歴史のウソ
蘇我氏は悪者ではなかった
蘇我氏は日本史では悪人扱いされる事が多いのですよ。
なぜ?
次の事件で成敗(せいばい)されたのが蘇我氏だったからです。
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板蓋宮(いたぶきのみや)における暗殺の場です。
日本史では「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれています。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)。
首を切られたのが蘇我入鹿(いるか)です。
この入鹿の首が切られた後に飛んでいって御簾(みす)に喰らい付いているのですよ。
この御簾の向こうに女性が居ます。
入鹿はこの女性に助けてもらうつもりだったのですよ。
でも助けてくれずに自分の部屋に戻ってしまった。
だから、入鹿にすれば悔しいのですよ。
それで、首が切られてしまったのですが、
その首が悔しさのあまりに、この女性の後を追いかけて行って御簾に喰らいついているのです。
そういう怨念の込められた絵です。
この絵は江戸時代に描かれたものです。
この絵を描いた絵師は、入鹿の怨念を知っていたのですね。
。。。で、この女性とは一体何者なのか?
調べてゆくと、面白い事実が分かるのです。
■ 『藤原鎌足と六韜』
上のページでも説明したように、蘇我入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)に斬られて命を落とします。
このとき、入鹿の父親、つまり、時の大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)はまだ豊浦(とゆら)に居ました。
中大兄は王族・官人たちを率いて飛鳥寺(あすかでら)に入って陣を敷きます。
蝦夷方の反撃に備えたのです。
用明二年(587年)の蘇我(そが)対物部(もののべ)の戦(いくさ)以来の大戦になる可能性が強くなりました。
実際、蘇我氏の私兵的存在であった東漢氏(やまとのあやうじ)は軍陣を設けて戦う姿勢を示したのです。
しかし高向国押(たかむこのくにおし)の執拗な説得により、東(やまと)陣営は揺らぎを見せます。
このため、蘇我蝦夷は進退きわまってしまいます。
そして結局、観念して、自邸で自刃して果てたのでした。
こうして厩戸王子(うまやどのおうじ)、つまり聖徳太子と共に黄金時代を築いた蘇我本宗家は、上宮王家(かみつみやおうけ)を手玉に取った、わずか二年後、あっ気なく終焉を迎えたのです。
日本書紀の記述を見ると、滅んだ蘇我氏は、悪人として描かれています。
つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足は悪人を滅ぼした善人であると。
したがって、政権を保つ正当性があるということを、日本書紀では、行間のそこ、ここに滲み出させています。
この辺のところに、藤原不比等を始めとして、日本書紀に携わった編集者の意図が見えています。
蘇我氏は、本当に悪人だったの?
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もちろん、すべてがすべて悪いということはありえないし、また、その逆もありえません。
言えることは、蘇我氏本宗家が不当に貶(おとし)められているということです。
歴史に「もし」という仮定を設けて語ることは、あまり意味のあることとは言えませんが、
しかし、ここであえて、もし、蘇我蝦夷が東漢氏(やまとのあやうじ)の無条件の援軍を得て戦い、勝ったとしたなら、この評価はすっかり逆になっていたことでしょう。
要するに、古事記も日本書紀も、勝者側から見た歴史書であるわけで、勝者の都合の悪いことは書いてないはずです。
中国の史書も同じようなものですが、ただ大きく違うことは、勝者が前の王朝の歴史を書くことがしきたりになっています。
しかし前の王朝の歴史を書く場合にも、やはり自分の王朝に都合の悪いことは書かないでしょう。
ところが、古事記と日本書紀の場合、勝者が自分の王朝の歴史を書いています。
したがって、中国の史書よりも、主観が大きくその内容に影響してきます。
つまり、勝利者が、自分の王朝の正当性を書き込むことがすごくやり易くなる。
むしろ、そのために古事記と日本書紀が作られたと言ったほうが的を得ています。
そのような観点から、日本書紀を読んでゆくと、蘇我蝦夷の名前の謎も解けてきます。
つまり、蝦夷とは、馬子が名付けたのではなく、藤原氏が蘇我氏を貶めるために、死後与えたものだと。
こういう風に解釈すると、すんなりと説明がつきます。
この当時の名前は一つとは限りません。
例えば,蝦夷の息子の入鹿は通称で、本名は鞍作(くらつくり)あるいは林太郎(りんたろう)ということになっています。
蝦夷には他にも名前があったのだろうかと調べると、彼は毛人とも呼ばれています。
つまり、こう書いてエミシと読ませています。
しかし、もともとは「毛人」は「異人」(けひと)のあて字で、はじめはケヒトと読まれていたようです。
すなわちヤマトの国の外に立つ「異俗」「異文化」の民の意味です。
したがって、これも藤原氏が名付けた可能性があります。
■ 『蘇我氏は高句麗からやってきた』
上のページで説明しましたが蘇我氏の祖先は高句麗からやってきたらしい。
それで、「毛人」とは「よそ者」といった程度の、アザナだったと思われます。
それがどうして蝦夷と書かれるようになったのか?
それはもちろん、蘇我毛人の印象を、もっともっと悪くさせるためです。
日本書紀には蝦夷(古代アイヌ人のこと)が次のように説明されています。
■ 東の国の人々は性質が凶暴で乱暴ばかりしている。
■ 国を治める人がいないので、領地争いばかりしている。
■ 山には悪い神、野には悪い鬼が住んで、
道を通る人に悪いことをしたり、苦しめたりしている。
■ 中でも最も強いのが蝦夷(えみし)である。
蝦夷は男と女が雑居して暮し、親子の礼儀を知らない。
■ 冬は穴に住み、夏は木の上で暮らしている。
■ 獣の皮を着て動物の血を好み、
兄弟は仲が悪くて争ってばかりいる。
■ 山を登るときは鳥のように速く、
獣のように野原を駈けまわっている。
■ 人から恩を受けてもすぐに忘れるが、
人に恨みを持つと必ず仕返しをする。
■ 自分の身を守ったり、仕返しをするため
いつも頭の髪に矢を差し、刀を隠し持っている。
■ 仲間を集めては、朝廷の国境に侵入して
農家の仕事を邪魔し、
人を襲っては物を奪ったりして人々を苦しめている。
■ 征伐するため兵士を差し向けると、草に隠れたり、
山に逃げたりして、なかなか討つことができない。
要するに、良いことは一つも書かれていません。
こういう書き方には注意する必要があります。
大体、どの民族について見ても、全部が全部悪いとか、全部が全部良いとか、そういうことはありえません。
悪いところがあれば、良いところもあるわけです。
では、どうしてこういう書き方をするのか?
これは太平洋戦争中の、鬼畜米英的なスローガンと同じことだと考えればいいわけです。
戦時中、当時の小学校の先生は子供たちに、アメリカ人や英国人は畜生だ!鬼だ!と教え込んだわけです。
そういう教育をほどこすことによって、男の子を日本帝国陸軍や海軍の兵隊さんに仕立て上げ、女の子は軍国の母になるようにしつけていったわけです。
つまり、上の日本書紀の記述は蝦夷討伐を正当化しているわけです。
いずれにしても、上の記述を読めば、誰もが蝦夷というのは悪い奴らだ、という印象を持つことでしょう。
この同じ日本書紀の中に入鹿の父親が、蘇我蝦夷として登場します。
こうなると、読む人は、当然、蘇我蝦夷と野蛮人の蝦夷との結びつきを関連付けてしまう。
「この男は蝦夷の出身なんだろう。もしかすると、蝦夷の親分かもしれない」
「入鹿はこの男の息子なんだから、こいつも悪いやつに違いない。野蛮人の蝦夷を征伐するのなら、この二人が征伐されるのも当然じゃないか」
ちなみに、入鹿のおじいさんは蘇我馬子です。こうなると、馬と鹿の組み合わせで、馬鹿になります。
しかし、この当時、馬鹿という日本語があったのかどうか、まだ調べていません。
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このようなことは、何も日本書紀が初めてやったわけではありません。
すでに前例が中国にあります。蘇我氏が絶頂期にあった頃の中国、「隋」の皇帝は「煬帝(ようだい)」という名前で歴史に残っていますが、これは本名ではありません。
後世の歴史家がつけた名前で「天に逆らい人民を苦しめる暴君」という意味です。
日本書紀の、いわば編集長であった藤原不比等も、この程度のことは知っていたでしょう。
何しろ、藤原氏のバイブルは六韜ですから。
蝦夷征伐で、蘇我氏と藤原氏は対立していた
蝦夷を悪く語ることで、蘇我毛人の印象を悪くするだけだったのだろうか?
もちろん、そのことが重要な理由で、毛人を蝦夷と書き換えて日本書紀に載せたに違いありません。
しかし僕は、もっと重要なことがその裏に隠されていると信じます。
それは何かというと、その後のアイヌの歴史を決定的にした蝦夷征伐の方針をここではっきりと打ち出したということです。
ここに聖徳太子の「和の精神」を持ち出す必要があります。
ご存知のように聖徳太子という人物は、次に示す系譜に見るように、蘇我氏とは非常に強い繋がりを持っています。
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蝦夷とは、婚姻を通して兄弟の関係にあります。
むしろ聖徳太子は蘇我氏の一員だと考えたほうが分かりやすい。
すでに述べたように、大陸と日本の大きな違いというのは、日本の街の周囲には城壁がないということです。
したがって、原日本人というのは、もともと好戦的な民族ではなかったということです。
僕は、アイヌ民族を原日本人とみているわけですが、
この民族がどうして、好戦的でないのかは次のページで説明しています。
■ 『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』
この戦争を嫌う精神は聖徳太子の「和の精神」という形で、その後の日本人へと引き継がれていったようです。
しかし、残念ながら、この「和の精神」というのは、この当時ほとんど無視されたようです。
なぜなら下の年表で示すように、592年の崇峻天皇の暗殺から、
壬申の乱を経て、686年の大津皇子の死(暗殺)までの約百年間というのは
日本史上まれに見る波乱の時期だということが言えるからです。
しかも、この時期に起こる事件というのは、それ以降の日本の歴史上の事件とは、はっきり一線を画しています。
それは天皇が二人暗殺されているからです。
天皇を暗殺するというのは、それ以降の日本史には見られません。
☆ 592年 蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。
☆ 645年 中大兄皇子(天智天皇)、蘇我入鹿を討つ。
☆ 663年 白村江の戦い
☆ 671年 天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。
☆ 672年 壬申の乱
☆ 686年 大津皇子、持統天皇に殺される。
これらの事件を見てゆくと、日本で起きたと考えるよりも、中国大陸で起きたと考えたほうが、すんなりと受け入れられるような事件が多いのです。
例えば、蘇我入鹿の暗殺を調べてゆくと、大陸的な血生臭さが感じられます。
それはなぜかというと、事件を動かしている中心人物、藤原鎌足が大陸で通用していた兵書、六韜に基づいて暗殺を実行しているからです。
したがって、これらの事件がどうしても、日本的でなく大陸的な印象を与えるようです。
そういうようなことからも、藤原鎌足が、日本的な考え方よりも大陸的な考え方に、どっぷりと、つかって生きてきたような印象を与えます。
要するに、日本で生まれた人物と考えるよりは、百済で生まれ大陸の影響を強く受けて育ち、百済から渡来した人物ではなかったのか?
そういう疑問が、頭をもたげてきたわけです。
しかも、そのような想定の元に、いろいろな文献に当たってみると、ますます鎌足が渡来人らしいという考えを強くしたわけです。
ところで、蘇我氏も渡来系です。そのことは次のページで語りました。
■ 『蘇我氏は高句麗からやってきた』
つまるところ、やって来た時代が前後することはあっても、原日本人であるアイヌ民族を除くと、ほとんどの氏族が、いわゆる渡来人です。
しかし,蘇我氏と藤原氏の決定的な違いは、この和の精神にあると言えます。
簡単に言えば、蘇我氏は和の精神で事を運ぼうとしていたわけです。
この端的な表れが、聖徳太子の17条憲法に示された冒頭のきまり文句です。
「和をもって、貴(とうと)しとなす」
この条文が一番初めにあげられているということは、先ず何よりも、この条文から考えなさい、ということだと思います。
ちなみに、分かりやすく現代語にすれば17条の憲法というのは次のようになります。