日本で最も有名な三角関係
おほほほほ。。。。
デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!
日本で
最も有名な
三角関係ですってえええ~~
デンマンさんのことだから、
あたくしの事を書くのかな?
。。。そう思ったのでござ~♪~ますのよ。
うひひひひひ。。。
でも、考えてみたら、
あたくしの相手が居ませんものね?
おほほほ。。。
でも、デンマンさんが、あたくしの
アバンチュールを書いたのでござ~♪~ますのよ。
んも~~
あなたも興味があるでしょう?
絶対に面白いわよゥ~。
もし、お読みになりたいのならば
次のリンクをクリックしてくださいね。
『平助さんが卑弥子さんに恋をしたのがウンのつき』
三角関係なんかよりも、よっぽど面白いわよ。
ほんとよ。
でも、余りあたくしのことばかり書くと
デンマンさんに怒られてしまいますので、
この辺で三角関係のことに。。。。
あたくしが出てきたのだから、
古代の三角関係ですわよ。
万葉集に出てくるのですわよ。
あたくしも、うわさで聞いた事があります。
詳しいことはデンマンさんがお話してくれるはずですわ。
ではこの辺で、デンマンさんに
バトンタッチをしようと思いますわ。
おほほほほ。。。。
なんだか卑弥子さんが支離滅裂な紹介をしてくれましたが、
実は、僕が2006年6月25日にRealogで書いた記事(『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』)に例によって更紗さんから次のような貴重なコメントをもらいました。
いつもいつもありがとね。
感謝感激で~♪~す。
その発禁処分の短編小説は、
たしか、高橋鉄を紹介した本
(ムックだったかも…)の巻末に載っていて、
10年位前に図書館で借りて
読んだことがあるのですが、
どんな内容だったのかは
忘れてしまいました。
(>_<)スミマセン
三角関係の話だったのは覚えているのですが…
たしか、和人の男性とアイヌ人の女性の
悲恋物語だったような記憶があります。
多分、「アイヌ人が主人公」という要素と、
「三角関係」という要素が、
発禁処分の原因だったのではないかと思います。
by 更紗 2006/06/27 10:28
僕は、さっそく次のような返信を書きました。
更紗さん、いつものことながら、コメントありがとね。
高橋鉄さんに関心があるということは
更紗さんもフロイトに関心がありそうですね?
僕は以前フロイトの名言を引用した事があります。
覚えていますか?
次のようなものですよ。
When two people make love, there are at least four people present---the two who are actually there and the two they are thinking about.
--- Sigmund Freud
つまり、フロイトの精神分析に従うと、
幸せなカップルでもオツムの中では四角関係なんですよね。
三角関係を書いて発禁処分だとすると、
現実の世界では、
すべてのカップルが“発禁処分”関係をしていることになりますよね。
うへへへへへ。。。。
これは半分冗談ですが。。。
とにかく、「アイヌ人が主人公」という要素で発禁処分ということは、
明らかに人種差別ですよね。
日本人はアメリカ人と比べると人種差別をしないと言う人が居ましたが、
とんでもない話で、第三国人に対する差別や、差別、。。。など、
日本人はインド人と同じくらい差別する民族だと僕には思えますよ。
ところで、この三角関係で急に思い出しましたが、
額田女王と天智天皇と天武天皇の三角関係ね。
これは日本史上有名な三角関係ですからね。
明日はこのことで記事が書けそうですよ。
いつものように、更紗さんのコメントから
インスピレーションが湧いてきましたよ。
明日の記事をまた読んでくださいね。
じゃあね。
by デンマン 2006/06/28 12:38
『平和を愛し仲良く暮らしていた古代日本人 PART 2』のコメント欄より
万葉集には額田女王(ぬかだのおおきみ)の次の歌が載せられています。
茜(あかね)さす
紫野行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
茜色の光に満ちている紫野(天智天皇の領地)で、
あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、
領地の番人が見るかもしれませんわ。
後で、その番人が天智天皇に告げ口するかもしれませんわよ。
。。。という意味です。
「君」は後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)。
標野(しめの)は上代、貴族の所有で、一般人の立ち入りを禁じた領地。
この歌は大海人と額田女王(ぬかだのおおきみ)との恋の歌とされています。
大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた額田女王(額田王とも書く)は神に仕え、
神祇を司る巫女であった。
彼女はまた絶世の美女とも言われていた。
天智天皇・天武天皇に深く愛された。
彼女の生きた時代には、朝鮮半島への出兵があり、白村江(はくすきのえ)の戦いがあった。
飛鳥から近江への遷都、壬申の乱といった事件も起きた。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの想いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性。
彼女は、巫女としての自分と、二人の天皇の愛の間で揺れ動く女としての自分、
そして天武天皇との間にもうけた十市皇女(といちのひめみこ)の母としての自分という、複雑な立場からの葛藤の中で悩みながらも、
自分を高く維持し、歴史の荒波に耐えて、鮮やかに生きぬいた。
僕のオツムの中では額田女王は前首相の小泉純ちゃんよりも有名な人物です。
しかし、歴史的には、この女性は謎に包まれているのです。
なぜなら、その素性が良く分かっていないんですよね。
生まれも定説はありません。
大和とも近江とも言われています。
父親が鏡王なので近江の「鏡山」に関連して故郷を近江とする説や、
額田の名は大和にある平群郡額田郷の出身であるとする説があります。
また、神事に携わる額田氏に養育されたからとも言われています。
父親の鏡王は、近江鏡山、現在の竜王町から野洲町にかけての鏡山付近を拠点に
須恵器生産に関わった渡来系集団の流れをくむ豪族の長とする歴史家も居ます。
当時、“王”と名の付くのは皇族の末か、あるいは中国や朝鮮の国王の末で、帰化した者のことを言いました。
でもね、出自を確かめても余り意味がないんですよね。
なぜなら、この当時の宮廷人の系図を遡(さかのぼ)れば、3代から5代前には祖先が大陸からやって来た可能性が強いのですよ。
少なくとも婚姻によって帰化人の血が流れていることはほぼ間違いがないんですね。
この事は藤原鎌足を調べてみるまでもなく、当時の政府の役人には圧倒的に帰化人が多かった。
なぜなら、律令国家には中国や朝鮮の歴史や法制、漢文に秀でた者が必要だったからです。
万葉集の原文を読んでも、漢字だけで書かれていますよ。
現在の我々が万葉集の原文を見たら、日本語の書物と言うよりも中国の書物を見ているような錯覚にとらわれてしまいます。
それ程、当時の日本の文化には大陸の影響がはっきりと表れている!
文化に影響が現れていると言うことは、それを運んできた人間がたくさん宮廷に入り込んでいたと言うことに他ならないんですよね。
つまり、帰化人が日本人化していった。
しかし、“よそ者”が宮廷で実権を握っていると言うのでは、
地方の豪族に対して示しが付かないので、
『古事記』や『日本書記』を作って大陸からやって来た御食子(みけこ)を
孫の藤原不比等は懸命に生粋の日本人であることを
“中臣氏”として日本の正史に残しているわけです。
しかし、婚姻によって中臣氏になっただけで、
後にはわざわざ天智天皇に藤原氏を作ってもらって
“中臣氏”とは袖を分かっています。
詳しいことは次の記事を読んでください。
『批判なき歴史は空虚にして、そのまま信じると馬鹿をみる (2006年5月16日)』
額田女王の生年は不明ですが、
讚良媛(さららひめ:後の持統天皇)とも(表面的には)親しく、
二人の関係から逆算して相前後して生まれ、額田女王が年長のようです。
持統天皇が藤原京で亡くなる直前まで、60才を越えてなお活躍した女流歌人でした。
それなのに、彼女を知るために信じるに足る履歴は『日本書紀』の天武天皇の条にある次の1行のみです。
天皇初め鏡王の女(むすめ)額田姫王を娶(め)して十市皇女を生む
この他では、『万葉集』に残されている上の歌も含めた12首だけです。
これだけが、額田女王を知るすべての歴史資料なのです。
つまり、謎に満ちている女性です。
上の額田女王の歌を単なる恋の歌として読むと上のような解釈になるわけです。
実は、この歌に対して大海人皇子(後の天武天皇)が次の歌で答えているのです。
紫草(むらさき)の
にほえる妹(いも)を
憎くあらば
人妻ゆえに
われ恋ひめやも
右の写真の紫草(むらさき)は上代の紫染め染料として尊ばれた。
滋賀県の蒲生野はかつて紫草(むらさき)栽培の御料地であった。
江戸時代には江戸紫として流行し、武蔵野のムラサキが脚光を浴びた。
現在では野生のものが少なくなっているという。
いずれの地もほとんど絶滅し、今や幻の植物となっている。
花は白いがその根が紫をおびているのでその名となっている。
秋にこの根を採取し、日陰で乾燥したものが紫根である。
紫根は消炎、解毒剤として漢方薬に処方され、
華岡青州(はなおかせいしゅう)の創製した紫雲膏が有名。
額田女王は、大海人皇子の間に十市皇女をもうけていますが、
その後、額田女王は天智天皇に召され、大海人から見れば“人妻”となったのです。
この歌は、二人の“秘めた恋心”を大胆に告白したものと解釈している人が多いですよ。
つまり、後の天武天皇が、こう詠(うた)っているんですよね。
今のオマエは天皇の妻であるかもしれない。
でも、ボカァ~、オマエのことが忘れられないんだよ。
こんなに愛してしまっているんだよ。
もう、恥も外聞もないよ。
ボカァ~、だから、オマエ見ると、どうしても、
あのように手を振ってしまったんだよ。
分かるだろう?
こんな気持ちだと思うのですよね。うへへへへ。。。。
この歌は、668年の蒲生野での遊猟のあと、大津宮での浜楼での宴の際に衆目の中で詠まれた、と言われています。
後に額田女王をめぐって大海人皇子と天智天皇(兄弟)との確執を招き、
壬申の乱の遠因になったという歴史家も居るほどです。
この歌は、“戯れ”の歌という見方もあり、戯れの中にこそ真実が秘められているといった解釈もあります。
いずれにしてもこの古代のロマンにあふれるこの歌が、今も多くの万葉ファンを魅了していることは疑いのないことです。
天智天皇の死後、その子である大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承をめぐって戦われたのが672年に起こった壬申の乱です。
この乱は額田女王にとって大きな悲劇でした。
大海人皇子とは十市皇女をなした仲です。
一方の大友皇子は十市皇女の夫です。
つまり、かつての愛人と娘の夫が戦ったわけです。
戦いは大海人皇子に有利に展開し、瀬田の合戦に破れた大友皇子は山背国、山前の地で首をくくり自害したのです。
十市皇女も夫の後を追って自殺したと言われています。
乱後の大海人皇子は天武天皇となり、その時、彼を側で支えたのは額田女王ではなく、天智天皇の娘(後の持統天皇)鸕野讚良(うののさらら)皇女だったのです。
その後、額田女王の身の上にどのような変化があったのかは史実としては不明ですが、
彼女は自分自身の時代の終焉を悟ったに違いありません。
額田女王は“万葉の女王”であるにもかかわらず、
なぜ謎の女性なのか?
額田女王こそ、万葉集という現代人には無縁のような歌集にロマンをちりばめている日本史上屈指の女流歌人だと僕は思いますね。
また、僕だけではなく、多くの歴史家や、文学愛好家や、歌人、詩人たちがそう信じていると思います。
額田女王は大化の改新から壬申の乱にかけて活躍し、
万葉随一の女流歌人と言われた。
彼女はまた絶世の美女とも言われ、
天智天皇・天武天皇に深く愛された。
激動の歴史の中で、額田女王は、ひたすら自らの思いに忠実に生きた。
美しく、才知にあふれ、強く情熱的な女性であった。
あなたもそう思いませんか?
だからこそ、万葉集の額田女王の歌はロマンを漂わせながら光り輝いている。
なぜ、光り輝いているのか?
もちろん歌そのものがロマンに満ちている。
しかし、それならば、なぜ、『日本書紀』には、額田女王の記述がたったの1行なのか?
なぜなのか?
額田女王のすばらしい業績が万葉集の中で光っている!
それなのになぜ?
僕はこのことでずいぶんと考えさせられました。
何も僕が深刻ぶって悩まなくても良いのですが、
僕にとって、額田女王が、あたかも“古代のレンゲさん”のような存在になっている。
叶わぬ僕の片思いなんですよ。
つまり、“心の恋人”です。うへへへへ。。。。
僕は気が多いのですよ。
では、マジになって。。。
あれほど万葉集の中で輝いている額田女王が『日本書紀』の中では、なぜ1行の記述なのか?
それは次の天皇家の系図を見ると実に良く分かりますよ。