2つ前の記事の続きです。
前回は、日本の「鉄道唱歌」のメロディーは韓国では「学徒歌」という、若者に学問を督励する内容の歌に用いられていることを書きました。
では、韓国でも作られた鉄道唱歌はどんなメロディーだったのでしょうか?
御用とお急ぎの方はとりあえず下の動画だけでも見てください。
1908年作られた「京釜鉄道歌」です。
メロディーは、日本人の大多数が知っている(ホント?)唱歌「故郷の空」ですね。世代によっては、ザ・ドリフターズが歌っていたなかにし礼作詞の「誰かさんと誰かさん」というタイトルの方がなじみがあるかもしれません。
以下は、この「京釜鉄道歌」の内容や歴史背景等について。(かなり細かいのでかったるいかも・・・。)
日本では1872年新橋~横浜間の鉄道が開通しましたが、韓国(当時は大韓帝国)では28年遅く、1900年日本資本により京仁鉄道(京城~仁川)が開通しました。日本で「鉄道唱歌」が作られた年ですね。
そして1905年は京釜鉄道(京城~釜山)全線開通。これらの鉄道はその後1908年韓国統監府に売却され、1910年の韓国併合後は朝鮮総督府鉄道局の運営となりました。
この時代の韓国は近代文化の開化期で、韓国初めての「鉄道唱歌」もこの時期に作られました。
下の画像は鉄道博物館(韓国)の展示物です。
左から「京釜鉄道歌(경부철도가)」(1908.崔南善(최남선))、「京仁鉄道歌(경인철도가)」(年、作詞者未詳)、「湖南鉄道歌(호남철도가)」(1926.具榮書(구영서))の歌詞です。とても読めるような画像ではありませんが、文字の一かたまりが何番もある歌の中の1番分。ということは、どれも長い歌ということだけはわかります。
「京釜鉄道歌」の作詞者崔南善(チェ・ナムソン)は、李光洙(イ・グァンス)とともに韓国近代文学の草分けともいうべき存在で、同年(1908年)11月に朝鮮初の近代的雑誌「少年」を創刊し、その創刊号に発表された詩「海から少年へ」も朝鮮で最初の新体詩(近代詩)とされています。
彼は1890年生まれなので、当時まだ10代でした。早くから才能を発揮したこの秀才は、1904年と06年に渡日し、東京府立一中、早稲田大学高師科に入学しましたが、すぐに帰国しています。しかしちょうど「鉄道唱歌」が流行っていた頃で、それが「京釜鉄道歌」を作る導火線になったことは、彼自身後に語っています。(※大竹聖美「植民地朝鮮と児童文化」(社会評論社))。崔南善は、その後1919年三一独立運動に際して「独立宣言書」を起草した人物としても知られています。
では、「京釜鉄道歌」の歌詞について少し詳しく見てみます。
1番の京城から始まって終点の釜山が67番という長さなので、一部しか紹介できません。上掲左の画像を拡大して、まず冒頭の動画で歌われている1・2番、京城[南大門駅]出発の歌詞を読んでみます。
全部の歌詞が七五調(4+3+5)という(朝鮮では)新しい形式になっていて、見た目にもタテ・ヨコがきちんとそろっています。18歳の崔南善に対抗して私ヌルボも明治風に訳してみました(笑)が、出来栄えは全然自信ナシ。間違いがあったら教えてください。(コッソリ直します。)
大和田建樹は1898年末から新橋を発ち、九州の熊本、長崎まで約20日間の取材旅行をしたとのことです。(※中島幸三郎「汽笛一声新橋を」(佑啓社)) もしかして、崔南善もそんな汽車の旅をしたのでしょうか? 歌詞を見ると、当時の各地のようすが具体的に描写されています。そして崔南善自身の「思い」も込められています。具体的に言えば、①各地で日本人居住者が増えている状況 と、②それに対する崔南善の痛憤 です。21~23番の温陽温泉はその一例です。
まだ韓国併合前だったとはいえ、上の温陽温泉の他にも、龍山駅辺りでは「二千余人の日本人がここに住んでいる」とか、釜山では「日本人居留民が二万人だから/一見すれば日本と変わりなく」等々、各都市に日本人が多く住み着いているようすが読み取れます。
それに対して、後の方の歌詞ほど崔南善の痛憤の度合いが強くなっていきます。とくに最後の64~67番は全体の総集編として彼の主張がそのまま綴られています。たとえば66番。
朝から汽車で乗り来しが/我が物ならず他人(ひと)の物/
いつかは強き力もて/己(おの)が手ずから走らせん
この崔南善の「京釜鉄道歌」と対照的な歌が、「鉄道唱歌」の作詞者・大和田建樹が1906年に作った「満韓鉄道唱歌」です。
これは「京釜鉄道歌」は逆に、1,馬関(下関)→3.釜山→9.大邱→17.牙山→23.京城と北上し、さらに25.平壌→27.新義州~鴨緑江→34.奉天→52.大連→57.旅順 と続き、最後の60番は「ああ清国も韓国も/共に親しき隣国ぞ/互いに近く行きかいて/研(みが)かん問題数多し」という歌詞で結んでいます。
この歌の全歌詞はなんと→コチラで見ることができますが、「20.仁川港に在留の/邦人一万三千余/日露の役の手始に/敵艦沈めし浦なるぞ」といった日清・日露の戦勝国民の高揚した気分が随所に見て取れます。
この「満韓鉄道唱歌」の動画はニコ動にありました。(歌詞字幕付) ここで16分以上かけて全曲歌っているのはなんと初音ミク! さすがに息を切らせることなく歌いきっています。
最後に「京釜鉄道歌」のメロディーについて。
私ヌルボ、この歌が「故郷の空」の曲を借りていることは下の展示物(「京釜鉄道歌」(1908年刊行))の楽譜を見て知りました。この記事冒頭のYouTubeは帰国後見つけたものです。
原曲はスコットランド民謡で、作詞は件(くだん)の大和田建樹。ドリフの「誰かさんと誰かさん」に近い原詞を全然知らずにつけた歌詞だそうです。1888年刊行の「明治唱歌 第一集」所収の1篇で、その当時から一般に愛唱されてきた歌でした。もしかして、多梅稚による「鉄道唱歌」の曲を「学徒歌」に取られた崔南善がちょうど使えるメロディーだということでひらめいたのがこれだったのかも・・・というのは丸ごと想像ですが・・・。
ただ、ちょっと引っかかるのは、この記事を書くのに大いに参考にした大竹聖美「植民地朝鮮と児童文化」では、한용희「童謠七十年史 韓國의 童謠」に拠り「メロディーは、当時の日本の軍歌がそのまま使われたようだ」として、「故郷の空」には全然ふれていないこと。「故郷の空」のメロディーに定着する以前の<前史>があったということ? よくわかりません。
今回も例によって予定よりもはるかに長い記事になってしまいました。最後まで読んでくださった皆さんお疲れ様でした。
[補足(自分用のメモ]「湖南鉄道歌」については→コチラと→コチラの記事参照。(どちらも韓国語)
前回は、日本の「鉄道唱歌」のメロディーは韓国では「学徒歌」という、若者に学問を督励する内容の歌に用いられていることを書きました。
では、韓国でも作られた鉄道唱歌はどんなメロディーだったのでしょうか?
御用とお急ぎの方はとりあえず下の動画だけでも見てください。
1908年作られた「京釜鉄道歌」です。
メロディーは、日本人の大多数が知っている(ホント?)唱歌「故郷の空」ですね。世代によっては、ザ・ドリフターズが歌っていたなかにし礼作詞の「誰かさんと誰かさん」というタイトルの方がなじみがあるかもしれません。
以下は、この「京釜鉄道歌」の内容や歴史背景等について。(かなり細かいのでかったるいかも・・・。)
日本では1872年新橋~横浜間の鉄道が開通しましたが、韓国(当時は大韓帝国)では28年遅く、1900年日本資本により京仁鉄道(京城~仁川)が開通しました。日本で「鉄道唱歌」が作られた年ですね。
そして1905年は京釜鉄道(京城~釜山)全線開通。これらの鉄道はその後1908年韓国統監府に売却され、1910年の韓国併合後は朝鮮総督府鉄道局の運営となりました。
この時代の韓国は近代文化の開化期で、韓国初めての「鉄道唱歌」もこの時期に作られました。
下の画像は鉄道博物館(韓国)の展示物です。
「京釜鉄道歌」の作詞者崔南善(チェ・ナムソン)は、李光洙(イ・グァンス)とともに韓国近代文学の草分けともいうべき存在で、同年(1908年)11月に朝鮮初の近代的雑誌「少年」を創刊し、その創刊号に発表された詩「海から少年へ」も朝鮮で最初の新体詩(近代詩)とされています。
彼は1890年生まれなので、当時まだ10代でした。早くから才能を発揮したこの秀才は、1904年と06年に渡日し、東京府立一中、早稲田大学高師科に入学しましたが、すぐに帰国しています。しかしちょうど「鉄道唱歌」が流行っていた頃で、それが「京釜鉄道歌」を作る導火線になったことは、彼自身後に語っています。(※大竹聖美「植民地朝鮮と児童文化」(社会評論社))。崔南善は、その後1919年三一独立運動に際して「独立宣言書」を起草した人物としても知られています。
では、「京釜鉄道歌」の歌詞について少し詳しく見てみます。
1番の京城から始まって終点の釜山が67番という長さなので、一部しか紹介できません。上掲左の画像を拡大して、まず冒頭の動画で歌われている1・2番、京城[南大門駅]出発の歌詞を読んでみます。
雄(たけ)くも吐き出す汽笛の音(ね) 南大門を背に発ちて 疾風(はやて)のごとき勢ひに 飛ぶ鳥さへも追ひかねつ 老いも若きも座り居て 内外(うちそと)国人(くにびと)乗り合わせ 皆人共にに打ち解けて 生まれぬ小さき別世界 |
全部の歌詞が七五調(4+3+5)という(朝鮮では)新しい形式になっていて、見た目にもタテ・ヨコがきちんとそろっています。18歳の崔南善に対抗して私ヌルボも明治風に訳してみました(笑)が、出来栄えは全然自信ナシ。間違いがあったら教えてください。(コッソリ直します。)
大和田建樹は1898年末から新橋を発ち、九州の熊本、長崎まで約20日間の取材旅行をしたとのことです。(※中島幸三郎「汽笛一声新橋を」(佑啓社)) もしかして、崔南善もそんな汽車の旅をしたのでしょうか? 歌詞を見ると、当時の各地のようすが具体的に描写されています。そして崔南善自身の「思い」も込められています。具体的に言えば、①各地で日本人居住者が増えている状況 と、②それに対する崔南善の痛憤 です。21~23番の温陽温泉はその一例です。
彼方此方(あちこち)見るうち知らぬ間に いつしか着きぬ天安へ 温陽温泉まで三里 ※朝鮮の10里=日本の1里 ひと風呂浴びんと人数多(あまた) 俥(くるま)と駕籠が備わりて 行き来に不便は毫(ごう)もなし 綺麗な造りの宿あるも 主(あるじ)は粗方(あらかた)日本人 此れ等は小さきことなるも 同胞生業(なりわい)衰微せり 彼等が如何に励むとも 此れひとつさえ保ち得じ |
まだ韓国併合前だったとはいえ、上の温陽温泉の他にも、龍山駅辺りでは「二千余人の日本人がここに住んでいる」とか、釜山では「日本人居留民が二万人だから/一見すれば日本と変わりなく」等々、各都市に日本人が多く住み着いているようすが読み取れます。
それに対して、後の方の歌詞ほど崔南善の痛憤の度合いが強くなっていきます。とくに最後の64~67番は全体の総集編として彼の主張がそのまま綴られています。たとえば66番。
朝から汽車で乗り来しが/我が物ならず他人(ひと)の物/
いつかは強き力もて/己(おの)が手ずから走らせん
この崔南善の「京釜鉄道歌」と対照的な歌が、「鉄道唱歌」の作詞者・大和田建樹が1906年に作った「満韓鉄道唱歌」です。
これは「京釜鉄道歌」は逆に、1,馬関(下関)→3.釜山→9.大邱→17.牙山→23.京城と北上し、さらに25.平壌→27.新義州~鴨緑江→34.奉天→52.大連→57.旅順 と続き、最後の60番は「ああ清国も韓国も/共に親しき隣国ぞ/互いに近く行きかいて/研(みが)かん問題数多し」という歌詞で結んでいます。
この歌の全歌詞はなんと→コチラで見ることができますが、「20.仁川港に在留の/邦人一万三千余/日露の役の手始に/敵艦沈めし浦なるぞ」といった日清・日露の戦勝国民の高揚した気分が随所に見て取れます。
この「満韓鉄道唱歌」の動画はニコ動にありました。(歌詞字幕付) ここで16分以上かけて全曲歌っているのはなんと初音ミク! さすがに息を切らせることなく歌いきっています。
最後に「京釜鉄道歌」のメロディーについて。
私ヌルボ、この歌が「故郷の空」の曲を借りていることは下の展示物(「京釜鉄道歌」(1908年刊行))の楽譜を見て知りました。この記事冒頭のYouTubeは帰国後見つけたものです。
ただ、ちょっと引っかかるのは、この記事を書くのに大いに参考にした大竹聖美「植民地朝鮮と児童文化」では、한용희「童謠七十年史 韓國의 童謠」に拠り「メロディーは、当時の日本の軍歌がそのまま使われたようだ」として、「故郷の空」には全然ふれていないこと。「故郷の空」のメロディーに定着する以前の<前史>があったということ? よくわかりません。
今回も例によって予定よりもはるかに長い記事になってしまいました。最後まで読んでくださった皆さんお疲れ様でした。
[補足(自分用のメモ]「湖南鉄道歌」については→コチラと→コチラの記事参照。(どちらも韓国語)
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