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コメントへの回答とか…

2007年10月09日 20時23分10秒 | 社会全般
議論の最中に割り込むようで恐縮ですけれども、管理人の考えを書いておきます。

ななしさんのご意見はこれまでにも似たようなものがありましたので、判らないではありません。しかし、それに同意する必要性は全く感じられませんけれども。他の記事にもコメントを書いておられますが、まとめてここに書いておきますのでご了承下さい。

・団信について

本文中の参考記事に書いているように、住宅ローンの団信について誰も止めろとは反対していないわけで、なぜ貸金業界の団信だけがこれほど大問題とされてしまうのか?それは、実態として問題があるから、ということになってしまうでしょう。貸し手がみな健全であり、住宅ローンの団信くらいの話であれば、誰も反対なぞしないのですよ。

貸金の借り手は十分多い人数であると言えるでしょう。名寄せした正確な数というのは未だに不明ですが、少なくとも1000万人規模はいるでしょう。同じく住宅ローンの利用者も数十万人とか数百万人規模で存在しているでしょう。どちらにも団信はありましたね。この2つの集団で比較した場合に、死亡するリスクというのがどうなっているだろうか、ということを考えます。保険という制度を考えると、保険料>支払分となっていなければ保険は成り立ちません。私は保険には詳しくないので、正確ではない部分があると思いますが、普通に考えられる程度に書いてみます。

①貸金利用者の方が20~30代の割合が高いので、住宅ローン債務者(但し貸金併用者を除く、以下同じ)の方が平均年齢は高いだろう。よって、両集団の年齢層の違いによる死亡リスクは住宅ローン債務者の方が高い層であることが予想される(日本全体で見れば年齢階層に応じて死亡リスクは上がっていくので)。

②一人平均債務額を比べると、住宅ローン債務者の方が債務額は大きく、貸金利用者の債務額は住宅ローンに比べると少ないだろう。基本的に保険料は債務額に比例していると考えられるので、一人平均保険料は住宅ローンの方が多分大きいであろう。

③残るは同じ年齢階層で比較した場合の死亡するリスクがどうなるか、ということがある。職業属性のような違いというのが有り得るかもしれない。けれども、集団の規模が数百万人とか1千万人を超えるのであれば、その影響というのは多分小さくなるであろう。すると、同じ年齢階層の人の死亡する割合がほぼ同じであれば、例えば40代1万人を住宅ローン債務者と貸金利用者の集団から抽出してくると、ほぼ同じ人数だけ死亡しているということになる。であれば、若年層の割合がかなり多い貸金利用者という集団の死亡する割合は、住宅ローン債務者よりも少なくなるだろう。

以上から、貸金利用者において「日本全体の平均的死亡リスクと同程度」の死亡リスクであるなら、保険料率は住宅ローンの団信よりも低く設定可能であると思われる。それは若年層割合が高い分だけ死亡するリスクが小さいので、支払われる保険金が少ないはずだからである。すると、保険料率は住宅ローンの団信よりも小さくできるはずで、逆に保険料率が高いとすれば、保険会社が儲けすぎているか、死亡するリスクが高い(=支払保険金が多い)かであろう。
報道や金融庁資料などからの推定しかできないのであるが、恐らく保険料率は住宅ローンの団信よりも高く設定されているだろう。本来的には年齢層の違いで死亡リスクの小さい集団であれば、同じ債務額1万円当たりで比較しても保険料率は低くなってもいいはずだ。しかし、そうはなっていない。これはどういうことかといえば、住宅ローン債務者に比し貸金利用者は同じ年齢層であっても死亡するリスクが高い、ということを意味するだろう。数百万人規模の集団の比較で、何故そのようなことが起こってしまうのか?

追い込まれて自殺したりするから、だろうと思う。

更に、大手5社とそれ以外の貸金業者の保険金受取の比較をする(例えば1万口座当たりで)と、大手以外が多い。大手以外の利用者100万人と大手利用者100万人で死亡リスクが異なる集団である、という理由は何があるのであろうか?大手よりも大手以外に多重債務者の割合が高く、自殺者の出ている割合も高いであろう、と私は推測している。保険は実質的に回収の一つの手段になっているのであり、保有財産が殆どなく死亡するのであれば相続財産などないので貸倒になるだけだが、保険があることによって取立てで追い込んで死亡したとしても、貸し手には保険金が手に入ることになるので、取立てを緩和するインセンティブにはならない。貸し倒れるくらいなら、保険金を受取る方が有利だからだ。だが死亡時の不利益が貸し手に及ぶとなれば(貸倒になることが多いので)、取立て行為の抑制効果をもたらすかもしれない。

相続人の為などという意見は見せ掛けだけに過ぎないことが多く、多重債務者の殆どは相続財産など持っていない。そんなものがあれば、返済に回されている。それに、これまでの払込保険料よりも死亡時貸倒額が少なければ貸し手の得になるのだから、悪い話とばかりは言えまい。団信を止めると言い出したのは大手貸金だ。それは保険料を払ってまで回収しても、大してメリットなどないからだろう。

住宅ローンの団信は債務者が負担し、貸金の団信は業者が保険料を負担している、というのも、ただの言い方の違いだけだ。貸金業者が負担しているというのは、そのコストは貸出金利に確実に上乗せされているのであり、業者が善意で自分の懐から金を出しているわけではない。単に、利用者全体で払っているだけ。借入額の少ない人は、多重債務者の保険料も一緒に負担してあげている、ということになっているかもしれない。貸金で借りられなければ、新たな事業さえも取り組むチャンスがない、などという理屈も通用しないでしょう。新たな事業であればこそ、軌道に乗るまでの収入が厳しい可能性があるのだから、初期の資金調達とそのコストに関しては、できるだけ低く抑えておくのは当たり前。他に調達手段が一切ないのであるとすれば、それは杜撰な事業計画という可能性の方が高い。早晩破綻する確率の高いプロジェクトに過ぎない、ということ。売上増が高い確率で見込める事業でなければ、貸金から初期資金を調達して取り組む必要性などない。大体、そんなウマイ商売があるのであれば、キャッシュリッチな企業や投資家などがたくさん存在するので、即座にその事業に参入してくるでしょう。そこで競争力があるとすれば、相当優位性のある事業しかない。

資金需要者のことを思って上限金利規制に反対する、というのも、殆どは該当しないだろう。資金需要者のことを本当に思うのであれば、はじめから貸金なんぞに借入せず、公的融資制度を利用するべき。所得の低い人ほど、低金利で調達するのが望ましい。借りたい人がいるから貸せばよい、という議論は、前提そのものがおかしい。行動に問題があれば、金利には無関係に貸すことが解決にはならない。


・最高裁判決について

たった一つの事案で「みなし弁済」が認められなくなったから、それが水戸黄門の印籠になったと?
一体何を言っているのかと思います。法的判断はあなたが判断することにはなってないのですよ。最高裁判決というのは、それだけの意味を持つものです。みなし弁済は法的要件を満たしている場合に”のみ”有効なのであって、あなたが「みなし弁済」と呼ぶものと最高裁が「みなし弁済」と認めるものには開きがある、ということでしょうね。法的判断を最高裁よりもあなた方の判断を重視するという社会であった場合、どうなるか考えてみればよいでしょう。社会秩序は保てないでしょう。
いくらあなたが合法だった、と強弁してみたところで、社会のルールはそうはなっていない。最高裁の判断は、最高裁であるがゆえの正統性がある。けれども、貸金業者たちや業者の顧問弁護士あたりがいくらこれまでは合法だった、などと言ってみたところで、正統性など認められるわけないでしょう。

一般道で時速80kmで走行して、「みんな80kmで走っている、これまではいつも80kmで走ってこれたのだから合法だ」など言ってみたところで、そんな理屈は通用しないでしょう。制限速度が60kmなら、当然違法と判断されるのです。みなし弁済の法的要件を満たしている場合にのみ、利息制限法の上限を超えても出資法に反しなければ違法ではない、ということは昔から同じです。貸金業者の認可は利息制限法を超えても違法としない、などというお墨付きを与えるものではありません。どこの誰がそんなことを言いました?

最高裁判決は、昔から利息制限法を超える金利が(出資法以下なら)合法だなどと言ってないし、利息制限法に関する判決をいくつも出しているんですよ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3%E9%87%91%E5%88%A9

あなたがたった一つの事案で印籠となった、などという評価を下してみたところで、法的判断には何らの効力も有しないでしょう。大体、あなたが言うように都銀地銀等が相手にもしてくれないような借入先に困っている債務者が、「自由な意思で、任意に」利息制限法の上限を超えてまで、あなた方にわざわざ贈与する為に利息を払うなんてことがありますか?(笑)そんな人は実在せんのですよ。1円でも惜しい、苦しいという人たちが、あえて上限を超過してまで払う意味なんてないんですよ。
つまりは、実質的に潜脱が継続されてきたのであって、それは借金という法支配の及び難い領域であったが故でしょう。昔は、必要悪とされていた部分もあったのかもしれません。しかし、貸し手は一部上場企業となり、合法マーケットとなってきたにも関わらず、上場企業が軒並み潜脱をいつまでも継続し、「破産者」を大量に生み出しているというのを「必要悪だから」などと言って許されると思いますか?自主的に改めよう、ということが自分たちで出来てこなかったのだから、厳しい法規制が及ぶのもやむを得ないのですよ。大企業の貸し手ですらそうだったのですからね。それを最高裁に文句を言うのは筋違いというものです。速度違反で切符を切られた人の月並みな言い分みたいなものです。

出資法上限でなければ誰も貸し手なんていない、業としてやる意味がない、というような貸し手はマーケットから出ていけばいいんですよ。誰も「貸し手になってくれ」なんて頼んでもいませんし(笑)。40.004%から今の上限に引き下げられた時にも、借りたい人が借りられなくなる、貸し手はいなくなる、業としてやる意味がない、ということだったのでは?まあ、貸し手は未だに多数存在しておりますので、いくらか消えても別にいいでしょうね。ああ、日経新聞なんかに昨年出ていたと思いますけれども、外資系の資金を引き揚げるぞ、ファンド資金の流れも変えてやる、とか、貸金なんてやってられないから日本から撤退する、とか、言ってた。ええ、どうぞ、日本から出て行って頂いて結構ですけど>外資系貸金。
私からのアドバイスとしては、法規制の厳しい日本でなんてわざわざ営業せんでも、上限のない貸金天国のイギリス(笑)にでも参入すればいいんですよ(裁判所に暴利的と認定されて再契約締結か?)。どうぞ、どうぞ、ご自由に。上限のない市場があるのに、何で日本みたいな上限規制の厳しい国に来て、つべこべ文句を並べてまで営業するの?頭が悪いね、はっきり言って。隣の韓国だって、上限は日本よりもずっと高いのですから、韓国で営業したらいいんだよ。世界中の何処にでも、日本よりも規制の緩い国とか、上限の高い国とか、いっぱいあるんだからさ、そういうところに出て行けよ。平均的に100%以上の金利の国とか、いっぱいあるんだからさ。そういうところに出かけて行って、出店攻勢を全世界でやればいいんじゃないの?日本でやる必要なんてないんだって。外資系の連中というのは、そんな簡単なことが判らんのかね(笑)。散々文句言って日本の法律を変えさせる努力をする前に、他所で営業すればロビーも何もいらないじゃないの。頼みもしないのに日本に来て営業してるだけなのにね。

またヘンな例で申し訳ないですが、こんな話だね。
商店街に出店したいと言って新規出店していた「アメちゃん屋」という店があった。
「アメちゃん屋」の店主は言った。
この商店街にアーケードがあるのはオカシイ、他の商店街にアーケードがないところがあるってのに、どうして外さないんだ、アーケード付けたままならオレは商店街を出て行くぜ。

そうですか。
ええ、どうぞ。ご自由に。
としか言いようがない。
アーケードが嫌いなら、それがない商店街に行って営業すればいいだけの話です。
後からやって来た「アメちゃん屋」の店主に、アーケードがカッコ悪いだの、アーケード付けてるやつらはバカばっかだの、アーケード取り壊さないのはファシスト商店街だの、文句を言われてまで営業して欲しいとも思わないね。いくらでもアーケードのない場所があるんだから、そこでやれと思いますよね。

「アメちゃん屋」の店主のいう、アーケードを取り壊さねばならない理由というのが賛同を得られなかったのは自分のせいなのにね。




エコノミスト金子洋一氏の記事について~その2

2007年10月08日 18時15分40秒 | 経済関連
前の記事の続きです。

エコノミスト金子氏の記事からの引用部分です。



 諸外国の例を見れば上限金利自体がない国もあります。取引の安全性を高めるために、とんでもない高金利を禁止することには賛成ですが、常識的な範囲では、どのくらいの金利を設定すべきかについては、市場に任せるべきでしょう。逆に、むりやり設定すれば、今回のように利用者か業者かのどちらか、あるいは両方にしわ寄せがきます。

 このような「自由放任的」な政策を取った場合、それ以外の部分、例えば、単利と複利の違いを理解しているのかなど借り手がきちんと契約の内容を理解できるように説明しているのか、取立てが社会的常識を越えたものにならないかどうかなどについての法律の規制は必要です。どのような結論を出すにしても、じっくりとした考えに基づかずに、今回の改正にみられたような安直なヒューマニズムにもとづく発想は、結局社会の弱者にしわ寄せをもたらします。



無理矢理設定って、誰がそんな酷いことを?(笑)
利息制限法は大きく変わったわけではないでしょうよ。出資法や貸金業法改正であって、昔から民事上の制限というのは、利息制限法の通りだったのでしょう?今になって変更されたかのように言ってますけど、変わってなかったんですからね。出資法は刑事罰が与えられる上限が記されているのであって、それが合法的ということを誰も言ってないのですし。刑事上では抵触しないからいいんだ、というのは誤りなのであって、民事上の規定で違法ならば、やっぱり「合法」とは言わないんだよね、多分。

それに、法改正の結果だのと言いますが、法令上では経過措置期間であって、まだ変更前でしょう。金利引下げは、業界が自主的に下げただけですね。過払い返還費用を封じる為、ということでもありますね。何たって最高裁判決で「悪意の受益者」が認定される事態に至ったのですからね。当然といえば当然です。法改正には関係なく、引下げの理由となりえるでしょう。


それから、エコノミスト金子氏が太字で強調している部分には、疑問を感じますね。
「どのような結論を出すにしても、じっくりとした考えに基づかずに、今回の改正にみられたような安直なヒューマニズムにもとづく発想は、結局社会の弱者にしわ寄せをもたらします。」といかにも正論みたいなことを言っておりますが、いくつかの指摘をしておきます。

何度も同じことを言って恐縮ですが、民主党公認候補の割りに、国会審議などには関心を払っておられないかのようです。それとも、知っていて敢えてバイアスを意図しているのでしょうか?
まさか元内閣府官僚であった方が、古巣に弓を引くとも思えないのですが(笑、池田氏の論法か?経歴批判)、消費者契約関係のお仕事をされていたのであれば、よくご存知のはずでは。00年の引下げ決定後には、03年の見直しが行われてきましたし、国会審議で幾度も「グレーゾーン金利」問題というのは取り上げられてきたわけです。引下げ論というのは、急に浮上してきたものではない、ということです。更に、論点として、貸金業界の問題点というのが何度も同じようなことが指摘されてきたのですよ。だからこそ、米国団体のロビーも前から行われてきたわけで。

なので、03年時点の検討から3年待って検討されてきたし、業界側の改善姿勢というものはほぼ絶望的であったが故に、今回の引下げ論台頭へと繋がってきたものと思いますね。懇談会では、私のようなバカなんかではなく、見識があって社会的信用のある人々が金融庁に呼ばれているわけで、金融庁は内閣府所管なのですから元経済企画庁―内閣府の官僚だったエコノミスト金子氏に、審議会等の議論というものがどういうものなのか判らないなどということは考えられないでありましょう。それともアレですか、金融庁というのは、「論理的根拠に乏しい情緒的議論」しかできないような連中ばかりかき集めてくる程度の、愚劣な官僚ばかり揃っている、とか言いますか?(笑)それが内閣府だ!と。それならそれでも構いませんよ、そういう官庁なんだな、と理解しますので。脱藩者というのは、何を言い出すかわかりませんね。元経産省官僚で脱藩して選挙に打って出る官僚なんかがいると、現役官僚がやたらと罵倒していたことがありますし(通りすがりで見かけただけで、数日後には記事削除になってましたけどね)。おまけに親が国会議員だったりするもんだから、余計に×××(自粛)なんですかね。話が逸れた。


それと、民主党サイドの話をしておきますと、桜井充議員は貸金業界と大変「熱心なヒアリング」なんかをやってこられた方ですよね?

例えばコレ>ヤミ金融対策に関する質問主意書(平成16年12月1日)
桜井充WEBSITE ヤミ金融対策に関する質問主意書

宮城県(だったか?)の「上限金利を40.004%に戻そう」特区みたいな構想にも一枚噛んでいたとか、いなかったとか。ま、東北だし。グレーゾーンの話なんて、かなり以前から議論されてきてるんですって。金子氏はそう思ってないかもしれませんがね。

あと、エコノミスト金子氏のよくご存知の、中川正春議員って民主党におられますよね?当時官僚だったエコノミスト金子氏を担ぎ出してきた方だったのではなかったですか?違ってたらゴメンなさい。でも、三重県の選挙区でご近所じゃなかったですか?民主党の三重県代表というのが誰なのかは存じませんが、中川正春議員というのはそれなりのお立場なのでは?参考までに、公認候補というのは2度落選すると次は無い、みたいに通例では言われているらしいですが、3度目にチャレンジでしょうか?「民主党公認」の文字が消えていないところを見ると、そうなんでしょう。ま、それはご自由でいいと思いますけれども、中川正春議員というのは、パチンコ業界には繋がりのある方らしく、業界には造詣の深い方という定評を風の便りで知りましたよ。

たまたまの偶然ですけれども、貸出審査が厳しくなって一番打撃を受けたのは『パチンコ業界』だったらしいという記事なんかがネット上でも見られたと記憶しておりますけれども、いかがでしたでしょうか?「報道があった」というのが根拠としてお好きらしいエコノミスト金子氏ならば、きっとご存知のはずではないかと。
ホラ、パチンコ屋近辺に行けばですね、貸金専業の業者の機械が目と鼻の先にあるんですよね。しかも1社のみならず、数社が出していることもあるそうなんですよ。なるほど、軍資金を供給するシステムとしては便利ですし、キリギリスのギャンブラータイプにはもってこいの餌ですわね。そういう業界と大変つながりの深い中川正春民主党議員は、三重県で偶然ご近所の選挙区で、金子洋一氏を公認候補に推していた方でしたか。さすが民主党でございます。

偶然って、結構凄いんですけれども、こういう時にありがちなのは陰謀論なんですよ。皆さんもそういう陰謀論に引っ掛からないように気をつけて下さいね。本当に単なる偶然に過ぎないのに、下種の勘繰りをする愚か者はたくさんいますので。学級目標=下種の勘繰りは止めましょう、ということで(笑)。

いずれにしても、エコノミスト金子氏の指摘していたような、「じっくりとした考えに基づかずに、今回の改正にみられたような安直なヒューマニズムにもとづく発想」ということは、貸金業法改正には必ずしも当てはまってはいないように思えます。
民主党の誰かとか、エコノミスト金子氏のような立派な方々はウチのようなオメガ級ブログは読まないはずですし、もし気付いたとしてもスルーがオチですので、回答なぞいりません。どうせ、ニセ理論を並べて終わる程度の回答を得たとしても、時間の無駄、徒労に終わるだけですからね。阪大グループの論文とかの方が百万倍勉強になりますから、そういうのを読んだ方が利得は大きいですし。


要するに、世の中油断も隙もあったものではありませんので、リテラシーが重要だみたいなアドバイスに従って、社会的地位が高く信頼のある人の言ってることを信じた方がよいと思います。ウチのような匿名の卑怯者の書いているような記事は、信じない方がよいでしょう。



エコノミスト金子洋一氏の記事について~その1・お詫びと訂正など

2007年10月08日 17時06分46秒 | 経済関連
前に民主党の国会議員だということで記事に書いてしまいましたが、大きな誤りでありました。
お詫びして訂正致します。

貸金業の上限金利問題~その15

この記事中、金子洋一氏のことを国会議員と書いてしまっていますが、議員ではなく「公認候補、支部長」ということでした。
私は以前のブログデザインから、てっきり民主党議員かと勘違いをしてしまいました。失礼しました。gooブログのリンク表示も、上記記事の通りに「民主党三重5区 金子洋一」となっていますからね。勘違いは私の責任なのですが、議員さんと間違えるのは有り得るのではなかろうか、と思ったりします。

ついでに申し上げますと、金子氏はブログを変えた(スパム対策だそうです)為に、私の記事のリンクは切れていました。全く気付きませんでした。でも、田中先生の記事中に登場しているのを拝見し、ああっ、「あの金子洋一さんだ」と思い出した次第です。で、ついうっかりリンク先を見ると、金子氏のブログに行き当たりました。未だに、上限金利引下げの反対運動を絶賛展開中でした。とても元気なご様子で、何よりでした。

「サラ金」の貸出上限金利引き下げでヤミ金横行 金子洋一「エコノミスト・ブログ」


因みに、エコノミストを自称されているのは前回記事と同様でした。詩人とか、芸術家とか、評論家とか、自称することに制限のないものは多いので、エコノミストというのもそうした呼称の一つかもしれません。一般庶民の立場で疑問を述べますと、エコノミストとは何をしているとそれが名乗れるのか、誰が認めるとエコノミストを名乗ることが許されるのか、といったことがあります。特に決まりはなく誰でも名乗れるんだよ、ということであれば、それはそれでよろしいのですが、占い師とかスピリチュアル○○とかみたいなのを自称するのと区別がつきにくいかもしれません。

金子氏の記事を以下に引用します(引用部はリンゴ間の部分)。



 私は、もともと貸金業全体の上限金利引き下げには反対です。その理由は、貸出金利は、いわばお金を貸し出すことに対する価格のようなもので、これを法律でむりやり引き下げるということは、いわば一般の商品に価格統制を行うようなもので望ましくないからです。この件でいえば、融資を申し込んでも、法律で無理矢理引き下げられた金利で貸し出すためには、業者からみてリスクがありすぎて断られる人が多くなるからでした。このあたりについては、「貸金業の上限金利引き下げに疑問あり」をお読みください。




「リスクがありすぎて断られる人が多くなるから」というのは、米国のサブプライムローン問題でも似ていますね。有担保貸しなのですが、リスクがあっても借りたい人に貸した結果どうなったかと言うと、「貸し手破綻」だ。いや、別に金利に上限なんてなくても、いいんですよ、本来的には。借り手も貸し手も正しく判断できていれば、それも可能でしょうね。しかし、貸し手には借り手のリスクについて見分けることができない部分があって、それ故「キリギリス」タイプに貸し込んできたわけで。見分けがつけられなければ、金利が低下すれば借りられる人は多くなるでしょう。貸倒率が高い人たちに特化して貸し出す専業の貸し手がいても、それは借り手を食い潰していくだけのビジネスってことだわな。

上限がないとして、貸出金利が40%の業者であれば、年間貸倒率が20%でも利益が出すことは可能。全員同じ額(例えば50万円)を一様に貸し出すと、毎年1万人の債務者がいれば2000人が破産する。これを毎年補充し続けないと「貸出金利40%市場」は維持できない。40%という提示金利以下のリスクの人は本来借りない、ということだからね。100万人の市場規模(貸出残高5千億円)だとして、毎年20万人が破産する「貸出金利40%市場」(貸倒額1千億円)に新規参入してくる人たちが果たして20万人もいるのかな?新規参入者が少なければ、この「貸出金利40%市場」というのはいずれ消滅するだろう。貸出残高が維持できないからね。なので、上限がないとしても、貸倒率がある程度以上に高い市場というのは持続できない。

借り手をディスポで潰していけるのは、ヤミ金みたいなビジネスの場合だけってこと。それは少数者だけを相手にして、持続しなくても今の利益だけあればいいからだ。なので貸し手責任となって貸し手側が破綻することはない。だからこそ、高金利で利潤を生み出せるんだよ。普通の貸し手ならば、貸出金利100%の提示金利で応募してくる借り手の殆どが破産(を選択)することになり、貸した方が大きく損をするから貸せないだけだ。継続して返せるなら、貸倒率はもっと低いだけで、貸出金利は高すぎる、ってことだしね。有り得るのは、超短期貸出みたいな特別な場合だけだろう。超短期貸出市場というのは、基本的に債務は残らないので、借入&完済を繰り返すだけ。なので多重債務には無関係のはずですが、そんなまともな市場なんてのは、とても少ないのでしょうね。日賦貸し市場が健全であったなら、存続させるに値する、という結論になったかもしれませんが、そうはならなかったみたいですから。

価格統制について文句を並べているが、貸金だけじゃなく、電気料金、タクシー運賃や医薬品なんかの「公定価格」というものについて、撤廃せよ、という大規模運動でもやったらいかがでしょうか?(笑)
闇市場があるのは規制のせいだから撤廃せよ、という経済学信奉者たちは存在しますから、日本でも「チーズは解禁すべし」」「向精神薬も、大麻も、麻薬も解禁せよ」「薬物の価格統制に断固反対!自由価格にせよ」みたいに運動することをお勧めします。

さすがエコノミストを自称しているだけあって、経済学っぽい理屈を並べているのですが、まともな反論もできない程度のニセ理論なのではないかと訝しく思っています。もしも金子氏が本物のエコノミストであるなら、多分経済学の論理に基づいて容易に回答できうるものであろうと思いますので、是非ご教授下さればと思います。

続けます。



 この意見を昨年の5月にブログに書いた当時は、すぐに私に対する批判が殺到し、「サラ金の犬」、「非国民」等々の非難を浴びました。私は気にもとめませんでしたが、客観的にみればまさに炎上という状態だったのかもしれません。(その後、スパム対策でブログを換えたので、当時の模様は残念ながら残っていません。)当時、世間には、上限金利を引き下げれば多重債務問題も解決するといった論理的根拠に乏しい情緒的議論が横行し、上限金利の引き下げに反対するものはほとんどおりませんでした。しかしその後をみれば、当時の私の懸念があたってしまったようです。

《昨年12月の貸金業規制法改正で、貸金業者の金利引き下げが進む一方で、福岡県消費生活センターには多重債務者からの相談が逆に増えている。今年4~7月で469件にのぼり、過去最多だった昨年度(1153件)を2割ほど上回るペース。(中略)県によると、多重債務者からの相談は「借金苦」を訴える内容が大半で、「これまで借りていた大手業者から融資を断られ、ヤミ金に手を出した」という事例が増えている。》
(貸金大手金利下げたらヤミ金相談増加…“灰色”撤廃、審査厳格化で: YOMIURI ONLINE(読売新聞))

 この他にも、融資の審査厳格化が原因で倒産件数が増えたのではないかといった報道は多数あります。
 やはり、貸出の上限金利の引き下げは行うべきではありませんでした。結局、合法的な業者からの借り入れができなかった人々は、倒産する、あるいは、ヤミ金に手を出すことになってしまいます。この責任はもちろんこの議論を推し進めた人々にあります。



「サラ金の犬」というコメントがあったとは知りませんでしたが、私が記事の存在を知ったのは9月でしたので、ネット上でも大して注目もされていなかった記事なのではないかと思えますが、どうなんでしょうか。私が池田氏の記事に疑問を呈した後で、エコノミスト金子氏は池田ブログにコメントを書いておられたようですね、そういえば(記憶は曖昧、ま、これはどうでもいいか)。例の懇談会の中間報告で引下げ方向へと傾いていたのは3~4月頃だったと思いますけれども、この頃にはエコノミスト金子氏が指摘しているような、「世間には、上限金利を引き下げれば多重債務問題も解決するといった論理的根拠に乏しい情緒的議論が横行」していたようには思われなかったのですが、どの辺を指して「世間」とか言っているのか教えて頂ければと思いますね。「論理的根拠に乏しい情緒的議論」の代表例などを具体的に挙げて頂ければ、私のような経済学すら知らない愚か者にも理解できます。一体誰がそんなことを言っていたのか?世間というからには、かなりメジャーなんでしょう。記事が5月30日なのですから、恐らくそれ以前から「世間に横行していた」ということなのでしょう。もしかして、「みのもんた」さんですか?みのさんだって、怒ってたのは9月頃だったのではないかと思いますけど?(笑)

一応当時の空気(笑)を少しお伝えする為に書いておきます。
民主党公認候補なのに、ニュースになった国会答弁も知らないのかと思わないでもありませんが、06年5月18日の国会答弁において、小泉総理は「グレーゾーン金利の撤廃について法律で決めるとヤミ金融が蔓延る。貸す方も悪いが借りる方も悪い。どういう影響が出るか、十分考えなければならない」と言ってたようです。最高責任者にして時の権力者である総理が、引下げには同調していなかったのですから(勿論竹中平蔵氏も)、エコノミスト金子氏が「世間全部を敵に回して、たった1人で上限引下げ論に反対していた」みたいに自慢されても、「それってどうよ?」と思わないではありません。

私も「見えない敵」と戦ってきたので(どこにいる?)、似たような主張をしているんですけれどね(笑)。一応、具体的に「反対の立場の人たち」を挙げてはいますけど。
エコノミスト金子氏が記事に引用している「法務の国のろじゃあ」さんの記事とか、そこにもTBしているbewaad氏とか、木村剛氏、磯崎氏、47th氏…その他モロモロなどの方々は引下げは反対の立場であった(5月時点で、後に池田信夫氏が参加)のですから、彼らの主張をエコノミスト金子氏が知らなかったとしても、世間はみんなで無理矢理引下げという情緒的議論をしていたのか、ちょっと疑問ですね。そう思わせた理由というものはあるはずなので、それを知りたいところです。ひょっとして、コメント欄に「サラ金の犬」などと書き込んだ人々が「世間一般」だと思ったのでしょうか?これって、よくありがちな???の論法に似てなくもないですね。

「審査厳格化の結果、ヤミ金被害が増加」とか、「審査厳格化の結果、倒産件数が増えたのではないかといった報道が多数」という主張をエコノミスト金子氏が信じているのはしょうがないでしょうね。これも散々書いてきましたけれど(個人事業者の倒産は誰のせい?今年上半期、ヤミ金摘発急増!)。大体データを見たりしないで、「審査厳格化の結果」みたいな判りもしない原因を断定的に書くか、「報道が多数」あるということを証拠に挙げる連中というのは後を絶たないわけで。どうやらエコノミスト金子氏は、「報道が多数あった、記事に書いてあった」ことを挙げていれば、「論理的根拠に乏しい情緒的議論」ではないと確信しているようです。

そもそもキリギリスにはカウンセリングが一番必要なのだから、相談件数が増えることは「いいこと」なんじゃないの?

貸倒率を下げるには、審査を厳しくするとか貸出額が絞られる
→相談件数増える、過払い返還額増える

で、苦しんでいた借り手にとっては日の当たる場所に出られるから、良かったことの方が多いかもしれませんよ?闇に潜って餌食にされるよりは、百万倍マシだ。ヤミ金被害に遭わないようにするには、借り手が合法業者をはっきりと見分けられることで、それ以外は「危険な貸し手」であり借りるのは損なだけ、ということが知られていればいいのですよ。多重債務者の資金供給が止まれば、借りにいくより相談に来てもらう方がよい、というのは当たり前。これまで被害に遭っていても、相談にも行けなかった人々が表に登場してきただけなのであれば、新たな被害者が増加しているとも言えんでしょう。


長くなったので、続きは次の記事で。



「黄金のリンゴ」の行方

2007年10月07日 23時20分55秒 | 俺のそれ
黄金のリンゴは、誰の手に?


まだ判らない。
Parisはどこに?


今はまだ、奪い合いの最中。


レストランの料理人には手に入れられないだろう。
現状のままなら、他の人のもとへいってしまうだろう。



何となく考えた。


でも、よく判らない。
心の片隅におぼろげながらモヤッとあるけど、書けない。


いつか書こう。




沖縄集団自決を巡る抗議集会から学ぶこと

2007年10月06日 15時53分12秒 | 社会全般
見逃していたのだが、また朝日と産経がケンカしてた(笑)。何かの大会みたいに、隔年くらいで行われる定例行事みたいなものかもしれない。これはこれで意味がある。全部が同じ報道よりも危険性が減じられる(笑)。


今回の1件から、ケーススタディのように考えてみることにする。まずは産経抄の記述から。

【産経抄】10月3日 - MSN産経ニュース

拝復 朝日新聞論説委員室さま。9月28日付夕刊の「『産経抄』の良心」と題されたコラムを拝読しました。安倍退陣について「靖国神社参拝や村山、河野談話の見直しを求め続けたあなた方の身びいきこそ、(安倍氏に)重荷だったのではないか」とご指摘いただきましたが、物は言いようだとつくづく感心致しました。

 ▼「事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく」ともご忠告をいただきましたが、その言葉はお返ししなくてはなりません。そう、先月29日に開かれた沖縄戦での住民の集団自決をめぐる教科書検定への抗議集会の報道ぶりです。

 ▼貴紙は1面で「沖縄11万人抗議」と大見出しをとり、きのうも「県民大会に11万人が参加した」と書いておられます。でも、11万人は主催者発表の数字です。記者は何の疑問も持たなかったのでしょうか。

 ▼抄子は宜野湾市内にある会場を何度か訪ねていますが、会場の面積は約2万5000平方メートル、つまり160メートル四方に過ぎません。当日の航空写真を見ると空きスペースもあり、どう数えれば11万人にもなるのでしょう。

 ▼もったいぶってすみません。関係者によると、参加者は最大で4万3000人だそうです。沖縄の警察は、主催者の反発を恐れてか真実を発表できないのです。江藤淳先生が生前、指摘された「閉された言語空間」がなお存在するようです。

 ▼主催者発表通りに集会の規模を2・5倍も誇大に報道する姿勢は、戦時中に大本営発表を垂れ流し続けた貴紙の過去とだぶってしまいます。そうそう、貴紙は論調の異なる読売、日経とネット事業や販売部門で提携されるそうですね。思い切った決断に拍手を送りますが、新聞でもネットでも事実の確認だけはくれぐれもお忘れなく。 敬具




こうした一連の出来事を後日見ていく時、どのようなことが起こってしまうのか、ということを考える上では中々良いケースだと思う。

仮に、「沖縄集会事件」と呼ぶことにする。事実(=真実でない)を単純に書けば
・起こった出来事:沖縄集会事件
・公式(主催者)発表及び報道:参加者11万人
ということ。

これを歴史的に検討するという時、論争というか争いにありがちなものを書くと、
①沖縄集会事件の有無
②11万人は正しいか
みたいなものです。これを検討していく際に、どうなるかということです。

◇①に関して◇

報道資料がある、写真(動画も)が残っている、何らかの主催者側文書が残っている、多くの参加者や目撃証言がある、などによって「沖縄集会事件」があった、と後日になっても推定できる。しかし、参加者証言などをいくら拾ってきても、11万人だったことは確認する術がない。なので、「沖縄集会事件」があったであろうことは、十分確からしいと判断できるが、その実態というのは必ずしも正確に判る訳ではない。更に、「あったか、なかったか」論争というのは決着のつけようがあるが、これを「沖縄集会事件」と呼べるほどのものなのか、といった主張は残り得る。ただのデモ集会にすぎない、みたいに言う人もいるが、これを否定する(肯定も)言い分というか、うまい説明というのは多分ない。「沖縄集会事件」という名称だけが広く知れ渡っていれば、「沖縄集会事件が無かったというのか!」みたいに怒り出す人たちも多数いる。「沖縄集会事件」と呼ぶか、「ただのデモ集会」と呼ぶかは、歴史観っぽい話になる。「薔薇戦争なんてなかった」論争(そんな論争が本当にあるかどうか知らない)みたいなものかもしれない。

後日になって、「沖縄集会事件は無かった」と主張する大規模デモが起こり、100万人集会が開かれたとしても、沖縄集会事件が無かったことにはならない。起こってしまった事実は消えないし、消せるわけでもない。その上、沖縄集会事件に参加していた人数は、100万人デモが開かれる前と後であっても、全くの不変である。これは政治的運動や何らかの示威目的でデモを開くことには無関係に、「沖縄集会事件の参加者はいた、正確に数えてないが特定の人数だけ存在していた」という事実は変わりようがない。真実を本に書こうと思えば、100万人デモの有無には無関係に、沖縄集会事件の人数が記述される。


◇②に関して◇

当たり前のことだが、11万人説を否定できても、①の否定にはならない。沖縄集会事件が消え去るわけではない。後日になって、より確からしい証拠と考えられるのは公式発表や報道資料などであるが、これは必ずしも真実であるというわけではない。これに参加当事者たちの証言を組み合わせても、より真実に近い数字が割り出せるとも限らない。
客観的情報として、集会場所の面積、航空写真などがあり、ここから推定するという手法は、「11万人と書かれた複数の資料」よりも価値が高いかもしれない。1平方メートル当たりに立っている人数というのは、物理的制約を受けるからだ。例えば、満員電車の人数と比較する、ということで可能性を絞り込める。
従って、報道記事や文書が後日残っているとしても、真実性が担保されているわけではない、ということを知った上で資料に接するべきということだろう。後日になってから資料を読んで検討するということは、多くの誤りを含んだものとなっているかもしれない、ということ。



あれこれと書いたが、一番まずいのは、「11万人という公式発表、報道資料がこれだけあるのだから、これが正しい」という意見だけが採用され流通すること。これに対して、産経抄が出しているように、「いや、面積判るよ、航空写真もあるよ」→最大でも43000人という意見を出せるということ、このような対抗意見を封殺しない道を用意しておくこと、これが必要なのだと思う。
これを政治的活動で100万人デモを開いて「沖縄集会事件はなかった」という意見に統一することが本当に望ましいのか、ということ。「公式発表が11万人だから、これが絶対的に正しい真実だ」と統一することが過去の出来事の真実を伝えることになるのか、ということ。何かの数的圧力が有効に作用するとなれば、「いや、もっと少なかった、せいぜい4万人くらいだ」という異なる意見を全て封殺することになる、そちらの方が問題だ、ということ。
11万人説を信じる人たちが大勢いても、それはそれでやむを得ないだろう。4万人説を唱えるのが社会で少数派であるとしても、それを言える自由、その意見を聞ける立場の自由はあるべき、ということ。多数派の政治的圧力によって、これを封じ込めることが問題ってこと。「オレは11万人だと信じてる」と頑なに主張する人の存在を許容しない、ということを言っているのではない。「せいぜい4万人くらいだ」という意見を聞ける立場を選びたい人は、その自由が残されるべき、ということ。


この前、教科書検定問題について思うことを書いたのだが、「南京大虐殺が否定できたらみんながハッピーになれる」なんてことは誰も言ってないわけで、過去の起こった出来事はデモだの、政治闘争だの、そういうもので変わるわけでない、って言ってるのが判らんらしい。

本土に比べれば小さい社会だ。島や村みたいな、小さい世界だろうと思う。
そこでは、軍関係側というか体制側というような立場の人たちも、自決したり殺されてしまった人たちも、両方いたんだよ。苦しみを一方だけに背負わせることが、今となってもなお必要なことなのか?その当時、たまたま体制側にいた人たちは、或いはその遺族は、これからどんな苦しみを負わねばならないのか?自らの手で肉親や親しい人たちの命を奪う結果をもたらしてしまった人たちは、十分苦しんだんだよ。この上、もっと責め苦を彼らに与えねばならない、などと、私には到底考えられない。そこまで私自身強くはないからだ。



とある場所にて

2007年10月05日 19時30分30秒 | いいことないかな
意外な光景を目の当たりにした。


なんと、例のマジャール人が、
「あのクルーダス」にお褒めの言葉??



何故なんだ?
どうしちゃったんだろ?

ま、いいけど。
しかも「さん」付け。
こ、これは…一体…


よきことかな


腕を上げたのう>クルーダス


(全てふぃくしょんであり、冗談ですからね。笑)



古い法律の話~最終回

2007年10月05日 19時16分44秒 | 法関係
パソコンがフリーズした後なので、大ショック。パッドで書いてたら、全部消滅しました。
あれかな、法令提供データベースとかに長らく繋がっていると、撃退されるとか(サイバー攻撃対策?)、そういうのがあるのかな?(単なる想像)
いずれにしても、消えたのでもう一度書くエネルギーなし。ということで、手短に。


11個のうち、ここ最近で改正されているものがある。代表的なのは刑法(最終改正は今年5月)。
太政官布告はこれだった>
○明治十三年太政官布告第三十六号(刑法 抄)
(明治十三年七月十七日太政官布告第三十六号)


中身は面倒なので省略。大雑把にいうと、剥奪公権に関する規定(31、33条)と、公選の投票に関する規定(233~236条)が書かれていた。しかし、現在の刑法では全く違う条文になっている。つまり無効な条文ということだ。永久欠番(笑)にもなっていない。で、現在の刑法の条文を見ると、先頭には次のように書かれていた。

刑法別冊ノ通之ヲ定ム
此法律施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
明治十三年第三十六号布告刑法ハ此法律施行ノ日ヨリ之ヲ廃止ス
(別冊)

太政官布告は廃止ですよ、ということが恐らく明治40年(刑法制定)時点で書かれていたのに、未だにデータベース上に残されているというのは、ちょっと不思議ですよね。刑法の始めの部分に書かれている布告というものが何なのか、ということを知る為だけではないかと思えますが、どうなんでしょうか。
それと、公選というのは明治13年時点で普通選挙はないし、憲法制定後に選挙が行わたので、一体何の公選なんだろうか、と思いますよね。これは多分、○○会長選挙とか取締役会の投票みたいなもののことで、団体や法人などに限られていたようです。


それから、今年5月に改正された法律がもう一つあります。

○明治十七年太政官布告第三十二号(爆発物取締罰則)
(明治十七年十二月二十七日太政官布告第三十二号)

今年5月11日が最終改正となっています。これは、中身を見ると、

附 則 (平成一九年五月一一日法律第三八号) 抄
(施行期日)
第一条  この法律は、核によるテロリズムの行為の防止に関する国際条約が日本国について効力を生ずる日から施行する。

となっており、テロ関連の国際条約によるものだということのようです。
この附則というものがどういった意味なのか判りかねるのですが、明治17年からあった法律なのに、施行する日を特に言い換えるというのも不思議だな、と。その間は施行されていない時間とかがあったのかな、とか。条文自体は別にどうということはないのですが、目を引いたのを挙げておきます。

第七条  
爆発物ヲ発見シタル者ハ直ニ警察官吏ニ告知ス可シ違フ者ハ百円以下ノ罰金ニ処ス

爆発物を発見したら警察官吏に告知せよ、しないと罰金百円以下ということだそうです。逃げちゃだめですよ、皆さん(笑)。罰金は古い法律に書かれている金額がまとめて上げられたらしいので、実際にはもっと多い金額かもしれません。

それから、これ。
第十一条  
第一条ニ記載シタル犯罪ノ予備陰謀ヲ為シタル者ト雖モ未タ其事ヲ行ハサル前ニ於テ官ニ自首シ因テ危害ヲ為スニ至ラサル時ハ其刑ヲ免除ス第五条ニ記載シタル犯罪者モ亦同シ

予備陰謀(爆弾作るとか爆破を計画するとか)をするとか、爆弾犯に協力(材料、器具、貯蔵などを提供したり、約束したり)するなどをしても、爆破が未遂で犯人が自ら自首したら、無罪となるということのようです。

<ちょっと寄り道:
ゴーダ・カズンドは自らの犯罪を警察に自首することによって罪に問われない、だからオレは自由にアメリカに行けるんだ、みたいな主張をしていたが、まさにこの規定と似ているなと思った。9課メンバー(トグサだった?)は総理の命令を受けて渡米を実力で阻止できる、と言って、結局少佐によって射殺された。でも、これって明らかに違法行為だよね?だって、時の権力者(総理)が命令しておけば、射殺もOKということなら、いくらでも殺せることになってしまうよ。単純な権力で死刑にしてしまうという超法規的措置は、おおぴらにはマズイと思う。>

刑法では自首しようとも、必ずしも無罪にはなりませんよね。未遂罪が成立するものはあります。


あと、最後に、国際条約ものを見てみた。
11個のうちの一番新しい布告がこれ。

○明治十八年太政官布告第十七号(海底電信線保護万国連合条約)
(明治十八年七月十七日太政官布告第十七号)

海底ケーブルの話ですよね、多分。当時日本にはまともな通信手段などまだなかっただろうに、国際基準に合わせて法整備をしようとしたんですかね。今で言うなら、国内では誰もコンピュータやネットについて全然知らないのに、将来ネット環境が必要になるからインターネットの国際条約に参加しておこう、みたいなことかな。凄い。偉かったと思うよ。

中身の始めの部分を見ると、次のように書かれていた。


明治十七年四月仏蘭西国巴里府ニ於テ別冊海底電信線保護万国連合条約ニ加入ス
右奉 勅旨布告候事
(別冊)
千八百八十四年三月十四日巴里府ニ於テ各国ノ全権調印シタル海底電信線保護万国連合条約訳文
条約書
仏蘭西共和政府大統領閣下普魯西兼独逸皇帝陛下亜爾惹丁連邦大統領閣下澳地利兼洪牙利皇帝陛下白耳義皇帝陛下伯西爾皇帝陛下哥斯太利加共和政府大統領閣下丁抹皇帝陛下度美尼哥共和政府大統領閣下西班牙皇帝陛下北米合衆国大統領閣下哥倫比亜合衆国大統領閣下大不列顛愛爾蘭兼印度皇帝陛下牙徳麻刺共和政府大統領閣下希臘皇帝陛下伊太利皇帝陛下土耳其皇帝陛下荷蘭兼盧森堡皇帝陛下波斯皇帝陛下葡萄牙亜爾珈揮皇帝陛下羅瑪尼皇帝陛下全露西亜皇帝陛下薩爾波度児共和政府大統領閣下摂児比亜皇帝陛下瑞典兼諾威皇帝陛下烏拉芸東部共和政府大統領閣下ハ海底線ヲ経過スル電気通信ヲ保護スルコトヲ冀望シ夫レカ為メニ条約ヲ締結セント欲シ各其全権委員トシテ左ノ人々ヲ任命ス

国名が漢字なので分り難いです。フランス、プロシア・ドイツ、アルゼンチン、オーストリア・ハンガリー、ベルギー、みたいな順番なんですね。意外。アメリカはもっと後。この当時には「北米合衆国」となっていて、「亜米利加合衆国」ではなかったんですね。どういう使い分けなのか、よく判らないですね。公式文書ですから、北米合衆国というのがごく当たり前だった、ということなのでしょう。いつから亜米利加となったのか気になります(それとも、順序が逆か?)。
漢字表記の国名がなんたって面白いです。雰囲気で読めそうなのもあるし、全然見当もつかないようなのもありますね。クイズ番組の問題に使えそう(笑)。


昔の法律、太政官布告・布達というのは中々面白いものですね。勉強になりました。




古い法律の話~欠番?のある法律

2007年10月04日 12時41分48秒 | 法関係
シリーズの2回目です(笑)。前回は明治5年と6年のほぼ最古と見られる太政官布告でしたが、今回は明治8年のものです。
この年の太政官布告・達は現存するのが3つあり、「勲章制定ノ件」(布告)というのは、今も用いられている勲章の階級が定められています。他には、「不用物品等払下ノトキ其管庁所属ノ官吏入札禁止ノ件」(達)というものがあり、これは払い下げの入札には官吏やその代理人が参加してはなりません、ということを定めた太政官達でした。

最後の一つですけれども、それはこれでした。

○明治八年太政官布告第百三号(裁判事務心得) 抄
(明治八年六月八日太政官布告第百三号)

今般裁判事務心得左ノ通相定候条此旨布告候事
第三条  一民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ
第四条  一裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス
第五条  一頒布セル布告布達ヲ除クノ外諸官省随時事ニ就テノ指令ハ将来裁判所ノ準拠スヘキ一般ノ定規トスルコトヲ得ス


何と、第三条から始まってしまっています。恐らく、2度の憲法制定によって、この前の条文が無効(?)となってしまい、消されたものではないかと思いますが、定かではありません。でも、第1条がないのに、続きの条文がある、というのは何となく面白いですね。条文というのは、削除ということの修正は行われても、欠番部分に繰り上がりみたいなことは起こらない、という決まりみたなもの(不文律?慣習?)があるのかもしれません。つまり、条文というのは、常に「永久欠番」制となっている、ということですね。大変律儀でございます。


で、裁判事務心得をもう少し詳しく見ていきましょう。

第三条
一民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ

私の理解の範囲で平たく書くと、一民事の裁判では、
・成文法となっている(法律の条文にきちんと書いてある)ものがない時は習慣に依るべき
・習慣も定まっていない時は条理を推考せよ
ということかと。つまりは、重要度順位をいうと、法(条文)、習慣、条理、ということでしょうか。条理というのは、道理みたいなものですので、決まっていない事柄を裁判するには大岡越前みたいなことも必要とされる(笑)、ということでしょうか。でも、これはあくまで民事裁判についてのものです。慣習法的な発想も場合によっては必要だね、ということを言ったものかな、と。推考せよ、と言われているのですから、条文になく過去の例もないようなものは「裁判官の持っている条理」に左右されてしまう、ということになりますね。


次に行きましょう。

第四条  
一裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス

一裁判官が裁判を行った判決というのは、将来に渡って一般的に適用することのできる規範とか原則にはなりませんよ、ということではないかな、と。ある裁判例と同じようなことがあっても、必ずしも過去の判決を定規とすることはできません、ということです。このことにはいくつかの意味が含まれているかな、と思いました。
一つは、裁判官だって間違うかもしれない、ということです。ゆえに、一裁判官の判決だけをもってこれを手本にしてはいけない、他の裁判官も自分で考えておけ、ということなんだろうな、と。二つ目は、何でも「杓子定規」に判断するな、ということではないでしょうか。それは先例があって判決が出ているとしても事件としては違いがあるやもしれず、時の社会環境や社会的慣習なんかも異なっているかもしれない、だから、将来に渡っての定規ともなり得ない、という戒めを言ったものではないかな、と。三つ目は、一裁判官が出した判決だけをもって、これを一般原則として社会に強制されることがあってはいけない、似たような事例においての一般原則として作用してはならない、ということを言ったものではないかと思います。

このことは、以前に少し書いた記事(「司法の品質管理を問う~2」のシリーズあたり)が関係しているかもしれません。


最後です。

第五条  
一頒布セル布告布達ヲ除クノ外諸官省随時事ニ就テノ指令ハ将来裁判所ノ準拠スヘキ一般ノ定規トスルコトヲ得ス

頒布された太政官布告や布達を除いて、諸官庁が随時出している色々な指令・命令というのは、将来に渡って裁判所が準拠するべき一般原則・規範とはなりません、ということでしょうか。これはちょっと問題になりそうな条文ですね。それは官庁が出した通知・通達というのがこの「随時事ニ就テノ指令」に該当するとも考えられ、すると、これら「法令範囲外」にある指令には、法的拘束力のようなものが発生し得ない、ということになるかと思います。時々出てくる通知の内容を根拠とする違法性の判断などは、本来的には「裁判においては準拠するべきではない」と考えられなくもありません。

やや話が離れますが、「頒布セル布告布達」というものが今で言うところの法令であって、通知・通達だとかガイドラインとかを法源とするのは本来的にオカシイのではないかと思えます。例の内診行為問題についてですが、「違法性を認定する根拠」となしているのが厚労省通知というのは問題であろうと思います。



ところで、これら太政官布告は現在も有効な法である、というような結論はどこかで出されたことがあるのでしょうか?もし、結論がないならば、それが問題とされたりはしなかったのでしょうか?勲章をどうするか困ってしまうとか、カレンダーも困るとか、それもヘンだし。でも、「一応有効なんじゃね?」とみんなは信じ込んでいるだけで、それが確認されたことがないとなれば、「大丈夫か?」とか不安に思ったりもします。こういうのは、どうやって廃止とか無効とか有効とか決するのか、全く知りません。基本的には、廃止届け(廃止の為の法律?)が出されない限り、生きている・有効ということなのかもしれませんけど。
そう考えると、社会保険庁のコンピュータがレガシーシステムであったという話も、何故そうなってしまうのか、というのが何となく判らないでもありませんね。それはお役所的発想の賜物だからですよね。法は廃止されない限り生かしておかねばならない、その上に色々と法案を継ぎ足していかねばならない、みたいなもんですからね。積み木とか木組み模型みたいなものがあって、不要な部分は引っこ抜き、後から後から新たな部品の木を継ぎ足していく、というのがお役所の「法の世界」的発想なんだろうな、と。キレイなビルを建てようと思えば、老朽化したビルを一度ぶっ壊して、新たに作り上げた方が早いし快適だし美しいだろうけど、それができないのですよね。それは法制度がそのようになっているから、ということなんでしょう。



古い法律の話~一番古い法律って何?

2007年10月03日 22時17分33秒 | 法関係
タイトル通り、日本の法律の中で一番古い法律とは何か?というのが発端です。気になって調べましたよ。
法令データ提供システムで。すると、このデータベース上で記録されている中で、明治20年までに制定されたものが11ありました。これを取り上げていくことにします。今回はその第1回ということで(笑、シリーズかよ!)。


これを調べていく過程で判ったことを、書いておきます。
皆様ご存知のように、明治時代に制定された大日本国憲法は1889(明治22)年2月11日公布です。ですので、それより前と後では法律の体系というのがちょっと異なっているようなのです。それでも現代まで残されている法律があるというのは、面白いと思いませんか?

この憲法制定前からあった法令には、太政官布告とか太政官達といったものがあったようです。ですが、その後に勅令が出されて法令の形式は変更されていったのです。勅令第1号は「公文式」というものです。

公文式 勅令 - Wikipedia


ここからは、この勅令以前の法令のお話です。
一番古かったのは「改暦ノ布告」というものでした。

○明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)
(明治五年十一月九日太政官布告第三百三十七号)

今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
(別紙)
詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
  明治五年壬申十一月九日
(以下略)

この法令で1年が365日って書いてありました。太陽暦採用を決めたというものですが、詔書の写しという形式なんですね。1873年ですから、今から134年前の話です。11月9日はこよみの日とかカレンダーの記念日かと思うでしょ?違うんですよ。この年の12月3日を明治6年1月1日と決めた為、12月3日がカレンダーの日だそうです(カレンダーの歴史 - 全国団扇扇子カレンダー協議会(全協)による。そんな団体があったのかー!)。おもしろー

でも、この太政官布告が現時点の最古の法律かどうかは不明です。効力が失われている可能性は否定も肯定もされていないようです。でも、他の裁判所休日法とか国民の祝日を決める法律なんかで何か触れられているかもしれませんが、定かではありません。手続関係の期日とか、時効成立の期日とか、そういうのが全部関連しそうなので、一応、1年365日で月とか1日の時間とかは、この太政官布告に準拠しているものと考えられているのかもしれませんね。だって、こよみが違えば、月日の数え方とか、期限とか変わっちゃうもんね。


これの次に古いのが、これ。

○明治六年太政官布告第六十五号(絞罪器械図式)
(明治六年二月二十日太政官布告第六十五号)

絞罪器械別紙図式ノ通改正相成候間各地方ニ於テ右図式ニ従ヒ製造可致事
絞架全図 実物 六十分ノ一
本図死囚二人ヲ絞ス可キ装構ナリト雖モ其三人以上ノ処刑ニ用ルモ亦之ニ模倣シテ作リ渋墨ヲ以テ全ク塗ル可シ
凡絞刑ヲ行フニハ先ツ両手ヲ背ニ縛シ紙ニテ面ヲ掩ヒ引テ絞架ニ登セ踏板上ニ立シメ次ニ両足ヲ縛シ次ニ絞縄ヲ首領ニ施シ其咽喉ニ当ラシメ縄ヲ穿ツトコロノ鉄鐶ヲ頂後ニ及ホシ之ヲ緊縮ス次ニ機車ノ柄ヲ挽ケハ踏板忽チ開落シテ囚身地ヲ離ル凡一尺空ニ懸ル凡二分時死相ヲ験シテ解下ス(凡絞刑云々以下ハ原文絞架図面ノ後ニアリ)
 踏板表面図 実物三十分ノ一
 図(略)
 機車 実物三十分ノ一
 図(略)
 機車属鉄板図 実物三十分ノ一
 図(略)
 踏板裏面図 実物三十分ノ一
 図(略)
 機車装置図 実物三十分ノ一
 図(略)
 絞縄鐶図 実物十分ノ一
 図(略)
 鉄板架図 実物十分ノ一
 図(略)
 螺旋図 実物十分ノ一
 図(略)
 絞縄略図 縄長二丈五尺
 図(略)

絞首台の設計見取り図みたいなものかと思います。ちょ、ちょっと、コワイです…。
螺旋図とか絞縄略図とかいかにも、って感じで、縄長二丈五尺 も妙にリアルです。この太政官布告は、恐らく過去の裁判例で取り上げられたことがあるらしく、死刑が違憲とか何とかという話なのかな、と思ったりしますが、調べてないので判りません。でも、一説によれば、この法令は有効ということのようです。

古い法令の双璧ですね。


他には、時代が進んで明治32年にできた失火責任法という法律がありますが、これはとても短い法律として知られているようです。

○明治三十二年法律第四十号(失火ノ責任ニ関スル法律)
(明治三十二年三月八日法律第四十号)

民法第七百九条 ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ在ラス

これはよく出てくる民法709条の不法行為の損害賠償に関する条文において、重過失でなければ火事の賠償責任を問われないとするものです。条文の長さは50文字しかありません。多分、公文式以後での最も短い法律条文なのではないでしょうか。

でも、先の11ある古い法令には、もっと短いものが存在しています。それはコレです。

○明治十六年太政官達第二十七号(官報の発行)
(明治十六年六月二十日太政官達第二十七号)

官報本年七月一日ヨリ発行候条此旨相達候事

何と20文字しかありません。官報誕生は1883(明治16)年7月1日ということで、この日が「官報の日」と定められましたというのはウソですが、第○条みたいな条文になっていない数少ない法令ということになりますでしょうか。他にもあるかもしれませんが、この2つしか判りませんでしたので、もしあれば情報をお寄せ下さい(これは本気)。テロ特措法の正式名称の文字数から比べると、極めてコンパクトな条文ですよね(笑)。


とりあえず初回はここまで、ということで。




教科書検定問題について思うこと

2007年10月03日 15時01分23秒 | 社会全般
私には詳しく判らないことが多い話題で、沖縄のこと(一度も行ったことがないです)や沖縄の人々のこともよく知りません。それでも、思うところについて書いておこうと思います。

教科書検定問題、「政治介入」政府迷走 太田氏発言に町村氏困惑(産経新聞) - Yahooニュース


何故こうした政治問題化してしまうのか、これによって何が得られるのか、私にはよく判りません。このような闘いを経て勝利したら、みんながハッピーになれるのでしょうか。勝った方が正しかったということになるのでしょうか。

真実がどうであったのか、ということは、後日になっても完璧に明らかにすることは難しいと思います。それは当事者本人であってさえも、知らないことが多すぎるからです。そうではあっても、何かの事件の裁判のように、残された証拠や証言から「どうであったか」ということを後から構成していくことくらいしかできないと思います。そうした全体像というものを正確に知ることができるのは神(いるか判りませんが)のみであり、後から再現することも全てを認識することも普通の人間にはできないでありましょう(参考:歴史とは、誰かの物語だよね)。


戦争というものは、ある種の狂気のようなものなのだろうと私は考えています。そうした狂気がなければ、そう簡単には人を殺せないように思えるからです。自分の恐怖や何かの激痛を隠蔽しておく為の、狂気がなければならないだろうと思うからです。そこでは、むき出しの本能とか、生と死の懼れとか、それらを飛び越えた何かがあるかもしれない、と思ったりします(うまく表現できませんが)。少年の無垢・純潔さが逆に働いてしまう(従順で忠実な兵士にはうってつけになってしまう?)のかもしれないし、家族愛の倒錯のような愛という感情かもしれないし、集団心理のようなものかもしれないし、そういうことは誰にもよく判らないのではないかな、と思うのです。

しかし、一つ言えることは全員にとっての悲劇であり、戦争というものが肯定されてよい、ということには繋がり得ない、ということです。何かが起こった当時には、時代の流れとかそれこそ運命とか、後から思えばそういう流れに全員が巻き込まれていっただけで、それを当事者になり得ない人間たちが「正しく評価する」ということなど難しいのです。過去にこういうことが起こった、あった、ということを知ることと、そのことが「酷い、残酷だ、可哀想」などと感情的評価を加えることとは多分別だろう、ということです。それぞれの物語を読んだり、知ったりすることで、各個人がどの様に感じ考えるかということは、読んだ人たちの心の中に芽生えるものであって、それを等しく他人にも「同じ感想・感情を抱け」と強要することなどできないのではないでしょうか。そういうことを統一的にしようとするからこそ、紛糾してしまうだけであり、賛成派・反対派のいずれにも歩み寄りも共感も失せてしまうのではないかな、と思います。自分以外の物語の感想を知ったならば、「そういう感想もあるのか」とか、「自分はそこまで読み込んでいなかったな」とか、理解を拒否しない立場があればそれでいいのではないのかなと思うのです。それは同じく考えろとか、同じ感想を持てとか、そういうことを強要するものではない、ということです。


今起こっている紛糾は、数多くある物語を政治とか何かのイデオロギーに「利用しようとする」人々が活動するがゆえなのではないかと思えます。教科書の記述というのは、そういうものからは離れたところにあるのが望ましいのではないかと思います。もしも、二分論的に書けないことが多くの歴史家たちに理解されているのであれば、書けるところまでの記述に留めておき、もっと深く知る時の為の参考文献として代表的な著作を挙げておくとかはできるのではないかと思います。中学生や高校生が読めるくらいのものが望ましく、専門的な歴史学の大部みたいなものは難しいかもしれませんね。私のような歴史認識の甘い(笑)人間の言うことなので当てにはなりませんが、青少年の時期に一度読んでおくといいよ、みたいなものがいいのではないかな、と思います(例えば、スゴ本の人とかに尋ねると、サクッと数冊教えてもらえたりするんじゃないでしょうか…)。殊更に、日本軍の残虐性や人間の悪魔的一面みたいなものを強調して教え込む必要などないのではないかな、と思います。子ども向けの本で、世の中で起こっている残虐な殺人事件や強姦事件の「真実」を克明に伝え、こんなのが世の中の正体なんだよ、みたいな「歴史的真実」を教えることが本当に教育上必要なのでしょうか?ということです。


随分前に教科書検定の話がネット上で話題になった時、知らないことがたくさんあるのだな、と思ったので、その時読ませて頂いた記事を挙げておきたいと思います。私は、現代に生まれて良かったな、と改めて感じましたし、「希望は戦争」などという言葉を安易に用いるような連中には、言説の中身如何に関わらず、その言い草故に同意を示すことなど絶対にできないのです。


小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 2007-03-31

小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」 - 2007-04-02




貸金業の上限金利問題~その19

2007年10月02日 21時30分41秒 | 経済関連
クレジットカードのことを書いたら、コメントを頂きましたので、少しお答えしたいと思います。

まず、そのコメントを再掲致します。


貸金業規制法の最大の問題点は資金需要者にどのような影響を与えるかです。

 貸金業の半数以上の廃業によって資金供給をたたれた個人事業主、零細、中小といった資金需要者に対して審査をゆるくした信金や信組がなんとか頑張っているようですが、業務改善命令というがんじがらめの法によってそう簡単に審査をゆるくすることもできませんし、不良債権のリスクが増えていくでしょう。

 金利引き下げ派は、多重債務者を救うとために、もっと規制をかけろという正義にのっとった思考です。そこにころっろだまされるわけが、金利引き下げ同時に問題なのは総量規制です。

 総量規制をよく勉強すればわかるんですが、条件次第では審査に年収に裏づける資料が必要で、いままで融資を受けていた、年収のない専業主婦は融資対象外。銀行や信金、信組で断られた資金需要者たちは、金利が下がった業者にも総量規制によってことわられてます。融資残高も減って信用収縮になっていますが、まあ貸金業や信販、リースなど総量規制でつぶして、一番こまるのは資金調達のできない、資金需要者なんですが、そこに目がいかない。

 たとえば総量規制の団信の廃止にしても、相続放棄すればいいじゃないかとう議論がありましたが、あくまでも死亡した被相続人が多重債務者である場合によります。もし被相続人が財産をたくさんもっていたとしましょう。財産を相続と同時に団信で処理されない、債務まで付帯してきます。

 総量規制によって資金需要者にどういう影響を与えるかという議論がない限り、いくら金利を下げたらとういう話をしても、資金需要者に対する影響は解決しないでしょうね。


いくつか論点があると思いますので、分けて書いてみたいと思います。


①ご指摘の『貸金業の半数以上の廃業によって資金供給をたたれた個人事業主、零細、中小といった資金需要者』について

貸金業者が半数以上廃業するのは、昨年の法改正に限りません。かつては8万社とか10万社とか実態が不明なくらいに膨大に存在していたらしいのですが、少なくともその7割くらいは廃業となったでしょう。廃業の結果、資金供給を絶たれたからとて借りられなくなっているとも思われず、貸金の融資額は2兆円超から11兆円まで増加してきたようです。貸金業者の廃業そのものが貸し手消滅を意味しないでしょう。現在でも相当存在しているようですので。

更に、融資残高は大手・準大手で約9割を占めますので、残り1割しかないその他貸金業者の半分が廃業したところで別な業者に代替されるか、供給そのものが消滅しても5~6千億円程度でしょう。過去2年間で弁護士に流れた過払い返還関連費用は約700~1000億円(週刊ダイアモンドに出ていたそうです)らしいので、弁護士の取り分の3倍が返還額なら約3000億円くらいになります。過払い返還費用は今年3月期に大手貸金だけで引当額は1兆円以上らしいこと、返還費用の対残高比率は3%程度は見込まれそうなこと(金融庁資料の06年3月期で約2.3%だったので、たぶん今年3月期はそれよりも多いであろう)を考え合わせると、3年くらいで返還費用と現在債務消滅(過払い返還で相殺される人たちはかなりいるだろう)分だけで1兆円以上の債務残高が消滅することは十分有り得る話です。弱小貸金の半分が消滅するよりも、ずっとインパクトはありますね。

借入1社目の大手貸金やクレジットカードなどから借りられず、廃業する貸金業者からしか借りられないというような資金需要者は、「そもそもハイリスク」な人であり、存在確率は極めて低いでしょう。普通に考えれば、弱小貸金が借入の1社目という借り手はかなり少なく、廃業するような弱小貸金から借りている人の大多数は単なる多重債務者なのではないですか、ということです。もしそうであるなら、多重債務者に対する対策が必要なわけで、貸出することが対策だということにはならないでしょう。


②総量規制について

私は金利引下げ派ですけれども、総量規制については、これをやれと書いたことなど一度もないですね。難しいのではないかということは、既に幾度か書いてますけれども。
中小貸金業者が淘汰されるとはどういうことか
上限金利規制よりも総額規制の方がいい、とか言っていた方々がおられたと思いますので、そちらに伺ってみては。

借金の負荷としては、量より金利の方が厳しいのではないか、とは書きました。
理解に苦しむね

量的規制の場合には、割と長期間の借入の際に不利になってしまう可能性があるのと、事業性資金の場合にも問題はあるかもしれません。ノンバンク系などの5~10%程度の金利ならば、借入額が若干多くなっても返済期間で調節できうるからです。個人事業主のような事業性の高い資金の場合には、量的にそれなりに多くなってしまうこともあるでしょうからね。ただ、返済能力は無限大にはなりませんし、ロールオーバーだけ繰り返して永続できるものでもありませんので、信用供与が機能する水準がどこかにあるのでしょう。それがどこかというのは、判りませんけれども。米国のサブプライム・ローンのように、ある臨界点(のような点?)を超えると債権価値が不透明となって暴落し、信用そのものが機能しなくなってしまうことがあるのでしょう。返済の為の将来キャッシュをどのくらい遠い時点まで見込むのかは、判らないですね。日本の住宅ローンは有担保融資ですし消費者金融とは別ものですけれども、かなり遠い将来(20年30年は当たり前?)まで返済に組み込まれますので、借入総額は段違いに多いですよね。それでも貸倒率は全然低いですけど。


③超過需要について

借りたい人が借りられなくなる、という議論がありますけれども、必ずしも全部に貸す必要性はないでしょうね。
銀行の信用割当の話なんかだと、利潤最大化の金利がどこかにあるのであれば、それを超える金利で貸し手が貸す理由はないでしょう。需要があっても、貸せば損をするだけですからですね。更に、キリギリスタイプの人(金利規制は有効ではない、カウンセリングが必要な層)が多ければ、そのタイプの人たちは常に需要超過を生じるので、キリギリスタイプの人たちだけに貸すことになってしまうので意味がないでしょう。

阪大グループの論文でも似たような記述がありましたのでそちらを見て頂ければ(記事中にリンクがあります)。
ここで重要なのは、
◎貸金市場においては、貸出金利は「高い方から低くなってきた」
というのが現実であり、単峰性のグラフ上で最大利潤となる均衡金利よりも右側で変化してきて、未だに頂点に達する前なのであれば、上限金利規制は意味があるように思えます。

・貸出金利低下で新規借入者が増加→整合的
・金利低下で貸し手利潤は増加→整合的
・上限引下げで貸出額増加→整合的

rの変化領域が何故峰の左側だけで考えられているのかは、私にはよく判りません。

けれども、供給曲線の形状が、金利増大方向に行けば行くほど供給量が増加するのであれば、負の利潤になっているにも関わらず、大量に供給することになってしまうのではないかと思えます。金利(価格)が高ければ高いほど供給が増大していくならば、利潤と金利の関係は単峰性のグラフにはなり得ず、峰の右側部分は存在しないのではないかと思いますね。因みに、金利が増大すればするほど利潤が増大するのは、ヤミ金くらいなもので(笑)、1000%とか3000%であっても回収を継続できるので貸すんですよ。普通は「返済者が倒れる」(一般には貸倒だ)から金利が一定以上に大きくなれば利潤は生まれなくなるだけです。


④団信について

これも既に書いたので、そちらを御覧頂ければ。
貸金業の団信の効果

参考までに、コメントにお書きになっている「被相続人が財産をたくさん持っている」という状況で「相続放棄しますか?」ということを言っておられるのかもしれませんが、たくさん財産があるなら借りてた金を返せばいいだけなんじゃないでしょうか。借りてたんだから、本来は返すべきものでは。持ってるなら返せばよい、全然ないなら放棄すればよい、という話です。


とりあえず。


グーグルさんの仕事は早かった

2007年10月02日 11時00分11秒 | 俺のそれ
昨夜、google検索のことを書いたら、もう修正されていた(笑)。やっぱり誰か監視員みたいな人がいて、グーグルのことを書いたら探知されているんだろうと思う。

これって、結構凄いよね。
だって、世界中で毎日毎日グーグルの話はいくらでも出そうだもの。


けど、まだ問題はある。
それは本文ではない部分が表示されているのである。コメント欄の一部だけが検索画面に紹介部分として表示されているのである。これはヘンじゃないかな?


その一方で、gooブログの記事検索をする時(自分の昔書いたコメントとか)には、コメント欄も含めて検索したくても、出てこないんですよね。まあ、無料サービスなのでしょうがないんですけど。


前にチラリと書いた(グーグルニュースの謎?)のだけれど、グーグル検索は中々興味深いですよね。時々、同じ検索語で検索して、変化のパターンみたいなものを観察し続けると、どうやって改良されていくのか、みたいなものがちょっとは判るかもしれませんね。

私には、何が何やら全く判りませんけれども。
機械は友達じゃないので(笑)。


あの蜂?どんぐり?みたいな文字は何だったのか依然として謎。
それとも、googleの文字じゃなくて、他の何かと混同してるのかな?
…気になる、けど、真相が判らん……



クレジットカードのこと

2007年10月02日 00時53分58秒 | 経済関連
こちらの記事を読んだので、ちょっと書いておきたい。

Business Media 誠:クレジットカード特集、スタート:クレジットカードのススメ――達人のカード術に学べ!

私も複数のカードを使用しています。ポイントとか割引とか色々と特典がありますからね。分割だけは絶対にしないけど(笑)。でも、あると便利だし、使う側にとっては現金よりも有利なことは多いと思う。なので、大した金額ではなくてもカードを使うことは多いかな。使い分けなくてはならない場面が多いので、種類が多くなってしまうのが困りますね。できれば一枚に全て書き込めるようにしてもらいたいです。

話が変わりますが、上の記事の「Business Media 誠」ですけれども、勘繰りで申し訳ないんですが、何と言いますか、提灯記事が混じっているみたいな印象です。例の消費者金融関連とか、上限金利問題の記事なんかでは、山口揚平や土肥義則が色々と書いていたと思いますが、まあアレかな、とか(笑)。いや、色んな角度からの記事があるのもいいと思いますよ、勿論。


参考までに、こんな記事も過去にはあったみたい。

Business Media 誠:神尾寿の時事日想・特別編:“カローラの発想”をクレジットカードに生かす――トヨタファイナンス(前編)

キレイに商売やってます、って感じですか。トヨタさんは。ハア?
実際のところ、どうなのかというと、これも既に書いてきましたが、グレーゾーンでこっそりやってきて、所謂「悪意の受益者」としてやっていたんじゃないの、ってことですよ。

トヨタも案外がめついね

「大竹先生の異論」に異論あり


大手企業だからといって、利息制限法を守っていたかというと違うよね、って話です。カード会社だって、上限を守ってないところはたくさんあったんですよ。貸金ばかりじゃない。今年になってからは、大体は引下げたようですけどね。確かにトヨタカードは後発組ですから、あまり返還請求というものはないでしょうけど。だが、上限を大幅に超えて営業していたということに変わりはないわけで。それは借り手の無知を利用し、それにつけ込んできただけってことだわね。


そもそも、カード会社の運営を考えてみると、「上限金利を引き下げられると、営業できなくなる」とか言うのは、オカシイんじゃないか、と思うわけですよ。貸せなくなる、とか言う連中(勿論「誠」の中にもいるかもしれんね)はそれこそたくさんいるわけですが、クレディアみたいに廃業したカード会社があったら教えて欲しいですね。既存のカード会社の多くはキャッシング金利を今年引き下げたようですけど、キャッシング市場から撤退した所は、どれくらいあるんでしょうか?「これまで25%で貸していたのだから、20%以下になったら貸せなくなる」とか断言していた人もいるわけですが、これまでカードキャッシングを利用していた人たちは全員借りられなくなるんですね?(爆)
すると、カードを全員から回収か?それとも、キャッシングは利用停止ですか?
因みに、私が持っているカードは全部キャッシングは金利だけが引き下げられただけで、利用は何ら変わらないわけですが、これはオカシイですよね?金利は「リスクを正確に反映する」のであれば、私はこれまで25%のリスクに分類されていたのだから、それ以下では借りられないんでしょ?これが金利だけ引き下げられるというのは、初等的経済学理論ではどのように説明されるんでしょうね。学者気取りなのか何なのか知りませんが、ウソを並べたてるのだけが得意で、好き勝手なことを言ってりゃ済むわけですから、こりゃ○○でもできますわな(笑)。


カード会社は元々ショッピングカードというものだったと思いますが、カード発行に伴う審査というのは「キャッシング」があってもなくても行わなければなりません。つまり、審査コストというのは、キャッシングの有無には関係なくかかってしまう、ということです。でも、キャッシングも一緒に行うのであれば、範囲の経済が働くので、キャッシングとショッピングを別々の会社が単独で行うに比べると、コストは大きく軽減できます。カード会社はキャッシングなんて行わなくても業務は可能だし、キャッシングを付加的に行ったからといって専業の貸金みたいにコストがかかってしまうということにもなりません。むしろ専業の貸金よりも低コストで行うことが可能です。その分は当然のことながら貸出金利は低くできるのです。

更に、カード会社は加入の審査コストや維持コストについては、別途会費を徴収していることも少なくありません(会費無料という会社もあります)。これは利用額には無関係に徴収されるのですから、貸金専業よりも有利です(専業ならば会費徴収はできず、金利と見做される)。他には、店側からは加入店の手数料を取りますし、顧客からは分割金利を取るので、二重取りに近いような感じで双方から収入を得ています。ですので、貸金専業よりは有利に営業できそうです。ただ、利用客が一定以下しかいなければ営業コストがカバーされないので、苦しくなるでしょうけどね。カード会社間の競争は中々大変で、いかに利用者を増やすかということに尽きるのではないかな、と思います。営業赤字になっているのは、キャッシングがあるから赤字になってしまうのではなくて、本来的には利用客が少なすぎるからでしょう。その不足分をキリギリスなんかへのキャッシングのボリュームで補おうとしたりすると、貸倒が増加したり、昨今の返還請求を多額に食らってしまい、大幅な減益となってしまうだろうと思いますよ。元から20%とか18%以下で営業していれば、返還請求は発生しないですからね。

上限引下げで貸せなくなる、とか言うカード会社は貸さなければいいんですよ。貸金でもそうですけどね。大手貸金でも、顧客を奪われないように、金利を自主的に引き下げたところもありますからね。業種間を越えて競争となっていくでしょう。

プラスティック・マネーの行方はどうなるか判りませんけれども、こういう競争が促進されるのは良さそうに思えます。これは法案通過という大きな外力があったからこそ、とは思いますけれどもね。



うえーん

2007年10月01日 19時45分04秒 | 俺のそれ
特に意味はないけど。


「日本にブックマーカー上陸」

な、なにー!?
遂に海外からも辛辣ブックマーカー襲来か、
狩猟民族の本格blogハンター達がやってくるのか、
と思わせておいて(思わせてはいないけど)

実は「ブックメーカー上陸」だった。



レトロスペクティブ……
こ、こりゃ、いかんな、、、と、
日本語としてどうよ、みたいな。

でも既に使ってしまってるし

こんなん>経理はお荷物部門なの?

怒られちゃったよ…って、ホントは怒られてないけど(笑)。



あと全く関係ない話に飛びますが、
昨日だったか、その前だったか、googleの検索のページはgoogleの文字にたくさんのハエではないと思うけど、蜂がたかっていたかのようなヘンなデザインになっていたような気がするんですけれど、みなさんもそうなっていましたか?
私だけの幻?なんでしょうか。
今日見たら、普通の文字に戻っています。

何かの記念日とか?なんでしょうか。
あれは何かがこぼれていたのでしょうか?
草の輪みたいなもの?
飾り文字?の正体さえも判りませんでした。

謎です…

ああ、それと、「格差社会」で「ググレカスる」(笑、新造語ですかね。晋三語ではありません。ググレカスの動詞形か)と、ウチのブログがまるで「池田信夫blog」の一部であるかのように表示されるのはヤメテもらえませんか?ウチと関連ページでもないのに、池田信夫blogの下に表示されるのは我慢なりません(笑)。
早急に直しておいて下さい>googleどの

大体、ウチの方が元から上だったのに、後からワケのわからんテレビ業界の格差なんていう記事が絡みついてきて、いつの間にか乗っ取られていた(笑)。いくら同じgooブログだからといって、これは酷すぎです。
テレビなんて「格差社会」の本題からは遠く離れているじゃないですか。



「アニマル・スピリット」とは何か~バブル現象について

2007年10月01日 13時08分13秒 | 経済関連
前の続きです(お読みになってない方は、前からお読み下さい)。
いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」 「アニマル・スピリット」とは何か?


前回予告した通り、今度はバブル現象について考えてみたいと思います。
前の記事で幾つか勝手な仮説を考えてみましたが、これらの複合的な現象なのではなかろうか、というのが私の推測です。仮説2と3のような、「周囲の人たちが勝っている」という情報が多いということです。賭けに参加している子の保有しているチップの枚数が多い人が何人もいる、各ターンでの子の賭けているチップは少なくなく、勝利している子の割合が多い(=親が弱いモードになっている?)、連勝が多い、などが観察される、というような状況でしょうか。更に、重要になってくるのは「同期性」ということです。これは以前にも書いたことがあります。

続・情報とは何か?(追記後)

バブルというのは、まさしくこのhype曲線と似たような状態が発生する、ということです。同期しているのは、賭けに参加してくる子ということです。神経線維のインパルスでも似たような電位変化が見られます。心電図でもいいです。これらはhype曲線と似た形状をしている、ということなのです。「勝ち」「チップがザクザク」みたいな情報が増えていくに従い、遂にはバブル発生となるのではないかな、と。


また実験を考えてみます。
今、ゲームに参加している子が20人いるとします。この様子を見ている別な見学者が100人です。この見学者は自分が参加を宣言すれば、好きなときにいつでもゲームに参加できるものとします(持っているチップは同じく1000枚とします)。また、賭けられるチップに枚数制限はないものとします(前の記事では上限を100枚としていました)。見学者が参加する場合には、カードが配られる前にベットする枚数を宣言して賭けるものとします。また、ゲームに参加して止めたいと思った時点で、終了を宣言すれば止められるものとしましょう。

初めのうちは、通常通りの確率でゲームが進行します。すると、子の20人は適度に勝ったり負けたりしているでしょう。で、ある時点から親の強さを弱い設定としますと、子の勝つ確率は上がります。チップを多く保有する子の割合が増えていくということです。特に、2人だけに「もの凄くラッキー」な目を仕込んでおいて、1000枚で始めたチップが1500枚とか2000枚になるようにすると、恐らく見学者の中から自分も参加したい、と宣言する者が現れてくるでしょう。勝ってる人間がいる、という情報は、見学者たちの「spirit」を刺激するのです(笑)。でも、まだその刺激情報は弱い。hype曲線では立ち上がり部分くらいでしょうか。

その後に、親の弱さにみんなが気付き始めます。連勝する者たちが多く現れたりするようになります。子の持ってるチップも多くが増加しているはずです。すると、見学者たちは自分も賭けたいと思うようになり、続々参入してくることになるでしょう。sensitizationのような変化を生じていけば、「勝ち」情報が繰り返し積み重なって、刺激強度を増す、というようなことになるのではないかな。例えば7~8割の人が連戦連勝していると、残っていた参加者たちの多くが「私も賭ける」と宣言するのではないだろうか、ということです。同期性は、参加表明が最大人数になった時か、各ターンで賭けられたチップの量が最大になった時、ということになるでしょうか。それが、hype曲線のピークに達する時、ということです。こうした状況が生じると、自分に配られたカードの目が悪い(例えば4とか5とか)にも関わらず、「勝つのではないか」という錯覚を抱くようになってしまうのではないかな、と。ま、親を人為的に弱くしておくわけですから、勝つ確率は高まるのは当然なのですが、それが続くかどうかを見極めるのは容易ではありません(基本的には判らないでしょう)。

そうして参加者が最大に達した後で、親を強くしてみます。すると、それまでは6とか7の札なんかで何度も勝っていたのに、今度は中々勝てなくなります。パスする人の数が増えていったりするかもしれませんし、諦めずに「また勝つはずだ」と思って賭け続ける人たちもいるかもしれません。でも、親が強いので負ける人たちはどんどん多くなるでしょう。止める人の数も増えてくるかもしれません。ある時点を過ぎてしまうと、賭けられているチップの数は急速に減少していくことになるでしょう。参加している人の数もかなり減っているでしょう。これがバブルの終焉ということかな、と。

要は、「勝っている人」を見ていると射幸心が煽られてしまう、みたいなことかと思います。(リスクを冒して)賭けに参加したい・投資したい、という人が増えてくる、ということです。これこそが、ケインズがアニマル・スピリットと呼んだ人間の本性のようなものなのではないでしょうか。通常の取引環境であれば、勝つ人もいますけれども負ける人もそれなりにいるので、そんなにみんなが参加しようとは考えないのですが、「勝つ人の割合増加」や「保有資産(=チップの枚数)増加」という方向に大きく偏ると、参加者もしくは賭けられるチップ量が爆発的に増加し、そういう同期性が高まった時が「バブル発生」期なのではなかろうか、と。この状況下では、自分に配られたカードが多分「過大に評価される」ということも起こるでしょう。同じ10のカードであっても、連敗期間中と連勝期間中の受ける感じというものが異なる、ということです。「ひょっとして親はAを引くのではないだろうか」みたいな怖さを抱く場合と、楽観的にきっと勝つだろうと考える場合があるのではないかな、と思うのです。これがもっと悪いカードで4とか5でも同じで、これで勝つ確率は低いハズなんですが、連勝期間中であれば「何となく勝てそうな気もする」みたいになってしまう、ということですね。


バブルの崩壊過程はhype曲線の下降部分のようであり、大幅な投資抑制が生じるということになります。多くの参加者たちにとっては、回避するべき事態となり、株でも土地でも「誰も買いたがらない」みたいな状態となってしまう、ということになります。資産(株とか土地とか)価値が毎ターン減少していくのと同じなので、持ってるチップの価値も下がっていくためにダブルパンチを食らったようなことになるでしょう。賭ければ負ける、持っていても価値は下がる、ではどうにもしようがありませんもんね。後は、「降りる」しかないということです。

日本の過去の状況というのは、みんなが一斉に「降りる」ということを選択してしまい、これを回復させることをしなかったので、ITバブル期以降に最悪のどん底を迎えることになったのです。00年頃に降りる人々を支えることができたのであれば、大きな脱出チャンスになったかもしれないのです。

もしチップを賭けても親が強いモードであれば単にチップを失ってしまうだけかもしれないので、それが「無駄遣いだ」という批判はあるかもしれませんが、その後に失われたものとか受けた損失の大きさを考えれば、何としても脱出するということがまず必要であったでしょう。誰も賭けない時には、誰かが賭ける以外にないのですから。ゲームに参加しない限り、決してチップが増えるということはないのですから。「勝ち」情報を誰かがもたらさねばならなかった。みんなに「勝てるんだ」ということを広く知らしめることが必要だったのです。


今は「○○が値上がりしました」というのがニュースになっている時代です。これも、本来的にはニュースにするほどのことでもない、という風になっていないとダメなんですよね(原油は仕方がないかも)。値上がりがニュースになることこそ、日本人は未だにデフレの闇の中で迷妄状態、ということなんですよ。値下がり期待だけが世の中に蔓延し、「値上げは悪だ」という昔の消費者運動みたいな錯誤がある限り、賃金が上がらないという結果を自ら招いているようなものです。