ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ③2日目午前:北京(盧溝橋、天安門広場)

2014-10-22 22:19:08 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎2日目:8月2日(月)午前
 5:30~
 7:10
 京倫飯店5:30起床。盧溝橋までの距離と朝のラッシュ等を考慮すると早く出ざるをえないとのこと。
・朝食バイキング。メニューは豊富。同卓のO氏の話では、昨晩知人と食事に出かけたら子供の乞食がいたとか。
 7:10~
 8:00
 (バス)・車窓から見るとけっこう自転車通勤が多い。背広・ネクタイ姿は皆無といってよい。
・「朝鮮戦争に際して、150万人の人民解放軍が参戦した。司令官は澎徳懐。80万人が戦死した。毛沢東の子も。澎徳懐は文革で失脚した。」
 ・「文革の時紅衛兵は自分たちが正しいと思っていた。朝食の前に「毛沢東万歳」と3回唱えた。」

・申さんはハルビン生まれの朝鮮族。おじいさんは釜山。日中戦争の頃ハルビンへ。
・「中国には56の少数民族がいる。94%が漢民族。全人口は15億(公称14億)。朝鮮族は約200万人。」
・「中国では中1で中国の歴史、中2で世界の歴史を教わる。中3では復習。」
 ・「親が金がなければ子供は学校に行けない。地方の勉強しなかった子は北京に来て労働者になる。」
・「北京大学を出ても就職できない人もいる。昔は国が強制して就職先を振りあてた。1983年小平が「黒猫でも白猫でもネズミを取るのがいい猫だ」と言って資本主義的社会主義をとってから変わった。」
 ・「中国が有人衛星打上げに成功したのは大きな出来事だった。」

・「麦当劳」はマクドナルド。「火鍋」はしゃぶしゃぶ。しゃぶしゃぶはふつう羊肉で、1904年に初めて中国に入ってきた。
・盧溝橋近くになり、たしかに申さんの言葉通り低所得者層の居住区。街路がそのまま青空市場になっている。
  
 8:00~
 8:47
 中国人民抗日紀念館・昔の城門(宛平県城の順治門)をくぐって少し先、抗日紀念館で下車。8時開館まで外で少し待つ。柵越しに見ると職員が朝礼中。国旗掲揚等。
・[歴]抗日紀念館は1987年、橋の東の宛平県城(1640年創建のものを修復)の城内に盧溝橋事件50周年記念事業として設立。
・8:05入館。前庭に「民族正氣 浩然長存」と刻まれた亀上の石碑あり。館内ホールの左の壁に義勇軍進行曲(中国国歌)、右に八路軍進行曲。楽譜付き。
・館内を右から順次一周(順路は逆?)。
<抗日英烈館>は14枚のパネルに各20人ほどの抗日英雄の名を列記。<人民戦争館>の資料では犠牲者数<日军520463><为军490130>とある。<为军>は偽軍、すなわち国民政府軍である。
・次の<日军暴行館>は残虐な写真等の資料が数多く展示されていた。実物資料としては50㎝ほどの毒剤砲弾、マスタード、ルイサイト毒剤砲弾等。<侵華日軍科学戦示意図>という地図によると、多くの地で日本軍が化学兵器等を扱っていたことが示されている。731部隊による最近試験後の山積死体の惨い写真もある。生体解剖の場面を蝋人形で再現したものは隙間から覗くようになっている。解剖台の向こうに2人の医者、背広の日本人、脇に軍人が立っている。<日军暴行館>ではさらに<焚焼><制道無人区><実施細菌戦><屠(?)殺労工><設立慰安所><摧残婦孩><南京大屠杀><轟炸>等のテーマごとに多くの写真・資料を展示している。展示されている地図には<中国労工在日本服苦役示意図><侵華日軍細菌戦示意図><日軍在中国設置慰安所図>等があった。<南京大屠杀>ではやはり犠牲者30万余人とされていた。中国側将兵約2000人が殺害された1933年の熱河承徳の戦いについては初めて知った。(これも無残な写真資料があった。)
・<総合館一~三>では15年戦争~終戦の歴史を共産党の動きを軸に展示。中に、1944年「衡陽防衛戦で日本軍に殺害された中国軍将兵の死骸」という累々たる人骨の写真があったのは驚いた。帰国後調べてみると、これは「戦死者の遺骨を集めたもの」ということで、「それをさも<不当な虐殺>と思わせる表現はよくない」との見方があることを知った。
・売店で資料書籍「中国抗日戦争写真集」等購入。紙袋に「让战争成为历史 让和平书写未来」とあった。申さんに訊くと「戦争は歴史となってほしい。平和は未来の本に書いてほしい」という意味とのこと。
 8:47~
 8:54
 (バス)・紀念館から西に約500m、宛平県城の威厳門を過ぎるとすぐ永定河にかかる盧溝橋に着く。
  
【宛平県城の威厳門。右は盧溝橋からの眺め。】
 8:54~
 9:15
 盧溝橋・[歴]盧溝橋は金代の1192年に完成。清の康熙年間に洪水のため破壊されたが、その後修繕を重ねた。マルコ・ポーロがこの橋を賛美している。
・「古い盧溝橋は史跡保護のため現在車は通れない。自転車はOK。新しく造られた盧溝橋は車が通れる。」
・盧溝橋は中国人の観光客もけっこう多いようだ。地元の人たちも通っている。しかし付近の家々を見てもわかるように低所得者層の居住地域にあるということで、橋の両側のみやげ物屋など侘びしい雰囲気も漂う。橋の欄干上の獅子像([歴]全498体。)はどれも形態が異なる。
・申さんによると、中国人もこの橋を歴史遺物であるとともに中日戦争勃発の地として記憶に留めているということだ。
  
【子どもをだっこした母親、ネギをカゴに入れて自転車をこぐ人等地元住民も多い。】
 9:15~
 10:00
 (バス)・川と城壁に沿った道を行くと、城壁沿いの草むら中に高さ60㎝ほどの俵形の石がいくつも置かれていて、それぞれ文字が刻まれていた。写真を撮って後で確認すると、日中戦争についての証言を記しているらしい。
  
 10:00~
 10:30
 天安門広場・[歴]天安門を背に南向きに広場に立つと右に人民大会堂、左に中国歴史博物館と革命博物館、正面に人民英雄紀念碑、その向こうに毛主席紀念堂、正陽門がある。この雄大な光景は中華人民共和国の成立後のもので、清朝崩壊後は雑草の茂るがままの状態だった。天安門は明朝の1417年。清朝の1651年に現在のような城門城楼が再建された。1949年10月1日毛沢東が立って新中国の建国を宣言した楼閣は1988年から一般開放されている。人民英雄紀念碑は中国一高い石碑。アヘン戦争以来の英雄のレリーフがある。
・[歴]中国では時代区分は次の通り。原始=170万年前(元謀猿人)~4000年前、奴隷制社会=前21世紀(夏王朝)~前476年(春秋時代)、封建社会=前476年(戦国時代)~1840年(アヘン戦争前夜)、近代(旧民主主義革命期)=1840年~1921年(中国共産党創設)、現代=1921年~
・「天安門広場は44万㎡あり世界一広い広場。毛沢東の写真のすぐ下の入口は皇帝だけ通れる。皇后は1度だけ。中国国旗の赤い色は人民(の血?)、黄色い大きな星は共産党を表す。小さい4つの星は知識人・資産家(商人?)・工人・農民。人民英雄紀念碑はアヘン戦争以来の英雄を称える。毛主席紀念堂で見られるのは実は蝋人形で、その下にミイラがある。」
・私としては12年ぶりの天安門広場。あまり記憶が残っていないが、人と車はずいぶん増えたようだ。ちょうど国旗掲揚塔に詰めている(じっと立っている)衛兵の交代の時間で、多くの人々が見物していた。広場で目についたのはお上りさん観光客たちの家族記念写真撮影。凧揚げを楽しんでる人も相当数いる。大人も。連凧もある。トンボがたくさん飛んでいる。
 10:30~
 10:45
 (バス)・人でいっぱいの地下道を通ってバスまで歩く。広場近くに警察署があり、若い警官たちが拳法だかをやっていた。
・王府井に屋台が並んでいる。「営業は夕方から。サソリやヒトデのカラアゲもある」とのこと。
 10:45~
 12:10
 香港美食城
 (昼食)
・帰国後調べると、王府井にある広東料理で、ガイドブックにもある店。


【10年後の付記】
  2日目を丸ごと載せようと思ったらボリュームがありすぎで、やむなく午前と午後の2回に分けることにしました。こんなことではなかなかメインの延吉・長白山(白頭山)にたどりつきません。

 少し前に書いた自分のブログ記事でさえ他人の書いた文章に思えるほどの記憶力なので、10年前の旅行記録となると実に新鮮な気持ちで読めます(笑)。
 過日一緒にソウルに行った友人はカメラ不所持。「記憶に残らないものは記憶に値するほどの価値がないから残らないのだ」と言っていました。しかし、私ヌルボは自分の記憶力を全然信用していません。仕事関係等日常生活でも忘れてはいけないことを忘れてしまったことはたくさんあります。
 今こうして記憶にはほとんど残っていない過去の自分の記録を見ても、具体的には言えないにしても何らかの意味はあるのでは、と思います。

 この旅行中400枚以上の写真を撮りましたが、中国人民抗日紀念館の展示物の写真は撮っていません。館内撮影禁止だったのかな? しかし他のブログ、ホームページを見ると載っているものもあります。→コチラや→コチラや→コチラ等。
 また最初のホームページにある宛平県城の威厳門の写真(2009年)を見ると、われわれが行った時に行われていた修築工事が終わって周辺の道とともにきれいに整えられたようすがわかります。なお、→コチラの記事によると、北京市内は過去このような城壁が数多くあったのだが、1960年代に入って交通の妨げになるという理由でほとんどとり壊してしまったのだそうです。

 中国(そして韓国)の歴史認識問題であいかわらず「30万人」等々の数字が取り沙汰されたりしています。被害者側が被害を水増し・誇張したり、加害者側が犠牲者数を極力少なく見積もったり、事件自体をなかったものとみようとするのは同じ穴のムジナのように思えます。すでに半世紀をはるかに越え、どちらも子供どころか孫の代になっているのに・・・。どの国や民族を問わず、そんな被害者あるい加害者にならないようにするにはどうすべきか?ということを考えるべきでは?
 ※「世襲的犠牲者意識」をめぐる問題については、→コチラの過去記事や→コチラのレポート参照。


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