木を見て、森を想う
~韓国・朝鮮オタク、2つの旅の会話の記憶から
■ピョンヤン、1991
「日本の印象はどうだったですか?」
訊いた直後、「しまった!」と思った。
場所はピョンヤン。相手は北朝鮮の女性案内員Kさん。ピョンヤン外国語大学卒で流暢な日本語を話す女性案内員だ。
北朝鮮を訪れた外国人観光客には必ず案内員(アンネウォン)が付くが、それは単なるガイドではない。観光客の「逸脱行動」がないように監視し、常について回るのだ。むしろそれが主任務といってよいだろう。案内員が2人1組なのは相互監視のためで、これは外交や商業活動等のため外国に勤務する場合も同様だ。
そんな「事情」を承知していた私たちは、Kさんを困らせるようなロコツな質問はしない配慮をしていた、と思う。
ところが、その彼女がちょっとした時間の隙間に、小さめの声で私に語りかけたのである。
「私は日本に行ったことがあります」
これに対して私が発したのが冒頭の質問だった。
近くに、もうひとりの先輩案内員(男性)もいる。いつ・どういう理由で・どこに行ったかを訊くのは避けた方が無難、とは考えた。だが、印象や感想といった漠然とした質問にも答えにくいだろう。
日本を賛美したり、「共和国」(と北朝鮮は自称し、観光客もそう呼ぶ)を批判してはいけないのだから。もちろん日本人観光客(つまり私)に対して日本を過度におとしめてはいけない。
何秒かの後、Kさんは答えた。
「車が道を走るにもお金を払うのには驚きました」。
なるほど。上記の条件にも適った賢明な返答だ。きっとKさん自身の偽らざる感想でもあったのだろう。私は内心ホッとした。もしかしたら、Kさんもホッとしていたかもしれない。
「有料道路ですね。考えてみればおかしいですね」と答えて、この話題はそのまま終わった。
その後、来日した韓国人と話す機会が何度もあった。同じように日本の印象を尋ねたりもした。「日本の道路が平らなことに驚いた」といったような興味深い答えも返ってきたが、どれも自然な会話の一部にすぎない。
あれから28年。その間Kさんは自身が抱いた日本の印象を何の制約もなく語ったことがあっただろうか? あるいはこれからも・・・。
※初の海外旅行、それも北朝鮮とあって、相当に用心深くなっていたかもしれないとは思う。この一文について友人何人かに話すと、「ほとんどアナタの思い込み」という人もいた。私自身懸念していたことでもある。Kさんは心の通じ合いそうな、「韓国や日本のような社会だったら、いろんな活躍の場があっただろうな。はるかに自分を生かせたのに」と思わせる・・・という根拠に乏しい印象に依拠するのみで、反論できそうにない。「アンタが怪しいから探りを入れられていたのだ」と解釈する人もいた。
以後再訪の機会はないが、北朝鮮についての知識、朝鮮語のスキル、そして厚かましさや狡猾さ等も多少なりとも身につけた今ならもっと多くのことを聞き出せるような気もする。
■プサン 1992
北朝鮮旅行のちょうど1年後、初めての韓国旅行に出かけた。一人旅だ。早くて安く行ける空路ではなく、あえて関釜連絡船を利用したのは、「古代からの日朝間の表玄関」を体感したいという(高校の日本史教員らしい?)思いがあったからである。
朝釜山港に降り立ち、観光客が1度は訪れるという龍頭山(ヨンドゥサン)公園に登ると、巨大な李舜臣像が日本をにらみつけるように立っている。
そこで30代ほどの男性が巧みな日本語で話しかけてきた。日本人観光客をカモにしている詐欺師のたぐいではと、当然警戒心を抱いた。しかしそのI氏、話を聞くと対馬領主宗義智のことや角田房子「閔妃暗殺」(1988刊)のこと等々歴史にもくわしく、悪い人でもなさそうである。
いろいろ話が進むうち、私は前年の夏のことを打ち明けた。
「私は昨年北韓に行ってきたんですよ」
当時の韓国は今よりずっと北朝鮮のスパイに対する警戒心が強かったと思う。間諜らしき人間を見たら電話113番にと呼びかける掲示物も緊張感を誘った、そんな時代だ。うかつに話すと「申告(シンゴ)」(=通報)されないまでも、驚くかもしれないと思いつつ、あえて話してみたのだが、彼の反応は予想外だった。
「北韓もふつうの人が暮らしているということですよ」
表情も変えることなく、淡々と語るのである。
少し拍子抜けしてしまった。いや、それよりも、この返答はピントがずれてるゾ、というのがその時感じたことだった。
しかし、なぜか心に引っかかっていた彼の言葉の意味を理解したのは、何年か経った後のことだ。
李承晩~朴正熙時代、<反共>は国是にも等しく、<反共 防諜>の標語が街と学校のところどころに貼られ、国民学校(現:初等学校)では徹底した反共教育が進められていた。80年代に入り軟化はしたものの、全斗煥政権下でも反共教育は続けられた。それが1987年の6月民主抗争を契機に大きく変わった。「運動圏」つまり学生運動の中では北朝鮮を肯定的に受容するグループが勢力を伸ばした。反共教育は盧泰愚政権以降形骸化が進み、93年成立の金泳三政権からは統一教育に変わった。
こうしてみると、私と話したI氏は明らかに子どもの頃からずっと反共教育をたたき込まれた世代である。「北傀(プッケ)」あるいは「パルゲンイ(アカ)」といえば頭にツノが生えているトッケビ(鬼)のように教えられ、そう思っていたという話は、その世代からはよく聞かれるようだ。
その世代にとって、80年代後半以降の「北韓にも人が暮らしている」ということは、驚きを伴った新しい北朝鮮認識だったのだ。92年夏の時点で聞いたI氏の言葉も、そんな彼自身の体験に根ざした実感だったのである。
当時の私がそんな知識を持っていれば、彼の受けてきた反共教育のこと、北朝鮮認識が180度変わった契機などをくわしく訊けたのに、と言っても無理な話だが。
それからさらに7、8年は経っただろうか。「北韓にも人が暮らしているね」という言葉が、韓国の代表的な小説家の一人黄晳暎(ファン・ソギョン)の「北韓にも人が暮らしていたね」という言葉によるものだと知った。
彼が国禁を破って1989年訪朝した後、ベルリンで執筆して韓国に送り、雑誌『新東亜』『創作と批評』に掲載された。その北朝鮮訪問記のタイトルがまさにこの言葉だったのである。また単行本が刊行されたのはI氏と話をした翌93年のことだ。
そして現在の韓国。昨2018年4月の南北首脳会談直後の世論調査によると、金正恩を「信頼できる」と評価した韓国人が8割近くにも達したという。一般の日本人には驚くほどの数字だ。
今、そんな金正恩や北朝鮮の政治・社会に対して肯定的な見方をしているジン・チョングというジャーナリストがいる。進歩系新聞の代表格ハンギョレ出身の彼は南北会談の3ヵ月後の7月『ピョンヤンの時間はソウルと共に流れる』という北朝鮮取材記を刊行した。その本の紹介記事をネットで読んだ。
「核武装と経済建設の並行という国家戦略を捨てて人民の経済建設に集中しようとする北韓指導者たちの実践的努力がうかがい見られる」とか。また著者は「玉流館で冷麺を食べ、携帯電話で通話し、タクシーに乗ってデパートに行ってショッピングをする生活。ここはソウルではなくピョンヤンだ」と語る。
そして次の一文。
「彼らはトッケビではなくツノもトッケビ棒もない。ピョンヤンの人たちはわれわれと同じ人の顔をしていて、ソウルの人と同じに日常生活を営んでいる。まさしく黄晳暎の言葉のままに「人が暮らしているね」だった」。
「ふつう」の人が暮らしていても、そこの政治・社会等が韓国人や日本人の考える「ふつう」とは全然言えないのに・・・と、その甘さに驚くが、そんなジン・チョング氏の、そしておそらく相当数の韓国人の今に及ぶ北朝鮮認識の端緒となったのも、この「北韓にも人が暮らしている」という言葉だったかもしれない。
※北朝鮮の呼称について・・・・反共軍事政権の頃は「北傀」がふつうに用いられていたが、金大中政権頃からそれに代わって「北韓」が定着した。しかし、現在韓国と北朝鮮の対等の統一を志向する民族主義左派には「北韓」の呼称も否定して「北側」「南側」という言い方をする人も多い。
~韓国・朝鮮オタク、2つの旅の会話の記憶から
■ピョンヤン、1991
「日本の印象はどうだったですか?」
訊いた直後、「しまった!」と思った。
場所はピョンヤン。相手は北朝鮮の女性案内員Kさん。ピョンヤン外国語大学卒で流暢な日本語を話す女性案内員だ。
北朝鮮を訪れた外国人観光客には必ず案内員(アンネウォン)が付くが、それは単なるガイドではない。観光客の「逸脱行動」がないように監視し、常について回るのだ。むしろそれが主任務といってよいだろう。案内員が2人1組なのは相互監視のためで、これは外交や商業活動等のため外国に勤務する場合も同様だ。
そんな「事情」を承知していた私たちは、Kさんを困らせるようなロコツな質問はしない配慮をしていた、と思う。
ところが、その彼女がちょっとした時間の隙間に、小さめの声で私に語りかけたのである。
「私は日本に行ったことがあります」
これに対して私が発したのが冒頭の質問だった。
近くに、もうひとりの先輩案内員(男性)もいる。いつ・どういう理由で・どこに行ったかを訊くのは避けた方が無難、とは考えた。だが、印象や感想といった漠然とした質問にも答えにくいだろう。
日本を賛美したり、「共和国」(と北朝鮮は自称し、観光客もそう呼ぶ)を批判してはいけないのだから。もちろん日本人観光客(つまり私)に対して日本を過度におとしめてはいけない。
何秒かの後、Kさんは答えた。
「車が道を走るにもお金を払うのには驚きました」。
なるほど。上記の条件にも適った賢明な返答だ。きっとKさん自身の偽らざる感想でもあったのだろう。私は内心ホッとした。もしかしたら、Kさんもホッとしていたかもしれない。
「有料道路ですね。考えてみればおかしいですね」と答えて、この話題はそのまま終わった。
その後、来日した韓国人と話す機会が何度もあった。同じように日本の印象を尋ねたりもした。「日本の道路が平らなことに驚いた」といったような興味深い答えも返ってきたが、どれも自然な会話の一部にすぎない。
あれから28年。その間Kさんは自身が抱いた日本の印象を何の制約もなく語ったことがあっただろうか? あるいはこれからも・・・。
※初の海外旅行、それも北朝鮮とあって、相当に用心深くなっていたかもしれないとは思う。この一文について友人何人かに話すと、「ほとんどアナタの思い込み」という人もいた。私自身懸念していたことでもある。Kさんは心の通じ合いそうな、「韓国や日本のような社会だったら、いろんな活躍の場があっただろうな。はるかに自分を生かせたのに」と思わせる・・・という根拠に乏しい印象に依拠するのみで、反論できそうにない。「アンタが怪しいから探りを入れられていたのだ」と解釈する人もいた。
以後再訪の機会はないが、北朝鮮についての知識、朝鮮語のスキル、そして厚かましさや狡猾さ等も多少なりとも身につけた今ならもっと多くのことを聞き出せるような気もする。
■プサン 1992
北朝鮮旅行のちょうど1年後、初めての韓国旅行に出かけた。一人旅だ。早くて安く行ける空路ではなく、あえて関釜連絡船を利用したのは、「古代からの日朝間の表玄関」を体感したいという(高校の日本史教員らしい?)思いがあったからである。
朝釜山港に降り立ち、観光客が1度は訪れるという龍頭山(ヨンドゥサン)公園に登ると、巨大な李舜臣像が日本をにらみつけるように立っている。
そこで30代ほどの男性が巧みな日本語で話しかけてきた。日本人観光客をカモにしている詐欺師のたぐいではと、当然警戒心を抱いた。しかしそのI氏、話を聞くと対馬領主宗義智のことや角田房子「閔妃暗殺」(1988刊)のこと等々歴史にもくわしく、悪い人でもなさそうである。
いろいろ話が進むうち、私は前年の夏のことを打ち明けた。
「私は昨年北韓に行ってきたんですよ」
当時の韓国は今よりずっと北朝鮮のスパイに対する警戒心が強かったと思う。間諜らしき人間を見たら電話113番にと呼びかける掲示物も緊張感を誘った、そんな時代だ。うかつに話すと「申告(シンゴ)」(=通報)されないまでも、驚くかもしれないと思いつつ、あえて話してみたのだが、彼の反応は予想外だった。
「北韓もふつうの人が暮らしているということですよ」
表情も変えることなく、淡々と語るのである。
少し拍子抜けしてしまった。いや、それよりも、この返答はピントがずれてるゾ、というのがその時感じたことだった。
しかし、なぜか心に引っかかっていた彼の言葉の意味を理解したのは、何年か経った後のことだ。
李承晩~朴正熙時代、<反共>は国是にも等しく、<反共 防諜>の標語が街と学校のところどころに貼られ、国民学校(現:初等学校)では徹底した反共教育が進められていた。80年代に入り軟化はしたものの、全斗煥政権下でも反共教育は続けられた。それが1987年の6月民主抗争を契機に大きく変わった。「運動圏」つまり学生運動の中では北朝鮮を肯定的に受容するグループが勢力を伸ばした。反共教育は盧泰愚政権以降形骸化が進み、93年成立の金泳三政権からは統一教育に変わった。
こうしてみると、私と話したI氏は明らかに子どもの頃からずっと反共教育をたたき込まれた世代である。「北傀(プッケ)」あるいは「パルゲンイ(アカ)」といえば頭にツノが生えているトッケビ(鬼)のように教えられ、そう思っていたという話は、その世代からはよく聞かれるようだ。
その世代にとって、80年代後半以降の「北韓にも人が暮らしている」ということは、驚きを伴った新しい北朝鮮認識だったのだ。92年夏の時点で聞いたI氏の言葉も、そんな彼自身の体験に根ざした実感だったのである。
当時の私がそんな知識を持っていれば、彼の受けてきた反共教育のこと、北朝鮮認識が180度変わった契機などをくわしく訊けたのに、と言っても無理な話だが。
それからさらに7、8年は経っただろうか。「北韓にも人が暮らしているね」という言葉が、韓国の代表的な小説家の一人黄晳暎(ファン・ソギョン)の「北韓にも人が暮らしていたね」という言葉によるものだと知った。
彼が国禁を破って1989年訪朝した後、ベルリンで執筆して韓国に送り、雑誌『新東亜』『創作と批評』に掲載された。その北朝鮮訪問記のタイトルがまさにこの言葉だったのである。また単行本が刊行されたのはI氏と話をした翌93年のことだ。
そして現在の韓国。昨2018年4月の南北首脳会談直後の世論調査によると、金正恩を「信頼できる」と評価した韓国人が8割近くにも達したという。一般の日本人には驚くほどの数字だ。
今、そんな金正恩や北朝鮮の政治・社会に対して肯定的な見方をしているジン・チョングというジャーナリストがいる。進歩系新聞の代表格ハンギョレ出身の彼は南北会談の3ヵ月後の7月『ピョンヤンの時間はソウルと共に流れる』という北朝鮮取材記を刊行した。その本の紹介記事をネットで読んだ。
「核武装と経済建設の並行という国家戦略を捨てて人民の経済建設に集中しようとする北韓指導者たちの実践的努力がうかがい見られる」とか。また著者は「玉流館で冷麺を食べ、携帯電話で通話し、タクシーに乗ってデパートに行ってショッピングをする生活。ここはソウルではなくピョンヤンだ」と語る。
そして次の一文。
「彼らはトッケビではなくツノもトッケビ棒もない。ピョンヤンの人たちはわれわれと同じ人の顔をしていて、ソウルの人と同じに日常生活を営んでいる。まさしく黄晳暎の言葉のままに「人が暮らしているね」だった」。
「ふつう」の人が暮らしていても、そこの政治・社会等が韓国人や日本人の考える「ふつう」とは全然言えないのに・・・と、その甘さに驚くが、そんなジン・チョング氏の、そしておそらく相当数の韓国人の今に及ぶ北朝鮮認識の端緒となったのも、この「北韓にも人が暮らしている」という言葉だったかもしれない。
※北朝鮮の呼称について・・・・反共軍事政権の頃は「北傀」がふつうに用いられていたが、金大中政権頃からそれに代わって「北韓」が定着した。しかし、現在韓国と北朝鮮の対等の統一を志向する民族主義左派には「北韓」の呼称も否定して「北側」「南側」という言い方をする人も多い。