日本を立ち上げた男の出生の謎?

この上の写真の左下の小さな男が次男の藤原不比等です。
この男が日本を立ち上げた!と言ったら、僕の言いすぎだと思いますか?
でもね、次の天皇家の系図を見てくださいよ。

皇族でもない男が、言ってみれば、どこの馬の骨とも分からない男が、
足軽から身を起こして豊臣秀吉のように天下を取ったようなものですよ。
でも、秀吉といえども天皇家に入り込もうとはしなかった。
もちろん、秀吉の時代には天皇の実権はなかったのだから、
天皇家に娘を入れようなどとは考えても居なかったに違いないですよね。
とにかく、藤原不比等は持統天皇と組んで彼女の権勢欲と独占欲をサポートする形で天皇家に食い込んでいった。
そのやり方は“すさまじいもの”を感じさせます。
持統天皇は自分の血が流れていない者には皇位を継がせようとしなかった。
だから、夫である天武天皇の息子がたくさん居たにもかかわらず、
自分の生んだ子供ではない者を天皇にさせたくなかった。
それで、自分が女帝に納まった。
その後も、自分の血にこだわった。
そのために、藤原不比等と企(たくら)んでたくさんの女帝を立てなければならなかった。
どこの馬の骨とも分からないような男が、持統天皇と組んでこれだけのことをしでかした。
ところが、歴史家がどこでも書いているように藤原不比等に関する歴史的な資料が極めて少ないんですよね。
この人物は『古事記』と『日本書紀』の編集長の立場にあった人なんですよ。
凡人ならば、自分のしてきた事を飾りたてて、いろいろとあること無い事を書き並べて自己顕示欲を満たそうとするのですが、そのような虚栄の衝動には無縁な人でした。
要するに、名を捨てて実をとるような人だったんでしょうね。
そういうわけで、この藤原不比等の名が初めて『日本書紀』に出てくるのは689年、彼が31才のときの記述です。
この年の2月の条に、9人の人物が判事(裁判官)に補任された記事があるのですが、その中に「藤原朝臣史(あそんふひと)」という名前で出てきます。
ところで「史(ふひと)」という名前が「不比等」と用字が代わるのは彼が死んでからです。
実は、本人は「不比等」という名を使った事がない。
後の世に、そのような名前で呼ばれる事など夢にも思わなかったでしょう。
「比ぶべき者など有らず(不比等)」というこの名前は、平安時代になってから藤原氏の繁栄を築いた、そしてこの日本を立ち上げた男に子孫が贈った称号のようなものだったでしょうね。
藤原不比等は、後に右大臣になり「贈正一位太政大臣府君」と称されたほどの人物なのだけれど、彼の行動を語る歴史的な資料があるか?と思って探してみると極めて少ない。
文武天皇元年(697年)から桓武天皇11年(791年)までの日本の正史である『続日本紀』にも、藤原不比等に関する記事は13箇所しかなく、それも極めて簡略なものに過ぎないんですよね。
つまり、どういうことが言えるのか?
書きたくても書けない。
書くとボロが出るから書けない。
書かせなかった。
彼の子孫もその事を知っていたから、彼の意思を引き継いだんでしょうね。
だから、おそらく父親の藤原鎌足の事も含めて、藤原不比等のことについても書いた編集者が居たと思います。
しかし、藤原氏が日本古来の中臣氏の出身であることを強く印象付けた他には、書かせなかったようです。
まず間違いなく、編集長である藤原不比等がボツにしたでしょう。
そのようなボロが出るような記事は載せなかった。
その後の藤原氏の歴史編纂者も同じようにしたでしょうね。
だから、古代日本の、あるいは奈良時代日本の“正史”とは言われていても、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』はその点を考慮に入れて読まなければなりませんよね。
上の写真の坊さんの姿をしているのは長男の定慧(じょうえ)です。
大きな人物が父親の藤原鎌足です。
この定慧(じょうえ)は11才の年に遣唐使の一員として唐に渡ります。
なぜなのか?
日本にとどまっていると天智天皇に暗殺されるからです。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『定慧出生の秘密』
11才ですからね。現在で言うなら、まだ小学生ですよ。
それも、親が付き添いで一緒に行くわけでもないですからね。
しかも、当時の遣唐使船というのは確率的に言って4艘で行けば、
1艘か2艘は暴風雨にあったり、海難事故で沈むのが当たり前のような時代でした。
つまり、両親は2度と定慧(じょうえ)に会えないかもしれないわけですよね。
その覚悟で遣唐使船に乗せたのです。
もちろん、それ程危険な旅に出したのには理由があったわけです。

例え、唐に無事に着いたとしても、今度は帰れないかもしれない。
あの、阿倍仲麻呂など、日本にあれ程帰りたかったのに、ついに帰れず唐の国で死んでしまった。
定慧は幸運でした。
でも、他の遣唐使は日本へ帰ってきたのに、彼は帰れない理由があった。
11才から12年間海外に居ました。初めは唐に、それから百済に居ました。
もちろん、百済に居たときにはスパイ活動をしていたのです。
大和朝廷は唐と新羅の連合軍に対して百済を救うために援軍を送ったのです。
そのための情報収集をしていたのです。
ところが大和朝廷の水軍が戦いで負けてから、定慧は日本に戻ってきた。
天智天皇は定慧が連合軍の手下になって戻ってきたように受け止めてしまった。
天智天皇は猜疑心の強い人でした。
しかも、定慧の実の父親が孝徳天皇であることは公然の秘密でした。
12年間海外に居て、やっと懐かしい日本にたどり着いたのもつかの間、
天智天皇が放った刺客によって暗殺されてしまったのです。
もちろん、このようなことはあなたは初耳でしょう?
学校では教えませんからね。うへへへへ。。。。
馬鹿げた事と思うなら、ぜひ上の記事を読んでみてください。
決して馬鹿げていない事が分かるはずですよ。
名目上では長男の定慧は、次男の藤原不比等が7才の時に23才で暗殺されたのです。
ところで、藤原不比等は産まれて間もない頃に他家に預けられる事になりました。
諸氏の系図集である『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』(南北朝後期成立)の「不比等伝」には、次のような記述があります。
公(藤原不比等のこと)は避くる所の事あり、
すなわち山科(やましな:現在の京都市東山区)の
田辺史大隈(たなべふひとのおおすみ)の家に養う。
それをもって史(ふひと)と名づくるなリ。
なぜ他家に預けられたのか?
「避くる所の事」とは何か?
藤原不比等の事を調べるなら誰もが不思議に思うのに、詳しいことは何一つ書いてないんですよね。
謎に包まれている。
藤原不比等の出生に関わる極めて重要なことです。
書きたくとも書けなかったのでしょうね。
書けばボロがでる。
定慧のことも詳しく書くとボロが出てしまうんですよ。
定慧ガ孝徳天皇の実子だったこと。
孝徳天皇が病死したということも疑えば暗殺という事だって充分に考えられます。
定慧が暗殺されたということも隠されている。
天智天皇が刺客を送って暗殺させたことだって見え見えなのに書けない。
天智天皇と天武天皇が実は腹違いの兄弟だということも書けない。
しかも天武天皇の方が実は兄だった。
天智天皇の4人の娘が同母弟だと言われている天武天皇の妻になっている。
確かに、そのような例は古代にはあったけれど、
自分の娘を4人も弟の妻に与える。
ちょっと、常識では考えられないことですよね。
でも、『日本書紀』にはそのように書いてある。
なぜ?
書いてあるから信じている。
でも、その『日本書紀』は大化の改新を正当化するために
藤原政権を正当化するために書かれたようなものですよね。
もちろん、歴史家と呼ばれている人が歴史を検証しているのだろうけれども、
つい最近になるまで、皇国史観の影響で天皇の悪口は書けなかった。
今だって、皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患って奇行の数々をしたという事だって書いてない。
だから、天智天皇が暗殺された!なんて常識的な歴史家には書けませんよね。
充分な資料が無いから、無理も無い。
しかし、理論物理学があるように、理論歴史学があっても良いと僕は信じていますよ。
あれだけ権謀術策が渦を巻いていた時代ですよ。
天智天皇が暗殺されたって、奇妙でも不思議でも、なんでもないですよね。
崇峻(すしゅん)天皇は蘇我馬子の差し向けた刺客によって暗殺されました。
ただ、藤原不比等の方針で、天智天皇の暗殺は書かなかっただけです。
なぜなら、大化の改新を実行した中大兄皇子と中臣鎌足は善人でなければならない。
天智天皇が暗殺された!ということになれば、当然どうして?ということになってしまう。
そうしたら、何もかもが覆(くつがえ)されてしまう。
隠されていた事実をすべて晒さなければならない。
つまり、蘇我氏が実は善玉で、権勢欲に駆られた中大兄皇子が自分勝手に始めた権力闘争だった、とは書けません。
でも、冷静にあの当時の歴史を見れば、大化の改新でやった事は蘇我氏がやろうとしていたことを引き継いだに過ぎないんですよね。
小泉純ちゃんが“女性刺客”を送り込んだことは、まだ記憶に新しいです。
海外では面白おかしく取り上げられましたよ。
Koizumi enlists 'assassins'
to run against rival MPs

Correspondents Report - Sunday, 11 September, 2005
Reporter: Shane McLeod
HAMISH ROBERTSON: As the people of Japan head to the polls this weekend, political analysts will be paying close attention to the impact of one of Prime Minister Junichiro Koizumi's more unusual campaign tactics.
Echoing the samurai battles of the past, Mr Koizumi has endorsed so-called 'assassins' to run against former government MPs who defeated his pet reform project, the privatisation of Japan's Post Office. The would-be targets say this isn't fair, accusing Mr Koizumi of 'cold hearted' politics.
But as Shane McLeod reports, some of the assassins appear to have their quarry in their sights.
SHANE MCLEOD: In Japanese, they're known as 'shikoku' - translated it means assassins.
They're the hand-picked warriors of Junichiro Koizumi's battle, one he styles as a struggle between good and evil, between those who support reform, and those who oppose it.
And in their sights are the former government MPs who thwarted Mr Koizumi's plans to break-up and sell off Japan's post office.
One of Mr Koizumi's assassins is Environment Minister Yuriko Koike.
YURIKO KOIKE (translated): My move is not aimed at assassinating, but to give the people an alternative choice. I'd like to become a receiver of the people who support Koizumi's reforms and privatisation.
From “Correspondents Report”
ところで刺客のローマ字綴りが間違っていますよね。
shikoku と書いていますよ。 shikyaku ですよね。
こういうことが結構あります。
僕も“人の振り見て我が振り直”さねばならないですけれど。。。
政治の世界では実際に殺さなくても、今も昔も同じことをやっています。
邪魔者は消さねばならない。
現在は選挙が戦場ですが、昔は、もろに命のやりとりをした。
天皇が暗殺された時代です。