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オール人力狙撃システム試作機

アマチュアらしさ?

2006年12月04日 19時22分47秒 | おかしいぞ
私には全く無縁であったオーマイニュースであるが、ふとした記事を発見したので、感想を書いておこう。

OhmyNews佐々木俊尚さん、本当にそれでいいんですか?

OhmyNewsオーマイニュース批判を考える


どうやら書き手は、ネット世界ではちょっと名の知れた人であるようだ。私は全く知らなかったし、元々の論争の根本原因にも興味はないが、書き手の気持ちが分らないではないな、とは思う。ただ、違和感は確実に残るかな、と思った。



『君たちは、自分たちを批判する声は耳をふさぐか茶化すかして、自分たちの自尊心を甘やかしてくれる声には犬みたいにしっぽを振る。それでいて自分たちのことを「新しい人」だなんて思い上がって、それで本当に恥ずかしくないのか?

君たち、つまり「2ちゃんねらー」だけでも、「ブロガー」だけでもない、「新しい人」たちすべてに問うてるのだ。』




音羽氏はこのように問いかけているようです(リンクの下段の方の記事)。
私は少なくとも「新しい人」でもないし、よく分っていないので返答にはならないかもしれないが、一応書いてみる。


誹謗中傷や罵倒系のコメントが大量に書かれ続けると、私もやっぱり頭にくるし、ウンザリだと思ったりするし、マナーも何もあったものではないなとか思ったりするだろう。それは多くの人が同じようなことを思うだろう。匿名の陰に隠れた卑怯者(by小倉先生風)たちが大量に発生し、そういう連中に荒らされるのが我慢ならない、ということも、そういうことは「止めるべきだ!!」ということも、そうだろうなと思う。


特に個人のブログなんかでそうした事態が発生するのは、「守ってくれる盾」が全くないので、より一層怖い感じがするだろうし、「そゆことはヤメレ」と考える人たちの方が多いと思う。それが一般的なんじゃないのかな、と。ネット上で「炎上・点火をどんどんやっていこう」と呼びかけるような人たちは見たことがないが、「コメントスクラムはやめましょう、マナーを守りましょう」と呼びかける人たちの方が圧倒的に多いと思うけれど、それでも中々炎上現象はなくならないのですね。この理由は分りませんが、何かの心理的なものとかなのかもしれません。普段ネット上に存在していて、何もないのに「炎上狙い」で点火して歩く人たちというのは、その絶対数として多くは存在していないのではないかと思います。


一般人のブログとは異なり、「オーマイニュース」という看板で記事を出している以上、個人のブログなんかとは「一線を画す」という姿勢とか考え方というのは、書き手に求められてしかるべきなのではないかと思います(これには賛否があるかもしれませんが)。しかも、コメントスクラムの参加者たちからは、「書き手」は「オーマイニュース」という「看板の盾」によって一応はディフェンスされており(本当に防衛力が機能しているのかどうかは知らないのですが)、オーマイニュースがその看板の下に「書き手の記事を掲載しておく」という手続きを経る事で、タダの一般個人ではなく「オーマイニュースの記者」が書いたもの、という風になると思います。これは一般個人のブログなんかとは全く異なるものであろうと思います。「1人でも多くの人たちに見て欲しい」ということで記事を出しているわけで、「オマエらなんかには読んで欲しくない」という書き手側からの読者の選別はできないのです。更に、どんなに批判を受けたとしても、それはそれで一つの意見表明であり、大抵はもっと多数の周囲の人々(所謂サイレントマジョリティですか)が「判定」を下しているのではないかと思います。「誹謗中傷や罵倒」の意見に「大賛成だ」と感じる人は実際には少ないだろうし、逆に嫌悪感を抱く人の方がきっと多いと思います。記事の良し悪しや中身は別として。


凄く不味いラーメン屋があるとして、毎日食べに来ては「今日の日替わりラーメンも、今までで最悪の出来栄えだな」「もっとマシなラーメンくらい出せよ」「ラーメン屋止めた方がいいんじゃないか」などと貶すお客たちがいるとして、この方々はラーメン屋の経営にとっては「プラス」なのであり、どんなに「あー、不味い、不味い」と言いながらも「毎日食べに来てくれる」というのは、逆に「店を愛して来てくれる客」と何ら変わらないんですよね(笑)。これはこれで、意味がある、というものです。一番普通の反応は、「誰も食べに来なくなる」というのが多いのではないかと思いますよ。


ちょっと立場を変えて考えてみましょう。
例えば、陸上自衛隊の定数・基地削減問題というのがあるとします。で、「平和を守れ」とか「自衛隊は即刻なくせ」とかの運動を行っている方々なんかがいると思います。彼らの実際の活動状況は分りませんが、時々報道されたりする映像やニュースなんかを見た印象を言いますと、次のような感じです。

「基地はんたーい!米帝の手先は出て行けー!戦争を進める軍国主義者だー!真っ先に基地が攻撃目標にされるー!我々市民の安全を守る為に、自衛隊は出て行けー!」

実際にこの通りには言ってないと思いますが、反対派の方々のデモとかで拡声器を用いたりなんかして、大音量で「攻撃」するわけですね。自衛隊や米軍の基地に行ったり、取り囲んだりして、抗議行動などの「現実的行動」をやっているわけです。冷静に見てみると、そうした運動家たちの抗議行動も、誹謗中傷や罵倒の類と本質的に余り違いがないようにも思えます。


自衛隊駐屯地が存在する地域の住民たちにとっては、別な意見があるかもしれないし、複雑な事情というのがあるかもしれないですよね。たとえ少数派であるにせよ、当事者たちにとっては、もっと別な見方もあるのです。人口の少ない町村であれば、駐屯地があることで住民の1割とかそれ以上かもしれませんが、大きな収入源になっていることもあります。駐屯地があるからこそ、道路や町の施設整備関連の予算を毎年貰えるかもしれませんよね。地主だった人たちにも、何らかの借地料だか地上げ料金だかが入ってくるかもしれない。基地関連の働き口が増えるかもしれないし、人口が若干増えるので他の需要(小売・飲食・娯楽等)も増加するかもしれない。そういう利害関係だってあるので、一概に基地や駐屯地があるからといって「はんたーい!!出て行けー!!」とはならないんじゃないでしょうか。反対じゃない当事者たちは、じっと静かに見守っているのに、どこからか現れて大袈裟なデモだとか反対運動なんかを展開された日にゃ、「いい加減にしてくれ」「たまったもんじゃない」「うんざりだ」(笑)と思っているかもしれません。それに賛成派であれば現実行動の意味があまりないので、「賛成ー!賛成ー!」などと反対派のデモ隊みたいな活動はしないでしょうね。賛成の数が多くても少なくても、そうだろうな、と思います。


要するに、こうした反対運動の方々の行っている「抗議行動」というのはある種の「闘争」活動みたいなもので、これと、オーマイニュースの記事に「誹謗・罵倒」を投げつける活動と、本質的に異なることというのは何でしょうか?私には、あまり違いがあるようにも思えないんですよね。


自衛隊反対派とか基地反対派の意見が少数派だとしても、それを「無視していい」とは思っていません。意見表明なのだから、それを「止めろ」と禁止することは難しいのではないかな、と思いますけれども。これに似た構図は案外と色んなところにあるんじゃないかな、とも思いますね。なので、オーマイニュースの記事に、簡潔に表現すれば「はんたーい!!」を連呼する人々がコメントに参入してきたとしても、これを止めるべき理由というのはないように思えます。勿論、法的に問題のあるようなものについては「定型的な基準」とかで削除できるのは当然であるし、更に管理側の基準として「一定のルール」を周知し、それに違反するような場合には「削除」という措置を取ることも可能であると思います。ドレスコードのあるレストランに行って、「お客様の服装では入店できません」と断る場合には、店側に判断の基準があるのは普通なのではないでしょうか。そういう作業で済むようなものではないでしょうか。それ以外については、反対意見ばかりが大量に出されようとも、そういう意見なのだな、と考えるしかないように思います。


プロの書き手とか、プロの漫画家でもいいのですけれども、そういう人たちはどんなに「駄作だ」「つまんねー」「こんなのアホしか書かない」だの罵倒されようとも、黙々と書いていくのではないでしょうか。実際どうなのか知らないのですが、プロの書き手が読者全員に「つまらん誹謗はやめろ」と言ってみたところで、仕方のないことのようにも思えます。ネット世界が「理想郷」であればいいのかもしれませんが、逆に、過度にそういう「理想」を追い求めすぎることの危険性というのも潜んでいるかもしれないな、と思ったりもします。音羽氏のちょっと「選民思想」がかったような(これはあくまで私個人の印象ですけど)文章を読むと、そうした潜在的危険性をちょっと感じます。


音羽氏の記事(リンク上段の方)から一部引用しますと、次のような記述が見られます。


「日本のネット文化」において冷笑的な罵声を浴びせかけるような「2ちゃんねる的なもの」はマイノリティだったわけである。というより、「日本のネット文化」は、家庭にパソコンがあり、さらにそれがインターネットにつながるという環境がごく少数派だった地点から始まっているのだ。我々は誇り高き少数派であった。自分たちが「ごく普通」であることなど夢見たことがなかった。

 「2ちゃんねる」のような冷笑的な態度というものは鬼子ではあるが、それは我々「誇り高き少数派」から流れる「文化」なわけである。なぜ、そんなものを「ごく普通」などと安易に一般化できるのか。

 だいたいにして、聞くに堪えない罵声が「ごく普通」である文化などに、可能性などあるのか。

(中略)

オピニオン会員の間に発生したのは「新しい文化」などでは決してない。それには人数が少なすぎた。オピニオン会員の間で発生したのは、このような「腐った内輪」である。

 例えば、少ないながらも「ひと言」欄については、ぼくが書いたような冷めた意見(=ひと言欄などなくてもいい)もあったわけである。しかし、それに関しては佐々木さんは考慮にも入れてくれないのだ。それはなぜか? 佐々木さんは「空気」を「集約」するとおっしゃられるが、オーマイニュースは「ひと言」欄だけの場所ではない。

 「ひと言」欄での上記の出来事のような「内輪受け」の雰囲気を嫌うぼくのような記者や、「内輪」での集団的誹謗を怖がる記者もオーマイニュースの一員である。

 佐々木さんはどのような権利でもって、「内輪を拒否する我々」を「排除」しようとするのか?




こうして見ると、「誇り高き少数派」とか「内輪を拒否する我々」とか、結構刺激的な表現が並ぶのですが、これこそが音羽氏の非難している「内輪」であるようにも見え、誹謗や罵倒を繰り返す少数の人たちと同じく「腐った内輪を拒否する、誇り高き少数派」(=ある種のコミュニティかな?)を形成していて、「自分たちを批判する声」に耳を塞いでいなと言えるでしょうか?「出て行けー!」とけたたましくシュプレヒコールを繰り返す反対運動の少数活動家たち(の意見)を排除することが、果たして理想的でキレイな世界なのだろうか?「腐った内輪」を取り除けばよい、というのは、まさしく「選民的」発想に繋がってないだろうか?その危険性を自ら感じ取ったりしているだろうか?


自分たちに何かの信念があり、不当な誹謗中傷などには断固として対抗せねばならない、と考えているのであれば、その信じるところに従って書き続けるのが「書き手」の役割ではないでしょうか。ルールを無視するような「コメント」については、そのルールを明示して機械的にどんどん「削除」すればいいのです。ペインティングなんかの「悪戯書き」も同じです。書き込んでも「ソッコウで消される」となったら、段々と書くのが減ってくるのだそうです。それを積み重ねていけば、次第に悪質な罵倒や誹謗中傷を書き込む雰囲気ではなくなるでしょう。それが可能になるのは、やはり「記事の内容」によるのではないかと思います。質を高めること、自分たちの意図を正しく伝える努力をすること、そういうこと以外にはないと思います。先のラーメン屋の例ではありませんが、いつまで経っても「不味いラーメン」しか出されなければ、どんなに自分たちが「誇り高き少数派」と自認していても「不味い」と言われてしまうかもしれず、そうであればいずれラーメン屋は潰れてしまうと思います。


デモ隊のシュプレヒコールの自由を完全になくすことを目指すよりも、「なぜそのように考えるのだろうか?」「どうして、反対と言っているのだろうか?」ということに目を向け、考え方を理解してもらう努力をするべきなのではないか。大量に投げつけられる反対意見の裏側に何があるのか考え、それを説き伏せるような記事を書くことも必要なのではないだろうか。


「ミサイルの追尾レーダー基地が攻撃目標として狙われる」と信じていて、その為に「基地反対!」と言っているのであれば、その可能性がいかに少なく、もしも万が一攻撃を受けた場合にでも、住民に被害が想定されるような攻撃手段がどれほど限られたものか、その実行可能性がどうなのか、というようなことを平易に説明することも必要なのではないかな、ということです。これを説明せず、ただ単に「基地反対というのは間違っている!反対のシュプレヒコールは不快だ、そういう腐った活動グループは排除され、消えればいい」と言うだけでは、あまり理解は得られないのではないでしょうか。説明しない、ということを選択するのは自由ですので、それでもいいでしょうが、双方ともに前進はなく、紛争はただ続いていくだけのような気がします。

この様子を黙って見ている人たちは、どのような評価をして、どのように考えるでしょうか。


プロの書き手はそういう色んなことを考えるし、読者から自分に向けられる批判も、著名人からの辛辣な批評を受けることも、全て予め「起こりえる」ものとして書いていくのではないでしょうか。それを受容できず、下らない批判は許容できない、とするのは、単なる同好会的なアマの書き手の集まりみたいな感じがします。参加者同士で「キミの詩は~が素晴らしいね」「いやあ、アナタの方こそ○○の表現が最高だね」なんて具合に、慰めあうのを「よし」とするなら、それでもいいでしょう。その選択は自らが行うのであり、それが「我々記者が作っている『オーマイニュース』なんだ」ということであれば、所詮「アマの同好会」なんだな、と思われても止むを得ないのではないでしょうか。


<全然関係ないのですが、今シリーズで書いてる中で、「洗練」ということを取り上げてますが、今回の記事にもちょっと関連するので、いずれ触れたいと思います。>



私の「こころ」は有限世界なのか?~その7

2006年12月03日 17時43分07秒 | 俺のそれ
昨日の記事は変な所で終わってしまいました。スミマセン。


ちょっと繋がりが悪くなっていますが、ご容赦願います。前は「融合」という部分について書いてきましたが、今度は「洗練」ということについて話しを進めます。

昨日の終わりの部分で、次のように書きました。


では、大多数を占める無駄情報というのが「役立たずなのか」「本当に無駄なのか」「存在価値すらないのか」ということを考えてみましょう。

一般個人などが何の専門知識もないけれども、「あれこれ」とあまり意味のなさそうな情報と蓄積していくとしますね。特に目新しいものでも何でもない、という情報ですね。しかも、似たような情報はゴッソリと溢れている、と。




この続きですけれども、大多数の平凡な情報の存在は無駄かどうかを考える前に、人間の体の話を少し。


人体の中で最も多い物質は、勿論「水」です。ごく普通の平凡な物質ですね。体重の6~7割は水らしいです。で、体の中なのに、細胞には「内」と「外」の世界の区別がハッキリとつけられています。水の中に浮かんでいる(実際浮かんでいる訳でもないんですけど、イメージがそんな感じ、ということで)細胞は、細胞の外界と違う環境に置かれているのです。水分子はとても小さいので、細胞の内と外を行ったり来たりできます。細胞膜(境界)を通過していけるのですね。ゴム風船のような感じで、内外の区分があり、ゴム(境界=細胞膜)を水分子のような小さなものは透過できる、ということです。細胞の内と外では細胞の構造物の有無でも違いがあるのですが、貯められている物質にも違いがあります。


最もごく普通にたくさんあって、細胞内外で異なる物質は所謂「塩」です。細胞の外側にはナトリウムイオン(Na+)が大量に存在していますが、細胞内にはずっと少ない量しかありません。大体12倍程度細胞外の方が多いのです。ところが、カリウムイオン(K+)は細胞内に大量にあって、細胞外にはすごく少ない量しか存在しません。K+の場合には、約35倍程度の濃度差があります。因みに、カリウムは毒性があって、安楽死事件や医療事故などでも登場する薬物であり(投与されるのは「塩化カリウム」ですね、大抵は)、一定量を超えて静注すると死亡します。なので、細胞内にあるK+が大量に細胞外に流出してしまったりすると、人体には悪影響が及ぶ危険性は有り得ることになってしまうのです。細胞内には「大量にあってもよい」のに、細胞外に同じく存在してしまったりすると大変なことになってしまう、ということですね。致死的物質であるにも関わらず、細胞内に閉じ込めてある、というのも不思議な環境ですよね。


まあ、簡単に言うと、細胞外にはNa+が、細胞内にはK+が大量にあるが、反対側にはごく少ない量しかない、ということです。こうした濃度勾配の存在は、情報伝達や物質の移動に密接に関わっているのです。もしも何の仕組みもなければ、細胞の内部と外部に存在しているNa+とK+は濃度勾配がなくなるまで逆側(内→外、或いは外→内)へとどんどん移動していってしまいます。放置すればいずれ濃度が同じになってしまうでしょう。なので、細胞にはこれらの汲み出しポンプが存在していて、常時濃度勾配を一定に保つように入ってきたNa+を外に排出しK+を中に取り込むということが行われているのです。他には、イオンの通過できる特別な通路(チャネル)なんかがたくさんあって、そこの開閉などで調節したりもします。特殊な状況になれば、扉が開いて一気に濃度差通りにNa+が流入し、K+が流出していくということが起こってしまうのです。神経線維のスパイク電流の発生の仕組みもその機能が働いています。平常時の膜電位(細胞内外のイオンの濃度差によってある電位に保たれている)は一定に保たれていますが、刺激電流発生によって細胞外のNa+が流入し細胞内のK+が流出することで膜電位の変化が次々と伝達されていくのです。膜の内側と外側のプラス、マイナスの電荷が入れ替わるのです。こうして神経の電気的信号は伝えられています。


こうしたNa+やK+というのは、体内全体で見ればごく普通に存在する物質であり、珍しくも何ともありません。でも、まるで「レッド軍」と「ブルー軍」のように、常に対峙していて、その存在場所は限定されており、時には入り乱れて(スパイク電流発生のような)の流入、流出が起こるのですね。相手陣地内に双方が突入していく訳です(笑)。でも、それ以外の時には、お互い「境界」を挟んで睨み合っている、というか、別な環境世界を形成しているような感じです(ちょっと違うか?)。


つまり、ありふれたもので、どこにでもあって、似たり寄ったりで、大量に存在している、ということが、それ自体で「情報伝達の一部」を担っている、ということです。そう考えると、同じような情報、価値のあまりない情報、新鮮味のない情報、そういうものであっても、「何らかの存在意義」というのがあるかもしれず、Na+に対応するような「簡単な」情報とかそれを持つ個人が大量に存在していることが、何かに役立つかもしれないですね。ネット上でたまに見かける、「○○族」vs「××グループ」の対決?のような感じにも似ています。ブログ炎上(近頃は「コメントスクラムの被害」のような表現を見かけなくなりましたね、そういえば)とか、グループ間の論争などもちょっと似ているかもしれません。レッド軍とブルー軍の攻防みたいなもんですね。


というわけで、役立たない情報が大量に存在していたり、似たような情報がダブって存在していたとしても、その濃淡によって「新たな刺激情報」を伝達したり、信号強度を表現したりすることになるかもしれません。「何だ、またかよ」「オマエもか」という反応をする前に、ひょっとするとそこには別な情報が読み取れたり、何かが隠れていたりすることもあるかもしれない、と思って、注意してみるといいかもしれません。それは、ほんのちょっと表現方法を変えるだけで、新たな価値創造に繋がることがあるかもしれませんよ。


前にちょっと書いた(検証作業というか・・・)のですが、市販される飲料は「甘くない方がいいよね」、という意見は、ブラックコーヒーやストレートティを求めているとは限らない、というようなことです。別な見方に変えれば、お茶系飲料のマーケットが開けてくる、ということです。烏合の衆でしかなさそうな平凡な意見や情報の集合というのは、それ自体にもやはり存在意義があったりする可能性はあるんじゃないのかな、と思いますね。一般個人が間違っている情報を流そうと、古びた情報を出そうと、みんなと同じような情報であろうと、それにも「意味があるかもしれない」ということですね。



私の「こころ」は有限世界なのか?~その6

2006年12月02日 17時41分34秒 | 俺のそれ
前回アメリカの大学奨学金の話をちょっと書きました。私は留学経験など持っていないので、正確には判りかねますが、知っている(というか、ただの印象?)の範囲でもう少し書いてみたいと思います。


スポーツ奨学金なのだが、「学業成績」も同じく一定水準の達成を要求される、というのは、ある種の「セイフティ・ネット」なのではなかろうか、別な領域の知識習得が後々役立つかも、ということを書きました。スポーツの周辺ビジネスについて考えると、実際の一流プレイヤー以外の人々の存在というのが必要になってきます。チームの監督、コーチ、トレーナー、GM、スカウト、チーム運営スタッフ、代理人、・・・・他にどんな職種があるのか判りませんけれども、多種多様な職種の人々の介在が必要になります。そういう周辺の人々というのは、自分自身が一流プレイヤーである必要はなく、もっと別な能力を求められます。マネジメントだの、経営だの、マーケティングだの、広報だの、交渉術だの、・・・・ただ単に「野球ができればいい」「運動能力が高ければいい」とか、そういうことではないのですよね。


仮に、大リーグの選手を夢見てチャレンジを続けたとしても、才能なのか、環境要因なのか判りませんが、能力差が生まれるし、「成功できる者」と「決して成功できない者」という区別がなされます。競争の結果ですから止むを得ないですよね。で、敗者はどうなるかと言えば、他の能力があることが重要になってくると思います。プレイヤーの立場を理解できる、プレーの質を正確に評価できる、センスのある者を見抜く力に優れている、トレーニングや戦術理論に優れている、人心掌握術に長けている、などといった能力があれば、自分自身が一流の仲間入りはできないかもしれないが、一流プレイヤーを支える、或いは関連マーケットを担えるポジションを獲得できるかもしれません。プレイヤー側のことを「よく知っている」からこそ、できる仕事もたくさんあるのです。


そして、選手自身が価値創造を行う(彼らがいなければ何の価値も生み出されないのは確かだ)としても、その評価額を高めたり、マーケットと上手く繋げられる人たちがいなければ、成功を手にすることができないのです。そうしたエージェント的な、或いはコーディネーター的な人々が多く存在していけることそのものが、競争参加者たちの裾野を広げるし、よりマーケットを大きくしていける原動力になるのではないかと思います。たとえ途中で脱落してしまったとしても、もっと別な道がたくさん残されているかも、ということなのです(参考記事:「明日のスター」を生み出す為に投資しよう)。


チームや球団運営だけではなく、スポーツライター、解説者、その他メディア関係、スポーツ用品やグッズの開発・販売、イベント企画、・・・・などといった関連分野もあると思うので、自分自身がプレイヤーであったことが能力として活かされるかもしれないし、例えば「野球」という特定分野以外の能力を養っておいたことが後々役立つかもしれない、ということです。こういう立場の人たちほど、「融合」ということをうまく引き出せるかもしれないですよね。


そういう訳で、「今は自分に関係ない、必要ない」と思えることであっても、「興味を持ってみる」ということがある方が望ましいと思います。ある分野の専門、すなわち一流の「職人」になれるように目指すのですが、結果的に途中で別な方向に進むことになってしまうかもしれませんけれども、新たな価値創造に繋がるように、一流になった「職人」たちと別な何かの領域を連結する役割を担うことも重要なことなんじゃないのかな、と。異質性の高いことがそれまで予想していた範囲を超える「融合」を生み出すかもしれず、そこでの価値創造が行われることになるでしょう。


こうした情報や知識の「融合」によってもたらされる価値と伴に、重要と考えるのが「洗練」ということではなかろうかと思っています。これからは「洗練」という部分について考えてみたいと思います(「洗練」という言葉がいいのかどうなのかは判りませんが、一応この表現を用いることとします)。


通常、情報や知識というのは「鮮度」があって、次々と古くなっていきます。実社会の中で定着してしまって用いられている実用的な「知恵」(例えば納豆の製法とか、ハム作りとか)は残されていますが、既に過去のものとして忘れ去られたり、誤りであったものとして捨てられたり、訂正されたりしているものもあるかもしれません。更に、重複や言い換えなどで「無駄に蓄積される」情報というものも多数あります。身近な例で言えば、何かの注目事件について報道が「同じような情報」ばかりをもたらし、何も新たな情報に繋がっていないことがあり、新聞・テレビ・ネット等の情報が「かぶって」いるようなことです。こういう時は、情報の価値自体は変わらないものが「無駄に」多数存在することになり、価値創造には繋がらないですね。で、時間が経つと忘却という運命から逃れられないものが圧倒的多数でしょう。


そうなると、本当に有用な情報というのは限られている面があるし、そういう情報を生み出せるのは主に研究者たちのような「専門家」ばかりなのではないか、ということなのかもしれませんね。実際そういう部分は多いでしょう。

では、大多数を占める無駄情報というのが「役立たずなのか」「本当に無駄なのか」「存在価値すらないのか」ということを考えてみましょう。


一般個人などが何の専門知識もないけれども、「あれこれ」とあまり意味のなさそうな情報と蓄積していくとしますね。特に目新しいものでも何でもない、という情報ですね。しかも、似たような情報はゴッソリと溢れている、と。



また後で。



乱心いたしたか、松銀どの

2006年12月01日 15時32分27秒 | 経済関連
何が「年内利上げ?」だ。

Yahooニュース - 読売新聞 - 10月の全国消費者物価指数、5か月連続でプラス


もうホンマもんの「ア○ウ」ですか?
いかん、いかん、失礼。


今の段階で、どこから利上げの根拠が出てくるんですか?
「フォワード・ルッキング」って、何が「過熱」なのさ。
その将来リスクは、「デフレ再突入」リスクと比べてどうなの?
マーク・オメーラじゃなかった、「おめーら」は再び日本経済を破壊に追い込む気か?

将来時点での「何が」「どれ位」問題になってくるのか説明して欲しいもんだ。賃金上昇はタイムラグがあるかもしれない、というのを仮に認めたとしても、デフレ逆戻りのリスク評価と、利上げせずに放置した場合の比較検討した結果を出せ。定量的に判断しているんだろ?出せない訳がないよな?


もう何遍も言ってますけどね、離脱期間こそ難しいんだってば。薬を増量したりして、手当てしていくのは当たり前なの。逆に、離脱の方が大変なんですってば。そこでのトラブル発生の方が問題が長引くんだってば。いくら言っても判らん方々だね。

日銀の言い分

日銀の利上げ問題


戦でも同じでしょう?撤退・退却戦の方が難しいんでないの?


本当にいい加減にしてほしい。
為替そのものも、円キャリーも、放置しておいたとしても、いずれ自然にどこかに落ち着くでしょ。
それはあくまで、日本経済が立ち直ったら、だけど。

日本の経済成長の足取りが順調に推移していけば、自然と株価も上がるし長期金利も上がっていくでしょう。
物価上昇率もそれなりの数字が出てくるかもしれない。
そうなると、必然的に円高傾向になっていくし、ユーロ高も是正されるでしょうが。儲けを考える人たちがやっているんだから、ウマミがなくなれば段々と手を引いていくに決まってるの。その反応が急激に起こったりしなければ(LTCMの時みたいに)、問題になんてならんでしょうが。全国の商業地の地価が急激な上昇に転じていますか?設備投資の過熱感なんて、どこにあるのですか?


ようやく国内投資も増やしていくか、将来を見据えてやって行ってみるか、と人々が「ほんのちょっと」考え始めたばかりではないですか?国内の資金需要がそんなに「激増」して、銀行ウハウハの貸出増で左団扇をあおいでいるのですか?違うでしょ。単に「今まで使わないで後生大事に持っていた現金」をようやく金庫の奥の方から出してきて、ちょこっと使ってみようかな、と出してきたに過ぎないでしょうが。ここで、どうして「追加利上げ」なんですか!CPI だって、「アップ、アップ」だっての。もうすぐ「マイナスの世界」に逆戻りだよ?このまま行けば。原油高の影響度が剥落してきただけじゃないか。溺れる寸前なんですってば。


ニューストップ 配信社別:ブルームバーグ マーケット 野田日銀委員:金利調整しないと息長い成長妨げる可能性高める(3) - Infoseek ニュース


失業率も改善してない(4.2→4.1%ってのは、高々端数処理の「誤差の範囲」だろ?)し、消費はマイナスが続いているし、年末向けの消費意欲の盛り上がりは全くないよ。日銀の審議委員たちは、必ず丁稚奉公と同じような「最低限度の生活」を3ヶ月間くらい交代でやってもらった方がいいよ。ぬくぬくと高給取って、福井総裁みたいに「オイシイ」投資話には「インナーサークル」に入れてもらったりして、生きていくことに困らないから一般生活者の水準ってのが理解できないんだよ。

こうなったら、「景気ウォッチャー」の指数と、「審議委員の体感」指数を併記することにしたらいいよ。毎回審議委員の誰かに「最低限度の生活」を実感して頂いて、指数に反映してもらうのさ。できるよね?それくらい。リアルタイムな「指数」だし、経歴も能力も申し分ない方々ばかりだから、無知無能な一般大衆よりも「正確に、客観的に」評価できるはずだからね。こういう部分こそ、「専門知」を生かしてもらわないと。でしょ?烏合の衆が束になって「無意味に考える」よりも、たった1人の「優秀な専門家」の意見の方が正しいことが多いんでしょ?ならば、やって頂くことにいたしましょうよ。早速明日から、何処かの工事現場とか、スーパーの倉庫の搬入係なんかで死ぬほど働いてもらった方が社会の為になりますな。勿論、給料は出ませんから、兼業規定には違反しないので、大丈夫ですよ。日銀から給与を貰っていいですけど、最低3ヶ月は「どん底生活」を体験して頂ければ可としましょう。


利上げが日本経済の腰折れを「再び招いてしまう」と、何故考えないのか?


不整脈ってご存知ですか?
心臓の拍動リズムが狂ってしまっている病気ですが、循環系の状況が悪くて不整脈が出ることはあります。そのままだと、血液循環が阻害されたり、心臓の働きが悪化したりすることになります。

そこで、「抗不整脈薬」を用いることになる訳ですが、不整脈を治そうとして薬を使うのに、逆に「不整脈を発生」させてしまうような場合もあるのです。診立てや判断が悪ければ、当然そういうことも起こり得るわけです。これこそ余計なお世話ってやつでして、抗不整脈薬を使ったりなんかせずに黙って観察しておけば問題なんか起こらないものを、「治療しなけりゃダメなんだ」と妙に意気込んで「新たな症状」をもたらしてしまい、それに対する別な処置が必要になってしまったりするのですよ。

「抗不整脈薬」はそれ自体、それを用いること自体が「不整脈発生リスク」なんですよ(因みに、オヤジギャグで「クスリはリスク」って聞かされたことがある)。

日銀の利上げもそう。「利上げしないと経済の先行きが・・・」って、「利上げすること」そのものが、多大なリスクなんですって。ダメな御殿医ほど、そうやって余計な薬を投与し、病因を増やし、症状や現象を複雑にし、自分のコントロール範囲から大きく逸脱させていくんですってば。


余計なことするな!

病気をつくるんじゃない!



と言いたい。日銀に。