ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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鈴木清順監督「春婦傳」と、田村泰次郎の原作小説  ・・・・慰安婦のことなど

2011-08-22 20:17:32 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 昨日(8月21日)、神保町シアターで鈴木清順監督「春婦傳」(1965)を観ました。最初に観たのは90年代だったと思います。
 中国山西省盂県の県城に配置されていた大隊の、副官の当番兵三上上等兵(川地民夫)と、慰安婦の春美(野川由美子)との心中の物語(と言っていいかどうか??)で、具体的な内容はいろんなサイトにあるので、一切省きます。

 私ヌルボは、最初に観てから10年以上経つ間に、詳しい筋はほとんど忘れていましたが、主人公の春美をはじめ「ピー」という蔑称で呼ばれた彼女たち慰安婦の多くは朝鮮人女性だったと思い込んでいました。

 で、今回再び観てみると、チマチョゴリを着て、いかにも朝鮮ふうの日本語を話す慰安婦は初井言栄演じるつゆ子だけ。春美は天津から流れてきた中国人のようで・・・。言葉も朝鮮人風ではないし、負傷した八路軍に三上とともに捕虜となった時、八路軍の兵たちと一緒に中国語の歌も歌っていたし・・・。(「松花江上」? ちゃんとメロディーを覚えてなかったので不明。)
 他にも確認したいことがあったので、原作を見てみようと思ったら、アマゾンで5000円くらいもするんですね。横浜市立図書館で探すと、幸い田村泰次郎選集」(全5巻)というのがあって、その第2巻に収載されていました。40ページほどのあまり長くない作品なので、すぐに読了。この原作でも朝鮮人云々とは書かれていないし、つゆ子も登場していません。
 しかし、この作品解題を見ると、あれれっ、ということが記されていました。以下の通りです。

 本作品は「日本小説」創刊号(一九四七年四月一日発行、大地書房)に掲載予定であったが、GHQの検閲によって削除されたものである。その理由として、ゲラ刷りに添付されていた検閲調書には‘Criticism of Koreans’(韓国人への批判)があげられている。 
 なお「日本小説」創刊号は「春婦伝」のみを削除して・・・・発刊されている。
 その後、本作品は朝鮮人への批判的な箇所等を削除して、銀座出版社の『春婦伝』(一九四七年五月二五日発行)に収録された。それ以来、「春婦伝」は、この銀座出版社版を底本として作品集に収められてきた。
(※この選集収録も銀座出版社版)  しかし、原文の冒頭にあった「この一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮で近づかうとしなかつた、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐ」という作者の言葉も伝えられることなく読み続けられてきたのであった。検閲調書には、「朝鮮娘子軍」は‘Koreans Prostitues(←ママ)’(朝鮮人売春婦)と記されている。今日の人権意識からすれば、植民地支配を受けていた人々に対する不当な差別表現は許されるものではない。本巻末に資料としてGHQの検閲資料を転載しておく。

 ・・・ということで、本書には[資料]として(当然英文の)<「春婦伝」に関するGHQ検閲資料>が収録されています。
 それによると、オリジナルの本文では、春美を含め慰安婦は「みんな本当の朝鮮の名前があるのだつたが、いづれも故郷の家の生活の苦しさのために、天津の曙町へ前借で買はれてきてから、日本名をつけてゐた」と、朝鮮人であったことが明確に書かれています。また銀座出版社版では、副官・成田中尉が春美に対して「馬鹿野郎、ピイの分際でなにをいふか」と暴言を吐くと春美は「ピイ、ピイつて馬鹿にするか、天皇陛下がそれいふか、同じぞ」と返します。
 ところが原文では成田中尉の言葉は「馬鹿野郎、たかがチョウセン・ピイの分際で、なにをいふか」であり、春美は“How dare you call me a Korean! We have the some(←ママ) Emperor!”(※この部分は本書で訳されていません。)と反撃しています。

 なお、同じ田村泰次郎の「春婦傳」の映画化作品の谷口千吉「暁の脱走」(1950)に比べると、この鈴木清順監督作品は原作に忠実だといわれます。たしかに、「暁の脱走」では春美(山口淑子)は日本人の慰安歌手という設定になっています。これは大きな違いといわざるをえません。
 (鈴木清順の「春婦傳」でも、つゆ子の部屋で「哲学断想」の文庫本を読んだりしていて後に脱走し、八路軍に入ったインテリ兵・宇野一等兵は原作にはない人物ということがわかりました。)

 今、上記のようなこの小説及び2つの映画が世に出た経緯を見ると、いかにその時々の政治権力や風潮、価値観といったものに作品の中身が翻弄されてきたかがわかります。
 現在の立場で言えば、どこが‘Criticism of Koreans’(韓国人への批判)にあたるのですか?と訊きたくなります。「慰安婦のほとんどが朝鮮人だった」という記述が韓国・朝鮮人を貶めるということなら、それは慰安婦に対する差別ではないですか? 
 ※2008年、ソウルの西大門独立公園に、慰安婦ハルモニたちとその支援団体が<戦争と女性人権博物館>の建設を推進すると、光復会等の独立有功諸団体が「聖地毀損」として、強く反対している、ということが伝えられました。なぜ「毀損」になるのか??  →関連記事
 あるいは<チョウセン・ピイ>という言葉自体が差別語だから? 上っ面だけの<差別語狩り>は正しい歴史認識・社会認識を遠ざけてしまいます。

 もしかして、原本のこの一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮で近づかうとしなかつた、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐという田村泰次郎の言葉も、現代のモノサシで見ると「侵略軍の買春男のいい気な文句」と批判する人もいるかもしれません。
 しかし、私ヌルボとしては、当時(戦中&終戦直後)の状況下で、朝鮮人慰安婦たちを (朝鮮人としても慰安婦としても)人間として見る目をちゃんと持っていたことがうかがえる小説だと思いました。

※田村泰次郎選集の編集者・尾西康充さんによる関連記事「田村泰次郎『春婦伝』と谷口千吉『暁の脱走』」は→コチラ

※実際に山西省盂県に行った兵士の従軍体験→コチラ

※[もしかしたら言わずもがなの付言]
 慰安婦だった人たちを、人間としてちゃんと見ることと、彼女たちの証言や主張をそのまま受け入れること、肯定することとは必ずしもイコールではありません。誤解なきよう・・・。
コメント
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