1月11日の記事(→コチラ)で紹介した時はまだ途中までしか読んでいなかった女性作家安素玲(アン・ソヨン)のジュニア向け歴史小説「갑신년의 세 친구(甲申年の3人の友)」を先日読み終えました。
同じ作家の「本ばかり読むバカ(책만 보는 바보)」も良書でしたが、この本も偶然目にとまって衝動買いしたのが思えば非常にラッキーでした。
とくに、1882年の壬午軍乱、1884年の甲申事変を中心に、その前後の朝鮮と日本に関わるさまざまなことが史実に忠実に書かれていて、一層興味深く読めました。
韓国の作家が書いた日本がらみの歴史小説というと、「民族主義に凝り固まった反日小説だろう」と思う人が大勢いると思います。
ところが、全然そうではありません。多くの歴史書・資料に拠り、正確な史実を土台に書かれています。それも細部に至るまで。
しかも、勉強にはなってもおもしろくない歴史教科書的な記述ではなく、いかにもジュニア向けの本らしく、感動を呼び起こすとともに考えさせる内容になっています。
私ヌルボ自身読み終えて心を動かされたのは、「3人の友」、すなわちこのクーデターの中心人物だった金玉均(キム・オッキュン)・洪英植(ホン・ヨンシク)・朴泳孝(パク・ヨンヒョ)の3人の中で、他の2人のように日本に亡命せず、その場に留まった洪英植が清国軍に殺される場面が冒頭に置かれている意味が最後の方でわかったこと。
残れば殺されることがわかっていながら、なぜ洪英植はあえて残ることを決心したのか?
予想外の清国軍の攻勢に遭って、金玉均等は竹添進一郎公使に随って日本公使館に身を避けることに決めます。ところが、それまで黙っていた洪英植が「私は・・・殿下(高宗)に随う」と言うと、驚いた仲間たちは「それは無駄死にするに等しい」と説得します。
そこで作者は、作中で彼に次のように語らせています。
「おまえたちの話はもっともだ。後々のため皆ここを発たねばならない。だが誰か1人は残って、われわれが何のため決起したのか、何をしようとしていたのかを知らせなければならない。われわれの企ては成功しなかったが、われわれの志だけは後世まで伝えられのようにしなければならない。殿下をそのままにして行ってしまうとわれわれの真心を誰が信じてくれるだろうか? 私は最後まで殿下に随う」。
作者安素玲は、この彼の「志」を自身受けとめ、それをまた若い読者たちに伝えたかったのだと思いました。
この「志」とは、具体的にいえば、朝鮮を自主独立の近代国家とし、身分制度を否定して人々すべての権利や自由を保障する社会を創ること。
そのようなことを甲申事変の10年前に朴珪寿(パク・キュス)の邸宅で語り合った彼らですが、作者はその「志」に共感を寄せるものの、彼らの起こした事変や、状況判断等については冷静に批判もしています。
とくに民衆のためといいながら、北村(プクチョン)の邸宅で暮らす名門貴族の子弟である彼らはその民衆の実像(生活等)を知らなかったこと。壬午軍乱の時も干魃による大凶作云々に関心を向けなかったり、甲申事変に際しても、新政府の顔ぶれは公表したものの、自分たちがめざす政府の基本理念や方針等は積極的・具体的に伝えようとしませんでした。
したがって、肝心の一般民衆は彼らを「日本と内通して国を売り渡そうとしている逆賊」と見てしまったのです。
甲申事変が文字通りの「三日天下」で失敗に終わった直接的な要因として、①清国軍はベトナムでの対仏戦争のため朝鮮に本格的に乗り出してこないだろう、との希望的観測が先行してしまったこと。②日本の軍事的支援を過大視していたこと。これまた希望的観測です。③信頼できる武装組織を準備できないまま決起してしまったこと等です。これらの点も指摘されています。
※私ヌルボの感想としては、同じ頃の日本と比べて政府内の守旧派の勢力が非常に強かったこと、清国の支配力がまだまだ相当に強かったこと、世界の情勢に疎く、危機感が欠如していたこと、また非常に重要なポイントとして国の財政がどうしようもなく窮乏化していたこと等々、開化派にとってのマイナスの事柄ばかりたくさんあった・・・ありすぎた、という中で、結局焦ってことを起こしてしまった、という印象を受けました。
この小説では甲申事変が潰えて洪英植が斃れた後の物語として、10年後の1894年3月、神戸港から上海に向かった金玉均が彼の地で殺されるまでのこと等が描かれます。(周囲の人たちから危険を指摘されながらも、八方ふさがりの状況にあった彼はわずかの希望に賭け、あえて行くしか道はなかった。)
そして最後の部分で記されるのは、さらに37年後の1931年、71歳になった朴泳孝の姿。彼は大日本帝国の侯爵・貴族院議員にまでなっています。その彼の邸宅を人気作家李光洙が訪ねてきます。彼が甲申事変のことに話を向けると、朴泳孝は上機嫌で語るのです。
「そう、明治が何だというんだ!? ことがうまくいってたら李朝も大したものになってたのに。政権を取るには国王を必ず確保してなければならないのに、金玉均がずるずると国王を取り逃がしてしまったのだ」。
金玉均より10歳年下ながら、朴泳孝は朴珪寿の推挙で哲宗の娘の永恵翁主と結婚したため、わずか3ヵ月で永恵翁主が世を去った後も王の姻戚として人々から、また開化派の中でも丁重に扱われました。しかし日本に亡命後は金玉均ばかりが注目される・・・、そんなこともあってか彼の金玉均に対する思いは複雑なものがあったようです。
彼は、甲申事変を準備し統括したのは洪英植で、現場での総指揮は自分が担当し、金玉均が担当したのは日本公使相手の通訳という取るに足りないものだったように語ったりしたそうです。
※現在、ソウルの南山韓屋村(→ソウルナビ)で移築された朴泳孝の旧家屋を見学することができます。
若い頃、共に「志」を語り合い、10年後共に決起した「3人の友」の人生はこのように大きく異なるものになってしまいました。
【南山韓屋村にある朴泳孝の旧家屋。7、8年前に行ったことがあります。】
日本でいえば明治初期から昭和にかけて、朝鮮にとっての厳しい時代状況の中で、時代を見る目を持った若者にとってどんな生き方がありうるのか? そんなことを今の韓国の若者だけでなく、日本人のオジサンにも考えさせるような小説でした。
この本の第1章。若い頃の「3人の友」が集まった朴珪寿の邸宅は今はありません。ただ、彼らにも親しまれたという白松の老木は今も健在です。
樹齢600年と推定されるこの木は国の天然記念物第8号に指定されています。その地には今は憲法裁判所の建物がありますが、見学できるそうです。景福宮からも近い所なので、今度ソウルに行った時にぜひ行ってみようと思います。(参考→ソウルナビ。)
【高さ15メートル。生え際から幹がV字型に分かれています。】
【「朴珪寿先生家址」の碑。ちょうど140年前、「3人の友」たちが熱く語りあった場所です。】
この小説には、「3人の友」の他にもさまざまな人物が登場します。
また、読み進んでいる間、いろんなサイトを見て、当時を知るための資料等々いろんなことを知りました。
それらについては、また続編で書くことにします。
「良書か否か」よりも「売れるか否か」が最優先なんですね、やっぱり。