(1つ前の記事の続きです。)
韓国作品は、中国に比べ心理描写が繊細で、よくも悪くも文学っぽい。<文学は面白いのか(仮題)>というサイトの評に私ヌルボも同感したのは、キム・ヨンスのレトリックには、(作家紹介にあるカフカというよりも)村上春樹の影響がうかがわれるということ。
チョウ・ヒョンは、2008年「東亜日報」の新春文芸に当選したということは、純文学の王道で登壇したわけですが、この「ゴッホとの一夜」は、時は22世紀(?)、体外離脱した実験者の意識がプルキネ次元を通じて連結された世界は、実は並行宇宙で、以後タイムトラベルの技術が発達、イエスが十字架に架けられる場面を見たり、モーツァルトの音楽会に参席もできる等々・・・、日本だとこの作品はレッキとしたSFですね。
この韓国ではこの10年くらいの間で急速に多様な小説ジャンルが登場してきたので、まだSFやミステリー等々各ジャンルの受け皿が整ってないのかな?
パク・ミンギュの作品も、(今は懐かし)サイバーパンクというやつじゃないの? この作品も読みづらさでは「ニューロマンサー」レベルか。昨年の李箱文学賞受賞作「朝の門」はSFではありませんが、どうも今までの韓国文学の概念を打ち破るぞ、という意識過剰で(?)、力が入りすぎてる感じを受けますが・・・。
日本の作品がおもしろくないのは、90年代以降の芥川賞作が念頭にあるので予測通り。ミニマリズムがさらに先鋭的(?)になってるようで、たとえば柴崎友香の作家紹介(佐々木敦)にはこう書かれています。
劇的な展開が殆ど無く、作者と同世代の人々の「日常」をおおらかな筆致で描く柴崎友香の作品は、ともすればストーリーテリングへの配慮をやり過ごし、社会的な問題意識とも懸け離れた、とりわけ二〇〇〇年代に入ってから頻出してきた、呑気で安穏な「何も起こらない」小説(と思われているもの)の代表格として遇されてきた。しかし・・・・ネガティヴな感情の滲出を・・・意識的無意識的に退けて、・・・「今、ここ」の微かな幸福を捉えようとする、・・・このささやかで毅然とした「日常」に対する戦闘意欲こそが、柴崎友香を、凡百の他の若い小説家から決定的に違えているのだと思う。
柴崎の原作と知らずに観た映画「きょうのできごと」はそれなりに好印象をもちました。しかし、この芥川賞候補作(!)「ハルツームにわたしはいない」はどーもなー・・・。上掲の<文学は面白いのか(仮題)>でも指摘されてましたが、駅構内で新幹線の領収書を失くしたと友人が言った矢先、一男性が落とした領収書を偶然「わたし」が見つけて指さすと、拾った友人「おおっ、ビンゴや」と二人して喜び、って、そらよくないよなー。
「わたしが見ているものを、目の前にある世界を、ここに、そこにある世界を、あるように書きたい」という柴崎さんの言葉があるブログで紹介されてましたが、目の前だけでなく、その向こう側の人間も「風景」の構成物じゃなくて生身の人間なんだからちゃんと想像力を働かしてくださいねー、と言いたくなります。
この作品が昨年第143回芥川賞の候補作になったんですからねー。
ストーリー性がないといえば江國香織「犬とハモニカ」も同様。成田空港にそれぞれいろんな事情を持った人々が下りたって来たところでおしまい。芝居だったら主な登場人物がそろって、さあこれからどんな物語が始まるのかな、と期待を持たせたところで幕が下りるという感じで、たぶん中国だったら、お客さんたち「金返せー!」と騒ぐんじゃないかな。
※大分前の豊崎由美との対談で大森望は次のようなことを語っていました。
大森:江國さんの短篇って、だいたい30枚くらいなんですよ。だからなかなか枚数がたまらなくて、担当編集者は困ってるみたいだけど。「どうしても30枚で終わっちゃうんだよねえ」って。まあ、ストーリーを排除して書けるのが、そのくらいの枚数ってことなんだろうけど。
※音楽でいえば、ストーリーにあたるのがメロディーラインでしょう。最初にミニマル・ミュージックの代表というべきライヒの作品(→YouTube)を聴いた時は、メロデイーなしの単調なリズムの繰り返しの微妙な変化に、新鮮な驚きを感じましたが・・・。
今日本でたとえばチョン・イヒョンを知ってる人は1000人中でも何人もいないと思いますが、逆に韓国の読書を趣味とする人の間で江國香織を知らない人はないでしょう。長い間約20年遅れで日本の後を追ってきた韓国の社会が、近年かなり日本に接近してきているということでしょうか。
日本の作家の中で1人だけ抜群におもしろかったのが町田康「先生との旅」。「日本中世におけるポン引きと寺社権門」なんてテキトーな題で「即位式」の講演を引き受けた「私」、推挽してくれた初対面の先生と名古屋駅で落ち合ってタクシーで会場に向かうのですが・・・。
この作家特有の文体とディーテイルの可笑しさ、最後にオチまでついて笑えます。
しかし、町田康の次のような文章は韓国語では一体どう訳すんでしょうねー?
・その瞬間、私は、なんかしてけつかんのじゃど阿呆、と思った。
・そんなポコペンな、と怒り狂おうかな、と一瞬は思ったがよくよく考えれば向こうはお旦でこっちは芸人、家と言われれば言わなくちゃしょうがないので向鉢巻きで熟考した。
・人々が様々な方向に向かいて交錯、互いに譲り合わなければ激突することが必定なれど、そのような意識を持たぬ者の多い構内を、うわうわうわ。あ。痛て。わっぴゃぴゃん。一度「子音と母音」で確認したいと思います。(よくわかりませんが、中国語への翻訳も大変そう・・・。
主人公の名前の間穵田考も何と読むんだか。マアツダコウ? ホントに翻訳者泣かせ。いや、これを訳しきるのが翻訳者の醍醐味?
これまで長々と書いたように、(主にストーリーテリングの)おもしろさの順番では中国→韓国→日本の順ですが、これは作家だけでなく、現代の3国それぞれの社会のダイナミズムの差の反映であり、またそこで生活をしている人々のこれまでの体験の質の違いの反映でしょう。
たとえば今3ヵ国の60歳の人が自分の半生を語るとして、聞いておもしろそうなのはやはり中国→韓国→日本の順になるのではないでしょうか?
今の日本人の多くは、(幸か不幸か)語るに値する人生を生きていないし、社会全体も70年代以降ずっとマッタリ状態。だから、何か物語を背負っていそうな在日の友人に「うらやましい」と言ったりする日本人もいるそうで・・・。ホントにそんな社会になっちゃってるんですかね。
付記。これまでの18作品を読んで気づいたのは、国際結婚だの、海外出張だの、という国境を越えた人物が登場する作品が国を問わず3分の1程度あること。作家たちが「国際」を意識した結果か、フツーにそういう時代になってるのか? たぶん後者、ですか?
韓国作品は、中国に比べ心理描写が繊細で、よくも悪くも文学っぽい。<文学は面白いのか(仮題)>というサイトの評に私ヌルボも同感したのは、キム・ヨンスのレトリックには、(作家紹介にあるカフカというよりも)村上春樹の影響がうかがわれるということ。
チョウ・ヒョンは、2008年「東亜日報」の新春文芸に当選したということは、純文学の王道で登壇したわけですが、この「ゴッホとの一夜」は、時は22世紀(?)、体外離脱した実験者の意識がプルキネ次元を通じて連結された世界は、実は並行宇宙で、以後タイムトラベルの技術が発達、イエスが十字架に架けられる場面を見たり、モーツァルトの音楽会に参席もできる等々・・・、日本だとこの作品はレッキとしたSFですね。
この韓国ではこの10年くらいの間で急速に多様な小説ジャンルが登場してきたので、まだSFやミステリー等々各ジャンルの受け皿が整ってないのかな?
パク・ミンギュの作品も、(今は懐かし)サイバーパンクというやつじゃないの? この作品も読みづらさでは「ニューロマンサー」レベルか。昨年の李箱文学賞受賞作「朝の門」はSFではありませんが、どうも今までの韓国文学の概念を打ち破るぞ、という意識過剰で(?)、力が入りすぎてる感じを受けますが・・・。
日本の作品がおもしろくないのは、90年代以降の芥川賞作が念頭にあるので予測通り。ミニマリズムがさらに先鋭的(?)になってるようで、たとえば柴崎友香の作家紹介(佐々木敦)にはこう書かれています。
劇的な展開が殆ど無く、作者と同世代の人々の「日常」をおおらかな筆致で描く柴崎友香の作品は、ともすればストーリーテリングへの配慮をやり過ごし、社会的な問題意識とも懸け離れた、とりわけ二〇〇〇年代に入ってから頻出してきた、呑気で安穏な「何も起こらない」小説(と思われているもの)の代表格として遇されてきた。しかし・・・・ネガティヴな感情の滲出を・・・意識的無意識的に退けて、・・・「今、ここ」の微かな幸福を捉えようとする、・・・このささやかで毅然とした「日常」に対する戦闘意欲こそが、柴崎友香を、凡百の他の若い小説家から決定的に違えているのだと思う。
柴崎の原作と知らずに観た映画「きょうのできごと」はそれなりに好印象をもちました。しかし、この芥川賞候補作(!)「ハルツームにわたしはいない」はどーもなー・・・。上掲の<文学は面白いのか(仮題)>でも指摘されてましたが、駅構内で新幹線の領収書を失くしたと友人が言った矢先、一男性が落とした領収書を偶然「わたし」が見つけて指さすと、拾った友人「おおっ、ビンゴや」と二人して喜び、って、そらよくないよなー。
「わたしが見ているものを、目の前にある世界を、ここに、そこにある世界を、あるように書きたい」という柴崎さんの言葉があるブログで紹介されてましたが、目の前だけでなく、その向こう側の人間も「風景」の構成物じゃなくて生身の人間なんだからちゃんと想像力を働かしてくださいねー、と言いたくなります。
この作品が昨年第143回芥川賞の候補作になったんですからねー。
ストーリー性がないといえば江國香織「犬とハモニカ」も同様。成田空港にそれぞれいろんな事情を持った人々が下りたって来たところでおしまい。芝居だったら主な登場人物がそろって、さあこれからどんな物語が始まるのかな、と期待を持たせたところで幕が下りるという感じで、たぶん中国だったら、お客さんたち「金返せー!」と騒ぐんじゃないかな。
※大分前の豊崎由美との対談で大森望は次のようなことを語っていました。
大森:江國さんの短篇って、だいたい30枚くらいなんですよ。だからなかなか枚数がたまらなくて、担当編集者は困ってるみたいだけど。「どうしても30枚で終わっちゃうんだよねえ」って。まあ、ストーリーを排除して書けるのが、そのくらいの枚数ってことなんだろうけど。
※音楽でいえば、ストーリーにあたるのがメロディーラインでしょう。最初にミニマル・ミュージックの代表というべきライヒの作品(→YouTube)を聴いた時は、メロデイーなしの単調なリズムの繰り返しの微妙な変化に、新鮮な驚きを感じましたが・・・。
今日本でたとえばチョン・イヒョンを知ってる人は1000人中でも何人もいないと思いますが、逆に韓国の読書を趣味とする人の間で江國香織を知らない人はないでしょう。長い間約20年遅れで日本の後を追ってきた韓国の社会が、近年かなり日本に接近してきているということでしょうか。
日本の作家の中で1人だけ抜群におもしろかったのが町田康「先生との旅」。「日本中世におけるポン引きと寺社権門」なんてテキトーな題で「即位式」の講演を引き受けた「私」、推挽してくれた初対面の先生と名古屋駅で落ち合ってタクシーで会場に向かうのですが・・・。
この作家特有の文体とディーテイルの可笑しさ、最後にオチまでついて笑えます。
しかし、町田康の次のような文章は韓国語では一体どう訳すんでしょうねー?
・その瞬間、私は、なんかしてけつかんのじゃど阿呆、と思った。
・そんなポコペンな、と怒り狂おうかな、と一瞬は思ったがよくよく考えれば向こうはお旦でこっちは芸人、家と言われれば言わなくちゃしょうがないので向鉢巻きで熟考した。
・人々が様々な方向に向かいて交錯、互いに譲り合わなければ激突することが必定なれど、そのような意識を持たぬ者の多い構内を、うわうわうわ。あ。痛て。わっぴゃぴゃん。一度「子音と母音」で確認したいと思います。(よくわかりませんが、中国語への翻訳も大変そう・・・。
主人公の名前の間穵田考も何と読むんだか。マアツダコウ? ホントに翻訳者泣かせ。いや、これを訳しきるのが翻訳者の醍醐味?
これまで長々と書いたように、(主にストーリーテリングの)おもしろさの順番では中国→韓国→日本の順ですが、これは作家だけでなく、現代の3国それぞれの社会のダイナミズムの差の反映であり、またそこで生活をしている人々のこれまでの体験の質の違いの反映でしょう。
たとえば今3ヵ国の60歳の人が自分の半生を語るとして、聞いておもしろそうなのはやはり中国→韓国→日本の順になるのではないでしょうか?
今の日本人の多くは、(幸か不幸か)語るに値する人生を生きていないし、社会全体も70年代以降ずっとマッタリ状態。だから、何か物語を背負っていそうな在日の友人に「うらやましい」と言ったりする日本人もいるそうで・・・。ホントにそんな社会になっちゃってるんですかね。
付記。これまでの18作品を読んで気づいたのは、国際結婚だの、海外出張だの、という国境を越えた人物が登場する作品が国を問わず3分の1程度あること。作家たちが「国際」を意識した結果か、フツーにそういう時代になってるのか? たぶん後者、ですか?
私のブログを読んでいただき、ありがとうございました。ヌルボさんのブログも今、失礼ながら主に文学に関するところだけですが、とても面白く読ませて頂きました。
新潮の特集のことを思い出しても、やはり一番記憶に残っているのは中国の作品ですね。
「今の日本人の多くは、(幸か不幸か)語るに値する人生を生きていない」とヌルボさんがおっしゃるのはまさにその通りと思いました。ただし、必ずしも不幸とは言い切れないところもポイントですね。(だから日本文学のつまらなさや不毛な感じも、私は否定しきれないと思っています。)
それでは、今後もご活躍祈っています。
最近の日本の小説について。日本の若い作り手が思いを込めて作った映画も同じような雰囲気を感じます。
昔なら(or今の発展途上国なら)知らぬ間に人生のハードルをいくつも跳び越えていただろうに、今は第1ハードルからこんなにウロウロしているのかと・・・。しかしそれを笑ったりバカにしちゃいけないんでしょうね。
(上)の方で、「おもしろさ」は「必ずしも文学としての評価とは一致しませんので、あしからず」と書いたのは、やはり絶対書いておきたかったからです。