好きです!しなの鉄道「滋野駅」

2009-12-24 05:59:38 | 雑感
東信濃風土記というホームページがあります。そこに私がこれまで20年間にわたって大変お世話になったしなの鉄道滋野駅のことが載っていました。とても懐かしくついリンクを張らせていただきました。もしよかったらクリックしてみていただければ幸いです。

しなの鉄道滋野駅

私はこの駅から汽車に乗って高校に通っていました。やがて東京の大学に進学し、休みの都度ここに戻ってきました。その後車の時代になりあまり駅を利用することも少なくなりました。しかしバブルがはじけたころ、勤務先が長野の本部から軽井沢支店に替わるに及んで、毎日ここから軽井沢まで通い始めました。小諸を過ぎるととたんにお客さんが少なくなり、軽井沢で下車するのはほんの数人でした。軽井沢で飲んで眠ってしまい、長野まで乗り過ごしたことも一度や二度ではありませんでした。

軽井沢の数年に及ぶ勤務が終わり、勤務先はまた長野に替わりました。その頃新幹線が開通し、信越線はしなの鉄道と名前を変えることになりました。私は毎朝上田から長野までノンストップのモーニングライナーで約40分の時間を車内で過ごすようになりました。この40分が私にとって貴重な読書の時間となりました。まず第一面から日経新聞に目を通します。そしてじっくりと読むのが将棋欄です。人と将棋を指すことはほとんどありませんが、将棋欄だけは熱心に見ていました。時には専門書を紐解くときもありました。

そんな滋野駅の思い出で一番印象に残っているのは春のウグイスの初音です。滋野駅は千曲川の河岸段丘の縁に建っており、ホームの南側はがけで藪になっています。そこにウグイスが住み着き、4月の中旬頃「ホーホケキョ」という声を聞くことができました。ウグイスの初音ですがすがしい気持ちで職場に向かったものでした。たぶんホームでウグイスの声が聞けるのはここだけではないでしょうか。

そして滋野駅の皆さんとの交流でした。東信濃風土記さんがホームページで書いてるとおりです。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」という声に癒されたものです。こんなステキな駅は他にはないと思っています。私の人生の思い出のひとこまひとこまの中に滋野駅があります。お世話になった気持ちを形にしたいと思い、今年「滋野駅を愛する会」に入会しました(すみません。まだお掃除には参加できていません)。

地域新聞「時報」(じほう)ってご存知ですか?

2009-12-24 05:09:44 | 雑感
いま私の手元に「滋野時報」の縮刷版があります。「滋野時報」とは昭和2年から旧滋野村で戦前・戦後の一時期を除いて、毎月発行されていた地域新聞のことです。この新聞の大きな特徴はその発行母体が当時20代前半の若者、「滋野青年団」であったということです。村の青年たちが農作業の後公民館に集まり、新聞の発行計画を立て、記事を依頼し、自らも取材し原稿を書き、校正を行い、毎月の発行を支えていました。

新聞は滋野村全域に配布され、時には村出身者に送られました。いまと違って村の広報紙も何もない頃です。「時報」が地域の重要な情報源となり、地域の世論をリードする役割を果たし、生活改善運動や農作業情報など地域革新の担い手となっていました。

こうした「時報」は明治から昭和初期にかけて全国で発行されていましたが、長野県の場合とりわけその数が多く、その中でも上田・小県地方は抜きん出ていました。そしてその発行主体が地域の青年団や青年会であったことも大きな特徴でした。村もこうした青年団の活動を物心両面から支えていました。ちなみに「滋野時報」は昭和2年、「祢津時報」と「和(かのう)時報」は対象13年、「県(あがた)時報」は大正15年の創刊となっています。「北御牧時報」も発行されていました。

ときあたかも大正末期から昭和初期、地域の基幹産業である蚕糸業は曲がり角を向かえていました。経済も昭和6年の昭和恐慌に向かって下り坂であり、先行きの見えない閉塞感に包まれた時代でした。そんな時、疲弊した農村からどのように抜け出して行ったらいいか、その実態を探り、解決の方向性を見出して行こうという青年たちの動きは注目すべきことです。いま当時の新聞を読んでみて、これが20代前半の若者が書いた記事なのかと驚かざるをえません。その記事の内容の深さ、先進性には驚嘆すべきものがあります。

さて、いま東御市では地域の新しい情報伝達の手段としてコミュニティFM局が進められようとしています。新しい東御市の文化の担い手としてかつての「時報」のように、「時」を知らせ、伝え、広める役割を果たしていただきたいと思います。

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