吉展(よしのぶ)ちゃん事件と
ポルノ馬鹿さわだ
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/foolw.gif)
こんにちは。
デンマンですよ。
うしししし。。。
元気でやってますか?
僕がおととい書いた記事を覚えているでしょうか?
初めて読む人も居るでしょうから、
最後の部分だけここに抜き書きします。
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/surprise01.gif)
ブログもこんな使い方あるとは愕然とした。
よくぞ愉快な情報と絵などを整理されておられると。
今後もチェックさせていただく。
by katchan
(2007/06/09 23:44)
『コメント馬鹿とコメント美人』のコメント欄より
とにかく、予想通りコメントを書いてくれた人が居て、そのコメントに基づいて意味のある記事を書くことができました。
カトちゃん、ありがとうございました。
勝手に“カトちゃん”とお呼びした事をお詫びします。
でも、日本人として、この方が親しみのある書き方ができますよね。
中には僕が自作自演していると思ってしまう大馬鹿野郎が居ると思うので付け加えておきますが、カトちゃんは“はてなダイアリー”のメンバーです。
ブログも持っていますよ。
ちゃんとURLが書いてあります。
おそらく、メンバーなので自動的に書かれたと思います。
上のリンクをクリックすると確かめる事ができます。
ところで、今度こそ、2ちゃんねるから底なしの馬鹿がやって来てこの記事にコメントを書いてくれると思うのですよ。
うへへへへ。。。
どうですか、あなた。。。?
あなたも2ちゃんねるへ行った事がありますよね?
あなたが書いてくれてもいいのですよ。うへへへへ。。。
ボクちゃん、またコメントを基にして記事を書きたいんですよ。
その方が、簡単に記事が書けるんですよ!うしししし。。。
では、あなたからのコメントを待っています。
どのようなコメントでも結構です。
もし、書いてくれるのならば、下らないコメントでも結構ですから、
面白い楽しい愉快な(うへへへへ。。。)記事が書きやすいようなコメントをお願いしますね。
では。。。
『カトちゃんとコメント美人 2007-06-13』より
おととい(6月13日)の記事は、このようにして終わっていたんですよね。
もちろん、僕はコメントをあまり期待していませんでした。
ところが、底なしの馬鹿は居るものですよねぇ~♪~。
うへへへへ。。。
![](http://members.aol.com/barclay1720/myhomepage/images/joy002.gif)
あなたが僕のブログを気に入って読んでくれているならば、誰だか想像がつくでしょう?
。。。そうですよ!
あのポルノ馬鹿のさわだです。
この男が止せばいいのに、僕が13日にGOOのブログに載せた上の記事に、また下らないコメントを書いたのですよ。
でも、今日はこの馬鹿の事を書くのが目的ではないのですよ。
もちろん、この馬鹿の事も書きますが。。。
タイトルに書いた通り吉展(よしのぶ)ちゃん事件について書きたいのですよ。
つまり、吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件の犯人・小原と、この事件を解決するきっかけを作った警視庁捜査一課のベテラン刑事・平塚八兵衛についての話です。
どちらもすでに故人です。
小原は死刑になって処刑場の露と消えました。
八兵衛さんは癌で亡くなりました。
では、まず、吉展(よしのぶ)ちゃん事件とはどのようなものだったのか?
フリー百科事典『ウィキペディア』から引用して紹介します。
吉展ちゃん誘拐殺人事件
1963(昭和38)年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。
3月31日
公園に遊びに出かけていた村越吉展(当時4歳)ちゃんが消息を絶った。
両親は迷子を疑い、警察に通報した。
新聞等で幼児の失踪が報じられた。
4月2日
身代金を要求する電話が入る。
警察は報道機関に対し報道の自粛を要請。
「報道協定」が結ばれた。
4月4日
身代金を要求する電話が入り、家族が吉展ちゃんの安否を確認させるよう求め電話を引き延ばした結果、犯人からの電話の録音に成功する。
のちに公開された音声は、この電話の物である。
4月7日
身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。
警察は、受け渡しの際に犯人を逮捕しようとするが、受け渡しに使った自動車を見間違えて失敗する。
4月19日
警察は公開捜査に切り替える。
犯人からの電話を公開し、情報提供を求めたところ一万件に及ぶ情報が寄せられる。
寄せられた情報には、犯人に直接つながる情報もあったが、証拠に欠けたため見逃される。
捜査
捜査は長引き、犯人逮捕まで2年の歳月を要した。
捜査が長引いた理由には次のようなものがある。
■ 人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
■ 警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
■ 当時はまだ、電話を逆探知することが法的に許されていなかった。
■ 身代金の紙幣のナンバーを控えるのを忘れてしまっていた。
■ 結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼することとなった。
事件発生から2年が経過した1965年3月31日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者をあてる方式に切り替えた。
警察庁科学警察研究所の鈴木隆雄氏に録音の声紋鑑定依頼をしたが当時は技術が確立されず、刑事の地道な捜査から犯人からの電話の声が容疑者の一人、小原保と良く似ているとされたことや、小原のアリバイに不明確な点があることを理由に事情聴取が行われる。
事件解決
容疑者だった小原は1965年7月に犯行を認め、まもなく逮捕された。
最終的に小原を自供に追い込んだのは、刑事平塚八兵衛による徹底的なアリバイの洗い直しと供述の矛盾を突くねばり強い取り調べの結果であった。
小原はそれ以前にも何度か捜査線上に浮かび取り調べを受けたものの、アリバイを崩せなかったことと取り調べをはぐらかすような供述によって、逮捕に至らなかったのである。
平塚の場合も与えられた取り調べ期間の最終日にようやく「落とす」ことにこぎ着けた。
こうして犯人は逮捕されたが、小原の供述から吉展ちゃんは誘拐直後に殺害されていたことがわかり、お寺の墓地から遺体で発見された。
裁判
1966年3月、東京地裁が死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴。
同年9月から控訴審として計3回の公判を行うも、11月に東京高裁でも控訴が棄却される。
その後、弁護側は上告するも1967年10月に棄却され死刑が確定する。
そして4年後の1971年12月23日に死刑が執行された。
小原の処刑間際の言葉は次のようなものだった。
「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」
この言葉は、当時、府中署の「3億円事件」の特捜本部にいた平塚八兵衛に、看守によって電話で伝えられた。
事件の反響
この事件の捜査に当たって犯人を取り逃がすという失敗を犯してしまった。
直後に狭山事件も発生し、ここでも捜査陣が犯人を取り逃がしてしまうという失態を再び演じたことで警察に対する批判が沸き起こり、狭山事件においてその後の捜査の強引さに結びついたと言われている。
またこの事件を一つのきっかけとして、1964年に刑法の営利誘拐に「身の代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を課すように改められた。
この事件に題材をとり本田靖春は小説『誘拐』を執筆、第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞した。
1979年にはテレビドラマ化された。
『戦後最大の誘拐事件 吉展ちゃん事件』 小原役は泉谷しげる。
余談ながら、刑事ドラマなどでの容疑者取調べの際、カツ丼が定番メニューとなったのはこの事件がきっかけという説があり、小原が幼いころから貧しかったためにカツ丼の様な高級品は食べたことがなく食べさせた途端に自供したという。
しかしながら、小原を自供に追い込んだ刑事平塚八兵衛の回想にもそうした話は一切出てこない。
小原が拘置所の食事の準備を物音から察知して「食事の時間だから房に戻せ」と言ったという話が出てくることから、他の事件の話を擬したものか都市伝説である可能性が高い。
現在は供応行為として自白の任意性が否定されるため、このような事は絶対に行われない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この事件は映画にもなったほどでしたから当時はだいぶ騒がれたものです。
僕はまだ幼い子供でしたが、母親から「知らないおじちゃんに声をかけられても絶対に一緒に行ってはダメよ」
こう言われてものですよ。
この事件はずいぶんとテレビでも報道され、テレビっ子だった僕の純真な心にも強烈な印象を残したものです。
小説や映画の題材にもなったほどだから社会的にも大きな影響を残したのですよね。
僕がどうしてこの事件を他の事件と比べて強烈に覚えているかと言うと、犯人・小原とベテラン刑事・八兵衛さんの心の交流です。
「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」
処刑される間際に、他の誰でもない、自分を自供に追い込んだ八兵衛さんに“辞世の句”を捧げる。
死刑囚・小原の心の内を察してください。
犯人と刑事の間に温かい心の交流が無い限り、このような事は起こり得ないでしょうね。
この温かい心の交流とはどのようなものだったのか?
小原はどうして自供する気になったのか?
どうして死ぬ間際になって“辞世の句”を肉親でも親友でもない八兵衛さんに捧げたのか?
上の説明では、次のように書いてあります。
刑事ドラマなどでの容疑者取調べの際、
カツ丼が定番メニューとなったのはこの事件がきっかけという説があり、
小原が幼いころから貧しかったために
カツ丼の様な高級品は食べたことがなく食べさせた途端に自供したという。
カツ丼を食べた途端に自供を始めた。(爆笑!)
これでは笑い話になってしまいますよね。
あなただって笑ってしまうでしょう?
このような説明を聞いても納得できないでしょう?
小原は、カツ丼一杯と命を交換したようなものですよ。
自供した事によって、結果的に小原は死刑になったのですから。。。
カツ丼一杯にそれだけの効き目があったら、刑事なんて要りませんよね。
裏金作ったり、破廉恥行為で逮捕される警察官の代わりにカツ丼屋を雇って容疑者にカツ丼を食べさせて事件の解決を図る。
税金でたくさんの無能な警察官を養うよりも、カツ丼屋を開いて容疑者に自供させた方が安上がりですよね。
これは小説家か脚本家が考え出した事でしょうね。
八兵衛さんが小原に自供させていた時にカツ丼を食べさせていたのかもしれません。
しかし、カツ丼に感激して自供したのではなく、その時八兵衛さんが語っていた話の内容に感動したのですよね。
ところが話の内容の方は忘れ去られて、出されていたカツ丼だけが記憶に残る。
小原が“高級な”カツ丼を食べる事ができたので自供する気になった。
ミーちゃんハーちゃんにはその方が説得しやすいと思ったのでしょうね。
小説家、あるいは脚本家がそう書いたのですよ。
これが僕の推理です。うへへへ。。。
では、実際にはどうだったのか?
上の説明の中にも書いてあります。
しかしながら、小原を自供に追い込んだ刑事平塚八兵衛の回想にもそうした話は一切出てこない。
やっぱり、カツ丼は関係ないようですよね。
ところで、八兵衛さんとはどのような経歴の人なのか?
これもフリー百科事典『ウィキペディア』から引用して紹介します。
平塚八兵衛
(ひらつかはちべえ、1913年9月22日 - 1979年10月30日)
警視庁に在籍した刑事。
茨城県出身。
昭和14年(1939年)鳥居坂警察署(現・麻布警察署)初任。
当初は外勤(交番勤務)であったが、泥棒の検挙率が警視庁管内でトップとなり、
間もなく本庁に引き抜かれ「花の捜査一課」勤務。
以後、昭和18年(1943年)から昭和50年(1975年)に退職するまでの32年間を捜査一課一筋で過ごす。
在任中に手がけた事件は殺人だけでも124件に上る。
「落としの八兵衛」「ケンカ八兵衛」「オニの八兵衛」など数々の異名を持つ。
三億円事件捜査主任を最後に退職後は事件のコメンテーターとしてテレビ出演などもしていたが、退職後のわずか4年後に膵臓がんにより死去。
巡査から巡査部長・警部補・警部・警視とすべて無試験で昇進。
警察功労章を帝銀事件で、警察功績章を吉展ちゃん誘拐殺人事件で受章している。
在職中に両章を受章しているのは平塚だけである。
主な取り扱い事件
小平事件
片岡仁左衛門一家殺人事件
帝銀事件
下山事件
スチュワーデス怪死事件
吉展ちゃん誘拐殺人事件
カクタホテル殺人事件
三億円事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カツ丼で自供させたのでないならば、では、八兵衛さんがどのような話をしている時に小原は自供しようと言う気持ちになったのか?
あなたはどう思いますか?
もちろん、これまでの話を読んでも、どこにもそのヒントは書いてありません。
僕は八兵衛さんが小原に聞かせた話の内容を知っています。
直接聞いたのではありません。
それは噂だったかもしれません。
僕は八兵衛さんの回想録を読んだ訳ではありません。
誰かの小説かエッセーを読んだように記憶しています。
残念ながら作者の名前を忘れてしまいました。
おそらく、松本清張さんの作品の中だったかもしれません。
八兵衛さんが取り扱った上の事件のいくつかを清張さんも小説の題材として取り上げています。
“スチュワーデス怪死事件”などは、僕の記憶の中に生々しく残っています。
いづれにしても僕が記憶している八兵衛さんが小原に聞かせた話は、カツ丼よりも説得力があります。
僕が今日どうして吉展(よしのぶ)ちゃん事件のことを書く気になったのか?
それはポルノ馬鹿のさわだが、例によって下らないコメントを書いたのですよ。
そのコメントに返信を書き終わって読み返している時に、
“そうだ。。。確か八兵衛さんも同じような話を小原に聞かせたのだった。。。”
では、僕がポルノ馬鹿のさわだに書いた返信をお目にかけます。