一昨日(18日)夜は桜木町で映画(「悪魔を見た」)を観ていたのがウソみたい。19日の私ヌルボは高月の町をのんびりと自転車で廻っていました。
8時前に新横浜から新幹線にのり、米原で下車。各停で北陸本線を北上したのは何十年ぶりか・・・。
車内のにぎやかなおばさんたちは江・浅井三姉妹博覧会が開かれている長浜で下車。
私ヌルボはその3駅先で下りました。新横浜からちょうど2時間半。高月駅です。
朝鮮語と朝鮮に対する学問の偉大な先人・雨森芳洲の生地で、雨森芳洲庵があります。いつか行ってみたいと思っていました。3連休中の予定がすべて地震のためなくなったので、身軽な独り身のヌルボ、即断即決で出立したというわけです。
高月で下りたのはわずか数人。駅前も閑散としています。幸い駅横に刊行案内所があって、地図をもらったら「レンタサイクル」という字が目に入って、これはラッキー、歩いたら25分かかりますからねー。
高月町は2010年1月1日に虎姫町・湖北町・木之本町・余呉町・西浅井町とともに長浜市に合併されました。雨森はさらにその中の小さな農村集落です。小ぢんまりとした集落です。(110戸、520人くらいとか。)
下の写真のように、ホントに静かで、自然の豊かな農村地帯です。
【こういう道を心地よくサイクリング。】
雨森芳洲庵、正式名称は東アジア交流ハウス雨森芳洲庵がある雨森は、歴史を感じさせるある家が並び、梅の香が漂い、此処彼処に花が咲いている趣のある集落です。
【この道の正面が雨森芳洲庵です。所々に雪が残っていました。】
さて、目当ての雨森芳洲庵ですが、なんとなく思っていた以上に展示等が充実していて、行った甲斐がありました。
展示内容については、たとえば→コチラのHPや、<Yagiken Web Site>というブログに、多数の写真とともに非常に詳しく紹介されています。
・・・ということで、当ブログとしては重複をさけ、とくに興味を持ったことを紹介します。
原資料として、ほほーっ、と思ったのは芳洲が著した日本最初の朝鮮語教科書「交隣須知」(下写真)。
開かれていたページを見ると、日朝対照の日常的・実践的会話集ですね。
朝鮮語の表記や発音が現在と若干違いますが、おおよそわかります。
【韓国語学習者の皆さん、見てみてください。日本文だけでも興味深いですが・・・。】
「長咄セズト一盞ウケラレマセ」=「긴 사셜말고 한잔 바드소」とか、「山師ラシイ言ヲ言ハレナ」=「헛뙨 말을 마옵소」など、実際これらの会話がなされた場面を想像すると、300年前後の時代を超えて微笑ましい気持ちになります。
※彼が徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴いたのは1711年ですから、今年はちょうど300年目です。
※<東京対馬館>というブログによると、東京外大図書館にもあるとか。(えっ、23冊も!?)
その記事には、「享保12(1727)年、雨森芳洲の建議によって対馬府中(現在の厳原町)に「朝鮮通詞養成所」が開設され、そこでの中心的な教科書として使用されていた」とあります。また「明治13(1880)年、東京外国語学校に新たに朝鮮語学科が設置されることになり、釜山の韓語学所はそこに移管される形で廃止されました。こういった経緯から、東京外国語学校に朝鮮語学科が設置された初期の頃の教授陣、生徒の一部、教科書、教育法は、対馬藩以来の教育資源を引き継いでスタートした」とも。
※「交隣須知」の写真版に解題や索引等を付けた本が和泉書院から刊行されているんですね。→コチラ
雨森芳洲や、日韓関係のさまざまな本も展示されていました。初めて見た興味深い本もいろいろ。そのうちの1冊については別記事にします。
また展示全体からうかがわれたのは、運営主体の方々の思い入れの深さ。
たとえば、「芳洲パズル検定」が7つもあったり、大きな「朝鮮通信使すごろく」があったり・・・。そしてこの地元の偉人雨森芳洲を基点に、現在さまざまな形で日韓の交流が進められているんですねー。
【皆さん、朝鮮挑戦してみてください。】
【こういうものも作っちゃう情熱に感じ入りました。】
ここが単に過去の人物の資料館でなく、館名にも「東アジア交流ハウス」と銘打っていることがよくわかりました。
雨森芳洲は、歴史上の人物としてさほど有名というわけではありませんが、近年は歴史の教科書にも載るようになってきました。たぶん、雨森の地元でもそんなに昔から注目されてきてはこなかったのでは?という疑問がわいてきたので、その点を少し調べてみました。この雨森芳洲庵自体の歴史ですね。これについても別記事にします。
【ヌルボ「先生の足下にも及びませんが、私なりにがんばろうと・・・」 芳洲先生「山師ラシイ言ヲ言ハレナ」。】
→東アジア交流ハウス雨森芳洲庵を訪ねて(2)
8時前に新横浜から新幹線にのり、米原で下車。各停で北陸本線を北上したのは何十年ぶりか・・・。
車内のにぎやかなおばさんたちは江・浅井三姉妹博覧会が開かれている長浜で下車。
私ヌルボはその3駅先で下りました。新横浜からちょうど2時間半。高月駅です。
朝鮮語と朝鮮に対する学問の偉大な先人・雨森芳洲の生地で、雨森芳洲庵があります。いつか行ってみたいと思っていました。3連休中の予定がすべて地震のためなくなったので、身軽な独り身のヌルボ、即断即決で出立したというわけです。
高月で下りたのはわずか数人。駅前も閑散としています。幸い駅横に刊行案内所があって、地図をもらったら「レンタサイクル」という字が目に入って、これはラッキー、歩いたら25分かかりますからねー。
高月町は2010年1月1日に虎姫町・湖北町・木之本町・余呉町・西浅井町とともに長浜市に合併されました。雨森はさらにその中の小さな農村集落です。小ぢんまりとした集落です。(110戸、520人くらいとか。)
下の写真のように、ホントに静かで、自然の豊かな農村地帯です。
【こういう道を心地よくサイクリング。】
雨森芳洲庵、正式名称は東アジア交流ハウス雨森芳洲庵がある雨森は、歴史を感じさせるある家が並び、梅の香が漂い、此処彼処に花が咲いている趣のある集落です。
【この道の正面が雨森芳洲庵です。所々に雪が残っていました。】
さて、目当ての雨森芳洲庵ですが、なんとなく思っていた以上に展示等が充実していて、行った甲斐がありました。
展示内容については、たとえば→コチラのHPや、<Yagiken Web Site>というブログに、多数の写真とともに非常に詳しく紹介されています。
・・・ということで、当ブログとしては重複をさけ、とくに興味を持ったことを紹介します。
原資料として、ほほーっ、と思ったのは芳洲が著した日本最初の朝鮮語教科書「交隣須知」(下写真)。
開かれていたページを見ると、日朝対照の日常的・実践的会話集ですね。
朝鮮語の表記や発音が現在と若干違いますが、おおよそわかります。
【韓国語学習者の皆さん、見てみてください。日本文だけでも興味深いですが・・・。】
「長咄セズト一盞ウケラレマセ」=「긴 사셜말고 한잔 바드소」とか、「山師ラシイ言ヲ言ハレナ」=「헛뙨 말을 마옵소」など、実際これらの会話がなされた場面を想像すると、300年前後の時代を超えて微笑ましい気持ちになります。
※彼が徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴いたのは1711年ですから、今年はちょうど300年目です。
※<東京対馬館>というブログによると、東京外大図書館にもあるとか。(えっ、23冊も!?)
その記事には、「享保12(1727)年、雨森芳洲の建議によって対馬府中(現在の厳原町)に「朝鮮通詞養成所」が開設され、そこでの中心的な教科書として使用されていた」とあります。また「明治13(1880)年、東京外国語学校に新たに朝鮮語学科が設置されることになり、釜山の韓語学所はそこに移管される形で廃止されました。こういった経緯から、東京外国語学校に朝鮮語学科が設置された初期の頃の教授陣、生徒の一部、教科書、教育法は、対馬藩以来の教育資源を引き継いでスタートした」とも。
※「交隣須知」の写真版に解題や索引等を付けた本が和泉書院から刊行されているんですね。→コチラ
雨森芳洲や、日韓関係のさまざまな本も展示されていました。初めて見た興味深い本もいろいろ。そのうちの1冊については別記事にします。
また展示全体からうかがわれたのは、運営主体の方々の思い入れの深さ。
たとえば、「芳洲パズル検定」が7つもあったり、大きな「朝鮮通信使すごろく」があったり・・・。そしてこの地元の偉人雨森芳洲を基点に、現在さまざまな形で日韓の交流が進められているんですねー。
【皆さん、
【こういうものも作っちゃう情熱に感じ入りました。】
ここが単に過去の人物の資料館でなく、館名にも「東アジア交流ハウス」と銘打っていることがよくわかりました。
雨森芳洲は、歴史上の人物としてさほど有名というわけではありませんが、近年は歴史の教科書にも載るようになってきました。たぶん、雨森の地元でもそんなに昔から注目されてきてはこなかったのでは?という疑問がわいてきたので、その点を少し調べてみました。この雨森芳洲庵自体の歴史ですね。これについても別記事にします。
【ヌルボ「先生の足下にも及びませんが、私なりにがんばろうと・・・」 芳洲先生「山師ラシイ言ヲ言ハレナ」。】
→東アジア交流ハウス雨森芳洲庵を訪ねて(2)