「頂上至極」(村木 嵐著 幻冬舎 2015年10月20日第1刷発行)を読みました。
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本の内容は、次のようなものでした。
宝暦3年(1753)の師走、薩摩藩は、突然、幕府から、木曽川・長良川・揖斐川の「木曽三川」のお手伝い普請を命じられます。
お手伝い普請とは名ばかりで、その実は、過酷な普請の命令です。そもそも、幕府としては、各藩の経済力を削ぐことが第一の目的ですから、普請の実施に当たっても、いろいろと条件を付けてきます。例えば、予算的にも、14万両であげよということですが、それを超えた分も、それは薩摩藩の不手際によるものだから、その分も薩摩藩が負担せよということです。
そのお手伝い普請の命令が申し渡された際、薩摩藩内の若手藩士たちの間からは、幕府を相手に一戦を交えようとの声が大きくなりましたが、なんとかなだめ、薩摩藩としては、その申し出を受けることになります。
そして、国家老6人中の第5番目の家老・平田靭負(ゆきえ)が総奉行になることを名乗り出、藩主から許され、現地に赴きます。
年が明けた1月下旬には、総奉行以下藩士千数百人で工事に取り掛かりますが、現地の状況も知りませんでしたし、その地域が、幕府領、親藩尾張家領、大名に準じた家格の交代寄合衆・高木三家の支配が複雑に入り組んでいることも知りませんでしたし、ましてや、その地域の輪中に住む農民のしたたかさも知りませんでしたので、悪戦苦闘を重ねることになります。
一年余(14カ月)で、なんとか工事は竣工しましたが、総工事費は40万両に膨らみ、その間には、33人の藩士が赤痢などの病に倒れ、53人の藩士が切腹して果てています。
なぜ切腹するのかといいますと、工事現場等でもめ事を起こした場合、それはご法度になっていましたので、もめ事を起こした責任が藩に及び、悪くすると藩の取り潰しになりますので、もめ事を起こした藩士は、その場で、藩に迷惑が掛からないように切腹して果てるんですね。例えば、農民から愚弄されてその農民を切り捨てた場合など、その場で切腹し、同僚に介錯をたのみ、また、介錯した藩士も切腹したりするわけです。
このように、薩摩藩は、多大な犠牲を払って、この難題を乗り切りました。薩摩藩としては、このお手伝い普請の実施は「戦(いくさ)」と認識していましたから、当面、対幕府との「戦(いくさ)」には、勝ったということですね。
しかし、薩摩藩としては、これまでに40万両の借財を抱えて苦しんでいましたので、更に40万両の借財を抱え、合計80万両の借財に悩まされます。
ところで、この本の題目の「頂上至極」の意味ですが、私は、読了するまでは、工事が首尾よく終わり、目出度し目出度しの意味での「頂上至極」なのかなと思っていましたが、そうではありませんでした(-_-;)
それは、難工事は、それこそ、「頂上至極」には終わりましたが、この「三川」を将来にわたって人間の力で組み伏せたわけではないわけで、将来、また何が起きるか分かりません。その時、幕府は、また、その当時の普請に難癖を言ってくるにちがいないことが予測されるわけです。
それを予測した家老の平田靭負は、あえて総奉行になることを名乗り出たわけですね。そして、工事が「頂上至極」に終わった時、普請の総奉行としては、藩と幕府の間に立ち、最後にはその繋がりを絶って消えることを、最初から決意していたわけです。
そんなことから、この先、何が起こるかもしれない不手際の分も含めて、今では分からないが将来に亘っては至らなかったかもしれない普請を藩主に詫びるという形で、普請が「頂上至極」に終了した時点で切腹して果てます。本の題名の「頂上至極」は、そんなところから採られていました。
現代では考えられない死に方ですね! 今なら、二階級特進か三階級特進になるところですよね!!