3月8~10日に京都に行ってからもう3ヵ月以上経ちました。
旅の第1目的は9日の大阪アジアン映画祭で韓国映画「朴烈 植民地からのアナキスト」を観ること、2番目は京都鉄道博物館の見学でした。残りの時間でどこか行ける所は?と考えて、思い出したのが昨年10月、尹東柱の記念碑が宇治川の新白虹(はっこう)橋のたもとに設置され、除幕式が行われたという毎日新聞の記事でした。(→コチラ。)
また、除幕式の3日前の聯合ニュースの記事(→コチラ)には、記念碑設置の機縁となった1枚の写真が載ってします。それが上左の画像。 記事にあるように、宇治川の天ヶ瀬吊り橋で1943年初夏に撮った尹東柱(前列左から2人目)の生前最後の写真です。そして右の画像は、今回私ヌルボが撮った写真です。
9日午前10時30分頃JR宇治駅に降り立った私ヌルボ、案内所で訊くと。吊り橋まで「歩くと50分くらいかかりますよ」とのことだったので、タクシーで新白虹橋まで行きました。そこに建てられた記念碑のことはいずれ書くことにして、約300m川の下手(西)にある天ヶ瀬吊り橋のことについてまず書くことにします。
長さ50mを超えるこの吊り橋ができたのは1942年。翌43年に尹東柱たち同志社大学文学部英文学科の学生10人がここにピクニックにやって来たのも、平等院から遠くない所の、できて間もない観光スポットとして注目したからかもしれません。
私ヌルボ、現地を訪れるまでの予備知識といえば、上述の新聞記事だけでした。したがって、行ってみて初めて知ったこと、その後本を読んだりして知ったことがたくさんあります。
その「行ってみて初めて知ったこと」とは、この現在の吊り橋は1943年当時のものとは違うということです。戦後1953年9月、台風13号は宇治川の堤防を壊し、多くの被害をもたらしましたが、その時に1度流失。その後架けられた橋は老朽化のため1998年に改修され、今に至るとのことです。上の2枚の写真を比べると、吊り橋のワイヤーロープや背後の山の稜線から、同じ橋のように思ってしまいますね。
そして、「その後本を読んだりして知ったこと」は、この学生たちの写真の来歴と、写真が撮られた前後の尹東柱のことです。
多胡さんは1995年当時NHKのディレクターとして韓国のKBSと共同でNHKスペシャル「空と風と星と詩 尹東柱・日本統治下の青春と死」と題した番組を制作しました。この本は、その時の取材記録にその後知り得た情報を加え、昨2017年2月刊行されました。(その翌月神保町のチェッコリで多胡さんのトークイベントがあったことは今知りました。残念。)
さて、その番組制作に際して、多胡さんは1994年の春~初夏、尹東柱と同時期に立教大学(1942年4~10月)と同志社大学(42年10月~43年7月)に在学していた可能性のある人たちに卒業者名簿をたよりに片っ端から電話をかけていったのだそうです。
「平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)を知りませんか? 朝鮮からの留学生、平沼さんを憶えていらっしゃいませんか?」 ※日本留学に際し必須とされたため、尹東柱は(留学の2年前に)尹氏一門が創氏改名で決めていた「平沼」という姓を日本で用いていた。
・・・という質問に「記憶がない」「知らない」という返事ばかり続く中、「平沼さんですね。はい、覚えています。朝鮮から来ていた平沼さんのこと」という声が返ってきたとは! 尹東柱と同じ同志社大の英語英文科にいたMさん(京都在住)で、彼女からは今も親交が続いている同窓のKさん(北鎌倉在住)の消息も得ることができ、その後「平沼さんについてよく覚えている」というお二方を訪問取材したとのことです。
お二方とも、朝鮮からの留学生であることはわかってはいたが、尹東柱(ユン・ドンジュ)という本名はおろか、戦後の韓国で国民的詩人になっていることは「まるで知らなかった」そうです。
現在でも尹東柱を知っている日本人は100人中5人もいないでしょう。いや、1人いるでしょうか? 番組放映時の1994年だとなおさら・・・。(この番組はNHKスベシャル中歴代下から2番目の低視聴率だったとか・・・。)
そして、このKさんの自宅にあった古いアルバムから出てきたのが冒頭の天ヶ瀬吊り橋で撮った写真だったのです。尹東柱の右隣がMさんで、その右がKさん。当初はお二人とも撮った場所の記憶はなかったそうですが、番組終了後の調べで天ヶ瀬吊り橋とわかり、Mさんも現地に行ったりしているうちに記憶が次第に蘇ってきます。つまり、その日は英語英文科の学生たちの1日遠足で、宇治駅→平等院と歩き、さらに吊り橋まで行って河原で飯盒炊爨をしたそうです。
で、この遠足の目的というのが「故郷に帰ることを決めた「平沼さん」の送別」だったとのこと。「だからいつもは控えめな尹東柱が写真の中央に写っているわけなのだ」というのは多胡さんのナットクの解釈です。
Kさんの記憶によると、東柱は昼食の後級友たちから請われるままに河原で「アリラン」を朝鮮語で歌ったといいます。
この1日遠足の時期を、多胡さんは服装等から「おそらく5月から6月のことだった」と推定しています。
この時、故郷(「満州国」北間島の龍井)に帰ることを決めていた東柱ですが、約1ヵ月後の7月14日逮捕・拘禁されます。帰郷のため用意していた切符は使われることなく、朝鮮まで一緒に帰省する約束をしていた同じ同志社大の留学生張聖彦さんは1人で帰ることになります。
44年3月京都地裁で治安維持法違反により懲役2年の刑を言い渡された東柱は福岡刑務所に送られ、45年2月16日獄中で死亡します。
このようなその後の奈落に落ちるような人生の暗転を思うと、この写真が撮られたピクニックの1日は彼にとってほとんど最後の楽しい思い出だったかもしれません。
それはこの写真に写っている他の学生たちも同様で、Mさんの家に残る男子学生の学徒出陣に際しての寄せ書きの中には、宇治へのピクニックがいかに楽しかったかを回想する文章もつづられているそうです。
多胡吉郎さんの絨毯爆撃的な電話取材作戦がほとんど奇跡的に功を奏して、上述のように尹東柱についての新情報が得られるとともに、MさんとKさんにとっても人生に新たな「物語」が加わり、またそのゆかりで宇治市に詩碑が建てられてより多くの人に尹東柱のことが知られていくというこの20年余の経緯が、この<聖地探訪>を経ていろいろわかりました。
「生命の詩人・尹東柱」という本は、この写真の件以外にも、尹東柱の人生や作品等の中の「謎」について、実に細かなところまで独断を排して実証的に探求し、多くの関係者に会って話を訊いたりして真実に迫っています。ちょうど推理小説を読むような感じで引き込まれます。
この本は今年5月韓国でも翻訳書「생명의 시인 윤동주」が刊行され、新聞等で紹介記事も書かれました。・・・が、読者の反応は必ずしも良いとはいえません。というのは、代表的作品「序詩」の解釈や、福岡刑務所での死因をめぐって等の論点ゆえなのですが、それについてはまたいずれ・・・。