→<その1>
→<その2>
の続きです。
「朝露」以外にもヤン・ヒウンさんの歌の多くが70~80年代の軍政下で禁止されました。
つい今月初め(7月4日)の韓国MBC番組「遊びにきて」で、ヤン・ヒウンさんが当時のことを語ったという「韓国経済」の記事<ヤン・ヒウン禁止曲 理由聞いてみると「荒唐無稽」>(→コチラ)をたまたま読みました。
まさにかつての不合理な禁止の実態を伝えています。彼女の禁止曲は30曲に及んだそうです。その理由は、たとえば「叶わない愛(이루어질 수 없는 사랑)」では「なぜ愛が叶わないのか」と問われ、「0時の愛(0시의 사랑)」は「なぜ通禁時間に別れをするのか」の理由で禁止された、とヤン・ヒウンさんは語ったそうです。
<その2>で、<金冠のイエス>中の歌詞が当初は「おお! 主よ 今そこに(오! 주여 이제는 그곳에)」ではなく「ここに (여기에)」だったということを書きました。
→在日韓国青年同盟関係のあるサイト(→コチラ)には次のようなカキコミがありました。
「金冠のイエス」は、歌詞の「オー チューヨ イジェヌン ヨギエ」の「ヨギエ」を「チョギエ」に、変えて、お上の許可をもらったみたいですね。「チョギエ」は、38度線の向こう側、ということです。これで、学生達から、かなり、反発を買ったようです。しかし、歌自体は、よかったですが。
「チョギエ(저기에)」は「クゴセ(그곳에)」と同じで「そこに」。キリストが来臨すべき問題の場所は「ここ=韓国ではなくそこ=北朝鮮」ということで許可を得た、ということです。
<その1>で紹介した韓国サイト「ヤン・ヒウンの若い頃の事典」(→コチラ.→日本語訳)によると、彼女は71年に続いて72年、78年と3度キム・ミンギ氏と組んでアルバムを出します。
「中央情報部の監視を受けて逃避生活をしたキム・ミンギと、彼の"ペルソナ"という罪で、常に熱いまなざしを受けていたヤン・ヒウン。彼らの人生は、70年代の痛みを代弁したという事実は、歴史に記録されるだけに本当に胸が痛むことだった」と、事典は記しています。
彼女自身の話では「1970年代半ばにフォークの流れが滞ってしまった状況だったし、ラジオのDJをしている瞬間にも、放送局には情報部の要員が2人1組で配置されて監視され、時々「キム・ミンギといつ会ったか?」「どこにいるか知らないか?」と訊かれたりもした」という状況下で、自信もまた「アイデンティティについて悩んでいた」といいます。
また、アルバムが売れても当時の状況でお金を得ることはできず貧しいままで、結局81年せわしない歌手生活をしばし畳んで1年間韓国を離れてヨーロッパへ。
しかし、1年ぶりに帰ってきた彼女はかつての明るくて元気な姿ではありませんでした。卵巣がん末期の状態という、まさに人生最大の試練を迎えます。2度の手術と抗癌治療で髪は抜け、声も力を失っていきましたが彼女はあきらめず、84年にはのが、今は私が「ヒギョンの姉」になったね」というほどに時代は変わりましたが、「90年代にもまだ彼女の歌は、メディアやお茶の間の中心を"貫通"し」、そして現代に至ります。
「ヤン・ヒウンの若い頃の事典」の筆者氏は、自分が生まれた1985年に発表された「寒渓嶺(한계령)」が一番好きな歌だそうです。たしかに、しみじみとした情緒にあふれた良い歌です。→YouTube
以前NHKでさだまさし氏とヤン・ヒウンさんが共演しているステージをたまたま見たことがありました。2人が知り合ったいきさつも語っていたようですが、忘れてしまいました。ダ・カーポ関係のサイトによると、2人の共演は2003年8月6日の「夏・長崎から」コンサートだったそうで、その時披露された新曲が「人生の贈り物~他に望むものはない~」という曲。なんと「作詞 楊姫銀/訳詩・作曲 さだまさし」なんですね。
2人でこの歌を歌ってる動画、じゃなく音声だけですが、これもYouTubeで聴けます。→コチラ。
40年という長い歌手生活の間、韓国の政治・社会の激動の中で、いろんな苦難も味わってきたヤン・ヒウンさん。先に紹介したテレビ番組の中で若い人たちの前でかつての禁止歌のエピソード等も語れるようになったことは時代の進歩というべきでしょう。
また、これもごく最近の7月12日「中央日報」のインタビュー記事で彼女が語っているのは「あまりにも「巨大な歌」として広まったデビュー曲「朝露」の圧迫から抜け出すのに38年かかった」ということ。決していわゆる<一発屋>でもない彼女がそう語るほど「朝露」の影響力が大きかったということですね。
ようやく長々と書き連ねてきたこのブログ記事も終わりに近づいてきました。「ヤン・ヒウンさんの「朝露」をめぐる韓国現代史(と、自分史)」と銘打ちながらも、途中から「ヤン・ヒウンの若い頃の事典」に依拠した彼女の個人史のようになってしまいました。
・・・が、最後にどうしても書いておきたいことがあと2つあります。
その1は、北朝鮮での「朝露」について。
私ヌルボが1991年8月北朝鮮に行った時に、ディナーの際の出し物で当方の団体からギターを持って前に出た1人が歌い始めた歌が「朝露」でした。韓国の民主化運動に共感を寄せてきた人たちの間ですでにわりと知られてきた頃だったと思います。ところが反応は悲しいかなゼロでした。当時の北朝鮮の人たちはこの歌と、その背景を知らなかったようです。その後何かで「あのような反体制の歌は北朝鮮でもまずいんだ」という話を見たか聞いたかしたことがありました。
2008年の<DailyNK>の記事(→コチラ)を見ると、「北朝鮮でも「朝露」は90年代半ばからよく歌われた」そうです。しかし「1998年公式に'禁止曲'になった」とか・・・。
1991年に北朝鮮で「朝露」を歌った方、あるいは同様に自由と人権と平和を追求する方たち、(何をかくそう、私ヌルボもそのつもりなんだけどなー) もし今後北朝鮮に行く機会があったら、堂々と「朝露」を歌いましょう!(・・・って、歌えますか?)
もう1つ。「朝露」とは直接関係ありませんが、日本の代表的な闘いの歌・岡林信康の「友よ」の歌詞について。
もう10年以上前になるか、私ヌルボ、たまたま高校の音楽の教科書を見る機会がありました。昔と違っていろんなジャンルの歌が載っている中に「友よ」もあって、ずいぶん時代が変わったなー、と感懐にふけりつつ歌詞を見ると、あれ!? 「友よ 夜明け前の闇の中で 友よ 戦いの炎を燃やす」となっているではありませんか! 炎を「燃やせ」が元の形なのに・・・。
「燃やせ」だと扇動的だ、物騒だ、ということで「燃やす」にしたのか!(怒) 一体誰が判断したのか?責任者出てこい(怒怒)!
・・・これが日本のこの40年の変化の1つの表徴であるとしたら、とても悲しいです。(些細なことのようでも、すごく重要なことだと思います。)
意味することがわかりませんので機会があったら解説してくださいませ。
機会があったら取り上げてくだしますようお願いします
張思翼第3集「ホホパダ」ですね。
「歌詞の裏にある思い」とは、率直に言って難問です。
「虚虚の海」。
「訪ねてみると訪ねた処はなく
戻って来ると戻って来た処はなく・・・」
と、なんとも玄妙な歌詞ですね。
仏教的無常観といったものでしょうか?
この歌の伴奏音楽もなんとなく仏教音楽っぽいし・・・。チリーンと鉦の音が入ってますね。
仏教的無常観のようなものは強く感じました。
般若心経にある無無無とつずく経文を連想しました。
全ては無で唯在るのは ビョウビョウと広がる海のみですから