8月14日の記事(→コチラ)で次のように書きました。
日本で上映された韓国映画の歴史を個人的・実感的に振り返ってみると、2000年という年がひとつの画期と思われます。作品でいうと「シュリ」、そして翌2001年の「JSA」です。
そして8月19日の記事(→コチラ)では、そのことについて「たぶん明日の記事で書きます」と書きましたが、結局何日も遅れてしまいました。(記事予告については「息を吐くように嘘をつく」状態になっています。)
その間、実感だけで記事を書くのもなんだかなーと考えて、これまでの日本で公開された韓国映画について過去の新聞記事やいくつかの資料等を縮刷版やネットで探したりしてました。(つい深入りしてしまう性分。)
その結果は「個人的・実感的」な印象をほぼそのまま裏付けるものでした。
最初に、日本で公開された韓国映画の作品数を年ごとに表にしてみました。
このデータのモトは、<シネマコリア>のサイト中の「日本公開作リスト」(→コチラ)です。長編の劇場公開作のみの数を私ヌルボが年ごとに数えたものです。映画祭や特集上映は数えていません。先に映画祭等で上映された作品でも、劇場公開の年の方に入れました。(若干の数え間違いがあるかもしれません。)
私ヌルボの基準で①~④の時期に分けています。
以下、それぞれの時期について、多分に個人的な観点から記してみます。
①1987年以前
この時期の年平均公開作品数=1960年代に3作品あったのみでほとんどゼロに近い。
70年代までは、朴正煕政権による民主化運動の弾圧に関係して金芝河支援や金大中救出運動は日本でも盛り上がったりもしましたが、映画にかぎらず韓国の文化に関心を向ける人はまれで、韓国語のテキストも非常に少ないものでした。
韓国映画の上映は、1979年以降韓国文化院で月例映画劇場のような形で年数回上映された以外はほとんど上映の機会はなかった状態です。
この時代に韓国映画ファンがいたとすると、よほどのオタクか専門的研究者か、韓国文化院の上映会の常連の人たちに限られたでしょう。韓国映画ファンの第0世代としておきます。
②1987~1999年
この時期の年平均公開作品数=3.7
1980年代の民主化運動や88年のソウル五輪で韓国への注目度が増し、韓国映画に対する関心も少しずつ高まってきました。
過去記事(→コチラ)でも書いたように、NHKで佐藤忠男先生の解説で1988年~2003年に放映されたアジア映画劇場の果たした役割も非常に大きいものがあったと思います。この時期からのファンを第1世代としておきましょう。
この時期に上映された韓国映画は、70~80年代の名作が多く、とくに伝統的な慣習の中で虐げられた女性や、社会の中で苦悩する青年を描いたものが目につきます。
また、8月14日の記事でも書きましたが、アジア映画社が87年以降積極的に韓国映画の配給を続けたことの意義は大きかったと思います。その中で、とくに代表的な作品その1は90年に劇場公開された「シバジ」。メディアでもけっこう大きく取り上げられ、主演女優カン・スヨンの名前もかなり知られるようになりました。
代表的作品その2は「風の丘を越えて/西便制」です。韓国で初めて観客動員数300万人を超え、韓国映画史上でも特筆すべき作品です。日本でも観客動員が10万人を超えた初の韓国映画とのことです。
※観客動員数300万人という数字は現在の韓国では「大ヒット」とまではいかないレベル。韓国映画振興委員会(KOFIC)の公式統計で韓国映画の歴代BoxOffice(→コチラ)の上位100作品には1999年以降の作品しかありませんが、数字を見ると300万人だと90位くらいに相当します。つまり、21世紀に入って韓国の映画産業がそれだけ発展したということでしょう。
※「西便制」が韓国で大ヒットというニュースに接した私ヌルボは、たまたま職安通りの店(開店直後のジャント(韓国広場)だったか?)で原書の李清俊「西便制」を見つけ、貧弱な語学力もかえりみず買い込んだら、ほどなくして根本理恵さんによる翻訳書が94年6月ハヤカワ文庫から刊行され、肩すかしをくらったような思いをした記憶があります。根本さんが手がけた最初の字幕翻訳と思っていましたが、それまでに「桑の葉3」(1992)を皮切りに4作品(?)翻訳しています。(→参考)←根本さん、これまで80作品を超える字幕翻訳に携わってきたんですねー、やっぱり・・・。
※<輝国山人の韓国映画>(→コチラ)によると、この映画を日本に配給したシネカノン(当時)の李鳳宇氏が「パッチギ!的 世界は映画で変えられる」(岩波書店)で当時の経緯を詳しく書いているそうです。私ヌルボ、そのうち読んでみます。(それにしても輝国山人さん、どういう方なのでしょうか?)
次にこの時期の代表的作品その3です。それは「八月のクリスマス」(1999年劇場公開)。代表的作品というより注目作品といった方がいいかも。この作品にヌルボが注目したのは、それまでの<恨>が云々といった韓国の伝統的な社会や思念とは全然違う内容であり、またこれまでになく「静かな」韓国映画ということで、新しい時代の先駆けとなるような新鮮な印象を受けたからです。事実この作品は日本でも新しい韓国映画ファンを多く獲得したのでは、と思います。(同じサークルメンバーの1人はこの映画に感動して最初に行った韓国旅行先が群山だったとか。)
さて、この90年代の韓国映画で、ここまで記したような文芸映画っぽい作品(レンタル店の分類だと人間ドラマ?)のほかに、とくに90年代前半に目立ったのが「コーリアン・スキャンダル」シリーズをはじめとしたエロチック路線の作品群。「桑の葉」シリーズや「膝と膝の間」等もそんな要素はありますね。「コーリアン・スキャンダル」シリーズはヌルボは観ずじまいだったのですが、<輝国山人の韓国映画>で内容紹介を読むと(→コチラやコチラ)、観ておくべきだったと後悔の念が募ります。
③2000~2003年
この時期の年平均公開作品数=10.8
2000年代に入り、公開作品数が目に見えて増えました。
なんといっても2000年1月22日に劇場公開された「シュリ」は画期的でした。日本以前に、韓国の映画史の上で大きな画期となった作品です。日本でも前宣伝からして破格でした。この件については次の記事で書きます。
2000年には、10月に「ペパーミント・キャンディー」、11月に「カル」「グリーンフイッシュ」「美術館の隣の動物園」、12月に林権澤監督の「春香伝」と注目作が相次いで公開されました。
11月1日「毎日新聞(夕刊)」に「韓国映画が静かなブーム」という見出しで来日中の林権澤監督と「美術館の隣の動物園」のイ・ジョンヒャン監督のインタビュー記事を掲載しています。(このブログ記事の末尾参照)
翌2001年の大注目作は「JSA」ですが、これについても続きの記事に回します。簡単にいえば、大がかりなアクション路線の確立ということです。
そして2002年の注目作が「友へ/チング」。今に至る韓国映画の得意ジャンルの1つヤクザ映画の日本での初ヒット作。
2003年に劇場公開された「おばあちゃんの家」や「猟奇的な彼女」も、それぞれのジャンルの記憶に残る佳作でした。
先の時期の「八月のクリスマス」あたりからこの時期の諸作品のような斬新な韓国映画に魅かれてファンになった人たちが第2世代。
④2004年以降
この時期の年平均公開作品数=30.7
上の表を見ると、2003年に11だった公開作品数が2004年には33と3倍増。
この背景には、2003~04年にNHKで放映されて非常な人気となった「冬のソナタ」の影響があると考えて間違いはないでしょう。
以後も続く韓流ブームの中で、2000年以前には考えられなかったほどの韓国映画が上映されるようになりました。韓国映画ファンの裾野も広がりました。この時期からのファンが第3世代です。
ただ、韓流スターの人気を当て込んだ作品も多くなったため、映画自体の作品性を期待するファンには事前の情報収集が難しくなったという面も生じました。韓国での新作情報に接しても、それがどういう邦題で日本で公開されるか確認しないと見過ごしてしまったり・・・、というのはヌルボの個人的体験。
また、隠れた名作が隠れたまま終わってしまうことも多かったと思います。この時期のヌルボの個人的ベスト3の「息もできない」「僕が9歳だったころ」「過速スキャンダル」「彼とわたしの漂流日記」「拝啓、愛しています」等(アラ、5つだ!)は映画ファンの間でも認知度からして低かったのではないでしょうか?
この時期の作品の傾向としては、ドラマの延長のような恋愛物、難病物、復讐物等がいろいろ。その中で、連続殺人魔を描いた「殺人の追憶」、「チェイサー」、「悪魔を見た」といったスリラーも韓国映画の得意ジャンルといっていいでしょうね。血まみれのザンコク描写だけでなく、怖さに深みといったものが感じられます。
以上、このほぼ四半世紀の私ヌルボの韓国映画とのツキアイの歴史を振り返ってみましたが、考えてみると、そこに韓国の政治・社会・経済・文化、そして日韓の関係等々いろんなものが反映されているということが見えてきます。
8月14日の記事で20世紀人のヌルボとしては昔の作品に愛着があるとは書きましたが、今そしてこれからの韓国映画に対しても期待する気持ちは持ち続けています。
日本で上映された韓国映画の歴史を個人的・実感的に振り返ってみると、2000年という年がひとつの画期と思われます。作品でいうと「シュリ」、そして翌2001年の「JSA」です。
そして8月19日の記事(→コチラ)では、そのことについて「たぶん明日の記事で書きます」と書きましたが、結局何日も遅れてしまいました。(記事予告については「息を吐くように嘘をつく」状態になっています。)
その間、実感だけで記事を書くのもなんだかなーと考えて、これまでの日本で公開された韓国映画について過去の新聞記事やいくつかの資料等を縮刷版やネットで探したりしてました。(つい深入りしてしまう性分。)
その結果は「個人的・実感的」な印象をほぼそのまま裏付けるものでした。
最初に、日本で公開された韓国映画の作品数を年ごとに表にしてみました。
このデータのモトは、<シネマコリア>のサイト中の「日本公開作リスト」(→コチラ)です。長編の劇場公開作のみの数を私ヌルボが年ごとに数えたものです。映画祭や特集上映は数えていません。先に映画祭等で上映された作品でも、劇場公開の年の方に入れました。(若干の数え間違いがあるかもしれません。)
私ヌルボの基準で①~④の時期に分けています。
韓国映画(長編)の劇場公開作品数(1945~2013) | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
①の時期 | ②の時期 | ③の時期 | ④の時期 | |||
1962= 1 1966= 2 | 1987= 1 1988= 5 1989= 1 1990= 6 1991= 8 | 1992= 4 1993= 8 1994= 6 1995= 1 1996= 1 | 1997= 6 1998= 3 1999= 2 | 2000= 8 2001=13 2002=11 2003=11 | 2004=33 2005=41 2006=45 2007=22 2008=17 | 2009=17 2010=35 2011=27 2012=36 2013=34 |
以下、それぞれの時期について、多分に個人的な観点から記してみます。
①1987年以前
この時期の年平均公開作品数=1960年代に3作品あったのみでほとんどゼロに近い。
70年代までは、朴正煕政権による民主化運動の弾圧に関係して金芝河支援や金大中救出運動は日本でも盛り上がったりもしましたが、映画にかぎらず韓国の文化に関心を向ける人はまれで、韓国語のテキストも非常に少ないものでした。
韓国映画の上映は、1979年以降韓国文化院で月例映画劇場のような形で年数回上映された以外はほとんど上映の機会はなかった状態です。
この時代に韓国映画ファンがいたとすると、よほどのオタクか専門的研究者か、韓国文化院の上映会の常連の人たちに限られたでしょう。韓国映画ファンの第0世代としておきます。
②1987~1999年
この時期の年平均公開作品数=3.7
1980年代の民主化運動や88年のソウル五輪で韓国への注目度が増し、韓国映画に対する関心も少しずつ高まってきました。
過去記事(→コチラ)でも書いたように、NHKで佐藤忠男先生の解説で1988年~2003年に放映されたアジア映画劇場の果たした役割も非常に大きいものがあったと思います。この時期からのファンを第1世代としておきましょう。
この時期に上映された韓国映画は、70~80年代の名作が多く、とくに伝統的な慣習の中で虐げられた女性や、社会の中で苦悩する青年を描いたものが目につきます。
また、8月14日の記事でも書きましたが、アジア映画社が87年以降積極的に韓国映画の配給を続けたことの意義は大きかったと思います。その中で、とくに代表的な作品その1は90年に劇場公開された「シバジ」。メディアでもけっこう大きく取り上げられ、主演女優カン・スヨンの名前もかなり知られるようになりました。
代表的作品その2は「風の丘を越えて/西便制」です。韓国で初めて観客動員数300万人を超え、韓国映画史上でも特筆すべき作品です。日本でも観客動員が10万人を超えた初の韓国映画とのことです。
※観客動員数300万人という数字は現在の韓国では「大ヒット」とまではいかないレベル。韓国映画振興委員会(KOFIC)の公式統計で韓国映画の歴代BoxOffice(→コチラ)の上位100作品には1999年以降の作品しかありませんが、数字を見ると300万人だと90位くらいに相当します。つまり、21世紀に入って韓国の映画産業がそれだけ発展したということでしょう。
※「西便制」が韓国で大ヒットというニュースに接した私ヌルボは、たまたま職安通りの店(開店直後のジャント(韓国広場)だったか?)で原書の李清俊「西便制」を見つけ、貧弱な語学力もかえりみず買い込んだら、ほどなくして根本理恵さんによる翻訳書が94年6月ハヤカワ文庫から刊行され、肩すかしをくらったような思いをした記憶があります。根本さんが手がけた最初の字幕翻訳と思っていましたが、それまでに「桑の葉3」(1992)を皮切りに4作品(?)翻訳しています。(→参考)←根本さん、これまで80作品を超える字幕翻訳に携わってきたんですねー、やっぱり・・・。
※<輝国山人の韓国映画>(→コチラ)によると、この映画を日本に配給したシネカノン(当時)の李鳳宇氏が「パッチギ!的 世界は映画で変えられる」(岩波書店)で当時の経緯を詳しく書いているそうです。私ヌルボ、そのうち読んでみます。(それにしても輝国山人さん、どういう方なのでしょうか?)
次にこの時期の代表的作品その3です。それは「八月のクリスマス」(1999年劇場公開)。代表的作品というより注目作品といった方がいいかも。この作品にヌルボが注目したのは、それまでの<恨>が云々といった韓国の伝統的な社会や思念とは全然違う内容であり、またこれまでになく「静かな」韓国映画ということで、新しい時代の先駆けとなるような新鮮な印象を受けたからです。事実この作品は日本でも新しい韓国映画ファンを多く獲得したのでは、と思います。(同じサークルメンバーの1人はこの映画に感動して最初に行った韓国旅行先が群山だったとか。)
さて、この90年代の韓国映画で、ここまで記したような文芸映画っぽい作品(レンタル店の分類だと人間ドラマ?)のほかに、とくに90年代前半に目立ったのが「コーリアン・スキャンダル」シリーズをはじめとしたエロチック路線の作品群。「桑の葉」シリーズや「膝と膝の間」等もそんな要素はありますね。「コーリアン・スキャンダル」シリーズはヌルボは観ずじまいだったのですが、<輝国山人の韓国映画>で内容紹介を読むと(→コチラやコチラ)、観ておくべきだったと後悔の念が募ります。
③2000~2003年
この時期の年平均公開作品数=10.8
2000年代に入り、公開作品数が目に見えて増えました。
なんといっても2000年1月22日に劇場公開された「シュリ」は画期的でした。日本以前に、韓国の映画史の上で大きな画期となった作品です。日本でも前宣伝からして破格でした。この件については次の記事で書きます。
2000年には、10月に「ペパーミント・キャンディー」、11月に「カル」「グリーンフイッシュ」「美術館の隣の動物園」、12月に林権澤監督の「春香伝」と注目作が相次いで公開されました。
11月1日「毎日新聞(夕刊)」に「韓国映画が静かなブーム」という見出しで来日中の林権澤監督と「美術館の隣の動物園」のイ・ジョンヒャン監督のインタビュー記事を掲載しています。(このブログ記事の末尾参照)
翌2001年の大注目作は「JSA」ですが、これについても続きの記事に回します。簡単にいえば、大がかりなアクション路線の確立ということです。
そして2002年の注目作が「友へ/チング」。今に至る韓国映画の得意ジャンルの1つヤクザ映画の日本での初ヒット作。
2003年に劇場公開された「おばあちゃんの家」や「猟奇的な彼女」も、それぞれのジャンルの記憶に残る佳作でした。
先の時期の「八月のクリスマス」あたりからこの時期の諸作品のような斬新な韓国映画に魅かれてファンになった人たちが第2世代。
④2004年以降
この時期の年平均公開作品数=30.7
上の表を見ると、2003年に11だった公開作品数が2004年には33と3倍増。
この背景には、2003~04年にNHKで放映されて非常な人気となった「冬のソナタ」の影響があると考えて間違いはないでしょう。
以後も続く韓流ブームの中で、2000年以前には考えられなかったほどの韓国映画が上映されるようになりました。韓国映画ファンの裾野も広がりました。この時期からのファンが第3世代です。
ただ、韓流スターの人気を当て込んだ作品も多くなったため、映画自体の作品性を期待するファンには事前の情報収集が難しくなったという面も生じました。韓国での新作情報に接しても、それがどういう邦題で日本で公開されるか確認しないと見過ごしてしまったり・・・、というのはヌルボの個人的体験。
また、隠れた名作が隠れたまま終わってしまうことも多かったと思います。この時期のヌルボの個人的ベスト3の「息もできない」「僕が9歳だったころ」「過速スキャンダル」「彼とわたしの漂流日記」「拝啓、愛しています」等(アラ、5つだ!)は映画ファンの間でも認知度からして低かったのではないでしょうか?
この時期の作品の傾向としては、ドラマの延長のような恋愛物、難病物、復讐物等がいろいろ。その中で、連続殺人魔を描いた「殺人の追憶」、「チェイサー」、「悪魔を見た」といったスリラーも韓国映画の得意ジャンルといっていいでしょうね。血まみれのザンコク描写だけでなく、怖さに深みといったものが感じられます。
以上、このほぼ四半世紀の私ヌルボの韓国映画とのツキアイの歴史を振り返ってみましたが、考えてみると、そこに韓国の政治・社会・経済・文化、そして日韓の関係等々いろんなものが反映されているということが見えてきます。
8月14日の記事で20世紀人のヌルボとしては昔の作品に愛着があるとは書きましたが、今そしてこれからの韓国映画に対しても期待する気持ちは持ち続けています。