私ヌルボが考えるに、おもしろくない小説はおよそ次の3つに分けられます。
①淡々とした展開で、盛り上がりに欠け、タイクツきわまりない。
②主人公がイヤな奴で(たぶん作者も)、たいていは性格がひねくれていて、全然共感がもてない。
③言葉や文章が難解で、全然意味がとれない。
あ、それから④あほらしい内容で、語るに及ばず、というのもあるのですが、これは論外。(比率的には大きな部分を占めるが・・・。)
さて、ここで大切なことは、おもしろくないからといって、必ずしも読むに値しない、ということではない、ということ。逆におもしろくても薄っぺらで、読んだことを後悔するような小説もたくさんあります。
上記①に属する小説では、何といっても長塚節「土」のつまらなさは圧倒的でした。ずっと以前の話ですが、そのつまらなさを後輩に語ったら、後日彼が「読みました! 本当につまらなかったです!」と目を輝かせて報告したその表情を今も覚えています。
翻訳物ではカフカの「審判」なんか、小説の展開もさることながら、なんでこんな小説を苦労して読まないかんのか(←方言)、読んでる自分自身に不条理を感じたものです。
②のタイプでは、たとえば島崎藤村の「春」とか「桜の実の熟する時」。一体主人公は何をぐちゃぐちゃ悩んでいるんだろ? 悩む前にせなならんことがいろいろあるんちゃうか?(←方言)と菅直人でなくてもイライラしっぱなしでした。
③は、蓮見重彦先生とか何人かの名前は浮かんできますが、小説家では思いつきません。翻訳物では、高3の時授業中に読破したサルトル「嘔吐」! これを読み切った数10年昔の自分をほめてやりたいです。今はたぶん10ページも読めないでしょう。
ここにあげた数例の作品は、おもしろくなくてもリッパに読むに値する本でした。
以上が例によって長~い前セツ。
以下、一昨日イッキ読みした廉想渉(염상섭.ヨム・サンソプ)「万歳前」(勉誠出版.日本語)について。
1924年に京城で刊行された本の翻訳です。
はっきりいって、この小説はおもしろくないです。分類すると上記②に分類されます。「主人公の性根がひねくれていて、全然共感できない」というヤツです。
物語の時代背景は、題名の示すように1919年3月1日に始まる万歳事件(三一独立運動)の前年1918年の秋。
主人公はW大に通う朝鮮人留学生・李寅華(イ・インファ)。彼は数えで23歳くらいですが、京城に残してきた妻が産後の肥立ちが悪く、危篤との電報を受け取ります。
※当時の朝鮮では男は15歳前後で早婚するのがふつうだった。この小説では寅華が13歳、妻が15歳の時とある。
それで、寅華は期末試験途中で一時帰国することになるのですが、神保町方面で旅行用品を買った後もぐずぐずしてて、髪が伸びてもないのに散髪屋に行ったり東京堂書店をのぞいたり、そしてカフェに行ってなじみのカフェガール静子やP子と酒を飲んだり・・・。大分経ってから「実はうちのかみさんが病みついているらしいんだ。危篤で苦しい息をしているというんで・・・」と言うとP子は当然「それじゃ早く帰ってあげなきゃ、・・・」と言うわねー、すると寅華、 「死ぬ者は死ぬようになっているのさ。どうするって、どうしようもないよ」 。
・・・とまあ、こんな調子!
一応夜汽車で出立したものの、汽車の旅に疲れた寅華は神戸で途中下車。そして知り合いの朝鮮女子留学生の乙羅の寄宿舎を訪ねる。・・・って、一体何やってるんだ!(と、すでに怒りが込みあがってくる私ヌルボ・・・。) 引き留める乙羅に別れを告げて寅華はようやく下関に着き、連絡船の待合室へ。ここで刑事の訊問を受け、その後も官憲にはずっとつきまとわれます。
釜山に着いた寅華、ふらりとうどん屋に立ち寄り(「立ち寄るなっ!」とヌルボは叫ぶ)、2階で女給たちの身の上話を聞いたり、<タバコ節(담바귀타령)>という唄を聴いたりします。やっと汽車に乗った彼、途中兄が迎えに来ていた金泉駅で下車して兄の家に寄ります。普通学校の訓導の兄は妻がいるのに男の子がいないという口実で若い女を同居させたりしています。やれやれ。
また乗車した寅華、午前零時過ぎ大田で30分ほどの停車の間、釜山等と同様日本人家屋の増えた街を歩き、車内に戻って「共同墓地だ!」とか「すべてがウジ虫だ!」などとつぶやきます。(「アンタ自身がそうなんだよっ」と言ってやりたくなります。)
やっと、ホントにやっと京城の家に着くと妻は力なく寝ています。しかし寅華はあいかわらずで、乙羅が帰国してるはずだと考え、彼女と怪しい関係(?)の従兄炳華の家を訪ねたりします。
妻はついに臨終を迎えます。寅華は皆の反対を押し切って簡単に三日葬で済ませ、すぐ日本に戻ることにします。
乙羅とのモヤモヤも吹っ切り、彼に思いを寄せつつ同志社で学ぶことに決めた静子からの手紙での誘いも拒んで、彼は「我々は何よりも新たな生命が躍動する歓喜を得る時まで、我々の生活を光明と正道へと導いてゆきましょう」と静子への返信で決意をしたためます。(これだけ読者に不信の念を増幅させておいて、最後の最後になって今さら「めざめた」とか「回心」とかゆうても誰が信じますかいな!)
ウィキペディアによると、廉想渉は「朝鮮の自然主義文学の祖となった」とあります。
私ヌルボ、この主人公の性根のひねくれ具合は島崎藤村等の自然主義作家と通じるものがあるなーと思ったら案の定でしたね。またこの小説を訳した白川豊先生は、「廉想渉によって朝鮮文壇に初めて真のリアリズム文学が定着したのである」と記しています。
やっぱり、二葉亭四迷「浮雲」の内海文三以来、いわゆる近代的自我なるものはいわばイヤな性格とほとんど同義なんでしょうね。
その点、読み物としてのおもしろさでいうと、やっぱり尾崎紅葉「金色夜叉」とか小杉天外「魔風恋風」のような前近代的要素が残っている小説の方がずぅっとおもしろかったのと同様、朝鮮人作家の作品では李光洙「有情」(1933)とか蔡萬植「濁流」(1937)の方がなんぼかおもしろかったです。
以上かなりボロクソに感想を書きつらねましたが、それでもなお読んでよかった本です。(「よっく言うよ」って?)
①淡々とした展開で、盛り上がりに欠け、タイクツきわまりない。
②主人公がイヤな奴で(たぶん作者も)、たいていは性格がひねくれていて、全然共感がもてない。
③言葉や文章が難解で、全然意味がとれない。
あ、それから④あほらしい内容で、語るに及ばず、というのもあるのですが、これは論外。(比率的には大きな部分を占めるが・・・。)
さて、ここで大切なことは、おもしろくないからといって、必ずしも読むに値しない、ということではない、ということ。逆におもしろくても薄っぺらで、読んだことを後悔するような小説もたくさんあります。
上記①に属する小説では、何といっても長塚節「土」のつまらなさは圧倒的でした。ずっと以前の話ですが、そのつまらなさを後輩に語ったら、後日彼が「読みました! 本当につまらなかったです!」と目を輝かせて報告したその表情を今も覚えています。
翻訳物ではカフカの「審判」なんか、小説の展開もさることながら、なんでこんな小説を苦労して読まないかんのか(←方言)、読んでる自分自身に不条理を感じたものです。
②のタイプでは、たとえば島崎藤村の「春」とか「桜の実の熟する時」。一体主人公は何をぐちゃぐちゃ悩んでいるんだろ? 悩む前にせなならんことがいろいろあるんちゃうか?(←方言)と菅直人でなくてもイライラしっぱなしでした。
③は、蓮見重彦先生とか何人かの名前は浮かんできますが、小説家では思いつきません。翻訳物では、高3の時授業中に読破したサルトル「嘔吐」! これを読み切った数10年昔の自分をほめてやりたいです。今はたぶん10ページも読めないでしょう。
ここにあげた数例の作品は、おもしろくなくてもリッパに読むに値する本でした。
以上が例によって長~い前セツ。
以下、一昨日イッキ読みした廉想渉(염상섭.ヨム・サンソプ)「万歳前」(勉誠出版.日本語)について。
1924年に京城で刊行された本の翻訳です。
はっきりいって、この小説はおもしろくないです。分類すると上記②に分類されます。「主人公の性根がひねくれていて、全然共感できない」というヤツです。
物語の時代背景は、題名の示すように1919年3月1日に始まる万歳事件(三一独立運動)の前年1918年の秋。
主人公はW大に通う朝鮮人留学生・李寅華(イ・インファ)。彼は数えで23歳くらいですが、京城に残してきた妻が産後の肥立ちが悪く、危篤との電報を受け取ります。
※当時の朝鮮では男は15歳前後で早婚するのがふつうだった。この小説では寅華が13歳、妻が15歳の時とある。
それで、寅華は期末試験途中で一時帰国することになるのですが、神保町方面で旅行用品を買った後もぐずぐずしてて、髪が伸びてもないのに散髪屋に行ったり東京堂書店をのぞいたり、そしてカフェに行ってなじみのカフェガール静子やP子と酒を飲んだり・・・。大分経ってから「実はうちのかみさんが病みついているらしいんだ。危篤で苦しい息をしているというんで・・・」と言うとP子は当然「それじゃ早く帰ってあげなきゃ、・・・」と言うわねー、すると寅華、 「死ぬ者は死ぬようになっているのさ。どうするって、どうしようもないよ」 。
・・・とまあ、こんな調子!
一応夜汽車で出立したものの、汽車の旅に疲れた寅華は神戸で途中下車。そして知り合いの朝鮮女子留学生の乙羅の寄宿舎を訪ねる。・・・って、一体何やってるんだ!(と、すでに怒りが込みあがってくる私ヌルボ・・・。) 引き留める乙羅に別れを告げて寅華はようやく下関に着き、連絡船の待合室へ。ここで刑事の訊問を受け、その後も官憲にはずっとつきまとわれます。
釜山に着いた寅華、ふらりとうどん屋に立ち寄り(「立ち寄るなっ!」とヌルボは叫ぶ)、2階で女給たちの身の上話を聞いたり、<タバコ節(담바귀타령)>という唄を聴いたりします。やっと汽車に乗った彼、途中兄が迎えに来ていた金泉駅で下車して兄の家に寄ります。普通学校の訓導の兄は妻がいるのに男の子がいないという口実で若い女を同居させたりしています。やれやれ。
また乗車した寅華、午前零時過ぎ大田で30分ほどの停車の間、釜山等と同様日本人家屋の増えた街を歩き、車内に戻って「共同墓地だ!」とか「すべてがウジ虫だ!」などとつぶやきます。(「アンタ自身がそうなんだよっ」と言ってやりたくなります。)
やっと、ホントにやっと京城の家に着くと妻は力なく寝ています。しかし寅華はあいかわらずで、乙羅が帰国してるはずだと考え、彼女と怪しい関係(?)の従兄炳華の家を訪ねたりします。
妻はついに臨終を迎えます。寅華は皆の反対を押し切って簡単に三日葬で済ませ、すぐ日本に戻ることにします。
乙羅とのモヤモヤも吹っ切り、彼に思いを寄せつつ同志社で学ぶことに決めた静子からの手紙での誘いも拒んで、彼は「我々は何よりも新たな生命が躍動する歓喜を得る時まで、我々の生活を光明と正道へと導いてゆきましょう」と静子への返信で決意をしたためます。(これだけ読者に不信の念を増幅させておいて、最後の最後になって今さら「めざめた」とか「回心」とかゆうても誰が信じますかいな!)
ウィキペディアによると、廉想渉は「朝鮮の自然主義文学の祖となった」とあります。
私ヌルボ、この主人公の性根のひねくれ具合は島崎藤村等の自然主義作家と通じるものがあるなーと思ったら案の定でしたね。またこの小説を訳した白川豊先生は、「廉想渉によって朝鮮文壇に初めて真のリアリズム文学が定着したのである」と記しています。
やっぱり、二葉亭四迷「浮雲」の内海文三以来、いわゆる近代的自我なるものはいわばイヤな性格とほとんど同義なんでしょうね。
その点、読み物としてのおもしろさでいうと、やっぱり尾崎紅葉「金色夜叉」とか小杉天外「魔風恋風」のような前近代的要素が残っている小説の方がずぅっとおもしろかったのと同様、朝鮮人作家の作品では李光洙「有情」(1933)とか蔡萬植「濁流」(1937)の方がなんぼかおもしろかったです。
以上かなりボロクソに感想を書きつらねましたが、それでもなお読んでよかった本です。(「よっく言うよ」って?)
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