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無知が日本を不幸にする

2008年12月17日 21時45分45秒 | 経済関連
「転び」経済学者の話に関連して、もう少し書いておきたい。
ちょっとした話題になっていたのは、こちらの記事だ。
100年に1度の危機に、ケインズはよみがえるのか?|野口悠紀雄 未曾有の経済危機を読む|ダイヤモンド・オンライン


いやはや、経済学者自身が「マクロ経済学はくだらない」と言い放つ人がいようとは、露とも思わなかった。これまで書いてきたが、日本の経済学の中では、流派ごとの争いみたいなものが盛んなだけで、学術的な進歩というものには互いに貢献してゆくということがないのように見えるのはこの為だ。これはまあいい。

野口氏の記事はご自身でよく読んでいただきたいが、とても不思議な部分を挙げておきたい。

『経済学者が持っているモデルは、きわめて「大まか」なものである。その大きな理由の1つは、モデル上の概念と実際の統計データが必ずしも正確に対応しないことである。たとえば、「純輸出」という概念が出てくるが、これは貿易統計における貿易黒字なのか、それとも財サービスの黒字なのか、それとも経常収支の黒字なのか。どれを取るかで、結果の数値はずいぶん違ったものになる。これは、自然科学の場合には存在しない問題だ。あるいは、「経済規模」というが、これは、GDPなのかGNPなのか? かつてはGNPを使っていたのをGDPに変えたのだが、日本企業の海外での経済活動が拡大したいまでも、GDPを考えていればよいのか?』

GDP統計の意義とか目的に対する適合性とか、そういうことへの疑問を生じるのは単なる素人であってもよくある話だ。野口氏がそう言ったとしても有り得る話かな、と思うが、「純輸出」や「経常収支」とかの定義については決まっているものなので、比較する時に統一されていればいいだけの話である。GDPで見るなら時系列でも国ごとでも統一的にGDPで見ればよいし、昔のようにGNPで見れば統一的にGNPで見ていけばいいだけの話である。

私の理解としては、GDP統計というのは経済学における「モデル」などという話ではなくて、極端な言い方をすると単なる「おこづかい帳」であって、記帳の仕方に関する取り決めを行ったものが数値として出されているだけである(参考記事)。集計の仕方や精度の問題というのはあると思うけれども、会計帳簿の細かい決まりのようなものと同じようなもので、複式簿記ということで記載方法が決まっているのと同じことでしかない。会計については詳しく知るわけではないが、「経済学モデル」という話なんか何もなくたって、税理士さんはきちんと仕訳して資産が負債+資本(+利益)と厳密に一致するようになっている。それと何が違うというのであろうか。

よく賃金を上げるには付加価値がどうとか、生産性が云々とか言うわけですが、これもGDP統計の仕組みの話というだけであって、よく考えてみればよいのに、と思えるのだ。

 GDP=国内総産出額-中間投入額
  =雇用者報酬+営業余剰+(間接税-補助金)+固定資本減耗 

つまり、雇用者報酬が増えれば、GDPは増える(企業の営業余剰を削ってしまうだけではダメだけど)。雇用者報酬+営業余剰は国内要素所得であり、分配することを考えると、労働者が取るか、企業が取る(配当は株主)が取るか、ということでしかない(厳密には非企業の受取る財産所得が営業余剰に含まれている)。今世紀以降には株主に配当する割合が増加した一方では、従業員の賃金を削ってきたわけだ。合計額が同じなら、GDP統計上では同じ。

ある財の販売価格の構成が次のようになっているとしよう。

 価格100円=人件費20円+原材料費40円+その他費用30円+利益10円

雇用者に賃金を1%増加させると販売価格が1%増えると思うか?答えは否だ。販売価格を1円値上げすると、人件費を21円にする(5%増!)か、人件費を0.2円だけ増やし利益が微増かだ。販売個数が若干落ちたとして、利益が横ばいかもしれない、という程度である。生鮮品は価格改定が頻繁に行われるのに、他の商品ではそうならない必然性というのはあまり感じられないが。仮に、毎年平均で価格が0.2円ずつ上昇したとしても、10年後になったって102円でしかない。原材料高や為替など他の要因で大幅値上げとなったのに、人件費捻出の値上げがそれほど反社会的と考えられるのだろうか?(笑)
もしインフレ率が4%くらいあると、ほぼ自動的に毎年4円以上の値上がりになるんですがね。昔の「預金金利が5%」という時代には、そうやって物価上昇があったからこそ5%だったんですから。これで人件費分の僅か0.2円を上げられない、なんてことはないはずだ。


次に生産性向上ということを考えてみよう。最も基本的な労働生産性というのは次の式で表される。

 労働生産性=付加価値額/労働投入量

生産額=数量×価格と考えれば、

 付加価値額=生産額×付加価値率

付加価値率は上述した100円の製品の例で言えば原材料の投入を除いた60円なので0.6ということになる。つまり、

 労働生産性=生産額×付加価値率/労働投入量
=(数量×価格)×付加価値率/労働投入量

ということになる。価格が上がれば労働生産性は上がるということになるのである。価格を構成する賃金を引き上げると労働投入量が全く同じでも、労働生産性は向上するということになるのだ。また、賃金が増加することで価格に占める原材料などの中間投入額の割合が相対的に減少するので、付加価値率は改善することになり、それもやはり労働生産性が向上するのである。

100円の例でいうと、人件費が25円となった以外は他が全く同じ割合であるとすれば、価格105円のうち中間投入額40円は40%から約38%に減少、つまり付加価値率は60%から62%に改善するのだ。販売数量が同じなら①価格上昇分の増加要因と②中間投入額割合の相対的減少による付加価値率改善、という効果が考えられるのである。価格上昇で販売数量が若干落ちたとしても、生産額が大幅に減少しない限りは、賃金引き上げで労働生産性が向上する。


今度はもっと単純な例で考えてみよう。

よくオークションで絵画取引が行われているが、ピカソの絵を一度も見たことのない人にとっては、一枚の絵が数十億円とか百億円を超えるということが判らないのではないかと思う。価値なんてものは、案外と適当なのだ。希少性と、欲しいと強く願う人が誰か1人でもいれば、それで十分なのである。

ある画家が一枚の絵を描いて、5億円で売れたとしよう。今年の売上はそれだけだった。すると、この画家の労働生産性とはどうなるのだろうか?絵の具やその他用具類の中間投入額なんて微々たるものでしかない。労働投入量にしても、毎日10時間くらい描いていたとして、それはまあありがちな仕事時間なのではないかな。この絵の価格が5億円というのは、ある意味幻想みたいなもので、他の著名な画廊経営者が「ああ、これは駄作だな」と言ってしまう程度のものでしかないかもしれないのだ。でも、生産額が5億円なので、労働生産性は高い仕事、ということになるだろう。付加価値とか生産性なんてものは、そういうものなのだ、ということ。

これに類することは世の中に多々あるのである。ある建設プロジェクトの設計引き受け額が「この案件は3億円で受けます」という時に、3億円の価値かどうかなんて、特に決まっているわけではないのだ。設計担当の人件費とかその他モロモロの経費とかそれにプラスして利益が上乗せされてくるだろうが、設計料なんて特別に決まりがあるわけでもない。著名な建築家だとかだとべら棒に高いかもしれないし、無名の若手ならずっと安いかもしれない。けど、価格が高ければ当然付加価値額は上がり、半分ボッタクリみたいなものであるとしても、それはそれで労働生産性が高い、ということになるのだから。

全く同じ壷を売るのに、口がうまいやり手の女性が1個100万円で無垢なダサ男に売るのと、道端で1個1000円で売るのでは、商品本来の価値なんて同じであろうと、やり手の女性の方が労働生産性は圧倒的に高い、ということなのだよ。付加価値なんてものはそういう面があるのだ、ということ。日本人というのはあまりに真面目すぎて、ついついお客様に尽くしてしまう、顧客を考えて自らの身を削ろうとしてしまう、みたいなことですかね。同業者間の競争にしても、極めて過酷になりがちなんだろうと思います。もうちょっと、「これだけの仕事をしたので、こんだけもらいますね」というような面があるべきなのです。


最後に、野口氏の「ケインズの時代に国債なんてなかった」という驚異の発言にはビックリです(笑)。
イギリスではもっと前からコンソル債が発行されており、欧州での信用度は最も高かったでしょう。現代で言えば、米国債を海外諸国が大量に買っているようなもので、米国というのが経済面でも国の信用という面でも、最も高い信頼を得ているから、ということに他ならないでしょう(今後もそれが約束されているとは誰にも判らないでしょうが)。

コンソル債を知らなければ、利子率の話が判らないということになるでしょうね。それで経済学者を名乗っていても大丈夫なのですから、日本の経済学の世界というのがどういったレベルなのか、というのは推して知るべしということでしょう。



漢字一文字で表せば

2008年12月17日 14時49分00秒 | 社会全般
「責任です」(by 安倍元総理)ではありません。
以前、就任直後の心境を尋ねられた時、一文字で、と言われたのに「責任」と答えてしまって、受け狙いとか言われたのとは関係ありません(笑)。


毎年書かれる例のやつですが、今年は「変」だったそうですね。オバマ候補の「change」とも相通じるかもしれませんね。

変と聞けば、まあそうなのかな、と思いましたが、自分の中ではもうちょっと違う感じかな、と。あっ、漢字か。ダジャレだ。


様々ご意見はあろうかと思いますが、私としては、

 「転」

を推したいと思います。


判り易いのは、オバマ次期大統領の誕生でしょう。世界的にもインパクトが最も大きかったのではないかと思っています。米国が環境重視に転換したことも意外性がありました。

日本はというと、福田政権「転覆」となって海外から笑われてしまいました。政治の世界では何事も本末転倒といいますか、時計の針の進み方もやるべきことも世間とはズレがありました。福田さんや小泉元総理は、「転進」ということになりましたね。


さて今年は、世界経済や枠組みの転換点に立った年なのかな、と感じます。
資本主義経済の悪い面が噴出し、市場至上主義的な部分、或いは新自由主義的部分、その信奉者たちの多くは総崩れとなったでありましょう。どのような制度や仕組みでもそうですが、良い部分もあれば悪い部分もあり、うまく機能しなくなることはあると思います。人々の生活や社会というのは中々複雑なものなのであり、改善するべき部分を発見することもある、ということだろうと思います。社会をより良くしていこうと思うのであれば、どれかの主義主張に凝り固まる必要性はあまり感じられず、拙い部分については改良を加えていけばいいのではないかと思います。何でも全否定しなければならない、というものではないでしょう。

何事も行き過ぎれば、大きな失敗に直面するので、その反省を求められるのだろうな、ということです。私はキリスト教徒ではありませんが、何故昔の人々が大罪として「傲慢」を戒めたのか、ということに思い致すべきではないかと思います。私たちが生きる時間はとても短く限られていますが、先人たちはそれよりはるかに多くの時間をかけて「知恵」を蓄積してきたのです。そもそも不要な知恵は長い歴史の中では生き残れなかったのではないかと思いますので、意味があるものなのだろうと思います。


転落していった企業群も多数出ました。
欧米の破綻した金融機関や実質政府保有となってしまった企業などが出たばかりではなく、国内で見ると上場企業倒産がありました。これまで日本経済を牽引してきたと自負していたであろう、大型&優良という輸出企業群は、海外市場でのダメージばかりではなく、円高の直撃を受けて苦しむ結果となっています。これまでに国内市場や産業を軽視してきた企業ほど、深刻な状況となっているであろうことは、想像に難くありません。自業自得なのですよ。多くの人々にお金を持たせるという努力をしてこなかったことこそ、内需で支える余力を奪ってしまったのだ、ということです。

経済団体の偉い方々は、はっきり言えばいつまで経っても「頭が高い」のですよ(笑)。
不祥事の時には、危機管理と称して頭を下げる真似事だけは得意になったとは思いますがね。そうではないでしょう。私は大企業とかに勤務経験があるわけでもないですし、昔がどうだったかなんて全然知らないんですが、今こそ「プロジェクトX」的な魂が必要なのではありませんか?若い人たちなんかからは、きっと笑われてしまうかもしれませんが。

懐古主義でもないですし精神論で景気回復とかを信じているわけでもありませんが、苦しい時こそ「オレも耐えるから、みんなも耐えてくれないか、共に頑張ろう」という経営陣の気持ちが大事なんじゃないでしょうか。良い未来が待っているはずだと信じられる時、目の前の苦しさに耐えることはできると思う。けれど、いくら耐えて協力してみても、常に裏切りを繰り返し「恩に報いる」ということをしてこなかったのは企業側なのだよ。

来年の賃金闘争のこととか、雇用問題というのは大きな問題になるかと思いますが、企業業績が悪化する中で賃上げというのはかなり苦しいということになるかと思います。単純に考えると、業績が悪い企業は据え置き、利益が出ている企業は上げる、ということになるのではないかと思いますが、全体の平均的な水準で見れば名目賃金を必ずプラスにしていくということが目標として必要になるかと思います。
6月に書いた記事の中で触れましたけれども、会社側と労働者側が双方ともに膠着状態に陥るわけですから、「名目賃金というのは上昇するんだ」という方向性が定着するまでは、政府支出を使うということが必要になってくるでしょう。

つまり、会社側としては苦しい中でも賃金を増やす方向で少しでも払う、労働者側は給与水準が急には高くならないとしても雇用者数増加に協力する(特に賃金水準の高い人たちは負担増も止むを得ない)、政府は政府支出を使ってでも雇用政策をサポートする、というようなことです。デフレに陥る前の状態に戻すことに成功すればある水準のインフレ率が達成できますので、名目賃金がプラスであっても実質賃金が必ずしもプラスになっていなくともよくなるわけで、労働者側の不満度は今ほど大きくはならないはずです。支払給与の額面では増加しているので、実質賃金のマイナス幅なんて個々の労働者が正確に実感することは難しいからです。これも過去に何度も書いてきましたけれどもね。だから、インフレ率がプラスであるというのは、企業側の賃金支払の調節幅を増やせることになるので、インフレ率が2%であれば、業績が思わしくなくて賃金を1%増やすだけなら、実質的には賃金カットと同じなんですから。経営者たちはそういうことを考えていなかったんですよ。だからこそ、日銀の味方をしたり、デフレに加担したりをしてきたのだろうと思いますね。厚生年金負担にしても、物価スライドがあるのでインフレ率が高い方が年金受給者への給付額の伸びの抑制効果は大きくなるはずなのです。

要するに、物価も上がるけど賃金も上がる、という「順回転」になっている方が、社会全体にとっては有益なことが圧倒的に多いのですよ。どうしてそのことに気づけないのか、デフレ加担をやめようとしないのかが謎なんです。


経団連は、いまこそ「みんなで歯を食いしばって、苦境を乗り切ろう!」と従業員や国民に訴えかけなさい。国民のみなさんに、共に乗り越えよう、乗り切った暁には「国民生活向上の為に、協力していきます」と約束すればよいのです。だから今の窮状を脱する為に、協力して下さい、とお願いするべきです。
自動車業界が未曾有の事態に見舞われているなら、有力な企業同士で互いの商品を買うなりすればいい。社用車をエコカーに買い替えをやってもらって(在庫を減らせるし利益幅なんてほぼないくらいの格安でもいい)、その代わりに買い換えてもらった企業からは従業員たちが商品なり何なりを購入するとかすればいいんだよ。自動車業界の従業員たちが「1人1品購入運動」でも何でも全社で取り組めば、かなり大きな需要喚起にはなると思うよ。苦しい時こそ、国内企業同士が協力しあえばいいんだよ。昔はそうやってやって協力してきたんじゃなかったの?財閥とか系列の壁を越えて、円高メリットの大きい企業とか余力のある企業に要請すればいい。みんなの持ってるお金を、少しずつでもいいので使う工夫を考えることだ。互いに仕事を生み出せるように知恵を出し合い、相談したり協力したりするべきなんです。困難に直面した時にこそ、過去に困難の乗り越えてきた先人たち―「プロジェクトX」に描かれたような人たち―から学ぶことを考えてみたらいいと思います。



他に思い浮かぶのは「転び」でしょうか。キリシタンではないです。
あれです、○○信奉者がまるで別のものに「宗旨替え」というようなことです。
特に目立ったのは、市場至上主義者たちの退潮でしょう。それとも、著名な経済学者たちが過去の主張を撤回し、「転ぶ」例が見られたということでしょう。有名なところでは、中谷氏や野口氏も認めている。

例えば、日本には有名な経済ナントカの肩書きで「シティバンクグループは日本の銀行なんかよりもはるかにいい銀行だ、強い銀行だ、日本人が説教なんかするな」とか豪語していたような木村某のような方がいたと思いますけれども、その後にはどういう主張に変えたのか気になるところです(笑)。資金注入でどうにか救済されたわけですが、シティグループを信奉していた彼のセンスが窺われます。維新がどうとかいうスローガンで金融を変えるだのとか言っていたように思いますが、貸金の債権を買い漁って取立て屋まがいみたいな事業に銀行の資金を投入しているわけですな。まあ、彼の言っていた金融は、別な意味で確かに大変革を遂げ、歴史的転回となってしまったかもしれませんがね(笑)。こういう連中が跋扈するようになったのは、兎にも角にも「経済ナントカ」バブルみたいなもので、出鱈目な理屈をばら撒くニセ論者勢力が強くなったからだろうと思います。

過日、売れない著書を執筆する学者気取りとか文系教授は生産性が低いので云々、みたいな批判を書いたのですが、不快に思われた方々には申し訳なく思います。別にそれが真実であるとか、首を切れとか思っているわけではないのです。そうではなくて、一部には「経済学者」とか「経済学教授」だとかの肩書きで、いい加減な主張をしつこく出してくる人たちがいるので、そういうのにムカっとなってしまったのですね。そういう連中の権威を剥ぎ取ってくれれば、影響力行使が少なくなると思いますので、世間に害悪が拡散していかないようになると思いますが、それが簡単にはいかないわけです。だから、蔓延り続ける。教授だの学者だのといった権威さえなければ、ニセ言説はあまり信じ込まれることはないと思うのですが、そうした権威が残されているとうっかり信じてしまう一般の人たちが大勢出てきてしまうのです。

今となっては、かなり「転び」学者や経済評論家とか、所謂エコノミストとかが増えたろうと思いますので、一頃よりは良くなりつつあるのかな、とは思いますけれども、中々撲滅するまでにはいかないようです。今後の専門家たちの格闘が期待されるところです。ひょっとすると、経済分野以外にも「転び」ナントカという学者はあったかもしれません(笑)。



今は不況の暗雲が世界を覆っています。
「転」は転寝の「うたた」という用法もあって、「ある状態が、どんどん進行してはなはだしくなるさま」(yahoo辞書)という意味があるのだそうです。経済状況が今よりも酷くならないように、努力するしかないでしょう。


日本までもが転覆することのないように、お願いしたいものです。



続・「お金LOVE」を打ち砕け

2008年12月16日 14時16分44秒 | 経済関連
本日の報道の目玉は日銀短観だったようですが、大企業の泣きが激しく入っているようで、何よりでございます。大企業経営者たちの望んできた「末路」というのは、こういうことだったのでしょう?ご希望通りになって良かったんじゃないでしょうか。

もっと景気が良い時期にこそ、準備をしておけば良かったのです。
だから言ったでしょ?イルカはやっぱりイルカなんですから。急に慌てふためく様子が手に取るように判ります。

急いでできることと、少し時間のかかること、もっと長めの中期的なこと、更に長期的なこと、ということで分けて考えるとよいのではないでしょうか。

麻生政権は曲がりなりにもどうにか対策を打ち出してきており、いま政治状況が混乱に陥って「頭」不在となるよりは、はるかにマシです。この荒波をどうにか耐えて乗り切れば、次の展望が開けてくるかもしれません。ですので、「戦うべき相手は何か」ということを明確にすることをお勧めします。難敵は民主党でも、マスメディア(笑)でもありません。うつ病です。もとい、デプレッションです。Depression。

こんな時に、麻生総理がデプレッションになってどうするんですか。
細かい失言だのなんて、どうだっていい。それで日本が沈んではいかないから。
記者たちの舐めた発言には、無視でいいですよ、無視で。いちいち党内も他の閣僚の答えるから、面白がってメディアが報じるだけです。昔の偉人たちだって、頭が良かった人ばかりではないですよ。トップが全能である必然性なんてない。劉邦だって、全然冴えないタイプで仕事もあまりできなかったのに、周囲の人間が助けてくれたんですから。大将はそれでもいいんです。できれば、「鬼の副官」みたいな下を締めるタイプの人が誰かいると良いのかもしれません。

麻生さんの戦う相手は、今の景気です。経済情勢です。最終決断ができていればそれでいい。雑音は無視していいですよ。言うべきことは、得意の弁舌で「国民に説くべき」です。苦しい立場にあるのは、麻生さんじゃなくとも同じです。誰がなっても、経済環境が悪ければ政権担当側に苦しくなるのです。

あの偉大な政治家だったチャーチルですら、選挙に敗北したではありませんか。
重大なポツダム会談の最中に、選挙の為に英国に帰国したら、ポツダムに戻ってきたのは労働党のアトリーだったんですから(笑)。チャーチルがいなければ戦争はどうなっていたかわからない、とか言われる程の名宰相だと思うけれども、それでも英国国民はチャーチルを選ばなかったんですから。国民生活が苦しいと、そういうこともあるんです。だから、支持が低迷するのは麻生さんの責任とばかりは言えないでありましょう。色々言い立てられても、「あのチャーチルでさえ負けたんだから」と思えばよいのです。


ですから、いまできることは、総力を挙げて、経済の落ち込みを支えることです。
約束をしたっていいかもしれない。無謀とも思えるようなものでもいいですよ。時限立法でいいので、賃金ベースアップを「昔のベア」みたいに名目賃金を必ず引き上げさせるとか。最低でも年率1%で引き上げ、ということをやると、消費拡大のきっかけになるかもしれません。一応、一時的給付は効果が乏しいとか言われるようで、恒常所得仮説だと「定常的に入ってくる収入が増える」と消費を拡大するということでしょうから、それなら賃金引上げが定常的に行われる、ということを定着させればいいだけでは(笑)。
で、企業が苦しむ、雇用者数を減らしてしまうから失業が増える、とか言うんですが、人件費1%アップにも耐えられない業種や産業は「非効率なので退出させて、効率のよい分野に移動を促進させる」ということになるかもしれませんよ。失業しない多くの個人は所得が着実に増加するので、支払所得税額は増える、各種保険料の支払額も増える、ということになるのですから、その分を失業給付や生活保護などの給付に回せばいい。

企業側にとっては、個人所得が増加していけば販売価格に転嫁したとしても、必ずしも需要減ということにはならないかもしれないので、デフレから抜け出せるようになっていくでしょう。だって、賃金で下げる、ということができなくなるわけですからね。アメリカみたいに「inflation surcharge」を乗せてくることだってあるわけですから、日本でそこまでやれとは申しませんが、価格改定を行うことは当たり前なのでは。今年流行りの「change」ではなくて、やるべきは「charge」ですわね。


前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。

さて、大企業経営者のみなさんは少し反省していただけたでしょうか?
昨日は辛辣な記事を書いておきましたが、その効果もあってか(笑、あるわけないけど)、本日の社説などには日銀などへの要望が出されていたりしましたね。

因果応報、これが先人の教えにございます。
苦しむのは、人々を苦しめたから、ということに他ならならないでしょう。随分と遠くに去った感のある約半年前、感謝が足りないというようなことを書きました。輸出企業の主力となる大企業は傲慢に陥っていたのではないでしょうか。人間というのは簡単に賢くはなれず、大きな失敗をしてはじめて、反省することができるのかもしれません。後悔してもはじまらないのですがね。多くの人々の不幸の上に企業の繁栄などあろうはずもありません。それは多分長続きせず、どこかで破綻を来たすものだろうと思います。経済団体の代表者たちは、日本全体についてよく考えるようにしてください。自分たちだけの利益を考えることは、多くの場合に良い結果をもたらさないでしょう。


①今すぐ取り組むこと

・資金調達を改善する
日本の資金はまだまだ国内に余力が多くあります。貸出に回っているお金は割りと少な目なので、企業の負債残高約1000兆円のうち社債等で調達してきた部分は、国内の余剰資金を当てればいいだけです。

具体的には社説などでもありましたが、CP買入を日銀がやればいいのでは、ということがあります。ただ日銀サイドが「うん」と言わない様子ですので、他の手も考えてみては。大銀行をはじめ、多くの金融機関の「貸出できない」状況というのは、多分資産サイドの収縮によるものでしょう。保有する株式や債券などが軒並み価格下落し、そうなると貸出余力が圧縮されてしまって、企業の資金需要に対応できない、ということになりますか。

こういう貸出制約を受けていない金融機関というと、日本政策投資銀行とか「ゆうちょ銀」関係くらいでしょうか。日本政策投資銀行の資金供給規模があまり大きくなくて対応できない、ということであれば、貸出余力を増やせばよいと思います。

まず日本政策投資銀行が機関債を発行します。2兆円でも5兆円でもいいです。これを(略して)「郵貯・簡保管理機構」の持つ現預金109兆円の一部で買い入れます。国債をその分売却することになりますが、それは日銀が引き受けてくれればいだけです。

 日銀は5兆円分の国債を買入、同額の現金を「郵貯~機構」へ
 「郵貯~機構」は受取った現金で日本政策投資銀行の機関債を購入
 日本政策投資銀行の資産サイドに現金、負債には発行した機関債

ということになりますか。機関債は今の国債金利+0.5%くらいの水準でもいいのでは。「郵貯~機構」は国債を持つよりも儲かるし。
日本政策投資銀行は、5兆円分の現金でCP買入とか、長期資金貸出とかに使えばよい。貸出金利は大企業向けがこれまでの長期社債金利+公的融資用レンダーチャージ(1~2%くらい?)程度の金利を頂けばいい。市場環境が改善してきたら、企業側がもっと安い金利の民間貸出に借り換えるか社債発行で返済したらいい。日本政策投資銀行は、今だからこそちょっぴり儲けたっていい(機関債との利鞘が必ずプラスになるようにしておくこと)。大企業はそれくらいの金利は払えるんだから。中小企業向け貸出は、そういう阿漕なことをせずともよいでしょう。これだって、大企業の資金繰りは随分と楽になるはず。

日銀は国債買入分の紙幣発行となるので、資金供給が増やせるだろう。


・日銀の国債買入額の増額

これも以前から言われていることだが、国債の買入償却を増やすべき。で、ただ買入するのではなくて、今絶賛暴落中の変動金利付き国債の方を処分するのだ。

どういうことかというと、普通の国債価格よりも、インフレ率変動型国債の方がお買い得なんですから、そちらを優先して買ってしまえばいい。償還額が1兆円だとして、1兆円分の普通の国債を発行して、同額の変動金利付き国債を買えるだけ買って償還し、チャラにする、ということ。額面100万円の普通国債が100万円とすれば、変動金利付き国債の方は97万円で買える、みたいなもんです。なので、差額分は借金返済が大変お得になる、という寸法なんですね。大幅に値下がりしている今こそチャンスです。金利が下がっているので、新規発行の国債利率は低く設定できる、1兆円を償還するのに9700億円でできる、というようなことで、ダブルチャンス!!では。

なので、変動金利付き国債がどの程度の残高があるのかは知りませんが、50兆円とかあるなら、30兆円分くらいを新発国債で償還、新発国債は市場で売却、同額の既発国債を日銀に買入償却させる。

どうでしょうか?ダメ?
これで政府負債圧縮ができ、日銀は買入増額で資金供給を増やせる、デフレ圧力を軽減できる、というようなことでしょうか。金融機関の保有する国債にしても、益出ししたいところからは日銀が買入たらいいと思いますね。でも、やらないよりは、キャッシュが世の中に回るようになっていくのではないかと。期待なんですがね。


続きは後で。とりあえず。


追加です(21時半頃)

あんまり落ち着いて考える暇がなかったので、簡単に。


政府だけではなく、民間との協調も必要だし、「オールジャパン」的な体制が必要ですけれども、年金資金とか国債として眠っている金を掘り起こすしかないでしょう。

確かに国債を保有するというのは必要な部分はありますが、今は投資貯蓄差額が厳しい状況になっているのでプライマリーバランスのマイナス幅が大きくなってしまうのです。輸出減少と投資減少の結果が、それを引き起こしてしまうのですから。

日銀が資産購入するというのはバランスシート上イヤなんだ、ということらしいですから、日銀にはひたすら国債を買い取らせなさい。で、政府系とか年金基金なんかで持っている国債を日銀に売って、キャッシュに置き換え、そのキャッシュでTOPIXのインデックスでも優良大型株でも買えばよいのです。


<金融資産残高>9月末の家計5.2%減、過去最大の減少率(毎日新聞) - Yahooニュース

これで見る通り、株式は-36%減で118兆4157億円なのですから、元々は185兆円規模の資産価値があったのですよ。損失は約66.6兆円にもなるのです。これは家計だけですが、この他に銀行等の金融機関や生保・証券、その他法人などの持つ株式の資産も同時に大きく減少してしまったのです。これはどういうことかと言えば、海外投資家などの売って資金を引き上げた額がある程度大きかったからですが、買い支えるのに必要な資金量は別に50兆円も60兆円も必要なわけではないんですよ。せいぜい10兆円か20兆円規模もあればここまで値下がりすることなんかないのです。

少なくとも、日本の株式市場の時価総額が半分になってしまうということは、250兆円~280兆円規模で減少してしまったわけです。それが家計とか金融機関とかに分散しているということです。でも買い資金は、海外投資家の引き抜いた金額程度もあればいいわけで、それを行うだけで数倍の価値増大をもたらせるのですから、まず自社株買いをする企業は、ここ1ヶ月くらいの間にせっせとやってもらえばいい。その後には、日本の持つ資金の10兆円か20兆円で買い進めばいいのです。


今後日本の上場企業には死ぬ気で頑張ってもらえれば、それで互いに大きなメリットがあるのです。企業が倒産したり、赤字続きに陥らないなら、企業業績は回復するはずです。
株価が上がれば年金運用の損失が大きく改善する、家計の損失も改善する、金融機関等のバランスシートも改善する、ということで、かなり効果的なのですから。資産効果で消費増大にも繋がるかもしれませんし。

目処としては、日経平均が11000円くらいに戻すまでは買った方がいいです。値が戻ると、個人などの資金も再び向かうようになるかもしれません。時価総額が100兆円とかの規模で戻れば、上場企業の多くはかなり助かるはずです。

10兆円の買い資金を入れるだけで66兆円以上もの損失を受けることなどないのですが、個々に損失を回避しようとして資金を引き上げてしまうので、余計に全体の損失が拡大してしまう結果となるのです。米国のサブプライムローンの損失100兆円を回避しようとして、結果的にはその数十倍もの損失を食らったのと同じようなものでしょう。なので、日本人が今の安い株価のうちに買い込んでおけばかなり得をすることができるはずです。海外投資家の資金力が回復する前に、どれだけ買っておけるかではないかと思います。



前の記事を書きながら、脇道にそれた記事

2008年12月15日 18時36分12秒 | 社会保障問題
医師不足を改善しようという動きはありますが、それも単に医師を養成するということになるとかなりの時間とコストがかかるので、寧ろ小隊とか「ユニット」のような単位(以前には、「パーティ」と呼びましたけど)を強化することを考える方がよいと思います。

小隊長(エース)である医師と、それをサポートするチームということですね。チームメンバーは専門職に違いはないですが、出来る行為の難易度によって広げる方がよいと思います。これまでのところ、一から十まで医師が1人で何でも頑張らねばなりませんでしたが、そうではなくて「どうしても医師でなければならないこと」を減らして、他のサブのスタッフにやってもらえることは全部やってもらうようにすればよいのです。いってみれば医師業務のアウトソーシングですね(こういうのが生産性向上、ということでしょ?)。

そうすると、医師の能力や時間を余計な所に使わずに済むようになるし、医師としての能力を最大限に発揮させることができるようになるのでは、と思います。こうしたユニットは機械的に「看護師○人、薬剤師○人、検査技師○人」みたいに規制で縛るからダメなのであって、医療現場の実情に応じてユニットを組めるように自由にさせた方が柔軟性や弾力性のあるチーム編成ができると思います。

なので、医師数を増やすことも大事なんだろうとは思いますけれども、強力なサポートを付けてあげることも重要なのかな、と思います。これも以前から言ってますが、検察官と検察事務官のチームみたいなもんです。ああ、自転車レースのチームとも近いかな。ツール・ド・フランスみたいな耐久レース。エースに勝たせる為に、周囲の人間が全力でサポートする、ということですよ。

何かと「看護部は別系統ですから!」みたいな、わけのわからんことを言ってるからダメなんで、医師(エース)に勝たせる為に存在しなければならない、ということの意味が判っていないのです。
歌舞伎で黒子が「私たちはあなたの部下ではありません、指図は受けません」みたいなことを言ったりはせんでしょう?黒子がいなければ役者だって困るわけです。というか、できない。両者は「不可分」なんですよ。


医師に最大限働いてもらえるには、「医師しかできないこと」以外はもっと賃金の低い水準の人たちにやってもらうべきです。それには、サポートチームの能力向上や個々の水準を上げる必要があります。これこそが生産性向上というやつなのですよ。

個人レベルで支払能力に応じて医療費や介護費を払ってくれ、という施策は多分うまくいかないだろうと思います。それよりも、社会全体で国民のみなさんの大事なお金を「お預かりする」、そのお金は最も必要性の高い部分から充当していきましょう、ということの方が望ましいと思います。

それぞれのタンスの中で眠らせているお金よりも、こうやって「みんなの役に立つお金」という形で循環させると、必ず自分ちの給料アップというような形で巡り巡って戻ってくるのですよ。雇用が生まれれば、納税者も増えるし個人消費余力も増えます。高齢者が参加できる仕事も増えますよ。元気なお年寄りたちは、そうやって社会に貢献することで、生涯に渡り社会参加の機会も得られるのです。


誰が説明し、説得し、理解を得て、同意にこぎつけられるのか。
私には判りません。
が、若い人たちの理解や協力は得られるのではないかと思っています。

問題は、それこそ「レガシー」部分なのではないのかな、と。政治家たちの多くが彼らと同じ世代なんですよね。これが中々難しいのです。



生産性と日本の戦略

2008年12月15日 15時58分42秒 | 経済関連
日本しか住んだことがないので、諸外国との比較というのはよく判らない。が、日本というのは、とても便利である。物理的な面では、かなり高度に発達している。東京の鉄道や地下鉄などの乗り物の料金計算などについても、恐るべき時間効率化が図られている。一般的なコンビニやスーパーなどでもそうだし、製造ラインやロボットなんかも「謎の工場」みたいにオートメイション化が進んでいるだろう。

一方では、サービス産業の生産性が低い、とよく言われるのだ。確かにそういう面は否めない。
日本の景気対策を考えるなら、道路だの誰も乗らない新幹線だのに巨費を投じるくらいなら、医療情報ネットワークをきちんと構築、整備する方がはるかに必要性が高いように思われるのだが。中期的投資として、将来に渡る重要なインフラとすることができるので、メリットは大きいと思う。過疎地の医療資源の乏しい地域においても、遠隔地の専門医がコンサルテーションを受けたり診断や処置の指示などを行えるようになるので、医療資源の効率化が図られると考えられるだろう。そういうインフラにこそ投資するべきなのだと思うが。未だに非効率な組合や共済をバラバラに存続させておく意味も判らないな。資格確認や請求事務に関する無駄、審査関連の過剰な人的コスト、医療機関側と保険者側双方にロスは大きい。無保険者を生み出す環境となったままであるし、組合も政府管掌も国保も「面倒な被保険者はそっちでやれ」と、たらい回し状態みたいなものだ。コストを負担したくないから、「ウチじゃありません」とか言い張る。保険資格が切れてるなら百パーセント保険証を回収しておけばいいものを、そうした管理義務を怠っておきながら、被保険者が使った後になってから「資格はありません」とか事後的に言う。医療情報ネットワークがきちんと整備されると、そういうのは全て自動化され機械がやるのだよ。これが生産性向上ということの意味だ。


労働集約的産業は生産性が低い、とか「机上の空論」好きな学者さまなどが言うのだけれども、社会全体のコストを考えた時には失業者を多く生むよりはいいし、人的サービスには物理的限界があることや現実に需要が多い分野であるなら、供給するのが自然である。

またいくつか例で考えてみよう。
銀座の高級クラブのホステスは、どれくらいの生産性だろうか?
ハゲた大企業のお偉いさんのアゴの下あたりを撫ぜるだけで、1時間に軽く10万円くらい稼げるとしよう。多分普通の人にはないスキルが要求され、代替性も厳しいのでこのホステスの賃金は高くなるだろう。高級クラブ全体の利益率は、当たりハズレの大きい「水商売」だけに、かなり高い水準になければならないだろう。エロじじいの相手をするだけで、かなり付加価値が高い(笑)ということなのだろう。少なくとも、一知半解の学者気取りが売れない著書を書いている生産性に比べると、ホステスの方がはるかに生産性の高い仕事であろう。弁護士のタイムチャージに比べても、十分高いと推測される。つまり、人的サービスが必ずしも生産性が低い、ということにはならないのでは。多分、価格設定のやり方によって変わるだけであろう。

今度は、専業主婦の生産性を考えてみる。妻は夫の給料以外には収入がないものとする。
年収300万円の夫を持つ妻がいるとして、この妻の貢献度は金銭に換算するとどの程度なのであろうか?離婚する場合に夫と妻の共有財産への貢献度が収入に比例して按分されるなら、もし妻の貢献度が年収換算で500万円ならば夫とは3:5に按分されるだろう。それとも、夫の給料を超えない、ということなのだろうか?夫の年収には無関係に、妻の貢献額が決まる場合には、その額はどのように決まっていくのだろうか?

年収300万の夫の場合と、年収1億円の夫の場合には、多分妻の年収換算値は後者の方が断然高くなるのではないかと思う。もし妻の労働の絶対価値が決まるのであれば、世界共通で決めることが可能となるだろう。所得の低い国でも、高い国でも、同等の価値ということになるだろう。しかし、実際にそんなことが起こっているだろうか?年収1億円の夫が妻から受ける効用というのは、300万円の夫よりも多いだろう、と考える。

ベンツやロールスロイスが故障したりしてサポートを受ける場合、修理工場の工賃は安い車なんかに比べると多分高くなるだろう。元々の部品点数の量によって単価が違っているということはあるかもしれないが、修理工の工賃はそれとは別に決まる。ベンツやロールスロイスが安い大衆車に比べて稀少であり高額なので、そのサポート費用も当然ながら高くなるであろう、ということだな。つまり修理工の工賃は高いだろう、というのが一般的な相場なのかな、と。妻は夫の修理工なんかではないのだけれども(女性の方々は怒らないでね)、年収水準が高い夫(=ベンツやロールスロイス)なら妻の貢献度(=修理工の工賃)は高いし、夫の年収が低いならやはり妻の貢献度も低く見積もられてしまうだろう。だから、分割できる財産が100万円しかない夫婦と1億円ある夫婦では、妻の貰える額が異なるのだろうと思われる(後者の貰える額が断然多い)。同一であるなら、年収の低い夫には払えないような額となってしまうか、高収入だった妻には耐え難い過少な額となってしまうだろう。何が言いたいかといえば、妻の生産性なんてものは男次第ということで、それは割りと簡単に「価値が変動してしまう」という程度のものなのではないか、ということだ。サービスの生産性の評価というのは、案外といい加減なものなのでは。

だから以前にも書いたけれども、介護や育児サポートを民間企業が行う場合に、年収水準の高い人のサポートを行うなら高い金額設定となるし、同じサービス内容であるにも関わらず年収水準が低いと安い価格設定となってしまうので、生産性は落ちることになってしまうだろう。それは労働の内容や質の違いなどではない。同一のことをやっているのに、生産性はいくらでも変わるということだ。日本人はホスピタリティ能力が基本的に高いと思うので、何でも外国と同じ水準でなければならない、なんてことはないのだ。

因みに、普通の工業製品ならば、日本での価格が1万円のテレビはアメリカでも1万円だしマレーシアでも1万円でしょう(輸送費や関税はとりあえずおいといて)。妻の労働価値は工業製品とは異なり100万円の国もあれば5万円の国もあるのに、1万円のテレビは世界中のどこでも1万円ということです。製造業の方々は自分たちの産業分野と何でもかんでも同じように考えているかもしれませんが、それは殆どが正しくはないだろう。経済界の政治的影響力がかなりの大きさを持つので、そういうお偉方がセンスのない思考をしてしまうことで、世の中に誤った考え方が流布されるとともに余計な圧力(たとえば社会保障費削減圧力)が加わることになるのだ。


<寄り道:
日本における文系の大学教授とかいう人種ほど生産性が低い職種はないのではないかと内心思っているが、GRIPSあたりの経済学を専門とする大先生方は頭数だけは無駄に揃っておいでのようだから、自分たちの生産性の低さを今すぐ検証してみてはいかがであろうか。そういう生産性が低い職種こそ、構造改革(笑)を推進し参入障壁を撤廃して競争させ、ダメな連中を排除するべく市場の評価を受けさせるべきではないか?そういう「非効率」分野に人が固まっているのがよくないのだから雇用を流動化(=非常勤化)させ、無駄に貼り付けている予算などは既得権益に過ぎないのだから即刻廃止すべきだろう。ですよね?w>


日本の医療・介護・福祉分野の売上高はざっと50兆円あるので、これに教育を加えると、かなりの産業分野ということになるのですよ。この分野は、これまでに「これで儲けてやるぜ」というようなことを考えてこなかった分野なんですね(中にはそういう人たちはいるだろうけど)。現場にいる人たちの殆どは善良で一生懸命やるだけで、ついつい相手の立場というものを考えてしまうので、利益については無頓着に来ていたわけです。利益がないと、市民病院廃止とか老朽化した建物も直せないし医療機器も買えないし人材も呼べないんですね。そういう経営面というのを考えるなら、今までのような費用のかけ方では全然足りないのだ、ということが明らかとなってきたのです。今後、高齢化が進むわけですから需要というのは増えるし、潜在的需要はそれこそ「山ほど」あるのですよ。雇用創造の最も有力なものがこの分野なのです。介護なんかですと一気に生産性を向上させる、ということは難しいかもしれませんが、仕事に定着できるなら個々のスキルを向上させていくことで改善できる部分はいくらでもあります。新規需要を生み出したい、という企業が多い中で、需要が伸びることが判っている産業分野があるのすから、日本は。それを無理に抑制しようとするのは、あまりに不自然なのです。こういう時にこそ経済学理論を出してこないのは、何故なのでしょうか?政府が介入して需要を抑制せよ、などという理論があるのでしょうか?(笑)

例えば大学の費用を無料化している国では、全員が大学に行っているのですか?
入学希望者を無理にでも抑制しなければ入学者が殺到して国の予算がパンクする、ということになっていますかね?そうはなってないでしょう?そうじゃないんです。
別に社会保障費の自己負担を無料化しろ、と言っているのではありません。一部は利用者負担で払える人は払えばよいのです。大したことがないのに何でも病院に行く人を抑制したいのであれば、入学試験のような「ゲート」を設定しておけば済む話です。予備的診察をして、その時点で「専門医の治療が必要」という人とそうではない人とを区分し、前者は3割負担、後者は5割負担とかにしてみるとか。後者の場合、大した治療の必要性がなければ高額な治療自体を受けないので、自己負担額がべら棒に高くなるということにはならないでしょうから。「ゲート」以降の段階では、治療の必要度の高い人たちだけが残ることになるので、時間や医療費の無駄も減らせるようになるでしょう。不安だからどうしても「採血してくれ」「写真(CTとかMRIとか)撮ってくれ」と言って聞かない人には、そのわがまま分を多く負担してもらえばよいのです。


いずれにせよ、たとえ同じエロじじいを相手にしても、医師や看護師等の得る収入が安すぎるのが問題なのです。人的サービスに対する評価が低すぎるのです。こうしたサービス価格を恒常的に上げていかない限り、デフレからも抜けられない、雇用も増えない、個人消費も増えない、ということになってしまっているのです。全体を見ない・考えないという人間が増えてしまったからこそ、ダメ理論にまんまと飛びついてしまうのだ。


日本の企業経営者たちが目先の金を最優先するなら、そういう強欲企業に未来はないと思え。

自分の妻の労働価値が何故高くなったのか、じっくり考えてみろ。
ああ、強欲じいさんというのは、大体ハゲたエロじじいが多いから、ホステスの方が好きか。
自分の妻が「どこぞのホステス以下しか稼げない生産性の低い無能な人間」だということが再確認できることだろう(笑)。良かったじゃないか。あなたにはお似合いだろうて。


そういえば最近、大企業の短期資金調達ができなくて汲々となっているらしいじゃないか。あれだ、大銀行さんが貸してくれないなら、信組だろうがノンバンクでだろうが土下座するなり「ヤミ金」にでも行って借りるなり、金策に走ればいいよ(笑)。
下請け企業はこれまでにそうやって金策に苦労してきたんだ、いっぺんくらい「首をくくるか、ヤミ金に借りるか」という究極の選択を迫られるような危機に直面した方がいい薬になるって。これまでのうのうと殿様商売みたいな「大企業族の商売」をやってきたんだから、少しくらい苦労したっていいと思うよ。


中には市場から資金調達する「金利が正しい」んだ、って言い張る人たちもいるだろうから、市場の原則に従って何%だろうが何十%だろうが金利を払えって言うと思うけどw。そういう人たちから見れば「低い金利で甘やかしてはいけない、もっとシバいてダメな企業を潰した方がいい、調達金利が低すぎるのは単なる過保護」らしいから。
CP発行できないよ~、買い手がいないよ~、とか生ぬるいことを言ってるからダメなんじゃないのか?日本の産業構造は(爆)。今こそ、「構造改革」だろ?その旗を振ってみろよ。


企業努力でいい成績を出してきたんだ、楽してる中小企業なんかとは違う、と豪語してみればいいんじゃないか?自前で資金調達せよ。
日本政策投資銀行みたいな官業の「公的金融機関」から、「大災害時と同じだから」とかいう屁理屈だかこじつけみたいな理由で、「金を引っ張る」というのもどうかとは思うね。泣きつく先が「国」ですか。大笑いだな。完全民営化してなくて助かったな、オイ?

05年10月
熱闘!官業金融~第1R

熱闘!官業金融~第1Rの続き

熱闘!官業金融~第2R



常々、ことある毎に「民間は…」って言ってきたではないか。
資本主義経済なんだから、今こそ「自助努力」「自己責任」だろ?(笑)


だから大企業に資金枠をとる必要なんかない。
「中小企業は特別に優遇されている」とか何とか、御託を並べていたんじゃなかったの?だったら、自分で資金調達くらいしてこい。

中小企業は資金調達が難しいのでやむを得ないが、なぜ大企業のためにわざわざ融資枠を確保せにゃいかんわけ?CP買入をするのは、市場でやってもらえや。それが経済原則なんだろ?


要するに、どいつもこいつも調子いいんだよ。
困ったときだけは、「助けてくれ」って、日本がかつて金融危機に陥った時の大銀行なんかも同じなのだ。大企業や大銀行の経営陣には、まだ骨身に染みてないのさ。本当に倒れる寸前に行くまでは、「痛み」とか社会のことを考えられるようにはならないんだ。

だから、「甘やかすのは良くない」と経済原則を掲げていた人たちこそ主張したらいいよ。

市場で資金調達してこい、ってな。
その金利こそが正しいんだ、ってな。



労働者は「数字」でしかない

2008年12月14日 18時11分21秒 | 経済関連
日本には多くの「マッド経済学者(モドキ?)」とか、「マッド経済評論家」みたいな連中がいる。彼らはこれまで何をしてきたかと言えば、ニセの論理を振りかざすか、出鱈目の理屈を並べて、大衆を欺くことだった。それがたとえ有名人であろうと、政府や中央銀行の役人たちであろうと関係なく、いい加減な主張がまかり通るのである。世界七不思議に匹敵するような、経済学の謎の部分なのである。

彼らに共通するのは、「我こそは、経済や経済学の専門家である、正しい答えを知っている」というような、自信に満ち溢れていることである。そういう連中に限って、実はウソをついていることが多いのだが(笑)。けれども、一般人からすると「輝かしい肩書き」のようなものを有しており、多くの場合にそうした「権威」に引っ掛かってしまうのである。日本の企業経営者たちがあまりに間抜けであった為に、良からぬ浅知恵を吹き込まれ、それをまんまと真に受けて騙されたのと同じようなものだ。何故そうなってしまうのかといえば、知識も考え方も全てが「自分で考えた」のではなく、誰かからの受け売りでしかないからである。先人の知恵を利用することは、どのような分野でも行われている。誰かの知恵を借りることが悪いことではない。そうではなくて、既にある知識や理論を用いて考えることよりも、「ある目的を達成する為に」、理屈や学問を利用しようとしていることが、マッドな連中が跋扈する要因となってしまっているのである。


現在大きな問題となっているが、雇用情勢が急速に悪化している。派遣や契約社員の打ち切り、新卒採用取りやめ、正社員もリストラが始まりつつある。今の日本で本当に失業対策がそこそこ機能しているかというと、疑問が多い。雇用保険から漏れている人々は、収入の道が途絶えてしまう。だからこそ不安が増大しているのである。


かつての日本の労働市場というのは、ある部分は参入障壁が高かった。それは、女性の労働力への障壁が高かったからだろう。労働市場へ参入してくるのは女性はあまり多くはなく、ある程度長く勤める正社員には男性ばかりだった、ということだ。教師や公務員などでは女性の数がそこそこ増えていったし、保育園や幼稚園の先生、看護婦など女性が圧倒的に有利といえる職場もあったが、社会全体としては職業婦人はあまり多くはなかった。サザエさんみたいに、専業主婦で過していることが多かった。
なので、労働市場においては、男性の行き先だけ心配すれば良かったという面が強く、労働人口(就業希望者)が今よりも少なかっただろう。今は、男女が対等に競争して稼がねばならないので、労働市場参入者は多くなっているはずだ。


「パート主婦」というような表現に表されていたように、かつては主婦が短時間不定期のパートとして働いたり、学生がアルバイトとして働くというのが非正規雇用の主な部分であったかもしれないが、今は正規労働市場から漏れた人々がみんなそこに集まってしまったようなものだ。期間工や日雇い労働者たちは、今で言うデジタル派遣みたいな人たちもいたかもしれないが、それが主力とも思えず、農村地域などからの出稼ぎ者たちが割といたであろう。
これら非正規労働の多くは、元々「他に別な役割・立場」のようなものを持つ人たちが大半を占めていたのでは。学生さんがバイトを首になったとしても、収入の一部は確かに減るが完全な失業者のような立場に置かれるわけではない。学業という「本分」があるからだ。主婦にしても、パートを切られたからといって家計収入全体が失われたりはしなかった。家庭に戻ることができた。出稼ぎ労働者にしても、農繁期には実家に戻って働く場所が確保されていたわけだ。冬期間の収入が減るのは痛かったには違いないであろうが、本分としての「農家」という立場を持っていたので、合理化の憂き目に遭っても自己の尊厳を完全に失わせることにはなっていなかったのではないか。


現代における非正規雇用というのは、こうした過去の働き方と質的に異なっているのである。多くが「戻るべき場所」など、持っていないのだ。本分である学業とか、家庭とか、農村とか、それらが何もない人たちが、日々不安定な雇用の中に置かれているのだ。そうした流動性を高める方向に社会を導くなら、失業に対するバッファーとなるべき部分を社会的に手当てしない限り、社会全体のシステム維持は困難になるだろう。社会全体の摩擦が増大してしまう、ということだ。先日のギリシャとか、数年前のフランスとか、一頃のドイツみたいに、若年層の怒りが爆発してしまったりすることになるのではないか。


経営側にとっては、労働者というのは単なる数字でしかない。一部の経済学者にとっても、それは同じだろう。
経費のうち、労働者の賃金に100、原材料費に100である時、経費節減と称して、賃金を100から80にカットすることは、経営者にとっては容易なのである。労働者たちは、「賃金100」という数字に置き換わっているだけであり、それは「原材料費100」と何ら変わりないか、それ以下のものなのだ。

原油高の期間には、原油を用いる産業であるとそのコストを削減することはしなかったわけだ。しかし、人件費は削った。それはどうしてなのかといえば、労働者たちは原油以下の存在でしかなかったからだ。交渉力も原油より下位に位置していたからだ。

ある製品を製造するのに、原油代金を100払うとする。人件費も100だ。ここで、原油代金が大幅に値上がりした為、100だったコストは150になったとしよう。そうすると、これまで会社はどうしてきたかというと、値上がりした50のうち人件費を削って40捻出、他のコストを10削って原油代金分を吸収しようとしたわけだ。人件費を削れる理由というのは、原油代金は削れないから、ということに他ならない。労働者の交渉力が原油と同じである時、原油代金が削れないなら「賃金も削ることができない」のである。なのに、日本では原油代金を削れない代わりに、人件費を削ろうとするのだ。つまりは、労働者というのは、原材料以下ということでしかないのである。こうした考え方に支配されているのは何故かというと、俄「経済かぶれ」のマッドな連中が知った風な口を叩き、効率化だの生産性だのと言いながら、人々の金を収奪する為にエンドトキシンのような、或いはクラスター爆弾の子爆弾のような、出鱈目言説をばら撒いたせいだろう。それがもたらす結果とは、経済停滞だというのに、自らの愚かさに気づけないままでいるのだ。


もう少し書いてみる。
生産力が100の労働者が、100人いるとしよう。全部で10000の生産をしている。さて、この労働者が能力を毎年向上させるので、生産力が2%だけ上昇する。となると、これまで100だった生産力は次の期には102となるわけだ。これを10期続けると、生産力はかつての10000から約12190になる。もし、定常的な生産力だけが必要なのであれば、100人もいらないということになる。大体、83人もいれば10000以上生産できてしまう。つまり、生産能力向上と効率化によって、少なくとも17人の仕事を失わせることが可能となる。これが資本主義経済の「成長」としてカウントされるという基本原則なのだ。だから資本主義経済の成長というのは、誰かを必ず失業に追い込む力として作用してしまうのである。個々の労働者が能力を高めるというのは、そういうことなのだ。

で、日本の異常なところは、たとえ生産能力が102に向上したからといって、賃金が上昇することは約束されない、というところなのである。社会全体でみれば、むしろかつての賃金を100とすれば、生産能力が向上しているにも関わらず毎年マイナスにされた上、10期後には大体93~94程度になってしまった、ということだ。それが経営サイドの評価ということなのである。

経済学の教科書の中には、自分の取り分である給与を削ってまで供給する、なんていう理論なんかない。労働者単体で見れば、この人の能力以下の賃金なのに労働力を提供するというのは、まさに「利潤が負なのに供給者が必ず現れる」というのと同じだ。非負制約なんて働いていないのである。どうしてそんなことが起こるかというと、過度な競争とか恐怖心を与えることによって可能になるのだ。それは「そんなこと言うなら、おまえの仕事を取り上げたっていいんだぜ」ということだ。経済学理論の中の労働力は死なない。飢えないし。だから交渉力の差なんてものは、基本的には考慮されていない。
けれど、現実は違う。多くの労働者たちは非負制約を破ってまで、労働力の提供を行ってしまっているのである。原材料費や為替要因などでコストが増加すると賃金を削るという現象が起こるのなら、その前の期の賃金が合理的であるのに、次の期に賃金を減らされるのは能力に見合わない負の値をとっているということでしかない。

もし10000も売れないので生産が不要になり、8000でいい、ということなら、その分の人数は減らされる可能性がある。が、個別に見れば、会社に残った労働者個人の賃金は上がっていて、なおかつ「全体の人数は減る」ということになっているべきだろう。しかし、実際にそんなことになっているのだろうか?人数も減らし、賃金も減らすのであれば、一体何をやっているのかが判らないな。そんな部分だけは、日本型を残しているとでも言うのか?



失業への対処は、政府レベル、企業レベル、個人レベル、ということで色々あるだろう。
政府レベルとは、基本的には失業保険ということで、仕事がない期間も現金給付を行って、失業期間中の苦痛を減らす、ということになる。デンマークっぽい政策だ。企業レベルというのは、昔の日本型企業だろうか。仕事が減って苦しい期間であっても首切りを避け、無理矢理にでも新たな仕事を作り出し、そちらに人材を振り向けた。昔の経営者の方が格段に偉かった、ということだろう。そのお陰で失業率は割りと低いままだったので、失業保険の社会的コスト負担は減らすことができたわけだ。会社が肩代わりしていた部分が割りとあった、ということだろうと思う。個人レベルということで見れば、自分で貯蓄するなり何なりをやって、会社にも国にも頼らない、ということだな。失業は自己責任、と。もしこれを正当化するのであれば、中途半端に正社員だけ雇用保険がある、というのは、不公平感がある。正規も非正規も関係なく、雇用規制も失業保険もなくせばいい。でも、そんな意見は主流とは思われないので、日本では企業ができない、という方向になっているのだから、政府レベルで失業給付を拡充する、ということにしかならないだろう。流動性を高めろ、という企業側要請が大きいなら、それに見合う「コストを負担してくださいね」ということになるだろう。人材移動の大きい企業ほど失業給付を多く使わせるので、雇用保険料を多く払うべきだ。


派遣会社にしても、元々は仕事が打ち切られたら次の場所を効率的に見つけることで「仕事のない期間を最短にする」という目的で存在しているのだから、現在の企業で派遣が打ち切られたら次を素早く用意する義務があるだろう。それができないのに、派遣会社をやる意味なんて全くない。「派遣先を用意できない派遣会社」ほど、役立たずの仕組みはないだろうに(笑)。移動を容易にしたいだけなら、米国みたいに給料を週払いにして、いつでも参加でき退出も自由でいいよ、という風にしておくべきだな。そのシステムを採用する企業は全部の労働者についてそうするべき。

小売の卸業者や仲買というような複雑な流通をやめて、直販やネット取引にすると双方にメリットがあるのと同じなので、派遣業界は全部潰してもいいんじゃないか。労働者が探す代わりに「仕事を見つけてきて用意する」のが仕事なのに、できないなら仕事してないのと同じだ(笑)。

因みに、派遣会社は仕事を生み出せないことには変わりないので、手配師みたいに「こすい」だけなんじゃないの?
人の上前をはねる商売って、例えば高級クラブホステスの引き抜きとか風俗店従業員のかき集めとかをやっていた○○○の仕事と、基本的仕組みは同じように思えるけど、まあ具体的に何が違うのか考えてみればいいと思う。

言ってみれば、労働者の金をピンハネしている非効率な中間体というだけだな。あれだ、昔、人を集めた人足頭みたいなもんだ。それとも、傭兵集めかな。



ちょ、これ…

2008年12月12日 16時06分08秒 | 経済関連
救済法案は廃案となってしまったそうです。

このままでは、従業員たちはクリスマスを越えられないのでは。
一つでも残ればいい、ということなのかな?

共和党議員たちは、どうしてこれほどまでに反対するのかな。


あーあ。
どうなるんかね。
政府はどう考えるか、だな。

労組が反対、って何が反対なんだろ?よく判らん。
潰れるか、厳しくても法案を通すか、なのに、法案が廃案になってしまえば、会社がなくなるかもしれないのに。

大統領専用車もどうするんだろ?


ちょっと追加です(19時半ころ)。


なんつーか、タイミング悪すぎだな。

「本日の目玉!大規模経済対策!」
打ちましたよ、我々はやりました!!

って、張り切って出したのに、ビッグ3救済案の破談で、帳消しどころか、全然マイナスの方がでかい。

何をやるにも裏目、裏目だろ、これじゃ。

今日のニュースで、誰もが「ビッグ3が大ピンチ?!GMは潰れちゃうの?」みたいになってると思う。だからこそ、日経平均は大幅反落の500円近く下げたのだ。


円高がきつくなり、為替介入するのに1兆円使うのと、外貨準備で積んであるドルを融資に回すのでは大して違いなどないだろう。

日本が金出せって先月書いたけど、金貸すぜ、と言っておけば、一応はみんなも安心するからこんなに円高にはならなかっただろう。そうすると、為替介入の必要性自体がなくせるのに。

1兆円の優先債権みたいにしてもらって、とりあえずであろうと金を融資しておけば、オバマ政権まで延命できるから、その時点でまた変わるだろうに。このままでは、年越しが困難になりつつあるという緊急事態にも関わらず、誰も話をしに行かないし相談にも来ないのかね。

日米関係というのは、強固も何も、初めから大したものはなかったってこと?



続・経済という幻想

2008年12月12日 15時22分16秒 | 経済関連
昨日の続きです。

資本主義経済というものは、元から幻想によって成り立っているシステムであり、幻想であるが故に誤って膨張してしまう部分がある。常に「新たな仕事」を供給し続けることができない限り失業を生み出すことになってしまうので、社会の摩擦が大きくなってゆくだろう。摩擦力の大きなものは、金銭的不満が募ってゆくことによる犯罪増加・暴動・排外主義や平等(全体?)主義的傾向・嫉妬や怨嗟・貧困援助コストの増大、等々であろうか。多くの先進国において、仕事の供給が追いつかないことによる高い失業率というものが見られてきたのではないかと思う。それは社会を不安定化させる重大な要因ではないか。


日本においても、これまで存在していた幻想のような部分は、悉く打ち砕かれてきてしまったのではないかと思う。人間って、ある程度バカである必要があり、全て答えや正解をとことん追究した結果、かえって良くない結果を招いてしまうかもしれない。日本人の場合には、かつてエコノミック・アニマルと揶揄されただけあって、かなり合理的に行動している人たちの割合が高いのではないだろうか、と思ったりする。よく知らないんだけど、海外メディアで日本人みたいな「主婦の節約術」とか「超家計術」といったようなものが人気を博したりするものなのだろうか?日本って、細かいことに対してでも、やたらと努力しようとするんだろうな、と思う。



資本主義経済というのは、ある程度「無駄な出費」みたいなことをやらないと、回っていかないんだろうと思う。みんなが最善を尽くしてしまうと、大勢が余るようにできているのだ。アリやハチの世界と似ているかもしれない。非効率部分があることによって、うまく社会が保たれていることだってあるんだろうなと思う。逆に言うと、余ることによって、音楽、芸術、学問、スポーツといった文化を育てることになるかもな、と。

よく勉強について、「これを学んだって、無駄じゃん。何の役に立つの?」という根本的な問いに答えることが難しいのにちょっと似ているかもしれない。何故それを学ぶとよいのかは正確には判らないけど、きっと何かの役に立ったり、今役に立っているようには見えないけれどいずれどこかで役立つかもしれない、みたいなもんかな。「秋祭りの奉納で米とか野菜とかお酒とかを供えたって、神様が食べた様子はないし、そんなことしても無駄じゃん」というようなものだ。どうせ無駄になるだけなんだから、自分で食べた方が得じゃん、というような、表面的思考がそこにはあるのだろう。仕事や給料にしても同じ。「あいつらなんて、何の役にも立ってないんだから、無駄じゃん」といって、多くを切り捨ててきたら、回りまわって自分にも跳ね返ってくる、みたいなものなのだ。


人々の気を惹けるような「何か」が、資本主義経済には必ず必要なのだろう。それが広告であったりするわけだ。人々に何かの幻想を抱かせないと、余る人たちに仕事を供給できなくなるからだ。幻想から醒めてしまって、「~は無駄じゃん」ということにハタと気づいてしまうと、非効率だからということで捨てられることになってしまう。すると、仕事からあぶれてしまう人々が多くなってしまうのだ。


以前には会社の上司が部下たちを飲み会に誘ったりして、色々と話を聞いたり相談に乗ったり、といった「無形のカウンセリング」っぽいこととか、会社内のコミュニケーション促進とか、様々な効用があったろうと思うのだけれども、そういうのも無くなった。会社の上司は、部下を誘える程度には「給料に上乗せ」されていたであろう。別に、目に見える仕事の成果だけが上司の役割ではなかったからだろう。だから部下達は上司のおごりで心置きなく飲めた(笑、かどうかは知らないけど)。愚痴を言ったりしながらも、明日からの仕事を頑張ろうかという意欲を引き出したかもしれない。
今は、そういうことはとても少なくなったのではないかな。

上司は以前のようには余裕がなくなった。課長といっても名ばかりで、給料は成果に応じてしかもらえない。部下の愚痴さえ聞く余裕なんかないのだ。部下は部下で、若い連中は誘っても「飲み会なんて無駄じゃん」「プライベートまで干渉しないでくれ」と、誰もついてこなくなった。その代わり、自分1人で問題を抱えたまま、誰にも相談したり話したりすることもなく「独りで」辞めていったりうつ病になったりするようになった。

無駄に思えた会社帰りの飲み会が減って、ビール消費が減った。飲食店は潰れるところが多数出た。そういう人たちの収入が減るから経済活動にはマイナスに作用し、すると他の部門の消費も抑制し…と互いに経済成長を阻害してゆくことになるのだ。
そうやって、社会の一部が壊れていくことに、知らず知らずのうちに加担していくようなものなのかもしれないな、と。結局、社会全体で「~は無駄じゃん」というものが増えて、これらを切り捨てていけばいくほど、日本経済を追い込み冷え込ませていく結果をもたらしたのではないかな。


実業団スポーツも切った、文化活動も切った、…そうやって「仕事の数」をどんどん切り詰めていったのが、過去の失われた期間だったのだ。資本主義経済に必須であるはずの、幻想部分を破壊したのだ。公務員の給料にしてもそうかもしれない。賃金引下げを唯一阻止できるのが公務員しかいなかったのに、「あいつらの給料が高すぎるから下げろ」ということをやってしまうことで、「名目賃金は上がってゆくものだ」という社会全体の規範を壊してしまった。そうなると、下に落ちてゆくのが止め処も無くなってしまったようなものだ。誰かの給料を「無駄じゃん、だから下げろ」という風に、互いが互いに引っ張り合っていっただけなんじゃないのかな。それは、社会全体を回りまわって、自分の給料にも跳ね返ってきてしまったということだ。米国なんて、こんだけ危機的とかいわれ、あっちもこっちも倒産の憂き目にあっていて、日本の比ではないダメージなのに、それでも名目賃金は下がっている様子はない。物価上昇率がプラスである限り、賃金は上がらねばならない(仮に実質賃金上昇率が僅かにマイナスとなっても)、と信じているからだろう。


日本では、夜通し眠らないでトラックを運転して、家には月のうち数日しか帰れないのに、安月給しかもらえない。昔はもっと高かったのに、「物流コストが高すぎる、運送業界の生産性が低すぎるんだ」と外国から文句を言われたから、大企業の連中がこぞって「お前らの賃金が高すぎるのはオカシイ」と言って、コストカットという大義名分で運送費を切り下げた。「大学も出てない元暴走族が、ただ運転してるだけじゃん」という評価をして、「無駄なコスト」として切った。バスの運転手も「ただバスを運転してるだけなのに、こんなにもらってるのはおかしい」ということで、安月給で深夜バスを運転させられる。


どうしてこんな有様となってしまったか。
かつては、人の苦労を知る人たちが政治家や役人たちにも多かったのではないかと思うが、段々坊ちゃん・嬢ちゃんたちばかりになって、頭でかっちの世間知らずが多くなったのかな。日常生活の中で人々の仕事に思い致すことはできそうなのに、世間知らずを矯正する為なのか何なのかは知らないが、「民間企業に研修」として出向したりするなんて、馬鹿げた話ではある。働く前に、経験を積んどけや、と思わないでもない(笑、これこそ無駄じゃん、ってやつか)。

頭でっかちバカが増殖した上に、やつらの理屈に反論できる人たちが存在していなかったことも、大きな不幸だった。
「~は勉強したって無駄じゃん」の理屈に対抗することが難しいのと同じく、「~は無駄じゃん」という短絡的かつ表面的な屁理屈に対して、誰も有効な反論をしなかったのだ。一見役に立ちそうにない無駄と思えることの裏側にある、「何かの意味」について、誰も考えなくなってしまったということだ。そうやって幻想から急激に目覚めさせると、今回の経済危機の如くに経済は収縮するのだ。


だから、資本主義経済を維持していこうとする限り、新たな「魅力あるもの」や「気を惹くもの」を無理矢理にでも作り出し、仕事を創造していかないと、仕事を奪われ追い立てられていく人々を生むだろう。魅力だの気を惹くだのというのは、単なる幻想みたいなものに過ぎず、「クラシック音楽は何の役に立つのか?」「映画鑑賞で仕事ができるようになるのか?」みたいに言い出すと、仕事はどんどん減ってゆくだろう。

世界全体を考えると、地球温暖化やエネルギー問題なんかは、必ず新たな仕事を生み出す原動力となるので、だからそれを主導した人たちがもしいたとすると(陰謀論は割りと好きですからw私)、判る部分もあったりするかな、と思うこともある。一時的には苦しみもあるのだけれども、世界中の人々に仕事を分け与え食べさせ続けねばならない、という、地球規模の経営という視点で考えると、たとえそれが幻想に過ぎないとしても、その「無駄とも思えること」の裏側には、それなりの意味があるのかもしれない、と思えたりする。勿論、一部には新たなgreedっぽい人たちも生み出してしまうとは思うのですけれどもね。

新たな仕事を生むやり方というのは、一部の金儲け勝者を生むけれど「人々に信じ込ませて」資金や需要を作り出す米国的手法か、地味で落ちついてるけど他人へのお節介を焼く非効率分野(=多くは公的分野)を充実させる欧州的手法というのが、過去に試みられてきたのであろう。たとえ幻想ではあるとしても、そうやって仕事を作るしかないのである。



これはよい記事だ

2008年12月11日 21時47分50秒 | 経済関連
多くの人にお読み頂きたいですね。
日本のマスメディアは、負けないように良い記事を書く努力をした方がいいですよ。

ドルはポンドの轍踏むか、19世紀の危機が示唆する危機後の秩序 Reuters


一応感想を述べておきますと、ドルは直ぐにはその地位を明け渡すことはないだろうと思います。世界経済に対する米国経済のウェイトがどうなるかによりますね。見通しとしては、中国等の台頭によって今後低下していくだろうと思われますので、必要とされる量が減るでしょう。しかし、それには非常に長い時間がかかるものと思います。早くても数十年単位、長ければ100年くらいかかるでしょう。

そうなると、その間の通貨体制がどうなっているか、ですが、人類がより賢くなっているかもしれませんので、金本位制を捨てたのと同じように、別な新たな体制が構築されていく可能性だってあります。


具体的には、世界共通単位を作ったのと似てますか。度量衡関係ですね。あれと近いかもしれません。

架空の通貨単位を仮に「キン」と呼ぶことにします。

で、各国の経済指標や国際取引データなどからキンの指数を合成して、これを標準通貨単位として扱う、ということでしょうか。単なる2国間取引による為替相場ということにはならないということになるかと思います。通貨バスケットの方に近い感じですかね。


共通単位があると、

1インチ=2.54cm、一寸=3.03cm

という具合に、共通単位で表示可能となります。これまでの為替相場というのは、「1インチが何寸か」というのを通貨間それぞれでやっていたわけですが、世界共通単位を導入すると、メートル法によって統一的に評価できるようになるのと同じくできるわけです。

例えば、

・1ドル=1キン
・1円=○キン
・1ポンド=△キン
・1ユーロ=◇キン

ということですね。
これは、ポテチ一袋が100円で、缶ビールが200円の時、わざわざ缶ビールとポテチを直接交換しなくとも、共通単位である「貨幣」というものを通じて、価値評価が可能なのと同じようなことです。なので、自国通貨が「キン」に対してどの程度の変動とか価値を持つのか、ということを評価すればよくなるだけですから、割と簡単ではないでしょうか。ただ、「キン」を合成するということになりますと、これはもう政治的争いとか、学問上でも喧々諤々といった、まさに嵐の様相となることが容易に予想され、そう簡単には導入できないでしょうね、多分…。

キンに合成する時、今のジンバブエみたいな国の通貨の指数はどうすんだ、みたいな問題なんかも起こってきてしまうかもしれませんしね。実験データで、どう見ても一つだけとんでもなく外れているデータは、大間違いとかミスとかそういうことがあったりすることが多いかもしれませんが、そういうのも「俺たちの指数に一緒に混ぜなければならんのか!」みたいに、文句が出たりとか。少数国が不況に落ち込んで、裕福な国が憎いので「どうせなら道連れにしてやるぜ」みたいに、ヘンな指数となるようにワザとと突拍子もないようなことをするとか(笑)。

そういうのも防げるような体系になっていないとダメだろうと思うので、中々これが難しそうなんですよね。

どうなんでしょうか。
ま、素人考えだから、本気にしなくても別にいいですけど(笑)。




経済という幻想

2008年12月11日 21時03分57秒 | 経済関連
世界規模で起こってしまった信用収縮は、想像を絶する被害額となったであろう。これが金融システムの脆弱性ということである。資本主義の根源的な弱点と言ってもいいかもしれない。capitalism は自律能を有しているし、autoregulationも備えてはいるけれども、時として誤作動や調節能を超えた危機的状況を生み出すようなネガティブ・フィードバックが働いてしまうことがある、ということだ。

だが、先人の知恵と経験が「経済学」という体系をもたらし、知識の集積によって弱点克服の為の知見を得てきた。今あるcapitalism とは、完全自律型のシステムではないのである。どちらかと言えば、「Controlled Capitalism」と呼ぶべき、半調節型であると思われる。少なくとも、「神の見えざる手」が差配するというよりかは、平凡な人間でしかない中央銀行総裁やその他経済閣僚などの影響力の方が断然大きいであろう。control という側面は、中央銀行の金利調節や為替介入などの所謂「金融調節」的な手法があるということである。それがないと、システムが暴走したり破綻危機の直面することを止められない、ということが幾度も起こってきたからであろう。自由放任の経済システムだけでは、adverse event による甚大な被害を防げないことがあるのではないか。それは自由放任である自然によって、大規模災害が起こってしまい被害を受けるのと似たようなものだ。

過去に多くの経済学者たちが「laisser-faire」的な放置を求めてきたのは、殆どが「間違った手出しをするくらいなら、放っておいてくれ」ということであり、大抵の場合には良くない結果を招いてきたからだろう。チェスの対戦をしている時に、脇で見ていたおじさんが余計なお節介で、「ここはこの一手だ」と勝手に駒を動かすようなものだ。チェスをしている2人からは、「やめて!余計なことしないで!」と反発を食らうであろう。それと同じようなものだ。

しかしながら、対戦している2人よりもこのおじさんの方がはるかに賢くてチェスが強ければ、2人が勝手に指しているよりも「よりよい一手」を指せるのだ。これまで判ってきたことは、経済システムは「よりよい1手」を指せる人の数は限られているだろう、ということだ。おじさんがいないより、いた方がいい、ということが判ったので、中央銀行総裁とかを作った。ただ「ダメなおじさん」を選んではいけない、ということは言えると思う。ダメなおじさんの場合には、「余計なことしないで」という結果となるのが目に見えているからだ。まあ、人類の歴史の中では、資本主義のシステムは発展を遂げてきて、その過程の中においては「酷い間違い」を減らす為の努力や試みは続けられてきたであろう。今回の金融危機には、まだ不十分にしか作動しなかったのは確かであるけれども。だからといって、control が一切必要のないものだ、ということにはならないだろう。


これまで幾度か取り上げたが、また触れておきたい。
世界に拡散する伝染病、「不安」


この中で、次のように書いた。
『「自分は損失を蒙らないように」と思って、売りに出す(キャッシュに換えたり安全な国債を買ったり)為に価格は値下がりを続けることになる。日本の土地はそうして坂道を転げ落ちていき、デフレの長いトンネルに突入したのだ。今は金融市場でこれと同じことが起こっている。「オレも売らないから、お前も売るな」と、全員が恐怖に耐えることができれば価格下落は止まるのだが、みんな「我が身可愛さ」で売り続けるし、自分自身が大量売り(投資資金は莫大でレバレッジもデカイから)の主体となっているから、下落の流れが判っているので「ベア」に張っている連中もいるだろう。この流れを堰き止めない限り、深刻な経済収縮が起こるだろう。』

元々はというと、サブプライムローンの借り手が払えなくなるとデフォルトになる、というのが発端であった。たとえ世界中にサブプライムローンの一部が債券に組み込まれていたとしても、「その部分は全部債務保証します」と宣言するだけで、ありとあらゆる債券価格下落にはつながることはなかったのかもしれない。それは米国内でどうにか処理してもらうことが可能だった。返済困難者には元金のみ返済してもらい、金利部分は一部又は全部をプレゼントしたとしても、せいぜい数十兆円程度で済んでいたであろう(勿論元金が払えないような人たちは差し押さえるしかないでしょうけど)。日本だけではなく、欧州やアジアの多くの国々の経済状況は、大崩落を起こす前の状態のままで助かっていたであろう。世界経済の損失は多くても100兆円程度でしかなかったであろう。


しかし、市場というのは、自由にさせておくと、今のような事態を招いてしまう、ということなのだよ。
参考記事に書いた如くに「オレも売らないから、お前も売るな」というのをもしも完璧に実行できていたなら、世界の株式市場で数千兆円もの収縮になることはなかった。
投資家のバランスシート上では、資産側だけが急速に萎んでゆくので、それに見合う負債でなければならないはずが、負債だけは「縮むことなく」残り続けてしまう。なので、投資の一部を清算するとか、追加資金を入れて値下がり分を補填し続けなければならなくなってしまうのだ。でも、急激に資産価格下落が起こってしまうと、バランスシートの著しい不均衡が起こる為、追証とか追加担保とかを出せということになるし、その為に誰かが大規模に売ってしまうので資産価格下落を招くという、悪循環に陥るのである。これが今回の被害規模を大きくした理由だ。


どうにかサブプライムローン関連の処理をつけておけば、高々100兆円の被害金額で済んだものを、その100兆円を出し惜しんだことによって、世界中の富の数千兆円を失った、ということさ。個々のプレイヤーは、それぞれが「損をしないように」と思って、売り逃げて資金退避などをしたりしてしまったでしょ?「サブプライムな方々の為に100兆円も税金を使うことなど絶対にできない」と考えていたのだろうと思うが、正しい意見かもしれないのだけれども、そのせいで何十倍かの損失を食らう結果をもたらすのだよ。ベア・スターンズも、リーマンもAIGやフレディ&ファニーなんかも、みんな助かっていただろう。GMだって、今頃にはまだジェットで飛び回っていることができたかもしれない。


言うなれば、「自分だけは損したくない」と思って行動する結果が、「オレも売らないからお前も売るな」の強固な輪を崩してしまうということです。この信頼関係にヒビが入り、互いが取引相手に対して疑心暗鬼が強まっていく、ということになりますかね。すると、資金を回さないようになる。資金に窮すると、仕方なしにレバレッジを外して株や債券などの資産売却などを生む。特に、毒のような債券は流動性が枯渇してしまっていると、株式のような流動性の高いものから売ってしまうのですよ。そうすると、売らずに耐えていた人たちの資産価値まで下落させてしまう、という、玉突き現象のようなことになってしまうのですよ。

これまで考えてきたのと、あまり違いはなかったような気がする。日本の土地や株式市場がどのようにして「下落スパイラルにハマっていったか」、というのを考えた時の印象と、大体同じなんですよ。

約3年前に書いた>デフレ期待は何故形成されたのか・3


誰かが抜け駆けして売却に回ると、資産の価値下落をもたらし、それは次々と割と健全だった人たちの資産にまで波及してゆくのだ。値下がりするから、たとえ損であっても処分せざるを得なくなり、投売りを誘う。それがまた資産価格下落となる。以下、繰り返しのループですね。上がってきた時の逆経路を堕ちていくわけですよ。
この記事中で説明した通りですね。これを防いでいたなら、全世界でこれほどのダメージを受けることはなかっただろう。この経済危機によって仕事を失う人たちが数百万人にのぼるだろうが、幻想に支えられていた富が萎んでゆく時には、greedな方々(笑)だけを痛めつけるのではなく、多くの普通の労働者たちなのである。富が大きくなることは、新たな仕事を生み出す力もあるのだが、急激な収縮時期には仕事を失わせてしまうのだ。「見えざる手」はavaritia だけを戒めてはくれない。ちょっと理不尽ではある(だからこそ、大銀行や大企業だけ救って、一般労働者たちを救ってくれない、という不満が出されるものと思う)。神はgreedを許しはしなかったかもしれないが、同時に厳しい試練を与えられた。


この急激な収縮を防ぐ唯一の方法は、何度も書くが「オレも売らないからお前も売るな」ということで、損失の恐怖に耐える以外にはないのである。直接のサブプライムローンの借り手や貸し手が、世界中の株式市場で強欲な取引をしていたということではないのである。大規模な収縮が起こると、原因がサブプライムローンであるにも関わらず、直接的にはあまり関係のない他国にまで波及し、ありとあらゆる資産価値が下落し富を失ってしまうのである。sapientia が欠けていたせいかどうかは、私には判らないが。

何故これほど世界中に損失が及んだかといえば、大規模な投資主体が主に欧米金融機関だったからで、ごく限られた数しかいない彼らが世界中のどこにでも投資をしていたことで、アメリカでの多大な損失が全世界中に輸出されてしまったのである。

こうして「連環の計」にハマってしまった世界経済は、資産価格の同時下落と同時不況に見舞われたのだった。
幻想から醒めてゆくと、無残な姿が露わになってしまうということなのかもしれない。


が、私自身は、あることに気づいたような気がするのである。
それは、資本主義体制を維持するという限り、幻想は必ず必要なものなのではないだろうか、ということだ。

貨幣にしても国債にしても、「それが何故通用するのか」というのは、確実な裏付けがあるわけではないのと同じようなものだ。誰もが信じているというだけ。そういう幻想が必要なのが、経済というシステムなのであり、capitalismなのではないかな。世界経済は、ここ数年続いた幻想のおかげで、多くの人々に仕事が生まれ、経済的余裕ができ、かつてないほどに順調と言われていた。十年ほど前までは途上国と思われていた、中国、インド、ロシア、ブラジルなどが経済発展を遂げ、国際会議でも存在感を強めていった。これらの変化が果たして「悪いことであったのか?」というと、それに同意する人たちは多くはないのではないかと思う。

greed な人々を生み出してしまったのかもしれないが、一方では貧しい人々に対しても多くの仕事を生み出したという効果があったことは確かではないかな。そして、幻想が崩れていったことで人々から仕事を奪い失業させたともいえる。この結果が、果たして人々の幸せをもたらしたのだろうか?この結果に満足している人たちは、どれほどいるのだろう?

浪費が世界環境を破壊するから、止めておいて正解だったとか?それもどうなんだろう。確かに強欲なアレっぽい人たちは存在していたかもしれないが、それは全体から見ればごく一部に過ぎないし、そういう業界の人々は大体吸収合併されたり転職できたりしてかなり助かっているのでは。でも、一般の工場労働者たちとか、時間給で働くような人たちは、そうはいかない。切られたら、切られっぱなし。行き先が見つからないのだ。今回の金融危機で、大金持ちの人たち―たとえばリーマンの人とかGMの人とか―から、高級自動車やプライベート・ジェットを取り上げることに成功したのかもしれないが、ダメージがその比ではないのが、労働者たちから仕事を奪うということなのだ。

資本主義が人々に競争を強いて限りなく効率化を追及してゆくことによって、多くの場合には人々から仕事を奪ってゆくだろう。工場労働者を思い浮かべれば、判り易いだろう。昔100人の人力でやっていたのと同じ生産量が、1人とかゼロとかでできてしまう。仕事を奪われた99人か100人には、新たな仕事を常に見つけ出してあげないと資本主義社会というのはうまく回っていかない。いつも失業の淵にいる人々に何らかの仕事を供給し続けないと、みんなの大嫌いな言葉でいうと―「効率化」「合理化」や近頃は「リストラ」「契約打ち切り」などが産業界の後ろからいつもヒタヒタと迫ってこられるので、追いつかれてしまった人たちから順に失業に転落していってしまうのだ。鬼ごっこでひたすら逃げ続けるようなもので、能力を高める・効率を良くする、みたいなことが日々行われていけば、かなり多くの仕事が10人がかりだったものを8人に、5人に…そしていずれ1人に…と極限に近づいていくから、鬼から逃げ続けるというのは、基本的に難しいのである。そうならないのは、割と特殊な領域の仕事だけだ。


そういうことを考えると、「幻想によって100万人分の仕事を作れるなら、それのどこが悪いことなんだ?」と私に問われたら、何と答えるかはまだ見つけられない。


恐らく人々に最も必要なのは、尊厳なのだろうと思う。お金も大事なんだけれど、仕事をするということを通じて得られる本人の尊厳なのだと思う。それが失われる時、人は不幸に落ちるのだろう。それを減らす為に、幻想で仕事を生み出すか、非効率でもいいから仕事を割り当てるか、ということが、過去に試されてきたのではないかと思う。前者が資本主義経済的なアプローチであり、後者は社会主義経済的なアプローチではないかな、と。



続きを書く予定ですが、長くなったので、とりあえず。



「お金LOVE」を打ち砕け!

2008年12月10日 13時20分13秒 | 経済関連
世界的な金融緩和の実施によって、目下のところ日本だけが大きく取り残されている。財政出動のアナウンスメントについても、欧米諸国、中国や豪州までもが「景気対策、やります、断固たる決意を持ってやります!」と、国民だけではなく内外に向けて頑張っているのに、何故か日本は「一応やるよ、来年あたりにやろうかなあ~」ということで、尻切れトンボ状態。景気対策をやると言って、バブル後最低だった株価はどうにか反転したが、その効果は長くは続かなかった。市場は期待ハズレだった、と投資意欲が萎んでしまい、再び日経平均は8000円割れという事態に逆戻りした。これは明らかに市場が「ああ、これはダメだな」という評価をしたものと思われ、みんな嫌気が差したのだ。Economist誌には、日本の統治能力について重大な懸念を表明されてしまったが、それは世界共通の認識なのではないかと思われる。日本国民の心境としては、いっそのこと政治家たちを総入れ替えでもしてもらって、外国人のリーダーに来てもらった方がマシなのではないかとさえ思える。それが無理な相談なのだ、ということは重々承知してはいるのだが。


チェスはあまりよく知らないけれども、将棋や囲碁といった伝統的ゲームにおいては、「最善手」を的確に指せれば(囲碁では「指す」のではなく「打つ」だけど)よいが、必ずしも全部を間違えずに指せるかというと、難しい局面だってある。そういう時には、「次善手」であろうとも、敗着となるような「悪手」を回避することが必要なのであり、敗着でない限りは挽回可能なことは多いのである。火急の事態で、「一手30秒以内にお願いします」ということが判っているのに、30秒以内に指さなければ「時間切れ負け」になってしまうのは当たり前なのである。「今が大事なのだ」ということの意味がまるで判っていない。最善手かどうかなんて、その時にはすぐに判らないかもしれないのだ。局後の検討で並べ直して検討すればいい話なのに、最善手じゃないからダメだ、というような割と瑣末な部分にやたらと拘る政治家たちが多すぎるのである。


金融政策を司る日銀にしても、「しょうがなく」利下げに踏み切ったものの、彼らの失敗は年内に明らかとなってしまっただろう。企業の資金需要逼迫には対応できなくなっている。資金調達がかなり厳しい環境となっているだろう。心筋の酸素需要と同じようなもので、「血流をこっちにも下さい」と細胞があちこちで求めているのに、血流を「絞っている」からこそ需要のある場所に血液が回っていっていないのである。資金需要があるのにも関わらず、日銀がそれに見合う必要な金を供給しないので、金融機関を通じて企業に資金が回っていっていないのだ。まことに愚かとしか思えない。


そもそも日銀は、経済学の基本的な原理さえも無視しているかのようにしか見えないのである。
デフレで何か良い事があったか?10年どころか、「Next Lost Decade」に突入しているだけではないか。あと少しでバブル崩壊から20年が訪れようとしているのに、デフレ期間が10年以上も続いた責任をどう考えているのか?ここまで継続していても、何も変えられないのは異常だ。米国のFRB議長をよく見てごらんよ。かつては賞賛の的であった、あのグリーンスパン元議長でさえ「これが良くなかったかもしれない」と反省の弁を述べ、素直に認めているではないか。バーナンキ議長にしても、対応が遅れたかもしれない、認識が甘かったかもしれない、と、自らの非を否定することなどせずに、「次の1手」に賭けてやるべきことをやってきたではないか。それが当たり前なのではないのか。少なくとも日銀には、こうした姿勢は全くない。

失敗してしまったことは、既に過ぎたことなのだから、しょうがないでしょう?局面を戻して指し直せるようなものではないでしょう?過去の失敗は失敗として、次に活かす為にこそ失敗から学び同じ轍を踏まないようにするのが当たり前でしょう?別に、国民に100兆円を返せ、とか言っているわけではないですよ。誰も、日銀総裁の退職金を返せ、とは言いませんよ。ただあるのは、今、ベストを尽くせ、ということだけです。できないことをやれ、と言っているのではない。できることの中から、最善を目指せ、ということですよ。これは野球でも同じだ。160kmの剛速球を投げて抑えろ、なんて言ってない。投げられない球を投げろ、ではなく、球速は遅くてもいいから、持ち球のカーブ、スライダー、チェンジアップ、ストレートを駆使して、抑える方法を考えろ、ということだ。前の打席にションベンカーブを投げてホームランを打たれたのに、また同じくカーブを投げて勝負するというその愚かな考えがオカシイと言ってるのだよ。1打席どころか、その前の打席も、その前も…と、毎回毎回同じようにミスを繰り返し、「ここはカーブしかない」という考えに凝り固まっているのが、誰がどう考えてもオカシイ、と言っているのだ。普通、「さっきのカーブは失投でした」って認めるだろう?それができずに、「いや、ここはカーブで絶対間違ってないんだ」と、同じ球を投げて再びホームランを打たれているのだよ。これを愚かと言わずして何と言う?


デフレというのは、簡単に言えば、みんなが「貨幣を最も愛してしまう」という気持ちになってしまっているようなものだ。どうして、そんなことになってしまうのかというと、みんなが「お金が一番価値が高い」と信じてしまうからだ。今持っている1万円が、来年とか再来年になると、1万円以上の価値を生むと信じているからだ。そうなるにはいくつかの要因があるのだろうと思うが、将来時点の不確実性が怖いとか、モノの値段が下がっているだろう、という見通しが定着しているといったようなことではないだろうか。以前にも書いたが、デフレとの親和性が高くなってしまっている、ということなのだ。

かつての物価上昇がある水準にあった時代というのは、現金や預貯金以上に実物資産の価値上昇の方が高いと信じられていたので、着実に上がっていったものと思う。例えば100万円の土地を買うことを考えるとしよう。預貯金の金利が4%であっても、10年後に土地の値段の方が高くなっているだろう、という見通しがあれば、100万円を貯金して10年分の利息を受取るよりも現時点で土地を購入しておく方がよい、ということになる。4%の金利であっても、インフレ率が2%とか3%とかであると、実質金利は1~2%にしかならないので、実物資産の成長速度の方が速い、ということが多かったからだ。だから、現預金で持つよりも現時点で実物資産に移し変えた方がいい、と考える人たちが大勢いたのだよ。それは大体経済合理性があって、その通りになっていたのだ。

土地の値段が上がるというのはどういうことかというと、土地そのものに新たな価値が生まれるということはあまりない。そこの土地に油田や金鉱でも発見されれば別だが、普通はそんなことは滅多にないからだ。けれども、香港の土地の単価とテキサスの何もない土地の単価では、値段が違う。それは住んでいる人々とか経済環境が違うからだ。ルクセンブルクは国民1人当たりの平均所得が高いことで知られるが、そういう高収入の人が住むというだけで土地の単価は高くなる。デパートや商店街の単価が異なるのと同じだ。売上の多い土地は、それだけ多くの価値を生み出せる場所になるので、高い値段で取引される。銀座と地方の片田舎にある「銀座通り」とでは、当然売上高が圧倒的に違うので、それに見合う単価となるに決まっているのである。勿論、インフラ整備の進み具合とか、安全度とか、便利さとか、周辺環境とか、そういう様々な要因があるとは思うが、基本的にはその土地の上で繰り広げられる経済活動の価値の大きさによって、単価は変わってくるだろう。年収1万円の人が住む土地と、年収1億円の人が住む土地では、後者の方が圧倒的に高いであろう、ということだ。時間価値が異なるというのと同じ。経済価値(経済規模)の違いは、基礎的条件に影響するのである。

年収の多い人がその土地の上に存在している、というだけで、土地の価値は上がるということだ。国ごとで見れば、経済規模に応じた単価というものがでてくるだろう、ということになると思う。そこの土地から生み出される経済規模が大きい国ほど、単価は上がるだろう。これはデパートのテナント料が、売上の多くなる場所が単価は高く、不利な場所は単価が低いという設定になるのとほぼ同じだろう。経済規模の大きい国ほど、生きていく為の最低限必要になるお金が高くなるのと同じようなものだ。中国では年間5000ドルあれば生きていけるかもしれないが、日本ではほぼ無理だ。また、面積が大きいほど安くなるのも当然だ。日本みたいに狭ければ単価は上がるし、ロシアみたいにだだっ広ければ安いに決まってる。需給で決まる、という面があるのだから。面積当たりの売上が100万円の場所と、それが10万円の場所では、場所代が後者ではかなり安くなるということと一緒。

結局、経済規模と経済成長が土地の価値を高めることになるだろう、ということだ。そうなると、長期的な名目成長率と金利水準との比較で、現金で持つか実物資産として持つかという選択が行われることになるだろう。かつての日本では、名目成長率が高かったので、実物資産である土地の方が好まれた、ということだろうと思われる。株式の価値増大、ということについても大体同じようなもので、企業の成長率が長期的な金利水準よりも高ければ、株に投資した方がよいと考えるだろう。

多くの人々は、銀行の利息が高くなるといっても、せいぜい10%以下程度にしかならないはずで5%以上の利息が付くことはあまり期待していなかったのではないだろうか。利息を10%も付けてくれるくらいなら、預金者には5%の利息にしておいて、残り5%分は金融機関が丸々頂戴した方が得になるのだから、金融機関がそんなに高い利息を払うはずはない、というような「常識的なこと」も考慮していたかもしれない。そうすると、期待する金利水準にはおのずと「頭打ち」の見えない上限のようなものが、判断の中にはあったのではないか。けれど、インフレ率が高く4%くらいもあるとすれば実質金利水準は僅か1%に過ぎず、そうなると土地を買っておく方が実質成長率が上回れる、というような見通しをしていた、というようなことだ。経済規模や経済成長率の実感を通じて、土地の価値成長を予想していたのであろうと思われるのだ。

しかし、バブル崩壊を通じて、過去の判断基準が通じない部分が増えてしまい、将来予測をする為の「過去の経験則」みたいなものが壊れてしまったのだろうと思う。これに加えて、デフレだった。デフレになると、給料もモノの値段も下がっていくのを目の当たりにしてしまい、そうなると実物資産が「将来どれくらい上がるか」ということが考えられなくなっていったかもしれない。これまで公的に所有されていた土地や企業の保有する土地などが一斉に売りに出され、供給過剰となって価格は下落を続けてきたわけだし。こうした過程を通じて、実物資産よりも「お金」の方が信じられる対象となってしまったのだ。「貨幣愛」とも言うべき、信じられるのはキャッシュだけ、「お金LOVE」ということになってしまったというわけだ。


このような強力な「お金LOVE」から考えを変えさせる為にはどうするかというと、「お金の価値」を下げるよりほかないのである。日銀は土地の資産価値を上げることはできないが、お金の価値は変えることができるのだ。それは資金供給を通じて、お金の需給を変更できるということだ。交換取引で、バナナ10本とカボチャ1玉が等価であるとしよう。ある時、バナナが大量に取れすぎてしまい、バナナの供給が増大すると、カボチャの価値はバナナ15本分になる、というようなことだ。これは両者の需給で変動するものだろう。交換のやりやすさの為に、バナナ10本が200円、カボチャ1玉が200円というふうに貨幣で換算されているのと同じだから、バナナの供給が増大すると価格が下がるのでバナナ15本で200円という具合になるということだ。これと同じで、カボチャ1玉と200円を交換できる、という需給関係から、カボチャ1玉を300円と交換させるようにすると、相対的にカボチャの価値が上がったように見えるのである。何もしないと300円にはならない。が、貨幣をこれまでよりも多く供給すれば、「貨幣そのものの価値」が相対的に下がるのだから、300円にできるのだ。これは土地であろうと、何であろうと、貨幣との交換が可能なものは全部だ。

デフレを止めさせる為には、貨幣供給を増大させ、貨幣との需給関係を強制的に変えさせることによって、物価下落を止めることはでき得るはずなのである。日銀はこれをやろうとはしないのだ。人々に将来の貨幣価値は下落してゆくでしょう、実物資産価値は上がってゆくでしょう、という見通しを復活させることが、デフレ脱却には必要なことなのだ。ジンバブエのようなことになると、現実に貨幣よりもバナナの方を信じるようになっているではありませんか。明日になれば貨幣価値の方が大幅に下落してゆくだろう、という見通しが定着してしまっているからこそ、金を持っているよりも今すぐバナナという実物に置き換えた方が得だ、ということで、お金を溜め込む人なんて誰もいなくなってしまうのですよ。人間というのは、こうした実感や実体験によって判断を行っている、ということだろうと思いますよ。


日銀の資金循環統計(08年6月末)を見ると、預金983兆円のうち、貸出に回っているのは僅か493兆円でしかない。国債等債券が490兆円もあるのに、だ。家計の借入が322兆円だが、非金融法人(企業などだ)は379兆円と、かつて500兆円以上あった借入残高と比べるべくもない。負債が少ないと、今回のような危機には強いということは言えるかもしれないけれどもね。95年以降のデフレ期間になってから、非金融法人の金融負債残高が減少していっている傾向は出ているのではないかと思う。

マネーストック統計では、広義流動性(平残前年比伸び率)を見ると、07年第2Q3.4%、同3Q3.1%、同4Q2.8%、08年第1Q2.4%、同2Q1.1%、同3Q0.7%と、昨年末以降の低下傾向が明確に出ているのである(07年8月には既にサブプライムショックが明らかとなっていたのだから)。月別で見ても、ずっとプラスだったものが10月には-0.1%、11月には-0.4%と、明らかに変調を来たしているのだ。季節調整済前期比では、08年第2Qに-2.3%と落ち込み、同3Qは0.7%とやや小康状態を保ったものの、月別で見れば今年3月には0.3%と急落し、以後マイナスが軒並み続いていたのだ。月別では4月や10月というのが特に酷いということが判るが、これは株価急落局面と一致するだろう。流動性を絞って、一体全体どうする気なのかが全く理解できない。データを見れば、明らかに兆候が出ているではないか。利下げせずに冬まで引っ張ったせいで、ダメージが深刻化したようなものだ。需要が逼迫しているというのに、供給を絞ればそりゃ「価格が上がる」というのは経済学の教えるところで、貨幣の方を高めてどうすんだよ。


日銀が預金金利を上げたいという願望があるのであれば、名目金利が上がるようになっていないとダメに決まってるでしょう。インフレ率3%+実質金利1%であれば、4%の利息がもらえますって。実質金利がゼロか-1%であっても、今よりは高い利息となるでしょうね。そういう経済の原則というものを無視しているのは日銀なのだよ。インフレ率を上げない限り、金利水準は永遠にゼロに張り付いたままだ。人々の将来見通しを元に戻してあげない限り、デフレの罠からは逃れられない。それには、日銀と政府が協調し、かなり強力な手を用いない限り、「お金LOVE」を変えさせることなどできないだろう。



産業が死ぬ時

2008年12月09日 18時35分20秒 | 経済関連
「ビッグ3」の救済プランについて、今もなお米国内の批判が消えたわけではない。これは、私から見れば、ちょっと不思議に思えるのである。海外の同業者たちなどから「政府が救済するなどもってのほかだ」というような文句が出るなら判る。だが、何故かUSにおいては、同じアメリカ人たちから「救うべきでない」という意見が多数出されてしまうのである。


〔焦点〕GMGMN破産回避へ、痛みは投資家・債権者・従業員などで分け合う見通し マネーニュース Reuters

ロイター記事は判り易く書かれているので是非お読み頂きたいが、特に気に入った部分を以下に引用しておこう。

『ゴーディアン・グループ(ニューヨーク)の投資銀行・再編スペシャリスト、ピーター・カウフマン氏は「問題はワシントンに行き詰まった状況を解決するアイデアを持つ人がいなそうなことだ」と述べ、議会は民間投資家に対し、GMと再編計画を練り上げる期限を設定すべきだと指摘した。合意が成立すれば連邦政府の資金を投入すると約束し、成立しなければ投入しないと警告すべきという。同氏は「だれも瀬戸際に追い込まれるまで何もしない。来春、ビッグスリーがわれわれのところに戻ってきて、(チャールズ・ディケンズの小説)オリバー・ツイストのように『お代わりをいただけますか』と、ねだるだろう」と述べた。』

カウフマン氏の感性と私の感性は似ているということが判って、大変嬉しい。
オリバー・ツイストを比喩に使うなんて!
ジェットで救貧院を訪れるジェントルマン(笑)

因みに、カウフマン氏が再編スペシャリストだからといって、「買う不満」ではないので、念の為。


またABI研究員のウィリアム氏の指摘する『われわれが相手にしているのは破綻の瀬戸際にある産業ではない。破綻した産業だ』という意見は、ある意味においては正しいのかもしれない。けれども、産業が死んでゆく時には、多くの悲劇が生み出されるのだ、ということを言っておきたい。


かつて日本でも似たような経験をしてきた。切り捨てたことが、逆にダメージを大きくすることだってある。
経済が酷く落ち込んでしまう時、破綻させて切り捨てればいい、という意見は学問の上では間違いじゃないかもしれない。しかし、現実世界では、そう簡単にはいかない場合もあるのではないかと、私は思っている。死という運命から逃れられないのが同じであるとしても、いきなりの「突然死」と、老衰で静かに死んでゆくのは違うのだ。

働き盛りの父親が今日家のドアを出ていったのに、家族との夕食に戻ってこなかったとしたらどうだろうか?この一家はどうなっていくと思うか?明日から、どこからもお金が入ってこなくなるのだ。そうではなくて、一家の大黒柱の父親ではなく、弱々しい100歳のおじいちゃんが亡くなるのと、どう違うであろうか?
家族の死は、勿論悲しい。おじいちゃんだって、お父さんだって、どっちも悲しむことには違いない。けれども、一家の生計とか収入状況を考えると、父親に死なれたら、それは大きな打撃を受けるだろうということは誰しも判るであろう。今の「ビッグ3」の死というのは、まさにそういう突然死に匹敵するものなのである。


かつて日本では、悪しき官業の代表格のように言われていた「国鉄」という国営事業があった。この鉄道事業を民営化しようということになり、当時の中曽根総理が民営化実行に踏み切ったのだった。約27万人以上いたといわれる国鉄職員は、約20万人程度まで減らされ、民営化会社に採用されない人々が外へ出された。この他にも、JRに採用されず他の業種に転職もせずに、ずっと残った人たちもいたのだった。彼らの労働問題は、今世紀に入ってもなお闘争が続けられていた。国鉄時代の労組で有名だった「国労」「動労」などの内部的ゴタゴタや、労働運動や組合活動そのものの衰退といったこともあったが、要するに、規模のかなり大きな産業の「ドラスティックな変化」というのを実行しようとすると、社会問題がかなり発生してくるということを言いたいのだ。民営化移行期には、国鉄職員の自殺などが数百人にものぼり、数千人規模の人々が労働・雇用などの長期紛争に巻き込まれていくことになった。米国であると労働者の流動性はかなり高いので、大量の失業者を生むような産業死があっても大丈夫なのかもしれないが、日本の労働市場がかなり硬直的ということを割り引いたとしても、労働者たちには大きな負荷を強いることになるだろう。


以前に長崎に訪れた時、グラバー園に行ったことがある。
トーマス・グラバーの資料館のような所にも足を運んだ。彼は、明治維新頃に長崎で活躍した英国人ビジネスマンで、日本人女性と結婚し日本で実業家として暮らしたのだった。グラバーは英国人であったから、新規開発投資に積極的だった。その一つが、炭鉱事業であった。高島炭鉱の開発を鍋島藩との合弁で推進し、後に三菱財閥を形成する岩崎弥太郎の手に渡った。

その後に日本国内の各地で炭鉱開発が進められ、いくつもの炭鉱町が誕生していった。日本の雇用の一部を担う産業になっていった。しかし、石油の時代がやってくると、炭鉱の必要性というのは薄れていくことになったのである。日本でわざわざ石炭を掘らなくても、海外から安く輸入できるようになったこともあるだろう。そうした時代の流れの中で、全国にあった炭鉱は一つ、また一つと消えていった。産業がまさしく死んでいく、という過程であった。そんな時代を描いた『フラガール』という映画が日本で好評を博したが、死に行く炭鉱とそこにいる人々の苦悩や葛藤というものを判り易く表現された作品だった(興味のある人は鑑賞してみることをお勧めする)。

グラバーが開発した高島炭鉱は、それでも100年の歴史を刻んだ。1987年まで存在した。
高島の町は、かつて炭鉱夫たちで賑わい、町の全てが炭鉱とともにあった。炭鉱関係の従事者は町の約9割にも及んだ。そうであるが故に、閉山によって町の大半が廃墟になってしまった。町を出て行かざるを得ない人々が続出し、人口は僅か数年で3割に落ち込んだが、それは以前から十分予想されていたことだった。閉山に至る過程の中で人口減少が続いてきたのであり、10年か15年程度で町の人々が半減していたからだ。こうして、由緒ある炭鉱と高島の町は、産業とともに死んだのだ。

炭鉱閉山の流れはもっと以前からであり、炭鉱離職者たちに支援する法律や制度などが制定されていった。日本が炭鉱閉山を乗り越えられたのは、そこそこの成長期だったから、ということはあるだろう。受け皿となる就業先がどうにか見つかる時代だったからだ。炭鉱事業全体で見れば、突然死ではなかったし、フェードアウトのような衰退であった。だから、何十年もかけて人々の移動が起こり、新たな仕事に従事していくという転換が行われた。明日に消えるとか、来年全国の炭鉱が一斉になくなる、というようなものではなかった、ということだ。そうではあっても、高島町のように、地域社会が崩壊していくのだ。高島だけではない。夕張もそうなのだ。炭鉱が消えてゆく過程で、急速に起こる経済や人口の縮小に対応できなかった結果、財政破綻への道をつき進むことになってしまうのである。他の炭鉱のあった町も似たような傾向を持つのだ。


死にゆく過程が、ある程度長い経過を辿り、時間的に余裕があってでさえ、その対策に必要な社会的コストは小さいものではなかったろう。これが昨日まで現役バリバリの「アメリカ自動車産業」ということになると、それが死ぬことによって発生する必要コストは、現在検討されている支援額レベルでは到底済まないと思われる。このことは、GMの会長が公聴会で述べた通りで、その主張は支持できる。米国人ならば、日本人労働者のように自殺する人たちが多数出るとは思わないが、失業に伴う社会的援助の増加や消費減少のマイナス影響は無視できるようなレベルではないだろう。ましてや、今の経済環境下で起こってしまうのは、産業死を超えて全産業にダメージを与えるだろう。

アメリカでも、かつて町が死んだ経験を持つだろう。例えばゴールド・ラッシュ時代の、田舎町のようなものだ。あるいは、石油事業で潤った町でもいい。デトロイトをどうしても廃墟にしたいのなら別だが、雇用の受け皿や代替産業が育たずに一大産業が突然死を迎えたら、地域社会は壊滅的ダメージを受けることになるだろう。残されるのは、移動できない貧しい人たちや体の弱い高齢者たちなどだ。多くの米国国民がそれを望んでいるなら、それも仕方のないことだろう。私にはどうすることもできないが、正しさというものは時として人々を不幸にする、ということを考えてから、慎重に選択して欲しいと思う。


最後に、一つ言っておきたい。
経営陣は猛省してるようだし、「給与は1ドルでいいからやらせて欲しい」ということなら、今すぐ首を挿げ替えろ、ということを強要しなくてもいいのではないだろうか。私なら、工場労働者たちや会社の一般社員たちの意見を聞きたいのだけれど。会社のみんなが「どうしても社長にやって欲しい」とか、「今の危機を乗り越えられるのは、会長しかおりません」とか、みんなに熱望されているなら、会社のことをよく知っている人が経営を担当するのは悪いこととも思えないので。大勢の社員たちが支持している人を、無理矢理に辞めさせる必要はないのではないかな、と。金を出す以上、どうしても経営サイドに人間を送りこまなければならない、ということなら、それはそれで再建チームみたいな人たちと経営陣とで共同作業させるとかできるのでは。

これは些細なことだ。本当に言いたいことは、これではないんだよ。
もし会社が助かって、生産を継続できるとしよう。そうしたら、直ぐにでも売れるようになる方法を教えてあげよう。

 「社員がそれぞれ1台買え」

ある意味反則技かもしれないが、全員買い換えろ(笑)。

会社は、従業員に給与の一部を現物支給する、というのと同じ。社員たちと関連企業とで100万人いるなら、100万台が売れる。中古は下取りして、輸出するとか中古車市場で売るとか、どうにかせよ。

そうすれば、会社の業績は急回復だ。従業員たちは苦しい中から、自分たちが「生み出した車」を給料の一部天引きで購入し、代金を支払終えるまで給料は安くなる。でも、失業よりいいだろ?明日から会社がなくなるのと、どっちがいい?会社も苦しいんだから、従業員も共に苦境を脱するまでは協力せよ。社員が全員乗ることで、街中の宣伝効果も期待できる(笑)。1人で買うのが厳しい、ということなら、何人かでシェアするとか。社員の現物支給分の返済が終わるまでは、株式の配当も当然停止だ。「自社製品を愛せよ」「会社も従業員も一体となって協力せよ」ということが達成できないと、危機的状況を脱することはできないだろう。


だから、さっき「買う不満」じゃないよ、って書いておいたでしょ?(笑)




日本が生き延びるには

2008年12月08日 21時41分24秒 | 防衛問題
そもそも日本は、西欧のような植民地経営を長期間に渡って実施できた経験というものがない。一時的に朝鮮半島や満州、その他アジア地域に進出したこともあったけれども、短い期間だけだった。なので、率直に言うと「全くの異民族を支配する」という経験も能力も少ないのだ。なので、大陸国のような「もまれ方」には馴染みがないし、端的に言えばやっぱり「島国育ち」なのだ。

日本は基本的に海洋国家なので、海に生きるしかないのだ。それが基本だろうと思う。そういう意味においても、参考になるのは、やはり英国である。

英国も欧州の中心から常に離れた場所にあったし、大陸の列強との軋轢の中で数百年間生きてきたし、大した資源もない(北海油田が発見されてからは、ちょっと違うけど)し、簡単なイメージで言うと「荒地の騎士&魔女」がぴったりだ。ファンタジーの基本構想みたいなものは、かなり英国のイメージに影響を受けているのではないかと思う。これは関係ないか(笑)。


英国は資源に恵まれなかったが故に、海洋での戦闘能力を高め、貿易に活路を見出した。大陸国と渡りあえるだけの海軍力を持つことによって、国防の根幹を作ったと言っていいだろう。その海軍力があればこそ、世界ナンバーワンの強国となり得た。
対ロシア戦略という点において、当時の時点で既に日本を軍事的要地として認識していたであろうことは、驚嘆すべきことだ。衛星画像もなければ、GPSもなかったし、ましてやグーグルマップもなかった(笑)のだから。日英同盟を結ぶ決断をした当時の英国人たちは、先見の明があったということなのだろう。

そして、英国の見立て通りに、その後日清戦争、日露戦争、という2つの戦争を迎えることになった。特に日露戦争における艦隊戦は、英国式の軍備があればこそ勝てたというのは確かだ。

日本がどうしても守らねばならないのは海なのだ、ということは、改めて強調しておきたい。英国が世界の中で生き延びてきたように、小さめの島国であればこそ「生き延びる方策」を考えるべきなのだ。



で、ちょっとコレが気になった。

FX商戦 F22の禁輸でユーロファイターが攻勢(産経新聞) - Yahooニュース

BAE社同機輸出部門のアンディ・レイザン副社長によると、1機につき3年半から4年かけて完成させるといい、「日露戦争の日本海海戦を指揮した旗艦・三笠を造った会社はわが社の傘下にある。今度は日本の空を守るために同機を売り込みたい」と意気込む。

 日本の仮想敵機であるロシア製スホイ30との空戦でユーロファイターは優位性を持つ。改良型スホイ35にも十分に対応でき、中国の次世代戦闘機J11も問題にしない。F22は1機3億~4億ドル(277億~370億円)。ユーロファイターは6000万~6500万ポンド(81億~88億円)と調達費も3分の1~4分の1。第二次世界大戦後、米国以外の国には閉ざされてきた日本の門戸を開くため、BAE社は同機のライセンス生産も認める方向だ。

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いつから、英国紳士はこんなに商売上手になったんだ(笑)。
日露戦争の旗艦三笠を作ったのは我々も同然です、みたいな、日本人の心をくすぐるような、うまい口上を覚えているとは、レイザン副社長とかいう人は中々やりますね。いや、ホントに。やり手だ。


そうなんだよね、ポンドが少し前まで高かったのだけれども、円高の恩恵を受けてかなり「お買い得感」が増しているとは思いますな。
しかもF-22は生産中止となりそうな気配らしいじゃないですか。まだ決まってないでしょうけど。バカ高い上に、到底買えないようなシロモノなのであれば、いくら待っていても無駄では。


確か英国で日本の電車と鉄道システムを導入したという話があったと思いますけれども、例えば日本からはこうした都市交通の鉄道システムを供給し、英国からはユーロファイターのライセンス供与を受ける、というような「相互取引」みたいな話もできそうな気もしますが、どうなんでしょうか。それはそれで、ビジネスチャンスと考える道はあるのかもしれません。



円高が雇用を悪化させたのか

2008年12月08日 02時22分54秒 | 経済関連
松尾先生の論説には、頷ける部分は多いのですが、しかし、円高を過大評価している面があるのではないかと思います。

社会新報の円高評


日銀の「引き締め」という愚かな失策には同意するものですが、円高を極端に懸念するのもどうかと思います。
「ここは『諸君』か!」とのご意見は、まさかウチの如きオメガ級ブログに対するものとは思いませんけれども(笑)、ちょっと気になったので書いてみたいと思います。

主な主張点については、既に幾度か書いてきました。
参考>日本経済は基礎的強さが残っている

重複になりますけれども、輸出の減速がある程度のインパクトを持っているとしても、今年に限って言えばその大きさよりも輸入額の増加の方が悪影響となっていたのであり、例えば円高と原油価格高騰とで相殺ということになるかと思います。

成長率の押し下げ要因は何だったか

この記事の日銀批判のリンク先にESRIのマクロ分析がありましたが、あのケースでは円の対ドル10%減価は実質GDPを0.27ポイント押し上げ効果となっており、もし増価がこの逆だとしますと約0.3ポイントの押し下げ効果となります。07年と比べて約20%の増価であったのなら(ざっと120円→95円)、0.6ポイントの押し下げということです。
一方、原油価格上昇ですが、モデルでは約25ドル→30ドル→36.4ドルという価格上昇を標準ケースとして想定していますけれども(この20%分の上昇ということです←※ちょっと追記ですが、これは間違いですね、20%増価標準ケースはモデルで20%ずつ価格上昇していますね)、08年の平均輸入価格が実際どうなのかは判りませんが、概ね90~100ドルくらいではないかと予想しますので、標準ケースの3倍以上の価格ということになります。そうなると、25ドル→90ドルということになりますと、260%上昇ということで、原油価格だけで恐らく1.4~1.5ポイントの押し下げとなるのではないかと思われます。現実にはそこまでの上昇率ではないのですが、かなりの押し下げ効果となっているのではないかと考えます。

08年上半期の輸出額は約40兆円、下半期のうち10月までの4ヶ月で約28兆円となっており、残り2ヶ月の輸出額が12兆円(10月は単月で6.5兆円強だった、他の月は全て7兆円超)と弱目に見ても、(歴月の)08年における輸出額は80兆円程度ということかと思います。07年の約84兆円と比較すれば4兆円のマイナスで約4.8%の減少ということになります。

輸入額はというと、これまでのところ過去最高となっています。それ故、貿易収支がマイナスになった月が8月に続いて10月にも発生しました。上半期の輸入額は約39兆円で、もし同じペースであったなら08年は78兆円ということになります。上半期の貿易収支は約2.9兆円で大幅な落ち込みとなっていました。これは輸出額が鈍化した以上に、輸入額の伸びが大きかった為です。1~6月輸入額の中でウェイトの大きなものは、エネルギー関連(石油、天然ガス、石炭等)が最大であり13兆3500億円程度、食料品が約3兆円、原材料及びその製品(鉄鉱石や非鉄金属等)が約6兆3540億円、ということでした。合計で約22.7兆円です。これらは、原材料価格高騰の影響を受けて軒並み値上がりしており、日銀統計で見た輸入物価指数は円ベースでも、現地通貨ベースでも150超の大幅な上昇が見られています。

仮に、これら輸入品の価格が高騰前の水準に落ちていくとすると、50%下落だと11.35兆円の輸入額減少となり、その分だけ貿易収支は改善が見込めるということになります。要するに、貿易収支で考えると、輸出減少効果よりも輸入減少効果の方が大きい、ということが期待されるのです。円高であると、近年伸びの大きかった所得収支の悪化はありますので、そちらのマイナスも当然発生しますが、ざっと20兆円受取分の20%が減ったとして4兆円の減少に過ぎません。つまり、円高による輸出減少効果や収益受取減少を上回るだけの、輸入額減少による交易条件改善効果は期待できると思います。


さて、元の話に戻りますと、今起こっている輸出減少の最大要因は何か、ということです。日本の輸出品が円高によって製品価格上昇となり、その結果販売数量が減少してしまう、ということであるなら、①販売価格に為替変動分を転嫁する、②需要側はこれまでとほぼ同じ経済状況、ということでしょう。しかし、実際にそうなのでしょうか?

松尾先生の例に倣って考えてみましょう。
原材料輸入が2ドルで、製品価格が3ドルだと差額は1ドルで変わりない、というのはそうでしょうね。これは①の価格転嫁をせずに、販売価格を変えない、という前提条件が必要です。過去の日本企業の多くはそういうことをやってきたわけです。原材料輸入価格が上がってきたにも関わらず販売価格を据え置き、労働者の賃金や下請けへの支払をカットして、コストを無理矢理吸収してきた、ということです。そういう努力をしようとしてしまうのが日本なのだ、ということでしょう。なので、輸入物価の伸びと輸出物価の伸びを比べると、輸出物価というのは、あまり上がっていないことがあったわけです。
しかし、07年以降くらいになると、さすがにコスト吸収にも限界が訪れた為、製品価格の値上げに踏み切っていったわけです。これが、世界的「インフレ懸念」ということを招来し、結果として利上げなどが今年に入ってからも行われてしまった遠因かもしれません。価格転嫁を回避することが、日本ではデフレを助長していたという面があったでしょう。欧米企業であると、ブランド品の値上げや輸入高級車値上げに度々踏み切ってきましたので、為替上昇があれば値上げするというのは当たり前に行われてきたのです。

経済環境があまり変わらずに需要が大体同じくらいあると、日本企業の場合には為替変動があったにせよ、販売価格が据え置かれ(ドルベースなら、3ドルの販売価格のままにしてきた、ということ)、1ドルが100円でも120円でも3ドルで販売しようとしたのです。そうすると、販売数量が変わらないならドルベースで見た売上高は同じであり、円高になってしまうと円ベースで利益を出すのですから、為替変動分が国内の労働者や下請けなどにしわ寄せされた、ということです。3ドルのままで売ろうとするのは、「価格が上がると売れなくなるから」という考えが染み付いているから、ということでしょうね、きっと。で、もしも円安に傾くと、同じ利益額―例えば同じ100ドルであっても、決算の時には円ベースに戻されますから、100円の時なら1万円の利益ですが、120円ならば自動的に12000円というふうに企業業績が良くなったように見える、ということですね。更には、円安だからということで、3ドルの販売価格を少し値下げしてみようとしたりするわけです。価格が下がればもっと売れるようになるから、という思惑がある為でしょう。それはそうですね。

こうして、円高の時には国内で変動分の吸収努力を強いられ、円安になれば更に価格を下げる努力をせよ、みたいなことになってしまうので、国内労働者の賃金には利益増加分があまり分配されてこなかった、ということでしょう。

しかしながら、現在の輸出減速というのは、円高だから、という要因ではないでしょう。もし円高で販売価格に増価した分を転嫁していたのであれば、これまで3ドルで販売していたものを例えば3.6ドルにする、といった値上げとなります。その値上げのせいで需要減少となるので、売上高減少をもたらすということですね。そうではなくて、これまでと同じ3ドルで販売しているにも関わらず、売れない、ということに他ならないのではないでしょうか?何故売れないかというと、金融危機に端を発する世界規模の需要減少ということでしょう。輸出企業はこうした事態を打開しようとして、値下げに踏み切るわけです。売れないから。3ドルで販売していたものを、2.5ドルでもいいから売ろうとするわけです。そうすると、販売数量は落ちている、単価も落ちている、円高になっている、ということで、3重苦にもなっているようなものなのです。派遣社員や正社員を整理する、新卒採用を取りやめる、といった雇用への影響の最も大きな要因というのは、「売れないから」ということが原因であり、それは世界需要の減少ということに他ならないのではないでしょうか。最大の落ち込みとなっているのは北米であり、9月以降には欧州に広がったということはあるかと思います。

実際の企業決算を見ると、新日鐵では原材料コスト上昇要因が約1.04兆円と最も大きなマイナスであり、販売価格への転嫁等は約8400億円に留まっています。他の部分でコスト吸収努力をしているわけです。利益減少の要因として最大なのは、結局原材料高ということです。円高の影響を受けやすいとされる、輸出依存度の高い企業の代表的なソニー(約4分の3が海外)はどうなのかといえば、中間期の売上高は円ベースでは微増で、最も大きく減ったのは「日本国内」の売上高でした。北米の落ち込みもそこそこ大きかったのですが、必ずしも円高だから減ったということではないでしょう。経済危機による「消費減少」ということが一番でしょう。欧州、アジアや中東などのその他地域が増加していた為に、円ベースでの売上高は増えたのですよ。下半期はその他地域にも翳りが出るでしょうから、更に落ち込む可能性がありますが、円高というのは、ダメージとしては致命的ということにはなっていないでしょう。そもそもソニーの場合には金融部門に手を広げていたので、そこの利益が減ったこともありますし。円高で利益が減る、というのはその通りですが、雇用に響いていくという水準だと、それは為替要因のせいとまでは言えないのでは。
(因みに、製造業における日本企業の海外子会社の従業員数は、アジア地域で約440万人程度といわれ、海外労働者の雇用者数が増加していく代わりに国内労働者が削られていくという傾向は、今後にも続いていくのではないかと思われます)


じゃあ日本はどうしたらいいのか、ということになりますが、上で見たように輸入額が減少するわけですから、国内の消費余力はその分改善しているはずなのですね。例えて言えば、ガソリン代が先月までは1万円かかっていたものが6千円になる、暖房費が3万円だったものが2万円になる、といったようなことです。円安時代に輸出企業だけが受けてきた利益が、他の部門に移転されたに過ぎませんので、その分配先を変えていくことが必要ということになります。もしも民間ではそれができない、ということなら、政府がやるということになってしまいます。今の環境下ではできませんけれども、増税して再分配能力を高める、といったようなことになりますね。日本全体で見れば、交易損失がなくなることの方が、有利なことは確かです。国内にそのお金が留まることには違いないわけですから。


個人消費というのは、いってみれば非常に小さな単位の「ベンチャー企業」みたいなもので、大企業に10億円という資金を与えてそれを投資してもらうのも、個人に100万円ずつ小分割して1000人が自由に投資するのも、同じようなものではないでしょうか。その中から、ユニークなものとか、うまくいくものとか、そういったものが生み出される可能性に賭けてみる、ということでしょう。本当に1人が10億円のお金を持たされて投資した方が効率的かどうかなんて判らないのですよ。大きな投資主体もあれば、もっと小さな投資主体もある、というような適度なバランスがある方がいいと思えます。ある人は土地を買って商売を始めるかもしれませんし、トラックを買って運送業を始めるかもしれませんし、放蕩息子みたいに演劇だの芸能だのに使ってしまうかもしれない。それは判りません。が、個々の「何かの考え」があって、お金を使おうとしますので、思わぬ大ヒットみたいなものが誕生してくるかもしれないのです。昔の日本というのは、そうやって消費だの何らかの投資だのにお金が回っていたのですよ。だからこそ、個人で商売を始める人たちなんかが、そこそこ存在していたのですから。規模の経済は確かに大事だろうけれども、新たなものを生み出す力というのは、結局は個人に委ねられている部分がそれなりに大きいのではないかな、と思ったりもします。

 
話が段々と逸れてしまいましたが、日本貿易会の09年度予測では、輸出が停滞してしまうという暗い見通しではあるものの、原材料価格の下落と円高効果で輸入額が大幅に減少し(というか、以前に近い水準に落ちていくということかな)、経常黒字額は20兆円程度が見込まれています。95~96年や01年の時の輸出企業の苦戦というのはあったわけですし、今の水準の為替に馴化することができるような態勢を作っていくことが必要かと思います。




嘘が数字をつくる

2008年12月07日 17時25分50秒 | 俺のそれ
via ボ2ネタ

初めて知る本だった。

歴史家・鳥居民、自著を語る 話題の本 書籍案内 草思社

超大作だ。しかも「昭和二十年」という1年間を追いかけていくだけなのに、これほどの労力がかかるのだから恐れ入る。歴史研究とはこうした気の遠くなる作業の積み重ねなのだな、と思い知らされる。同時代に生きていた人々全ての、人生の物語がそこにはあるのだと思う。その膨大な物語から全体像を再構成して、その一部を記述していこうというものであるからこそ、超大作となってしまうのは当然なのかもしれない。

◇◇◇◇


この時期になると、毎年語られるのがパールハーバーだ。

1941年12月7日午前7時55分、日本海軍の艦載機がハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した。愚かな選択ではあったが、対米開戦の道を選んでしまったのだった。日本の誰もが知る戦争は、こうして始まった。

宣戦布告が遅れた理由はこれまでに諸説出されてきたが、この日に葬儀が行われていた日本人がいた。その人物は、新庄健吉という名の、一官僚だった。

新庄健吉 - Wikipedia

新庄は陸軍主計大佐ということで、早い話が「経理屋」ということである。が、単なる経理屋なのではない。東大経済学部と大学院を修了しており、今で言えば「統計屋」(貶しているのではありません)的な経済分析官のような能力を持つ人、ということだろう。で、情報将校として渡米し、アメリカの国力を統計資料などから調査したのだった。

開戦となる41年4月、あのキングコングによじ登られてしまったエンパイア・ステートビル7階には三井物産のニューヨーク支店があり、その社員として赴任したのだった。新庄はコンピュータの先駆けとなったIBM社製の統計機を駆使し、アメリカの公式統計資料などを丹念に調べ上げていった。


今、「ビッグ3」の危機的状況と日本の自動車メーカーとの立場を思うと、まるで日米が逆転したかのように思われるかもしれないが、新庄の見たニューヨークという世界は、まるで違った。彼我の歴然たる差、アメリカという国の持つ圧倒的な国力、そういうものを目の当たりにしたのだった。新庄による評価は、自動車産業の生産力は日本を1とすれば、アメリカは50だった。日本の50倍もの力が米国自動車業界だったのだ。現代で言えば、たとえば「タタ自動車」と日本の自動車業界との差、みたいなものだ。アメリカが「F1チーム」レベルなら、日本はワークスさえにも届かない、完全なプライベートの「藤原とうふ店」レベル(笑)でしかなかった。

自動車ばかりではなく、鉄鋼、石油、石炭、電力、航空機等々、データを比較すると日本が圧倒的に劣っているという結論ばかりだった。重工業は日米格差が20倍、という結論になっていた。それ故、日米開戦など「愚かな選択」であるとしか思われなかっただろう。それ以上に、ニューヨークの人々は戦火に怯えることもなく、日本の富裕層でさえ受けられないような高い水準の生活を、誰もがごく普通にしていたことに衝撃を受けたのではないだろうか、と思うのである。日本は、といえば、国民生活は比べるべくもない上に、米国になく日本にあったものといえば、泥沼のような戦争継続だけだった。

ゼロ戦が初めて登場した時、世界に与えた衝撃は小さくはなかったかもしれないが、それはたまたま出場したレースにラッキーで1回勝てた、という程度のものであり、アメリカだけではなくイギリスやドイツの水準にも遠く及ばないのだった。ベースにあったものは、工業力であり、レシプロ機という製品は自動車と極めて近いものだったからだろうと思う。エンジン、機体設計、強度、整備などの総合力の差は如実に現れるのであり、まさにF1と同じようなものなのだ。


新庄は次のように言ったという。
 「数字は嘘をつかないが、嘘が数字を作る」

分析官らしい言葉だ。至言だ。
統計屋(或いは経理屋)であればこその言葉である。データの意味をよく知っていたのだ。
データは騙そうとはしないが、人間は騙そうとして都合よく数字を並べようとするのだ。これは現代でも同じなのだ。恣意的な数字だけを取り上げて、都合の良い結論を導くことは、現代でも行われていることなのである。

その後、新庄は病気になってしまい、11月にはワシントンの大学病院に入院したものの快復せず、12月4日に死亡してしまう。クリスチャンだった新庄の葬儀は、まさに日米開戦当日の7日に行われていたのである。米国の軍人たちが多数参列したばかりか、日本の来栖、野村大使や大使館関係者たちも参列していた、ということだった。この葬儀が終わってから、ハル国務長官に最後通告を行ったのが午後2時20分、真珠湾攻撃が始まってから既に1時間20分が経過していたのだった。教会の神父が葬儀進行をわざと遅らせたからだ、という説もあるらしい。

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上の鳥居氏のインタビューには、原爆投下に反対していた米国の要人たちが出てくる。そのうちの1人が、ジョセフ・グルーだ。元駐日大使で、国務長官代理を務めた知日派である。

ジョセフ・グルー - Wikipedia

鳥居氏が言うように、原爆投下を推進したのは、たった2人しかいなかった。トルーマンとバーンズだけだった。
グルーは勿論、陸軍長官スティムソン、海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍作戦本部長キング、そしてあのアイゼンハワーも反対した、とのことだ。

現代でも、これと似たようなことは起こってしまうものなのだ。
実務に詳しい人々がいくら反対しても、トップとそこに近いトップ級の人間が「やる」と言ったら、やってしまう、ということだ。イラク戦争がまさしくそうなのだ。マケインはオバマには負けてしまったけれども、こうした過去の米国軍人たちと同じように、見るべき部分がある人物なのだろうと思う。昔の戦国武将たちにも似たところがあるのだが、「敵に対する敬意」のようなものを持てる人間が存在するのだ。つい昨日まで戦っていた相手であっても、その人間を憎むのではなく赦した上に部下として登用する、というのと近い感覚だ。マケインはそうした武人タイプではないかと思うのだ。昔の日本の軍人たちの中にも、米国との戦争を回避しようとしていた人たちはいた。軍人同士の相通じる部分というのは、日米を問わずにあったのかもしれない。

真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は開戦反対派であったが、決まった以上は軍人としての職務をまっとうした。
その山本が言ったそうだ。
 「百年兵を養うは、ただ平和を守る為である」

ハーバード留学や駐米経験のある山本から見れば、対米戦争がどれほど無謀なものか容易に想像がついたであろう。だが、その山本をもってしても、開戦を止めることはできなかった。原爆投下を阻止できなかった米国の軍人たちと、同じようなものかもしれない。



過去の教訓をどう活かすかは、歴史を学ぼうとする人間次第なのだろう。