

(参照:原子力損害の賠償についての検討


ウ)逆に言うと、一義的に東京電力の責任という判断はいかなるロジックをもっても誤りである。

いかなるロジックをもってしても、小幡氏の主張は間違いでしょう。前記2項から、明らかです。


エ)ここにも政府の完全な論理的誤りが存在する。これは裁判所で決まるもので、政府の意見はあるだろうが、司法判断を待つしかない。

これもア)で述べたのと同様に、司法判断を待つしかない、というのは誤りです。裁判が行われている場合ならば、当然ながら裁判所が判断を下すことになるかと思いますけれども、行政の全てで裁判が行われているわけではありませんから、いちいち裁判所に確認することなどできるはずもないのは明白です。行政が判断する権限を持ち、適用とか適用外とかの判断を下すよりないのです。その処分や裁定などに不服である時には、別な方法で紛争解決を図りましょう、という制度になっているのですから(行政事件訴訟法、行政不服審査法など)。



ここで、当方が例題を勝手に考えてみました。そちらの方が分かりやすいのではないかな、ということで、説明の補足にしたいと思います。

最近のユッケ騒動もあり、予備試験の問題にもなった食品衛生法を取り上げてみます。

(参照条文) 食品衛生法 第六条

次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
一  腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの。ただし、一般に人の健康を損なうおそれがなく飲食に適すると認められているものは、この限りでない。
二  有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの。ただし、人の健康を損なうおそれがない場合として厚生労働大臣が定める場合においては、この限りでない。
三  病原微生物により汚染され、又はその疑いがあり、人の健康を損なうおそれがあるもの。
四  不潔、異物の混入又は添加その他の事由により、人の健康を損なうおそれがあるもの。


このような法律がある場合、例えば、牛肉の生肉であるユッケは販売できうるか、また、事故が多数発生している場合に行政はこれを止める権限を有するか、といったことが問題になるでしょう。
(しつこいようですが、あくまで架空の例示であり、事実とは関係ありません)

具体的な事実として、
・ユッケに提供された牛肉から細菌が検出された
・ユッケを食した人に、食中毒患者が複数出た
ということがあったとします。

すると、6条3号の病原微生物による汚染(又はその疑い)、健康を害する虞、という要件を満たしているものと判断することは不可能ではないでしょう。そうすると、55条規定により知事(保健所)には営業停止権限があるので、この根拠をもって業者甲に営業停止を命令したら、甲はこれを不服としてその処分の無効を主張しました。

さて、このような場合、6条3号に該当しているか否かの判定は誰が行うのか、ということです。まず行政にその判断を行う権限が与えられているのであり、裁判所がいきなり判断をしてくれるわけではない、ということです。
爛熟した桃が厳密に言えば腐敗しているとみなせるかもしれないが、行政が1号但書に該当していると判断するなら、敢えてこれを禁止しない、というような決定をすることも同じです。

行政の出した処分が不適切であると考えるならば、裁判なり不服審査なりで争え、というのが現行制度となっているのです。これを「行政が判断することが誤り」とか言うのは、根本的に誤りであろうと思います。例題の場合に、業者甲が訴訟提起し、最高裁まで行った場合ですと、確かに「6条3号に該当するか否か」の最終的な判断は最高裁判所が行うのであって、行政(保健所)の処分が正式決定でない、というのはその通りでしょう。ただ、それは言葉のアヤというか、用語の使用が混在しているとか不適切というだけであって、例えば「正式決定」というのは何を意味するのかが、当人以外には分からないわけです。小幡氏独自の用語定義に基づいて使われているのであれば、理解困難となるだけでしょう(以前にも、似たような話があったな、そういえば)。


要するに「異常に巨大な天災地変」に該当するかどうか、ということについて、その当初の判断権限は原則として行政にある、ということです。