愛と怨霊
女帝誕生
讚良(さらら)皇女が
皇位を継ぐ。
殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。
建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。
讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。
僕が当時生きていて、しかも日本新聞の編集長だったら、このような新聞を出していたかもしれません。
これは歴史家が誰も言っていないことですが、
僕は持統天皇が境界性人格障害者だと信じることができます。
もちろん、当時、そのような病名はありません。
讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんを亡くしたのです。
しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺したのです。
このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに経験したのです。
この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、
境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたはずです。
成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも知るようになります。
この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史でした。
その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがいました。
蘇我蝦夷
蘇我入鹿
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
有間皇子
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
。。。
満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に大海人皇子に嫁ぎます。
もちろん、政略結婚です。
中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子でした。
何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。
言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものです。
それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとした。
しかし、その甲斐もなくやがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されます。
目には目を歯には歯を!
この当時の必然でした。
■ 『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』
■ 『天智天皇は暗殺された』
■ 『天智天皇暗殺の謎』
頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っている。
この皇女は父親を憎み恨みながらも、
自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っていました。
後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺しています。
讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのです。
とにかく持統天皇は独占欲の強い人だった!
それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、
持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れています。
上の系図を見てください。
これだけ女帝を立てたのもそのためです。
それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのです。
つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになったのです。
幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたんですよ。
讚良皇女の幼少の頃の事件を
もう一度振り返ると。。。
乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、
当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、
石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。
石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。
危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。
事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。
その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。
ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。
子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。
したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。
可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。
しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。
斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。
つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。
大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。
『日本で最も有名な三角関係』
つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。
“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基で近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。
そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。
大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。
しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。
持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?
草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。
聡明で非情である持統天皇が
なぜ怨霊を恐れるのか?
ここで持統天皇が詠んだ有名な歌を読んでみてください。
春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の
衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山
この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないんですよね。
これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えるとき、
愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、
僕は次のようにしか解釈できません。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~
でも、私の心はあの山の裏にある
磐余(いわれ)の池を見ているのです。
大津皇子が自害する前に池の端で
辞世の歌を読んだという。
自害の後で、皇子の妻であり、
私の腹違いの妹でもある山辺皇女が
髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。
痛ましいには違いない。
しかし私は、ああせねばならなかったのです。
怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、
私には他にとるべき道はなかったのです。
どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。
この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕もそう考えています。
つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。
持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?
天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。
なぜか?
草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。
それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。
『性と愛の影に隠れて -- 万葉集の中の政治批判』
つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。
ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。
つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。