半年以上も前から感想をぜひ書かなければと思いながらも延び延びになっていました。
金文京「漢文と東アジア ― 訓読の文化圏」(岩波新書)のことです。
昨日発売の「週刊文春」で、仏文学者の鹿島茂さんが専門外にもかかわらず見開き2ページの4分の3を費やしてこの本の内容を「目のさめるような仮説」「傑作」等の賛辞入りで詳しく紹介しているのを読んで、私ヌルボも自らに課した課題を等閑にしていたことに気づきました。
近年(・・・って、この10年くらい)読んだ新書の中では抜群に内容豊富で、非常に勉強になった本です。いや、勉強になったというよりも、目からウロコどころか、脳内の一部分がパッと明るくなったような感じですね。
決して読みやすくもなく、楽しく読める本ではありません。しかし一流の研究者はすごいもんだなあということを実感させてくれる、非常に中身の濃い本です。
内容を大雑把にいえば、「中国、朝鮮、日本、ヴェトナムなど東アジアの国々で、漢文を共通の知識とする文化圏があったことを「訓読」という現象を通して明らかにした文化論」で、「訓読に関する新発見の資料などを使いながら、漢文訓読が日本独自のものではなく、東アジアに共通する現象であったことが豊富な事例を通して明らかに」するとともに、とくに「漢文訓読の根底には仏典の漢訳体験があった」ことを示す等、「文化の伝播のわくわくするような面白さ」がある、と岩波新書の宣伝文には記されています。
これだけでは、この本のすごさがわからないと思います。
具体例をあげると、インドで生まれた仏教を中国で受容する際、文法構造が全然違う梵語(サンスクリット語)の仏典をどのような手順・方法で翻訳していったかが説明されます。
そして中国から仏教を受け容れた朝鮮や日本等の場合、やはり文法構造の違う中国語の仏典をどのような形で理解していったかが説明されます。たとえば、日本では漢文の授業でおなじみの返り点。そして私ヌルボは名称しかしらなかったヲコト点についても詳しく記されています。
このようなテーマの研究では、中国語と梵語、そして中国周辺の諸言語(日本、朝鮮以外も)に通じていなければなりません。学者として当然とはいえ、ヌルボにとってはそれだけですごいなー、というレベルです。
そのような<空間的(地理的)広がり>だけでなく、日本の中だけでも時代によって訓読の方式が変化しているんですね。「之」を読まずにスルーするか、「これ」と読むか等々。それにはたとえば儒学だと孔子をどう理解するか、原典にどこまで密着・重視するか等の各時代各学派の姿勢に関わっているということなのだそうです。
つまり、そんな<時間的(歴史的)広がり>をも金文京先生は垣間見させてくれるのです。
<空間的(地理的)広がり>で、さらにもう一例ヌルボが「そうだったのか!」と今になって視野が広がったのは、国風文化の前提や背景について。
これまでのヌルボの日本史理解だと、衰えゆく中国からはもはや学ぶべきものはない、と遣唐使を廃止し、以後日本独自の繊細優美な国風文化が発達した・・・とここまでは一応よいとしても、中国その他外の世界に対する知識・関心も低下していったような受けとめ方をなんとなくしていました。
ところが本書によると、(儒教とは異なり)「インド起源の仏教では中国の存在が相対化されるのであって、中国の漢文を日本語で読むという訓読の発想は、そのような中国文化の相対化、特にインドの梵語と日本語が類似の言語であるという認識をテコにして生まれたものであったと考えられる」、つまり、インドと中国のどちらが優位か、という問題も背景にして、「(語順が似ている)梵語と日本語の対応関係を通じて、日本語の訓読と漢文が対等の関係に立ったことの結果であり、いわゆる国風時代のはじまりとも軌を一にしている」というわけです。
このように、重箱の隅をつつくような細かな作業や考証を積み重ねて、それを土台に大きな歴史像を構想してゆく過程が、むずかしいなりにヌルボのような門外漢にも理解できるように叙述されています。
「重箱の隅」といえば、角筆についても興味深く説明されています。(10年ほど前だったか、新聞記事で初めて角筆について知った時にはびっくりしたものです。)
これは先のとがった木や竹で墨をつけずに紙をへこませて書くもので、1961年に小林芳規現広島大名誉教授が世界で初めて古文書にその痕跡を発見し、今では全国で約3500点見つかっているそうです。
この角筆によるヲコト点が日本で確認されたばかりでなく、韓国でも2000年に角筆によるオコト点方式の11世紀の訓読が発見されたとのことで、<日・韓訓読シンポジウム>の報告記事等でその意義や研究の現況をうかがい知ることができます。
大学の先生方が執筆している新書にもピンからキリまであって、別に大学の先生でなくても書けるゾ、というレベルのものも少なからずありますが、この本については私ヌルボ、ただ平伏するばかりです。
アマゾンのレビューや、一部のブログを見ると、堂々と批判してる人もいるからたいしたものです。
金文京「漢文と東アジア ― 訓読の文化圏」(岩波新書)のことです。
昨日発売の「週刊文春」で、仏文学者の鹿島茂さんが専門外にもかかわらず見開き2ページの4分の3を費やしてこの本の内容を「目のさめるような仮説」「傑作」等の賛辞入りで詳しく紹介しているのを読んで、私ヌルボも自らに課した課題を等閑にしていたことに気づきました。
近年(・・・って、この10年くらい)読んだ新書の中では抜群に内容豊富で、非常に勉強になった本です。いや、勉強になったというよりも、目からウロコどころか、脳内の一部分がパッと明るくなったような感じですね。
決して読みやすくもなく、楽しく読める本ではありません。しかし一流の研究者はすごいもんだなあということを実感させてくれる、非常に中身の濃い本です。
内容を大雑把にいえば、「中国、朝鮮、日本、ヴェトナムなど東アジアの国々で、漢文を共通の知識とする文化圏があったことを「訓読」という現象を通して明らかにした文化論」で、「訓読に関する新発見の資料などを使いながら、漢文訓読が日本独自のものではなく、東アジアに共通する現象であったことが豊富な事例を通して明らかに」するとともに、とくに「漢文訓読の根底には仏典の漢訳体験があった」ことを示す等、「文化の伝播のわくわくするような面白さ」がある、と岩波新書の宣伝文には記されています。
これだけでは、この本のすごさがわからないと思います。
具体例をあげると、インドで生まれた仏教を中国で受容する際、文法構造が全然違う梵語(サンスクリット語)の仏典をどのような手順・方法で翻訳していったかが説明されます。
そして中国から仏教を受け容れた朝鮮や日本等の場合、やはり文法構造の違う中国語の仏典をどのような形で理解していったかが説明されます。たとえば、日本では漢文の授業でおなじみの返り点。そして私ヌルボは名称しかしらなかったヲコト点についても詳しく記されています。
このようなテーマの研究では、中国語と梵語、そして中国周辺の諸言語(日本、朝鮮以外も)に通じていなければなりません。学者として当然とはいえ、ヌルボにとってはそれだけですごいなー、というレベルです。
そのような<空間的(地理的)広がり>だけでなく、日本の中だけでも時代によって訓読の方式が変化しているんですね。「之」を読まずにスルーするか、「これ」と読むか等々。それにはたとえば儒学だと孔子をどう理解するか、原典にどこまで密着・重視するか等の各時代各学派の姿勢に関わっているということなのだそうです。
つまり、そんな<時間的(歴史的)広がり>をも金文京先生は垣間見させてくれるのです。
<空間的(地理的)広がり>で、さらにもう一例ヌルボが「そうだったのか!」と今になって視野が広がったのは、国風文化の前提や背景について。
これまでのヌルボの日本史理解だと、衰えゆく中国からはもはや学ぶべきものはない、と遣唐使を廃止し、以後日本独自の繊細優美な国風文化が発達した・・・とここまでは一応よいとしても、中国その他外の世界に対する知識・関心も低下していったような受けとめ方をなんとなくしていました。
ところが本書によると、(儒教とは異なり)「インド起源の仏教では中国の存在が相対化されるのであって、中国の漢文を日本語で読むという訓読の発想は、そのような中国文化の相対化、特にインドの梵語と日本語が類似の言語であるという認識をテコにして生まれたものであったと考えられる」、つまり、インドと中国のどちらが優位か、という問題も背景にして、「(語順が似ている)梵語と日本語の対応関係を通じて、日本語の訓読と漢文が対等の関係に立ったことの結果であり、いわゆる国風時代のはじまりとも軌を一にしている」というわけです。
このように、重箱の隅をつつくような細かな作業や考証を積み重ねて、それを土台に大きな歴史像を構想してゆく過程が、むずかしいなりにヌルボのような門外漢にも理解できるように叙述されています。
「重箱の隅」といえば、角筆についても興味深く説明されています。(10年ほど前だったか、新聞記事で初めて角筆について知った時にはびっくりしたものです。)
これは先のとがった木や竹で墨をつけずに紙をへこませて書くもので、1961年に小林芳規現広島大名誉教授が世界で初めて古文書にその痕跡を発見し、今では全国で約3500点見つかっているそうです。
この角筆によるヲコト点が日本で確認されたばかりでなく、韓国でも2000年に角筆によるオコト点方式の11世紀の訓読が発見されたとのことで、<日・韓訓読シンポジウム>の報告記事等でその意義や研究の現況をうかがい知ることができます。
大学の先生方が執筆している新書にもピンからキリまであって、別に大学の先生でなくても書けるゾ、というレベルのものも少なからずありますが、この本については私ヌルボ、ただ平伏するばかりです。
アマゾンのレビューや、一部のブログを見ると、堂々と批判してる人もいるからたいしたものです。
図書館だと、韓国の小説とか、韓国の歴史とか、同じ分野の本がまとまって並んでいるので、偶然おもしろい本に出会ったりするのがいいですね。