ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑨5日目午前:瀋陽(平頂山・撫順戦犯管理所等)

2016-02-17 21:53:37 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004))=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎5日目:8月5日(木)
 ~8:50
 グロリアホテル  
・6:30起床。12Fの部屋。外を見ると瀋陽北駅(下左写真)。下右写真は北站路を見下ろした眺め。後で調べると筋向いの格林大飯店の玄関口。([地]市街には昔ながらの造りの瀋陽駅もある。東京駅・ソウル駅とともに<赤レンガ三姉妹>。地元の人は<北站><南站>とよんでいる。) 空気は汚れてる感じ。
  
 朝食バイキングはなかなか豪華。お土産ショップにドラえもんしんちゃんの人形があった。両替1万円→725元。
 8:05~9:20
 (バス)
・「撫順までは40㎞くらい。瀋陽では通勤の7割以上が自転車バスが3割。市内人口506万人で自転車は300万台。タクシー3万台を含め車合計10万台。朝のラッシュは7~8時だがこの頃は10時頃までに延びている。夕方は17~18時。」
・沿道にフォルクスワーゲン、ニッサン、ホンダ等の販売店が並ぶ。
・以下紫色は呂さんの説明部分。「子供の頃の楽しみはまず旧正月。そしてお客さんが来ることごちそうが食べられたから。毛沢東時代、庶民の楽しみは自転車。当時は1台150元くらい。とくに上海製の自転車。そしてミシン。1978年以降小平さんの時代から、黒でも白でもネズミを取るのがいいネコということで、食べる物の心配がなくなった。今は健康への関心が高まって、魚・野菜・大豆を食べるようになってきた。ブタを飼う農家はもうからない。むしろミルクの需要増で乳牛の方がいい。主食は昔はコーリャンやトウモロコシだったが今は白米や小麦の饅頭。退勤時にギョーザを買って帰るなどしている。80年代の楽しみは冷蔵庫・テレビ・エアコン。2000年代は車・マンション・海外旅行。行く先は台湾・西安・韓国・ヨーロッパ等。60年代に女性が結婚相手に求めたのは①月収60元ならOK②おとなしい人。今は①ウサギのようにやさしく②ニワトリのように早起きして③ブタのようによく食べ④牛のように働き⑤イヌのように忠実。
 ・「土地は依然として国有。1980年代は結婚したら国から家をもらったが、90年代以降は自分で。」
・瀋陽→撫順は車用の広い道路。「道の50m以内には木を植えるようになっている」とのこと。
・8:47撫順市に入る。「撫順は遼寧省4番目の都市。車のナンバーで遼Aは瀋陽、Bは大連、Cは鞍山、Dは撫順。
・<女子減肥中心>の看板。<減肥>というのをけっこうみかけるがダイエット関係か。
・工業都市とあって、工場群が見えるが、やはりここでも石炭は斜陽産業なので、転職者が多いとか。
 9:20~9:23
 西露天鉱
・社会科の教科書等でよく見た露天掘り炭鉱。「深さ300m、南北2㎞×東西6.6㎞。埋蔵量、あと20年はOK。
 9:23~9:30
 (バス)

 9:30~10:23
 平頂山惨案遺址紀念館
1932年抗日ゲリラ鎮圧の名目で日本軍がこの地の村人約2~3千人(?)虐殺。うち約800体の遺骨が1970年に掘り出され現場に遺骨館が建てられたとのことである。
・入口には<撫順市博物館>とある。修学旅行(遠足?)で遼陽の中学校の生徒たちがバス4台で来ていた。
・慰霊塔から階段を下りたところに紀念館。入ったすぐに1932年当時の村の模型。館員の説明を呂さんが通訳。模型は生き残った人の記憶で作ったとのこと。500世帯で約3000人が南北に長い集落に居住。床屋・風呂屋等がある田舎の村。虐殺現場は120mほど離れた所。1932年9月15日に抗日ゲリラが日本人商店・事務所を襲撃、炭鉱の機械を破壊。16日朝190人くらいの警察・憲兵がトラック4台で来て村を包囲。各家庭をまわり「記念写真を撮る」と言って家から追い出す。家に火をつける。1時間ほどで虐殺。生き残った人が逃げようとしたら、再び日本人が車から下りて撃ち、2度目の虐殺となった。結局生き残ったのは40人くらい。遺体はガソリンをまいて焼き、山の土で埋めた。遺体はほとんど口を開けている。老人や女性が多い。頭に刀の跡があるもの、2体並んでいるもの等々。処々に「子供の死体」等々の小さな説明板。日本語・中国語が表裏に書いてある。入口でわれわれへの説明間待っていた中学生たちは先生の説明を聞きながら見学。(中国語ができれば何か話したいところ。)
・パンフレットを購入。5元。
・添乗員氏の話では、沈さんからの連絡によると延吉空港で結局私の財布は見つからなかったとのこと。やっぱりね。
    

 10:23~10:46
 (バス)
・将軍橋を渡り市の中心部にさしかかる辺り、路傍に座っている人たちがいる。「アルバイトさがしの人たちです。」
・<延吉路>という名の道があった。中国には北京に<長安街>があったり上海に南京路があったり・・・。
 10:46~11:27
 撫順戦犯管理所
・[地]1950年から1300余人を収監。

・1936年日本が支配していた頃の撫順典獄に始まる。<日本戦犯><欺満><蔣介石集団>の再教育施設。溥儀も。紅青もここに3年間収容されていた。文革の時には館長が吊るし上げにあったとのこと。
・日本軍が殺害した人民の数が949,814人とあったが・・・。
<改造末代皇帝陳列室>は溥儀関係のものを陳列。結婚当時の皇后婉容17歳の写真は以前見た。たしかに美人。(溥儀は候補4人中妃となった文繍に印をつけたそうだが、フーム。)
・古海忠之という元<満州国>高級官僚。最近「獄中の人間学」という本を出している。
・BC級戦犯で死刑に処した数はアメリカ140・イギリス・223・オーストラリア153・オランダ(荷兰と書くのか)226・中国国民政府149・フランス63・フィリピン27・計971。で中国は0。
・日本人戦犯、1956年判決、64年釈放も。釈放は1957~64年
<中归联>(中国帰還者連絡会(正統))という組織あり。帰国後ホームページを見る。1965年文革をめぐる対立から日中友好協会と同様代々木・反代々木で分裂、後者は(正統)をつけた、とある。(極東書店から反代々木が分裂して東方書店ができたのも同様。)
・<祝新編「三光」出版記念集会>という記念写真あり。
・露天舞台や理髪室等あり。
・パンフレット2冊。計75元。
 11:27~12:54~12:59
 (バス)
 (徒歩)
・車窓から看板を見る。<少儿英语・文学・数学>という看板は塾かな? <Mr.Leeの牛肉麺大王>というのは帰国後の調べではそれなりに知られているチェーン店のようだ。食堂のメニュー、粥1元から。
・12:10~12:20事故?だかで渋滞。
・瀋陽の中心部へ。中街は清代からの繁華街とか。肯徳基(ケンタッキー)吉野家もある。東順城路→朝陽路。
・バスを降りて少し歩く。途中中国工商銀行瀋陽支行は元は1905年設立の東三省官銀号で、これは東三省最大の地方銀行だったと碑文にある。回転寿司の店もある。6人くらい客がいた。
 12:59~13:50
 老边饺子館(昼食)
・[地]1829年創業の餃子の老舗。
・日本にも店があるとのこと。そういえば以前行った新宿西口か。帰国後調べるとその通り。南口にも支店があるのか。
・明るく清潔な雰囲気で、ずいぶん繁盛しているよう す。
・<御龍鍋>は小餃子をキクラゲやクコ等々と煮込んだ鍋。ホンタイジが大好きだったとのこと。


【11年半後の付記】
・このシリーズの前の記事(→コチラ)から1年以上空いてしまいました。この旅行の大きな目的だった延辺朝鮮族自治州に足を踏み入れ、長白山(白頭山)に登り、図們大橋から対岸の北朝鮮を眺め・・・というところまで終えて、気が抜けてしまったかも・・・。文章自体は2004年に打ち込んだものをコピペすればほとんどOKなのですが、HTMLで表作成という作業が知識ゼロのレベルから始めていまだに試行錯誤の連続で、けっこう時間がかかってしますのです(泣)。
・私ヌルボ、旅行する時にいつもこんな分刻みの記録を取っているわけではありません。実はちょっとムキになる「事情」があったわけで、それは最後に<旅行の総括>の中で書きました。いずれ公開します。いや、公開しないままだと後悔する・・・って、今再確認したら、1万字以上あるぞ。それだけでも2~3回分になってしまいそう・・・。

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