goo blog サービス終了のお知らせ 

Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

白村江の戦いー天智天皇の野望ー

2019年07月18日 14時55分04秒 | 読書

 「白村江の戦いー天智天皇の野望ー」(三田誠広著 河出書房新社 2017年7月30日初版発行)を読みました。

 

 この本を何故読んだかですけれど、それは、「襲来(上)・(下)」(帚木蓬生著 講談社 2018年7月30日第1刷発行)という本を読んだ際、6月12日付けでその本についてのコメント記事をアップしていますが、その記事の<追記>に、

 

 この本を読むに至った動機ですが、それは、少し前に読んだ「日本の起源」という本に、これまでの日本の2,000年の歴史の中で、日本が危うかったのは、「白村江の戦い」の時と「元寇」の時だったとありましたので、「元寇」について少し詳しく知りたくなったからです。

 今度は、近いうちに、「白村江の戦い」に関する本を読んでみたいと思っております。

 

 と記しましたように、「日本の起源」という本の延長線上にあったからです。

  「日本の起源」という本には、日本の2,000年の歴史の中で、日本が危うかったのは、「白村江の戦い」の時と「元寇」の時だったとありましたが、「元寇」については、「襲来(上)・(下)」(帚木蓬生著 講談社 2018年7月30日第1刷発行)という本を読むことによって少しは分かったわけですけれど、今度は、「白村江の戦い」について少し知りたくなったからです。

 

 この本では、当時の、中国大陸、朝鮮半島、日本との間の関係がスケール大きく描かれていました。

 中国大陸では隋が統一国家となり、次いで唐が統一国家となります。それらは、先進国であり、強大な統一国家でもあり、男帝が支配していました。

 それに対し、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三韓に別かれ、それぞれ女帝が支配していました。日本の倭国も女帝が支配していました。

 なぜ女帝が支配したかというと、当時は、地方領主の勢力が強く、独裁的な王は歓迎されなかったからなようですね。皇族の女性には霊力が宿るとされていて、軍事力に支えられた権力ではなく、巫女が受ける神託によって国を統べるしか方法がなかったようですね。

 つまり、統一性のない、弱小の後進国だったわけですね。

 そうした状況下、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の三韓と倭国は、このような状態のままでは、いずれ大唐帝国に攻め込まれ、支配下におかれることは火を見るよりも明らかでしたので、それぞれ、統一国家への道を模索します。

 しかし、その時、歴史は動きました(笑)。

 外敵からの侵入の恐れが少なくなった唐帝国は、いよいよ朝鮮半島侵略に乗り出し、先ず、高句麗に侵入します。

 その時、新羅は唐の冊封(さくほう)を受け入れ(唐の属国となることを受け入れ)、とりあえず、唐と新羅が連合し、唐・新羅の連合軍で百済を攻め落とします。そして、続いて、唐・新羅連合軍は高句麗へと向かいます。

 その時でした、倭国が、百済の残党を救いに白村江に赴き、唐・新羅連合水軍と激突したのは、、、。

 その時の倭国の最高権力者は中大兄(なかのおおえ)(後の天智天皇)です。

 中大兄のとった戦術は、最初から、大敗することを覚悟のうえでした。

 目的は、強力な統一国家を作ることです。それには、地方領主の勢力を弱めなければならないわけで、九州の熊襲などの勇猛な兵を水軍に仕立て(にわかに水軍の訓練を施したようですが)前線に配置して勇猛に戦わせ、頃合いを見計らって、後方に配置した朝廷の規律のとれた水軍を鮮やかに撤退させるというものでした。

 予想通り、戦いは大敗でしたが、結果は大成功でした。

 これにより、地方豪族の力は弱まり、統一国家への道が開かれました。また、唐帝国は、倭国の水軍が、果敢に攻め、鮮やかに撤退していった様子をみて、倭国水軍の実力を高く評価したからです。

 この戦いの直後、唐帝国は、国使を派遣してきます。当初、倭国は、当然ながら、冊封を求めてくるものと予想しましたが、そうではなく、対等な国として交流していこうというものでした。

 そうは言っても、倭国としては、いずれ、唐帝国は必ず攻めて来るものと予想し、統一国家への道を強め、九州に長大な水城を築き、都も瀬戸内海を通って難波に至った唐の水軍に攻め込まれないように山奥の琵琶湖湖畔に移します。

 しかし、唐帝国は、倭国の水軍に脅威を感じ、その後、倭国に冊封を求めることもありませんでした。その後に中国が攻めてきたのはモンゴル帝国の元寇なわけですね。

 そうして、倭国は、やっと、念願の統一国家となり、7年後、中大兄は即位し、男帝の天智天皇となります。

 なにやら、現代の我々の置かれた状況は、当時の状況に似ていますね。外交政策に於いても、当時の白村江の戦いのあった頃の政策に学ぶべきものがありそうですね。先人の歴史に学ぶべきものがあるのではないかと思います。

 

 ところで、白村江(はくすきのえ)とは、白村(はくすき)という小さな村落があることからそのように呼ばれたもので、広々とした錦江の河口のことなんですね。

 無知な私は、この本を読むまでは、「はくすきのえ」を、「はくす」「きのえ」と読むものと思っていました(><)

 意味からすれば、「はくすき」「のえ」と切って読むべきなんですね(-_-;)

 子供の頃、電文の「シンダイシャタノム」を「シンダイシャ」「タノム」(寝台車頼む)と読まず、「シンダ」「イシャタノム」(死んだ医者頼む)と間違って読んだという笑い話を思い出し、苦笑しているところです(-_-;)


最新の画像もっと見る

12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2019-07-18 19:48:26
「シンダ」「イシャタノム」(笑)
これは大笑いしました(*^_^*)
私も似たようなことありますよ…12月にスーパーで買い物していたら、「さんだんじゅうのご予約承ります」というアナウンスにびっくりひっくり返ったんです^^;
「三段重」と「散弾銃」を間違えてしまいました(笑)
それはともかく、白村江の戦いの舞台はまさしく当地の近く、太宰府ですね(*^_^*)
天智天皇が「秋の田の~」の百人一首の歌を詠んだのはまさしく九州です。水害の被害で今も大変なところ、福岡県朝倉市で詠んだものです。私も白村江の戦いのゆかりのある場所はたまに行きますが、文章としても読んでみたいですね(*^_^*)
返信する
Unknown (ふぅ)
2019-07-18 19:49:17
スイマセン、上のコメントは私です(笑)
返信する
ふぅさんへ (Dr.K)
2019-07-18 21:09:33
早々のコメントありがとうございます。
ヤフーブログの終了に際し、各人、ちりじりになって、散っていった先のブログでのコメントの書き方もいろいろで、戸惑いますよね(-_-;)

さすが、アウトドア百人一首に挑戦しているだけに、和解に明るいですね(^-^;
小倉百人一首の一番最初に天智天皇の歌が出てくるんですね。

ふぅさんは、白村江の戦いにゆかりのある場所にたまに行ってるんですか!
臨場感を感じるでしょうね。羨ましい限りです。
九州は古代史にゆかりの地が多いですよね。古代に夢を馳せることが出来ますよね(^-^;
返信する
ふぅさんへ (Dr.K)
2019-07-18 21:11:59
↑ のコメント中の「和解」は「和歌」の誤りです(-_-;)
返信する
あやふや知識 (遅生)
2019-07-18 21:31:14
ついに、白村江の戦いですか。この辺りになると、もう、知識があやふやで、頭のなかがモヤモヤしています。大体、似たような人物が多く、誰が誰だったか・・・・^_^;)
そういえば、白村江の戦い、BS番組、英雄たちの選択でやってましたね。天智天皇、そこまで計算して水軍を派遣するとは、驚きです。
私たちの辺り、地名に条里制の名残り、有ります。大化改新がこんなに地方まで・・・天智天皇、恐るべしです。
返信する
遅生さんへ (Dr.K)
2019-07-18 21:49:27
ははは、「日本の起源」という本を読んだ行きがかり上、遂に「白村江の戦い」まで行ってしまいました(笑)。
これ以上は、訳の分からない神話の世界に入ってしまいそうなので止めることにしています。

この本に依りますと、当時の上流階級の人は、現代の我々が思うよりもず~っと進んでいて、中国の政治制度などを良く学び、漢語を話していたということです。
今の政治家などより、よっぽど国を思う気持ちが強く、思慮も深かったようですね。
白村江の戦いは、強力な統一国家樹立のための一石二鳥の政策の実行でもあったんですね。
返信する
Unknown (pada)
2019-07-19 09:29:24
韓国で日本語ペラペラの人と話していた時、四国の古い家の話になって、四国間の家が扶余(百済の都)の民家ソックリだと言います。是非見て来たらと言われ、見学に行ったことがありました。
成程そっくりだと感激したものです。
外から見た感じも屋根が反ってなく日本と同じです。白村江の戦いで日本に逃げた百濟人は10万人~その多くが九州・四国に住み着いた、その様な事を、その韓国人は
知っていたんでしょうね。
この本、じっくりと読んでみたい物です。




返信する
知らない事だらけでした><; (チョイ悪ジー)
2019-07-19 09:52:09
皆様方のコメント拝見いたしますとしらないことばかり、改めて自分の無知さ感じます><;
亡父チョイ悪と違い歴史大好き⁉でした本も沢山あります!ただ感想も違い読む気にもなれませんでしたが、素直な気持ちで読んでみます(^^)/
因みに、我が家は女帝ではありません⁉
返信する
padaさんへ (Dr.K)
2019-07-19 14:32:25
この本でも、倭国は長らく百済を支援していたこともあり、「武者でも工匠でも、手に技をもった者たちを救出すれば、倭国でよい仕事をするだろう」と書かれています。

また、この本の中で、中大兄は、大海人に、
「百済の武者は戦場で鍛えられてている。百済はすでに唐に支配された。気概のある武者を倭国に招いて、この地を新天地として、唐との新たな闘いに臨んでほしい。倭国の豪族たちの寄せ集めの兵では唐とは闘えぬ。百済の武者たちを集めて朝廷軍の中心に置きたい。さらに、・・・城造りの工匠を捜して、倭国に連れてきてくれぬか。」
と命じています。

また、なぜ城造りの工匠を必要とするかについては、
「唐はいずれ戦力を増強して倭国に迫るだろう。護りを固めねばならぬ。急ぎ多くの城を築いて備えを固めるしかない。義慈王は滅ぼされたが、いまもなお百済の諸城はもちこたえておる。・・・百済の城はよほど堅固なのであろう」
と言っています。

それに対し、中臣の鎌子(後の鎌足)は、
「石積の工法によって築かれた百済の城はまことに堅固でございます。百済と倭国では、地形はきわめてよく似ておりますので、工匠を確保できれば、必ずや役にたつことでございましょう」
とアドバイスをしています。

このように、この時、百済からは、多くの武者や手に技をもった者たちが倭国にやってきたんでしょうね。
返信する
チョイ悪ジーさんへ (Dr.K)
2019-07-19 14:45:37
私も知らないことばかりです(><)
最近、本を読むようになって、少しずつ知るようになりました(^-^;
チョイ悪ジーさんも御父上に倣って本を読み、物知りになってください(^O^)

我が家では、年とともに、だんだんと妻の力が強まり、女帝のようになってきました(^^;
これ、挽回は不可能です(笑)。
返信する

コメントを投稿