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福島産科死亡事件の裁判・その7(続)

2008年08月24日 16時53分22秒 | 法と医療
4 司法(裁判所)への不信

これまで、医療側から司法側に痛烈な批判というものが出され、トンデモ判決とかトンデモ裁判官とかについても同じく批判の対象とされていたと思います。

以前に「判決文というのは研究論文のようなもの」と書いたことがあります。
司法の「品質管理」を問う

こうした論文の結果については、ごく一部に評釈等があるものもありますが、多くが「スルー」されてきたのではないかと思っておりました。そうであるなら、どうやって検証されているのか、ということが判らなかったのです。医療側が司法への不信感を抱くのは、患者側に医療不信があるのとあまり変わりがないのではないかと思います。法学素人ゆえの知識や理解の不足もありますし、誤解を生じたりしていることもあろうかと思います。ある程度理解力が高いであろうと予想される医師たちをもってしても、専門外の分野のことになれば、一般国民が医療についてよく知らないのと同じく「知らない、判らない、よく理解できない」ということが起こってしまうものなのだ、ということです。

恐らく大多数の裁判では「問題なく行われている」のかもしれませんが、いくつかの不可解な(納得できない?)判決が医療裁判にはあるということから、厳しい批判が出されるものと思います。そういう判決が出されることの是正方法が、医療側からしてみると全く見出せないということも、余計に「特定裁判官への非難、人格批判」とか「司法全体への不信」という形で現れてしまうのかもしれません。

しかしながら、いくつかの行き違いなどはありましたが、法曹の方々のご尽力(モトケン先生のところをはじめ、法曹・法学関係の方々)とか、医療側が一体何を言いたいのかということの対話の積み重ね等により、何かが伝わっていったのではなかろうかと思っております。

やはり一番大切だと思ったのは、まず相手側主張を理解していこうとすることではないかと思います。それは「判決文」という形で司法側の見解(判断)が示されているわけですから、これを自ら知るようにすることと理解に努める以外ににはない、ということです。出発点は、ここにあるのです。その上で、指摘すべき点をきちんと「相手側にも判るように」提示し、その論点について討議を重ねていくとか、もっと判りやすく説明できるように試みるとか、そういう努力を必要とするのではないかな、ということです。それをせずに、ただ単に「○○判事はトンデモだ」とか「資質に問題がある」だのといった非難を浴びせても、有意義とも思われません。少なくとも、「相手側の土俵」で勝負するということが必要であり、割と有効なのではないかな、と思います。医療側が「医学の常識」だけを持ち出しても、司法の土俵ではないので、相手には通じないとか理解してもらいにくい、ということだろうと思います。
まあ中には、よく知りもしないのに、経済関連の人が最高裁判事に的外れな文句を並べたり、逆に法学関連の人が経済分野に論破を挑むことはあるようなので、医療に限ったことではないかもしれません(笑)。なので、医師たちが司法に文句を言うのは、それ程特別なことではない、ということでしょうか。

いずれにせよ、司法側が理解してくれるようになってきたのではないか、と思っていいのではないでしょうか。そうであるなら、必要以上に不信感を募らせる必要性はないのではないか、と思います。「以前とは違うんだ」と、肯定的に受け止めていくことが双方の利益になると考えます。


5 福島地裁判決

新聞報道の要旨から前の記事を書きましたが、詳細版があったようです。
大野病院事件判決要旨詳細版 - 元検弁護士のつぶやき

細かい内容の前に、立論のやり方という点について。

以前のやり取りは無駄ではなかった、と内心思っています。
司法の品質管理を問う~3の補足編

本件での「検察側立証」というのも同じで、「主張するなら、根拠を提示せよ」という、ごく当たり前のことが判決でも生きています。どの裁判であってもそれが守られているのかもしれませんけれども。議論の時でも同じで、何かの主張(仮説なり命題なり)を提示するのであれば、その立論を自らが行うべきだということです。この記事にも書いた通りです。

根拠を提示せよ、というのは、「悪意の受益者」と推定されうる貸金業者で取り上げた「合理的根拠」の提示、ということと同じような意味でしょう。「文献的なもの」(学説、論文等)とか、「複数例(判例、症例、…)」といった、ある程度合理的とみなされる根拠ということです。本件判決において、それが検察側に求められたのです。


判決要旨を読めば裁判所の言わんとしていることが、よく判ると思います。

予見可能性と結果回避可能性については、裁判で出された「事実認定」に基づいて判断されています。主張内容として、弁護側とか検察側とか、そういう偏りはなく、きちんと積み上げられていると思います。

例示としては適切ではなかったかもしれませんが、以前に書いた記事がコレです>医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

判示されたのが予見可能性、(結果)回避可能性ともに肯定、ということであるのは、上記参考記事の例で考えてもよく理解できる。予見できた可能性を考えるのであるから、予見可能であったということになるし、回避可能性についても「現実に回避している実例がある」ということなのだから、回避可能性はあった、ということになろう。ただ、これまで回避できた人もいた(=結果回避可能性あり)、ということと、本件で「回避できたハズ」ということは違う、ということだ。

課せられる義務(=行うべき回避技術)の水準としては、多くの船頭が行う回避技術をもってすればできるものでなければならず、神業的な回避技術ではない、ということ。このことは、この中で触れたように、一般性及び通有性を満たす水準でなければならない、ということ。それが医学的準則なのだ、ということです。

一部医療側には、この医学的準則から外れた医療行為が違法認定されるんじゃないか、というような誤解が生じているようですけれども、そういうことを判決で示しているわけではありません。医療行為について、裁判所が決められるわけではないからです。どのような治療法であろうとも、「医師が行おうとする行為」は原則的には違法とはなりません。具体的な禁止行為は決まっていないでしょう。ただし、どんな治療法を採用してもよいが、その為にはクリアするべき義務があるのであり、例えば「患者の同意を得る」(説明義務)とか「治療法に熟知・熟達している(それが無理ならアクシデントに備えてリカバリー体制を十分確保しておく)」というようなことです。その他大勢の医師にとっては「難しすぎる」というような手術法であるとか、日本ではまだ一般的には広まっていない方法であるとか、そういう医療行為を行うことに何らの禁止規定はないが、行うに当たり注意すべき点はしっかり守ってやって下さいね、ということです。


最後に、医療側の人たちこそ、本件判決文を繰り返し読んでおくべきかと思います。中身を吟味すれば、裁判所がどのように考えて判決を書いたのか、ということが伝わってきますし、何をどのように説明すると司法側に判ってもらえるか、ということのヒントがつかめるかもしれません。



福島産科死亡事件の裁判・その7

2008年08月23日 17時48分16秒 | 法と医療
判決が出たこともあり、少し整理してみたい。
(あくまで個人的感想について縷々述べるだけですので、ご了承下さい。)


1 警察や検察への批判

これまでにも幾度か書いてきたと思うが、拘留するべき事件であったのかということについては疑問がある。
が、警察や検察は、医師に対して「特別な悪感情や処罰感情を抱いて」、本件逮捕や拘留を行ったというわけではないだろうと思われる。医療を目の敵にして、「こいつを檻にぶち込んでやるぜ」みたいな感情をもって逮捕したわけではないはずだ、ということ。

恐らくは、遺族側感情への配慮とか、マスメディアが動いている以上「野放し」にはできない(拘留しないでおく、という意味であり、犯罪者を放置しておくといった意味ではない)というような事情があったりもしたであろう、と想像される。
この事件を知ったキッカケを書いたことがある(プロフェッショナルと責任)が、警察や検察は何が何でもやりたくて「捜査着手、逮捕、拘留」したのではないだろう。そうであるなら、警察や検察への非難をいくら浴びせてみても分かり合えなくなるだけなので、「逮捕、拘留期間が長すぎる」「医療措置の理解が低劣である」(これは言い過ぎか、笑、「理解が不十分である」の方がいいかも)という具体的指摘に留めておくべきかと思う。

医療側が「警察(or検察or裁判所or司法)は日本の医療を崩壊させる気だ」みたいに、誰も言ってない・主張していないこと(そうした企みでもあれば別だが)を非難してもはじまらない(→オレか)。そういう大袈裟な意見は、悪影響はあっても、役には立つことはない。「裁判官は貸金業界を崩壊させる気か」(笑)みたいなものも同じ。

なので、ネット上で意見を述べている医療側(若しくは賛同側)の人たちに是非言っておきたいのは、必要以上に相手を責めるのは逆効果となるだけで、何ら得られることはないので程ほどにしておくべきということです。私から見た感じでは、一部の方々には人権擁護法案頃に見かけた「悪印象の方々」と近いものがあると思います。多くの場合には、誤った情報で大騒ぎする、誤った主張を繰り返してしまう、敵側(笑)を単なる決め付けで叩こうとする、みたいなことでしょうか。

もしも自分が検察官で今回の事件を担当していたとすれば、やはり起訴していたかもしれない。
何故なら、検察官の「手持ちのカード」には弁護側証人のような医師はおらず、病院の出した事故調査結果が残されていたのだから、非があるように見えたのは医師であり、過失があったと疑われるのであるから、起訴していたかもしれない、ということだ。もっと大きな要因としては、何らの落ち度もなく命が失われてしまった、ということを、強く感じるかどうかだと思う。恐らくこの検察官は、人間味のあるいい人なのではないかと思う(いい人だから起訴していい、とか言うのではありませんが)。だからこそ、起訴に踏み切ったんだろうな、と。

私はたまたま出産に伴う危険性というものについて、少しは判る部分があったから、これまで記事に書いてきたが、そういう情報や知識を持たずに事件を俯瞰してしまえば「起訴するのが妥当なのではないか」と考えたとしても不思議ではない、と思う。

ただ、検察官には僅かなチャンスがあった。
起訴する前に、「被告人が語る知識」や「証拠・鑑定結果」などから得る知識以外に、もっと医療や医学について知るべきであったし、知っておけば起訴には踏み切らなかったかもしれない。検察官が得られた情報というのは、断片的知識でしかなく、そのピースからは検察官が組み立てた論理構成となってしまうのかもしれないが、「現実」はもっと複雑で欠けているピースが多かった、ということだと思う。予想以上に欠けていたんです。それが「人体の複雑さ」、つまりは医療の複雑さを示しているのだろうと思う。そういう想像力が足りなかったか、「実は他にも隠されたピースが存在しているんじゃないだろうか」という慎重さが足りなかったのではないのかな、と。他の人間が組み立てた構成(例の事故調査報告みたいなの)を安易に採用すると、ハマる場合があるのだ、ということでは。
「ヒマワリか、アサガオか」ではなく、「本当は別な花なんじゃないか?」という素朴な疑問を見落としてはいけない、ということかと。本当はパンジーかもしれない、という疑いの目を忘れるべきではないと思う。


2 マスメディアへの批判

これは私も度々書いてきました。分野を問わず、酷評を繰り返してきました。なので、人のことは言える立場にないわけですが、敢えて申し上げるとすれば、やはり上の警察や検察への批判と同じでやり過ぎは良くない、ということではないかと思います。少なくとも、「自分の意見や考え」を誰に届けたいか、ということを考えておくべきではないかと思います。最終的に、大勢の国民に知ってもらいたいと考えているのであれば、「マスメディアを利用するかどうか」という点については考慮が必要かと思います。マスメディアになんて広めてもらう必要性なんかない、と考えているのであれば、徹底的に叩いておこうとゴミ呼ばわり(笑)しようと自由でいいと思いますが、ネット上の活動や現実にビラ撒きなどで大勢の国民に知ってもらうことは、現在でも割と難しいと思っています。

私の場合は「自分が極めて非力」であることを知っているので、マスメディアの方々に届くのであればそこからもっと大勢の方々に効率よく伝わると考えており、マスメディアの持つ役割についてはかなり肯定的です。そうは言っても、ありとあらゆる部分を批判してきましたので、「お前の言うことなんて誰が聞くかよ!」とお叱りを受けるだけかもしれず、実際にどうなのかというのは判らないのですけれども(笑)。

「医療崩壊」がマスメディアの中で広く取り上げられるようになったり、特集記事や番組が組まれたり、ドラマが作られたり、といったことは、全て「マスメディア」がやってくれていることです。厳しく「マスゴミ批判」はするけれども、そういうことへの評価をしない、というのも疑問に思うのですよ。医療側がいくらマスコミ叩きをやったところで、何が変わると考えているのでしょうか?悪辣な文句を言えば、「スミマセン、改めます」という風になることを期待しているのでしょうか?この図はどこかに見覚えがありませんでしょうか?まるで暴言を吐くモンスター何とかと、ほぼ同じようなものなのではありませんか?これでは、大勢の国民に理解が得られるようになるとは、とても思えないのです。「医者はウソばかり言いやがる!何とかしろ!」と凄まれ、医師が「申し訳ありません、改めます」ということですか?少数例の失敗を殊更取り上げられて、そのことを理由として「医者はウソばかり言う」と全員一緒に非難されるのは妥当なのでしょうか?

指摘すべき部分については、具体的に「これこれが間違いなんじゃないか」「ちょっと現実と違うよ」とか、記事や報道を批判した方がいいと思えます。全部が間違っているわけではないのなら、あまり抽象的にレッテルだけ貼って攻撃するのは止めておくべきかと思います。これは司法への不信とか、不満についても同じではないかと思います。ある医療裁判の事件だけをもって、「お前も同じ医者だから批判されるのは当然」と言われて反発するのであれば、同じくマスメディアにしろ司法にしろ反発はあるものなのだ、ということを念頭に批判を展開すべきかと思います。マスメディアの人が抱く程度の疑問に答えられないとか、彼らを説得できない(賛同を得られない)という意見であるなら、それは対象が多くの一般国民であったとしてもやはり難しいことなのかもしれない、ということは考えておくべきでしょう。

そもそもマスコミが、遺族の味方をしているんだ、医療叩きをやっているんだ、というのは、受け手の印象でしかないのであり、普通の人たちにとっては医療裁判や医療事故の記事ばかりを何本も読んだりしている人は少数派ではないかと思います。しかし、医療側の人間であると「とても気にしている」のでそこばかりに目が行くし、「またこんな記事が…、報道が…」という風に感じると思いますけれども、普通の人たちには同程度に知られていないということは少なくないでしょう。マスメディアにとって「医療が敵」なわけではありません。が、そういう勘違いのような感情を持つことの意味はないように思います。ただ、ニュースバリューという点では、関心の高さということからマスメディアにとっては「扱いたい分野」であると思います。

医療側の感情的意見ではなく、有識者のご意見をまず知ることをお勧めします。
権丈慶大教授の医療不信に関する論説を読んでみてください。

こちら>勿凝学問48
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf

<寄り道:
最近の医療ドラマで『tomorrow』の話を取り上げたのですが、フジ系の『コードブルー』というのもあったそうで、先日観てみました。芸能記者?あたりから、山ピーの表情が単調だのという完全な的外れのご意見があったやに聞き及んでいますが、あれは完璧に演出でしょう。そもそも「笑ってはいけない」という役作りでありましょう。それは何故かと言えば、救急ですので「心を凍らせた」のですよ、山ピーは。人が死ぬからです。命が消えてゆくことの辛さ・厳しさ・哀しさ、そういったものを心の底から感じてしまったからでしょう。だから、自分の心を押し潰されない為の「防衛反応」として、心を閉ざしたというか感情を捨てたというか鉄壁ガードで固めた結果なのです。そうでなければ、職務を遂行できないから、でしょう。そういう医師像を描いているのが山ピーで、常に淡々としていなくてはならない、迷いや苦悩の表情といったものを完全に消し去らねばならない、自分の感情を表に出してはならない、ということを忠実に演じているのだと思います。
なのに、これを「表現力が足りない、顔が平板」とか何とか言われたら、役作りにならんわな(笑)。記者さんの鑑賞能力に疑問を抱くね。一瞬の「微かな逡巡」のようなものを、顔つきや目の動きだけなどから演じなければならないので、一番難しいんだと思いますよ。女医が泣くとか、慌てるという方が(怒るでも、笑うでもいいんですが)、まだ演じ方がハッキリしている分だけ容易だと思うけど。
しかし、一緒に観ていたウチの妻は言っていたよ。「あんな美男美女の病院があったら、仕事にならん」と。大爆笑。確かに。可愛い女医さんや看護師多すぎ。医師もカッコ良すぎ。なので、キャーキャーしちゃったりして、用事もないのにやってくる患者とか「○○先生を指名で」とかの勘違いさんなんかも大勢現れそう。ああいう病院があったら、私も一度は行ってみたい(笑)。>


3 遺族のご意見

医療側の中には、遺族に対して厳しい意見や若干問題と思われる意見があるように見受けられます。ある面では正当なのかもしれませんが、「誰かが答えていない」からこそ、未だに解消されない疑問のようなものがあるのではないかと思います。ご遺族に批判しても、問題解決には繋がりません。むしろ、態度をより硬化させるだけかと思います。それよりも、「何を問題としているのか」ということを理解しようとする以外にはないのではないかと思います。

具体的に言えば、「他の凄く上手な医師がやっていたなら、助かっていたんじゃないか」というような疑問に答えることです。
仮にそう質問されたとしても、「判りません、答えようがありません」としか言えないだろうというのは、常識的に考えれば判るのですが、遺族にしてみるとそれが「納得できない」ということなのかもしれません。「実際にその場面になってやってみないと判りません、何ともいえません」ということの意味が、中々伝わり難いのかもしれません。

喩えとして変かもしれませんが、オリンピックの体操競技で鉄棒をやる場合、みたいなことでしょうか。
練習では9割以上成功する「ある技X」を、A選手が本番にやるという場合に、やる前から「失敗しないと言え」ということかな、と。同じ技をもっと上手な他のB選手がやったら、「必ず成功できる」と言ってくれ、とか。どちらも「本番になって、実際にやってみないと結果は判らない」ということなのですが、遺族にしてみれば何故か「いつも練習しているんだから、やる前から必ず成功できると判るはずだ」という意見になってしまうのではないかと思います。いつも出来ているんだから、オリンピックの時にだって出来るのは当然だ、と。つまり、遺族にとって「最善の医療」とは、「オリンピックで金メダルの選手」がある技Xをやればいい、ということなのです。ごく普通のA選手が技Xをやるのは「ケシカラン」と。これは最善ではないのだから、やるべきではない、と。

もしこうしたご意見に沿うのであれば、技Xをやっていい人というのはかなり限られてしまいます。金メダル選手であっても、失敗することは当然あります。競技を見ていれば判ると思いますが、有力選手であっても、思いもよらぬミスをしてしまい、メダルを逃すことは珍しくはありません。なので、いかに「金メダル選手にやって」とお願いしたとしても、百発百中で必ず成功できる、とは断言できないのです。更に、やっていいよ、という人を10人以下に絞ったとして、日本の産科を全部カバーできるのかといえば、それは無理です。つまり「メダル級以外の選手にもやってもらおう」ということにしない限り、日本の出産全部を賄いきれないのです。メダル級じゃなきゃ絶対ダメだ、というご意見なのであれば、それを同時に表明してもらうべきでしょう。

他には、「もしあの時、こうしておけば…」とか「こういう選択をしていたら…」とか、そういう後悔が残っているということなんだろうと思います。「もし別な病院へ行っていたら」とか「手術はやめますと言っていたら」とか、そういうことです。こうした後悔が大きいというのは、人間の特性でもあるでしょうから、中々解消は難しいのだと思います。自分の子を失ったことを思えば、その後悔がどれほどのものかというのは筆舌し難いでしょう。そういう後悔が、頭にこびりついて離れないんだろうと思います。しかも事件が終わるまでは、繰り返し繰り返し蘇ってくるのですから。もう少し突き詰めて行きますと、「自分は悪くなかった」という感情なのではないかと思います。自分の選択が悪かったせいではない、「他の誰かが悪かったんだ、他の原因があったんだ」ということです。そういうことでしか、自分を納得させられないのではないかな、と。

私が乗り物を予約したとします。家族の分も一緒に予約するのです。で、妻が「この日には~があるから時間の都合が悪いわ、他の時間に変えてくれないかしら」と言ったとして、私が「いや、この日は~~だから、どうしてもこの時間に乗らないと間に合わないんだ」と答えたと。その時間に乗ってしまったが為に乗り物は事故に巻き込まれ、自分の子どもが死んだとしましょう。私はどう思うだろうか?
あの日、「時間を変えておけばこんなことにはならなかった」と自分の選択結果を呪うでしょう。「何故あの時…」と、いつまでもいつまでも自分の予約した行為を責めるでしょう。妻の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかった、と悔やみきれないけれども、後悔し続け、自分を責めるでしょう。けれども、「自分のせいじゃない、乗り物の運転手がミスしたからだ!」と、原因を他に求めることができるのであれば、「運転手のせいだ」と責めることで自分の救済となすしかないのではないか、ということです。実際のところ、そういう感情なのかどうか判りません。が、「娘が死んだのは○○のせいだ」と強い権威をもって「言って欲しい」ということなのではないかな、と。

「パイロットのせいだ、だからお前が悪い」ということが社会的にも明確になれば、「こうしておけばよかった」という後悔の念が若干でも軽減され、心が救われるのではないでしょうか。そういうようなことがあるのではないかな、と思います。

専門家である医師たちから見れば、遺族の意見が無理筋であるとか、医療への理解が不十分であると感じたとしても、それをなじるだけでは解決されないので、非難していることの意味が判らない。
遺族の疑問を解消する方向を考えない限り、対立が深刻化していくだけなのであり、「どうして判らないんだ」ということをいくら責めてみてもしょうがない。

なので、遺族の感情を逆撫でするような意見は慎むべきではないか。



長くなったので、とりあえず。



星野ジャパン・準決勝~日韓戦再び(負け試合)

2008年08月22日 12時09分09秒 | いいことないかな
因縁の対決。
韓国は打倒日本と思っているから、先の対決の時に精魂を使い果たしていたと思う。日本は、「この1戦」だけに照準を絞ってきていたので、まだまだ余力を残しているはず。しかも、前回の対決の時には、できるだけピッチャーを使わないようにしたからね。

さて、この策略が吉と出るか、凶と出るかはこの試合結果にかかっている。


初回の立ち上がり、ノーヒットで先制!
「走れる野球」をすかさず実行。今日の得点は、右打者の打撃にかかっていると思う。

けど、今の日本の投手力ならば、この1点で勝てると思う。目指せ完封リレー!
「隅イチ」勝ちでも、勝利は勝利だから。

と思ったら、2回に右打者が連続三振を食らってしまったよ…


青木が3番起用に応えて、ワンヒットで1点追加だ。

そうか、万が一を考えて、延長タイブレークになった場合の起用法か。ワンポイントを出し難くできるかも。
それに、4枚足があると、相手にとっては脅威だし。この中の誰か1人でも出れば、上位に繋げられる、と。なるほど。


4回、まさかのミスから失点に繋がった。やはりこういうミスはまずい。
しかも併殺でランナーなしになってからのヒットはいただけない。早めのスイッチは当然だな。

川上がしっかり抑えた。
そもそも表の攻撃で、僅か8球くらいでチェンジするからだよ。流れが相手に行ってしまうんだよね、こういう時って。

まだ半分あるけど、気を引き締めていけば大丈夫だ。


と思っていたら、追いつかれたじゃないか。
まさか球児が打たれるとは…ま、気を取り直して、ここからだ。

先に点を取るしかないのだから。


信じられん。
全く打ててなかったイスンヨプに2ラン食らうとは…

うーん、岩瀬は米国戦でもピリッとしてなかったから、不安があったんだよね。
星野采配は、こだわりを捨てきれずに、ミスミス勝ち越されたようなもんだな。結果論なんだけどさ。矢野も、イは外のスライダーを今日は全く打ててなかったのに、何故インサイドを要求したのかねえ……。攻め方を大きく変える必要性なんてなかったじゃないか。

7回の同点で気持ちが動揺したのかもしれんが、メンタルが弱すぎだな。
スタートラインに立っただけじゃないか。
なのに、やたらとビビッたようになってしまう必要性なんかないのに。
岩瀬が出てきた所で、おや?とは思ったけど、案の定、こういう結果になり、炎上しましたよ、ってか。甘いな、星野監督は。非情采配でいいんだよ、勝てば。そういう勝負に徹する厳しさが足りなかった、ということだろうな。

ったく、更に凡プレーしてどうすんだ。
ま、この前の再現を見ているようですわ。

「勝手に転ぶ」図ってことだ。




ちょっと追加です。

途中経過の上の文を読むと、かなり辛辣に書いてあるね。
ちょっと酷だったかも。

が、今日は試合をじっくり見ることができず、祈ってあげることができなかったよ(笑)。だから負けたのかも?


敗因を振り返ると、やはり「気持ちの強さ」という以外にはないと思うよ。精神的にタフでなければ、1点差、2点差を勝ちきれないのだ。
日ハムは、毎度毎度打てないので僅差の勝ちが多いんだけれど、それが持ち味なんだ、と思えば、守る時にも気持ちは攻めていかないとダメなんだと思う。

ソフトボールの決勝を見たでしょ?
上野投手は最終回まで、1点差で行っていたでしょう?
ああいう気持ちの強さを持ってなければ、「守って勝つ」ということは難しいと思うよ。チームみんなが、「絶対守って勝ってやるんだ」という気持ちを持っていなければ、勝ち切れないんだと思う。

ひょっとして打たれるんじゃないか、追いつかれるんじゃないか、そういう弱さがあれば、必ずプレーに出る。ミスに繋がる。日本の投手力は、かなり優位なのだから、2点取った時点で「ハイ、いただきました」という必勝パターンだったでしょ。僅か1安打で2得点だったのだから、「予定通り」なんですよ。
しかし、どういうわけだか「見えない敵」に怯え、追いつかれるんじゃないか、逆転されるんじゃないか、そういう不安を大きく育てたのは「自分」なのだ。

失点は、予選でホームランを打たれたイデホに弱気になりすぎたからだと思うよ。歩かせて、失点に繋がったんだよ。しかも韓国はベストを尽くして、2塁に行った時に代走を出したでしょ?
打てるチャンスなんかそうそう来ない、だから、何としても1点を取りに来るという「ワンチャンスを活かす」野球をやった結果なのだ。下位打線が粘って、必死にやった結果、韓国に得点をもたらしたのさ。代打だって、フォークについていけるバットコントロールのうまい選手を選んだからこそ、藤川のフォークに対応できたのだと思うよ。そういう細かい起用の結果、同点を生んだんだろうと思う。

元々は追いつけないんじゃないか、という不安があったのは、韓国の方だったんだよ。リードされていたのは、韓国だったんだよ。

だが、日本チームはまるで「負けている」かのような、無用なプレッシャーをかけてしまったんだ。自分で自分を追い込んでいったのさ。だから、同点に追いつかれた。藤川は、イデホへの投球で球数を投げ、歩かせたことが失点に繋がったのだ。
意地になって攻めにいったのが失点をもたらした、ということ。あそこで冷静になれていたなら、展開は違っていたと思う。

日本にリードされている展開が、最も韓国が怖れていたことだったはずだ。終盤になれば、当然いい投手をつぎ込んでくることが判っていたからだ。
精神的なタフネスがあったなら、1点差のまま逃げ切り、これが「守りの野球」の真骨頂だったはず。その規定路線を忘れてしまっていたのさ。自分たちに持っていない野球の形をイメージしていたからこそ、負けたんだよ。2点あれば十分、という意識がチーム全体に欠けていた、ということ。途中までは、そういう野球をしていたじゃないの。あれで良かったんだよ。やるべきことをやる、それ以外にはないはずなのに。


次は、そういう日本の野球を取り戻して、メダルを持ち帰って欲しい。



女子ソフトの金に泣く

2008年08月21日 23時58分07秒 | いいことないかな
ハラハラでしたが、今日の日本チームは違った。
何と、先に2点リード!

初回のピンチを凌いで、日本が流れを掴んだ。

しかし米国も底力を発揮し、HRで1点差に詰め寄る。

6回裏の米国の攻撃。
1アウト満塁の大ピンチ。

私は、いつもならば大声で声援したりしてしまうのだが、今日は違った。
じっと息を殺して、ひたすら祈りました。

「神様、どうか彼女たちに力を貸して下さい」

上野が力投して、ポップフライ2つでピンチを凌いだ時、嗚咽が漏れました。
涙がこぼれました。

7回表の攻撃。
日本のしぶとく食らいつく攻撃で、追加点をもぎ取る。
これが大きな勇気を与えてくれた。
今大会で2戦あった米国戦でどうしても届かなかった、3点目が入った。

最終回の7回裏。
米国も意地を見せ、ノーアウトでランナーを出す。
ホームランが出ればあっという間に同点になるケース。

しかし、守備で盛り立ててくれた。
ショートがフェンス際の難しいフライをアウト。
次のサードライナーをファインプレーでキャッチ!!

最後はサードゴロで試合終了。
遂に、日本が金を獲得した。

泣いた。
涙が止まらなかった。


日本が延長2戦を戦ったことが、今日の勝利を呼んだと思う。
豪州には申し訳ないが、あの試合で延長でなかったら、今日の勝利はなかったかもしれない。あの試合で、5回分多く攻守を経験したお陰で、チーム全体の呪縛が解けた。タイブレーク方式なので、常にプレッシャーに晒される。特に、先に1点勝ち越されて、追い詰められた状況になって、あそこで同点に追いついて、結果的に勝てたことが大きな収穫となったのだと思う。

悪いプレーやミスは、あの試合で出し尽くしたのだ。
だから今日の日本チームには、固さが消えていた。この前の米国戦のように、焦りや慌てたような感じが消えていた。だからこそ、力が発揮できたのだと思う。

準決勝では、打てそうな気配がまるでなかった。糸口さえも見えなかった。
が、今日は、きびきびと動けていて、それだけ相手への圧力となっていたと思う。
それが2点リードを生んだと思う。

勝敗を分けたポイントは、米国のピッチャー交代直後の5回だったと思う。
HRで1点差に迫り、前回の準決勝では空振りのオンパレードで手が出なかったアボットが登板。簡単に2アウトとなって、打席には「女イチロー」の山田。足元への投球で、山田は身じろぎもせずマウンド上のアボットを睨みつけていた。アボットも負けじと睨み返した。この打席で、山田が鋭い打球で弾き返し、ライナーのヒットを打った。あの時、「今日の日本は何かが違う」という感触があったはずだ。ある種の「恐怖心」のようなものかもしれない。対戦相手にしか判らない、威圧感のようなもの、だと思う。

だからこそ、6回に1、2塁のピンチを背負ったし、7回には追加点を奪われることになったのだと思う。前回の対戦の時には空振りばかりで、バットに殆ど当たっていなかったのに、だ。
打球を転がしてくる。食らいついてくる。これが、アボットにプレッシャーを与えたのだ。7回には、足に打球を当てられてしまった。あのしつこさが、日本チームの身上なのだ。あの1点が大きかった。

最終回、ランナー1塁の場面で、痛烈なライナーがサードに飛んだが、奇跡的なキャッチを見せた。あれも、脳が反応するというよりも、体に染み込んだ無意識の動作―体が勝手に動いてしまうという守備―で、ピンチの芽を摘んだ。ここまで来るまで受けた数百本のノックの成果が、ここ一番の場面でも生きて、それがそのまま発揮されたのだと思う。


こうして日本は、最強の強敵、米国を破ったのだ。
チームとは、こういうものなのだ、と改めて感じた。

米国や豪州の選手と並ぶと、「大人と小学生」くらいにしか見えなかった。
彼女たちが勝てたのは、やはりチーム一丸ということ以外にはない。豪腕投手だけでは勝てない。固い守備で、守りぬける仲間がいるから勝てるのだ。あんなにカチカチになっていたチームが、きびきびと動けるようになった。チームが勝つというのは、仲間を信じるとはこういうことなんだな、と思った。

本当に良かった。おめでとうございます。



星野ジャパンは本気モードではないね

2008年08月20日 22時58分18秒 | いいことないかな
予選の戦い方は、意図的なのかもしれないが、相手側に情報をあまり与えないようにして、細かい野球はやってないかも。


準決勝では韓国と対戦した方がいいと考えているかもしれないので、あんまり勝ちには行かないということかな。決勝でキューバとやった方が確率的にはいいような気がする。


ま、いいんじゃないの。


とりあえず延長だわ…


3番は中島の方がいいんじゃないかと思うけど、どうだろう。
9番川崎、1番西岡、2番荒木、3番中島で、スーパーカートリオで行ってみては。


ちょっと調子が落ちているのは、村田、森野、阿部、で、青木、かな。里崎はちょっとバッティングに期待することが難しいかも。
矢野のリードは光るので、多分出てくるだろう。矢野の配球は、一番オレと合ってる。納得できるね。終盤の大事な所では、多分出てくる可能性が高いかも。


ああ、今、終わった。
負けちゃったけど、予定通り(笑)、だな。



上野は鉄腕を持つ「真のエース」だ!!

2008年08月20日 21時34分12秒 | いいことないかな
オレが応援すると負ける、の法則だったらどうしよう、と思っていた。
負けた記事だけを書かねばならなくなったら、と怖れたよ。


米国戦は延長戦へ。息詰まる投手戦だったからね。

上野が力投し、米国に得点を許さず。
8回裏の日本の攻撃。バントを小フライでアウト。この回、無得点に終わる。勝利を掴み取れるチャンスはこの回だったろう。送りバントがまともにできていない。打者に工夫が見られず、転がす方法を実行しているとは思えない。タイムリーを打たれた後の3ランは失投だったが、配球ミスだった。よく投げたと思う。というか、8回裏でサヨナラ勝ちを何が何でも目指さねばチャンスはなかった。

豪州戦。7回あと1人という場面で、まさかの同点ホームラン。
上野は延長に入っても、耐える。ひたすら力投。
が、味方打線は中々得点できず。
送りバントミス、ランナー飛び出してアウト、再三チャンスを逃す。
しくじった後に、ヒットが出る。
しっかり「送っておけば…」「ミスしてなければ…」という後悔だけが残る。
完全に間に合わないタイミングで、本塁憤死。
考えられないような基本的ミスを続けてしまう。

こうした悪い流れはズッシリと上野に圧し掛かるはずなのだが、信じられない気力で投げ続ける。涙が出ます。
何とか得点してやってくれ、と何度もお願いする。

11回表、遂に勝ち越し点を取られるが、裏に日本も追いつく。
何故、もっと早く得点してあげなかったんだよ、と思うけれど、とりあえず同点にはしてくれたので安堵。

もの凄い精神力の持ち主だ、上野は。
1日で3試合分を1人で投げきった鉄腕の持ち主は、真のエースだ。

でも、最後は本当に勝てて良かった。
おめでとう。
再び米国への挑戦権を得たので、最後は思い切りのよいプレーをして欲しい。



福島産科死亡事件の裁判・その6(追加あり)

2008年08月20日 10時17分57秒 | 法と医療
ニュース速報で知りました。

無罪判決が出たようです。
詳しいことはネットでのニュース配信後に。

とりあえず。



判決要旨が出ていたので、追加です。

asahicom(朝日新聞社):福島県立大野病院事件の福島地裁判決理由要旨 - 社会

(一部引用、丸数字は筆者による)

●医学的準則と胎盤剥離中止義務について

(中略)
①本件ではD、E両医師の証言などから「剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する」ということが、臨床上の標準的な医療措置と理解するのが相当だ。

(中略)

②医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反した者には刑罰を科する基準となり得る医学的準則は、臨床に携わる医師がその場面に直面した場合、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性がなければならない。なぜなら、このように理解しなければ、医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬(そご)があるような場合に、医師は容易、迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになり、刑罰が科される基準が不明確となるからだ。

(中略)

③また、医療行為が患者の生命や身体に対する危険性があることは自明だし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難だ。医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官が、当該行為が危険があるということだけでなく、当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならず、このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠だといえる。

 しかし、検察官は主張を根拠づける臨床症例を何ら提示していない。被告が胎盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されているとはいえない。

 本件では、検察官が主張するような内容が医学的準則だったと認めることはできないし、具体的な危険性などを根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできず、被告が従うべき注意義務の証明がない。

=====


ポイントと思った部分を順に見てみます。

<①の部分について>

検察側の根拠となるべく「鑑定医」の証言は採用せず、弁護側証人である2名の医師の証言を採用。『臨床上の標準的な医療措置』についての基準を示したものである。その採否により、医師が「どのような義務を負うのか」ということが分かれることになるので、この判断は重要であった。

弁護側が鑑定に真っ向から挑戦していなければ、検察側証人(鑑定医)の出した意見が採用され、負けていたかもしれない。弁護方針は正しかったものと思う。


<②の部分について>

・医学的準則は一般性、通有性がなければならない:
一般性及び通有性とは、「臨床医師がその場面に直面した場合、殆どの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度」のもの

つまり、「こういう場面では、殆どの者がこういう医療措置を行っている」という程度の一般性及び通有性が認められるものであるはず、ということだ。だから、「その程度の医療措置を行う」ことが、医師に課せられる「義務である」ということになる。行為基準の義務とは、要すれば「殆どの医師がそうしているよ」というものである、ということであって、所謂「神業的な行為」を基準とはしていない、ということだ。この判示は大きな前進であると思われる。


<③の部分について>

ア)当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならない
イ)このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠


まず第一に、より適切な方法が他にあることを立証するべき、ということ。検察側立証ではそれが不十分だった、と。
そもそも「より適切な方法が他にある」ということを示す為には、上記②の検討で見たように、「一般性及び通有性のある医療措置」として提示しなければならない、ということ。平たく言えば、「他にこういういい方法があるよ」と示せるでしょ、ということだ。
で、その「他にあるいい方法」というのが臨床上一般性及び通有性があるのであれば、「そういう臨床例が実在しているでしょう、だから、その実例を提示してごらんなさい」ということだと思われた。なので、「根拠となる相当数の臨床症例」があるならそれを提示すべき、と。

最後のところは、検察側立証ではア)やイ)がなかった、なので検察側が主張した医療措置というのは「医学的準則」に該当するとは判断できず、よってそのような義務を負わせることはできない(=注意義務違反を問うことはできない)、と。



かなりよく検討された判決だと思いました。
いずれ全文が出るかもしれませんので、出たら拝読したいと思います。



超人フェルプス

2008年08月18日 18時57分04秒 | いいことないかな
8冠達成って、事も無げに予告して実現した。

世界新を7つというのも驚異的だ。

それに運も味方したし、チームメイトのお陰という部分もあった。いずれが欠けても達成できなかったろう。

100分の1秒の極僅差だった100バタと、タッチの差でチームメイトが逆転した400自リレー(だったかな?)は運がなければ金を逃していたかも。リレーはアメリカチームはどの種目でも強いから。


それにしても、こんだけ泳いで全部勝つもんかね。
他の選手は、本番に合わせてコンディションをどうこうとか、凄く気を使ってやっていると思うんですよ。けど、フェルプスだと、毎日何本も「本番」「本番なみ」みたいなことだから、照準を合わせるも何もないんだろうと思うのですよ。決勝だけでも「8本」あるんですからね。
ひたすら泳いで、寝て、食ってまた泳ぐ、みたいな感じなのかな。
まるでイルカさんみたい。


フェルプス1人が取った金メダルの数は、日本がここまで獲得した金メダル全部の数よりも多い、ってのも、何というか悲しいやら羨ましいやら嘆息やらで、複雑な心境。それほどフェルプスは強い、ってことかな。



9秒7の壁を超えたボルト

2008年08月17日 00時41分27秒 | いいことないかな
超人的な記録だな。
しかも、最後はあんなに流してこの記録かよ!、と誰もが思うのではないかな。

死ぬ気で全力疾走しても超えられない壁というのがあるのに、あれほどの力を見せられると、やる気を無くすね。同じ人間とは思えないかも。

パウエルとかゲイとか、有力選手はメダルに届かなかったのも印象的かも。
やっぱ、オリンピックで勝てるというのは、本当に大変なことなんだね。

それにしても、驚愕の記録だ…



日韓戦~五輪野球

2008年08月17日 00時17分36秒 | いいことないかな
一言で言えば、自滅だった。

今日の和田の出来は良かった。同点ホームランを打たれるまでは、9奪三振、無失点の力投。
4番新井の一振りで先制2ランが出て、日本のムードはかなり良くなった。油断した、とは言わないが、直ぐに追いつかれるのはあまりに痛かった。

7回先頭を歩かせてノーアウト1塁の場面。韓国の打者は大柄なホームランバッターだったので、あれは阿部の配給ミスだったろう。早々に追い込んでいたので、インサイドを2球連続とかボール球で攻めた後から外に行くなら判るけれど、最後に中に投げさせたのはマズかった。外を攻めてフォアボールを怖れて、インサイドにスライダーを要求したのかもしれないが、外から中に入る棒球になってホームランを打たれた。あそこしか打てない、という球になってしまった。あれなら、最後まで外一辺倒で行っておくべきだったと思う。あれは和田を責められないだろうと思う。

で、問題の9回。岩瀬が出て2アウトまで取り、ランナー2塁のままの場面。打者にフォアボールで歩かせ、2人のランナーを背負うことになったのだが、あの打者を歩かせたのが3失点に繋がった。あの打者はバットを殆ど振らずに待っていて、ボール球を振らせようというのが意味のない攻め方だった。追い込んでからの攻めが無駄球となってしまった。

で、代打に勝ち越しヒットを打たれたのはしょうがないとして、その後にバントの小フライでエラーが出た。ピッチャーが取るだろう、と村田は考え、岩瀬はサードが取るだろうと思ってしまって、無駄に追加点を与えた。その後に投げなくてもいい2塁への悪送球で決定的な3点目が入ってしまった。2点リードとでは大違いだからね。


9回の日本の攻撃で、1点を返してなおもノーアウト2、3塁だったが、あそこで韓国に5点目が入っていなければ多分日本は悪くても同点か逆転可能だったろう。だが、2点あったので、2塁ランナーが還らなければ同点にならない、ということがあって、逃げ切られたと思う。打者にしてみると、「外野フライでも同点だ」という場面と、「ヒットを打たなくちゃ」と固くなる場面では、気楽さというかプレッシャーのかかり具合が全然違うと思うからね。

阿部に左のワンポイントを当ててきて、韓国側の采配は正しかった。その後に軟投派のスローボール使いを投入して逃げ切った。GG佐藤は、「日本がチャンスで攻撃している」という気分ではなくなっており、自分が勝手に追い詰められていたと思う。まあ普通に打っても、打ち損じる確率が結構あるから、あそこでタイムリーを打ってくれ、というのは難しかったかもしれない。

が、9回に4-2で回るのと、5-2で回るのでは全然違うのだな、と思った。1点差ならば守備側の守りも難しくなるからね。

いずれにせよ、あの時、ノーアウトで1点取られてなおも同点のランナーが2塁にいるのだから、プレッシャーを感じていたのは韓国側だった。そこに集中できなかったのは、勝利への執念の違いが出たということではないかと思う。ま、自滅した、ということ。



卓球は惜しかった

2008年08月16日 21時53分24秒 | いいことないかな
いやー、男子の試合は痺れた。


男子はドイツとの準決勝。
シングルス連敗で0-2に追い込まれた。

Yahooスポーツ - 北京オリンピック特集 - ニュース一覧 - 日本はドイツに2-3で惜敗、敗者復活2回戦へ…卓球男子


ダブルスで水谷・岸川がいい試合をして、初勝利をもたらした後のシングルス、第4試合。

韓陽が2ゲーム連取されて後がなくなった。第3ゲームにリードするも終盤追いつかれ、逆に相手にマッチポイント。見ている方が「もうダメか」とヒヤヒヤする。
が、これを凌いで次のゲームへ。第4ゲームも大接戦。が、このゲームも取って最終ゲームへ。

このゲームももつれて相手に幾度かマッチポイントが……。
これを何度か凌ぎ、遂に勝利!!
凄いゲームだった。ポーカーフェイスの韓陽が、勝負所で勇気をもって厳しいリターンを何度か打ち、勝利を手繰り寄せた。まさに団体戦のなせるワザ、と言っていい。


最終試合の岸川。
互角の大接戦。上位選手に対して、臆せずに素晴らしい試合。
2ゲーム取られて追い込まれたものの、弱気を乗り越えて打っていく。
素晴らしい精神力。
先のダブルスで好ゲームをしていたので、良いイメージが残っていたのかもしれない。が、自分にかかるプレッシャーを考えれば、大変なことだ。それでも2-2のタイに追いつく。最終ゲームへと進んでいった。

が、最後は僅かに及ばなかった。
いやー、惜しかった。負けたけれど、大健闘だったと思う。それに、2連敗した後でも決して諦めず、ダブルスとシングルスを競り勝ったのは大きい。ズルズルと引くことなく、打って挑んでいった。

それにしても、ドイツチームは、カッコ良すぎじゃね?(笑)
なんであんなイケメンが卓球を?
他にもやりたいスポーツなんかが色々とあるだろ?
にも関わらず、「卓球」。(笑)

ありゃ、不公平だな。
全員がイケメンでスタイルも良い、まるでモデルさんみたいに思えたよ。
というのは冗談ですが、ドイツチームには金を狙ってもらいたいね。


女子も香港に好ゲームで勝ち残ったので、男女アベックの銅メダルを目指して頑張って欲しいね。にしても、卓球団体戦は結構燃えるね。チーム戦の良さが出ていると思う。


番外編:
ウチの子が岸川を見ていて、「あの、何ていったかな?織田裕二のモノマネの人。似てるよね」とか言ってた。そうかもな、と思った。が、見た目は卓球に関係なくね?(笑)




『ダークナイト』観てきたよ

2008年08月15日 21時16分45秒 | 俺のそれ
今日は家族でお寺参り。

その後、時間があったので、急遽妻と映画に行くことに。
子どもは元々予定が決まっていて、途中で別れたのだが、「じゃあどうしようか、家に帰る?」とか何とか話しているうちに、気になる映画があるから、ということで映画館へ。

妻が観たいと言っていたのは、何と『クライマーズ・ハイ』だった。
でも、映画館に行くとスクリーンの関係上、夕刻だけの上映となっていて、時間が合わないので、別な映画をということになった。


私が「ダークナイト」にしよう、って言ったら、

「ええっー?!また、あのオタクみたいなやつでしょ?」

とか言うので、それは『イノセンス』だったろ、今度のヤツは『スカイ・クロラ』だよ、と内心思った(笑)。
アニメじゃないよ、「バットマン」の映画だよ、と言ったら、

「ええーー、それヤダな、もっと別なのないの?ポニョでもいいよ」

とか言うので、それじゃダメなんだ、子どもが一緒の時かDVDでもいいからさ、とか何度も説得し(笑)、強引に「じゃ、ダークナイトでいいね」と丸め込んだ。


私自身が「どうしても観たい」と強く思っていたわけではなかったので、いうなれば「補欠候補でも、ま、いいか」という程度でしかない選択だった。評判がいいらしい、ということは映画批評のネット記事の見出しなんかを見て知っていたので、大外しはないだろう、とは思っていた。

元々妻は海外映画が苦手だ、というか、好まなかった。つまらなくなると映画館で寝る女ですからね(笑)。あと、派手なアクション映画とかも「疲れる」とか言うし。なので、観る前の妻は、ちょっとゲンナリしていた感じだった。


で、結論から言いますと、大満足の映画だった。
外国映画を観たがらない妻でさえ、「面白かった」と太鼓判。


内容とか全然知らなかったから、予想以上の出来栄えに感動した。

観た人たちには、様々なことが心に浮かんでくるだろう。
人間、社会、大衆、弱さ、正義、……
自分の中に、何があるのだろうか。


あのコインに象徴される、表と裏。
善と悪、光と闇、みたいに、意識させるように、うまく描かれていた。


「キカイダー」(笑)。
火傷と皮膚移植、そして、例のコインの仕掛け。

自己犠牲、究極の選択、沈む船。


自分には、それがピンと響いてきました(笑)。


本当にいい映画だった。
超オススメです。
なんたって、ウチの妻が「良かった、面白かった」と言うくらいですから(笑)。



責任感の欠如とエラー

2008年08月14日 16時16分02秒 | 社会全般
こちらでの議論>
刑事免責主張に関する私なりのまとめ(その2) - 元検弁護士のつぶやき


横入りで恐縮ですが、とても気になったので。コメントに書こうと思ったら、長くなったので、コメント欄に書くのもちょっと問題かな、ということもあり、記事にしました(言い訳が長い…)。


「???さん」は(大きなor取り返しのつかない)ミスを生じるのは、医療者に責任感や緊張感が欠けているからという理解であり、そういう主張(前提)だろうと思います。
No.134のコメントに
>投薬ミスが起こるということは(しかるべき時に)緊張していないということであり、(ミスの質が低ければ)責任感がなかったと言われても仕方がないと思う。
とありますので、大体そういうことだろうと思います。

まず議論の仕方として、自分がこう思う・信じるというのは自由でいいですが、その主張を他人に同意を求めるとか納得してもらうには手続が必要かと思います。少なくとも、自分の主張が妥当なものであるかどうかを確認しながら、双方の合意を築きつつ進む必要があります。それができないといつまで経っても、「信じない」とか「話せない」ということで、何ら得ることがありません。それぞれの主張について、事実確認を積み重ねることがまず必要です。


例示で申し訳ありませんが、交通事故で書いてみます(数字は全くの適当であり統計数値とは違います)。
ある人が「死亡事故を起こすようなドライバーは責任感に欠け暴走族みたいなドライバーだからだ」と主張(以後便宜的に「主張1」と呼ぶ)したとします。この主張の正当性を確かめることがまず必要ということです。事実確認とは、警察の交通事故統計のような「客観性のある」データ(根拠)から行うべきで、自分の考えや印象といった主観的評価によるものは、とりあえず除かれるべきです。
事実とは、例えば「1年間の死亡事故者数は6000人」というようなものです。ある人が「オレが見た交通事故のドライバーは全部暴走族だった」といった「特殊な事例」だけを持ち出すのは、例外的な場合です。

で、事故統計から
・ドライバーの無事故無違反者は約25%
・ドライバーは60歳以上の人が約40%
という客観性のある事実が存在するとしますと、暴走族が死亡事故の大半(例えば9割以上)を起こしているわけではない、ということが予想されます。

「事故ドライバーが暴走族の一員で検挙歴があるか構成員だった」とか「ドライバーの95%が25歳未満だった」というような事実を立証しないと上の「主張1」が正当であるとは言えません。それとも、「60歳以上の暴走族がいる」とか「無事故無違反の暴走族が多い」みたいな事実を提示するとかでしょうか。こうした条件は通常の社会常識範囲では「極めて考え難い」ということが推測でき、すると、やはり「主張1」を補強できる根拠というものがないのではないか、ということが判るでしょう。「主張1」の根拠が崩されてしまう、ということです。なので、死亡事故ドライバーは必ずしも「暴走族だからだ」とは言えない、ということが合意されるでしょう。

また、「責任感がある」とか「責任感に乏しい」という評価についてですが、これを客観的に調べる(認識する)手法というものは、どのように考えるでしょうか。小さな子に家事の手伝いをさせた時、皿を落として割るのは「責任感がないからだ」とか「緊張感がないからだ」というような批難をするでしょうか?自分の子に向かって、皿を割ったら「お前はタルンデいるからだ、緊張してやれ、責任感がないからそんなミスを犯すんだ」みたいに言うのでしょうか?そういうわけではないんですよ、ミスをするというのは。「子どもの手の大きさに比べ、皿が重くて持ち方が悪かったから」とか、「持って運ぶ(歩く)時バランスに気を取られてしまい、滑り落ちることが事前に予期できなかったから」というような、原因というか要因があるわけです。別に「責任感の大きさによって、皿が落ちやすくなる」というわけではないのです。
そもそも責任感の有無(大きさ)、緊張感の有無といった指標は、客観的に評価できるものではありません。あくまで傍目から見た時の主観でしかないのです。疲労困憊や強ストレス状態の時と、緊張感(集中力)のなさというのは、一体どのように明確に区別できるでしょうか?もしも客観的に評価できるのであれば、それを提示するべきでしょう。それは「主張している者」が立証するべきなのです。

事実を積み上げるとは、「死亡事故者数は6000人」「無事故無違反者は25%」「60歳以上が40%」といったことを明らかにすることであり、これは死亡事故原因とかについて「何かを語る」ものではありません。「ミスの理由」も教えてくれません。「~したのは~だからだ」みたいな要素を含んでいない、ということをまずお考え下さい。事実確認をしてはじめて、その後に「どう考えるか、分析するか」という話が出てくるだけです。


次に、エラーについて考えてみます。また例示ですみませんが、ある電気製品を考えてみましょう。
電気製品Pの製造工程では、1万個について10個程度の不良品が発生することがあるとします。発生頻度はバラツキがありますが、検査過程Qでこれを除外しているとします。製品エラーは100個中に5個あることもあるし、10000個に1個しかないこともあり、決まってはいません。検査Qではエラーを検出して不良品を除外するのですが、この検査を潜り抜けてしまうことが有り得ます。すると、市場に不良品が出回ることになりますね。この検査で10個程度の不良品を1個くらいのレベルまで低減できるとします。つまり市場には1万個に1個くらいの不良品が出回ることになります。

さて、この市場に出回る不良品というものを「ゼロにできる」かどうかを考えましょう。完璧というものはないので、無理かもしれませんね。だとしても、限りなくゼロに近づけることは努力次第かもしれません。すると、製品Pを1000万個につき1個しか不良品が出回らなくできるかもしれません。製造工程では1万個に10個の割合で発生しますが、検査過程Rによってこれを1000万個に1個とする、ということです。精度を1万倍に上げる、ということですね。運悪く市場に出回ってしまった製品については、保証書付きにしておくので交換に応じるということになっていることが多いでしょう。

ここまでで、
・エラーはゼロにはできない
・検査でかなり除外可能かもしれない
・検査を潜り抜ける製品はある
・不良品は交換される
ということが言えそうです。(言えそう、というのは、個人的意見とかを含むものではなく、単なる記述であるという意図です。夏休みにありがちな「アサガオの観察日記」でいうと、「芽が出た」「葉っぱは3センチのびた」というようなものです。「3センチのびた」のは「気分が良かったから」とか「やる気満々だったから」とか、そういう個人(感情)的意見を含まない、ということです。)

大事なのはここからで、「不良品の交換は無償」だと信じているでありましょうが、これは製品Pの価格に転嫁されているものです。企業が製品Pを販売するにあたり価格決定を行うには経費全部を勘案するのは当然で、製造エラーの発生率とか交換率などから想定されるコストなんかを全部含めて考えねばならないのです。なので、不良品を検出する検査過程のコストも、不良品の無償交換コストも、価格転嫁されているものである、ということです。これは不良品じゃない製品Pを購入した人であっても負担するものであり、平たくいえば「製品Pの購入者全員で負担」していることになるのです。

また、製品の検査精度が1万個中1個の不良品が出回る程度である場合と、1000万個中1個である場合では、コストが変わってきます。一般に精度を上げれば上げるほど、多額のコストがかかっていきます。重さであろうと、距離であろうと、何らかの測定精度を上げれば、そのコストは跳ね上がっていきます。簡単な例で言えば、「100円で買える定規」で測定できる1mmと、測定精度が1000分の1mmの定規で測った1mmでは、コストが数百倍か数万倍か判りませんが、違います。そういうことです。製品Pの不良品を除外することの精度を上げていこうと思えば、努力できなくはないですが、その為のコストは大きく跳ね上がることになるのです。その検査コストは当然のことながら、購入者が払うことになります。ここで、検査コストが検査Q場合と検査Rの場合では10億円違うとします。1000万個を販売すると、市場に出回る不良品は検査Qを実施する場合には1000個、検査Rだと1個ということになります。不良品の交換コストを1個につき1万円だとすれば、検査Qと検査Rの差は999個ですので交換コストは999万円にしかなりません。ならば、検査Rを採用せずに検査Qを実施して、不良品が出た場合には「無償交換」した方がお得なのではないか、ということが考えられます。製品Pの販売量が10億個以上であると検査Rと検査Qではほぼ差がなくなり、交換コストと検査コストが同じくらいになりますけれども、そこまで売る(売れる)想定でなければ、検査Qを行って無償交換を選択した方が有利だ、ということです。製品Pの購入者全部も、検査QとRとの差額10億円分を価格に転嫁されないので、「購入者全員が得している」ことになるのです。

まとめますと、
・エラーを減らす精度を高める努力は可能
・その為のコストは増える
・ゼロに近づくにつれコストは跳ね上がる
・そのコストは消費者が負担する
ということです。


翻って医療を考えますと、「ゼロに近づける」為のコストを「全国民が負担する」という決意というか同意が最低限必要です。これは医療者の責任感の大きさとか、そういうことには無関係のことです(まさか責任感があれば不良品をゼロにできる、とは主張しませんでしょう?)。製品Pのように「供給側が価格決定できる」という仕組みにはなっていないので、医療制度の中でコスト負担を国民にお願いすることになります。これが受け入れられなければ、医療側が勝手に「高精度の検査Rを実施します」ということにはできないのです。ご指摘の投薬ミスについても同じで、チェック体制を整えたりエラーを防ぐシステム構築などによって、エラーの発生確率を大幅に下げることは不可能ではありません。が、その為のコストは現在の医療制度に比べると大幅に増加します。そのコストを国民が負担しない限り、「高精度検査Rの実施」は到底不可能である、ということを認識することがまず必要です。

医療は製品ではなく人間の命に関わるものなのだから、エラーが低くなければならない、というのは当然のご意見です。ならば、エラーが10000回に10回程度発生し、チェック体制でこれを10分の1に低下させられる社会か、1000分の1に低下させられる社会かを選択するとすれば、後者ということになるでしょう。では、その選択を行うのは誰でしょうか?結局は、国民なのです。高精度のチェック体制を設けましょう、その為のコストを負担しましょう、という決意を国民が持たない限り、実現できないのです。


デパートの包装係の仕事を考えてみますと、仮にベテランのAさんは1個包装に3分、普通のBさんは5分かかるとします。一度でも包装紙に折り目をつけるとそこで包まねばならず、誤って余計な折り目がついてしまうとエラーとしてやりなおさねばなりません(幾度か畳み直すとグチャグチャになるので包装としては失格です)。
この2人の違いは、緊張感とか責任感の違いによって「誤った折り目」がついてしまうでしょうか?エラーによるやり直し個数は、「失敗しちゃいけない」と考えているかいないかで、大きく違ってくるでしょうか?
多分、ベテランのAさんなら「包みなおし」になっていまう個数は極めて少なく、たとえ「誤った折り目」がつきそうか少しついてしまってもうまく中に織り込んでリカバリーできたりするという能力もあるので、Bさんよりも円滑に仕事をこなし個数も多く包めるし「包みなおしが少ない」という結果となるでしょう。Bさんは「失敗しないように」と思って慎重に包んでいるにも関わらず、Aさんよりも多くの個数を包みなおしをすることになるし、捌ける数もずっと少ないでしょう。

「投薬ミスは重大な失敗をしないという責任感を持っていないからだ」という主張をするのは、まるでBさんが「やる気がない、責任感もない、緊張感がない」という『原因』によって「包みなおしが発生するんだ」と言っているのと同じようなものです。そうではなく、錬度の問題とか、ミスを少なくするトレーニングを積んでいるとか、経験数とか、そういった違いによるものであり、「誤った折り目」はAさんもBさんも完璧にゼロにはできないでしょう。ただベテランのAさんは鼻歌まじりに包んだとしてもミスは少なく、Bさんは集中して真剣に取り組んでいるのに包みなおしが発生するのです。
恐らくAさんの仕事の中には、「誤った折り目」を減らすためのシステムが組み込まれているのです。包みの重さの感じ方とか、紙との位置関係とか、手の返し方とか、一瞬で折り目をつける指捌きとか、何が該当するのか判りませんけれども、そうした全ての要素です。少なくとも、「間違ってもいいや」と思っているかどうかで「包みなおし」となる個数に大きな違いを生むとは思われない、ということです。

それから、「Aさんクラスの人」を作り上げるためのコストがかかるので、それを考えておくべきでしょう。そう簡単に易々とは「Aさんクラスの人」が生み出されるわけではないのです。誰かが教育コストを払い、育て続けなければ誕生しません。コスト負担は利用者(消費者)なのだ、ということは考えておくべきでしょう。



北島は超人的ハートの持ち主だな

2008年08月14日 12時15分22秒 | いいことないかな
いや、連続2個金メダルってのは、人間ワザじゃないな。

本当に凄すぎです。
プレッシャーに負けてもそれが普通の人間なのに。

100の結果が北島のイメージ通りだったから、200の金は確信できていただろう、とはいえ、勝負は何があるか判らんからね。強いです。本当に。


後は、メドレーリレーには期待がかかると思うけど、男女とも自由形の800リレー決勝に残ってるんだよね。
北島効果?なのか判らないけど、よく頑張っていると思う。
松田の銅メダルも立派だよね。自由形の日本新出してたし。