東信濃風土記というホームページがあります。そこに私がこれまで20年間にわたって大変お世話になったしなの鉄道滋野駅のことが載っていました。とても懐かしくついリンクを張らせていただきました。もしよかったらクリックしてみていただければ幸いです。
しなの鉄道滋野駅
私はこの駅から汽車に乗って高校に通っていました。やがて東京の大学に進学し、休みの都度ここに戻ってきました。その後車の時代になりあまり駅を利用することも少なくなりました。しかしバブルがはじけたころ、勤務先が長野の本部から軽井沢支店に替わるに及んで、毎日ここから軽井沢まで通い始めました。小諸を過ぎるととたんにお客さんが少なくなり、軽井沢で下車するのはほんの数人でした。軽井沢で飲んで眠ってしまい、長野まで乗り過ごしたことも一度や二度ではありませんでした。
軽井沢の数年に及ぶ勤務が終わり、勤務先はまた長野に替わりました。その頃新幹線が開通し、信越線はしなの鉄道と名前を変えることになりました。私は毎朝上田から長野までノンストップのモーニングライナーで約40分の時間を車内で過ごすようになりました。この40分が私にとって貴重な読書の時間となりました。まず第一面から日経新聞に目を通します。そしてじっくりと読むのが将棋欄です。人と将棋を指すことはほとんどありませんが、将棋欄だけは熱心に見ていました。時には専門書を紐解くときもありました。
そんな滋野駅の思い出で一番印象に残っているのは春のウグイスの初音です。滋野駅は千曲川の河岸段丘の縁に建っており、ホームの南側はがけで藪になっています。そこにウグイスが住み着き、4月の中旬頃「ホーホケキョ」という声を聞くことができました。ウグイスの初音ですがすがしい気持ちで職場に向かったものでした。たぶんホームでウグイスの声が聞けるのはここだけではないでしょうか。
そして滋野駅の皆さんとの交流でした。東信濃風土記さんがホームページで書いてるとおりです。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」という声に癒されたものです。こんなステキな駅は他にはないと思っています。私の人生の思い出のひとこまひとこまの中に滋野駅があります。お世話になった気持ちを形にしたいと思い、今年「滋野駅を愛する会」に入会しました(すみません。まだお掃除には参加できていません)。
しなの鉄道滋野駅
私はこの駅から汽車に乗って高校に通っていました。やがて東京の大学に進学し、休みの都度ここに戻ってきました。その後車の時代になりあまり駅を利用することも少なくなりました。しかしバブルがはじけたころ、勤務先が長野の本部から軽井沢支店に替わるに及んで、毎日ここから軽井沢まで通い始めました。小諸を過ぎるととたんにお客さんが少なくなり、軽井沢で下車するのはほんの数人でした。軽井沢で飲んで眠ってしまい、長野まで乗り過ごしたことも一度や二度ではありませんでした。
軽井沢の数年に及ぶ勤務が終わり、勤務先はまた長野に替わりました。その頃新幹線が開通し、信越線はしなの鉄道と名前を変えることになりました。私は毎朝上田から長野までノンストップのモーニングライナーで約40分の時間を車内で過ごすようになりました。この40分が私にとって貴重な読書の時間となりました。まず第一面から日経新聞に目を通します。そしてじっくりと読むのが将棋欄です。人と将棋を指すことはほとんどありませんが、将棋欄だけは熱心に見ていました。時には専門書を紐解くときもありました。
そんな滋野駅の思い出で一番印象に残っているのは春のウグイスの初音です。滋野駅は千曲川の河岸段丘の縁に建っており、ホームの南側はがけで藪になっています。そこにウグイスが住み着き、4月の中旬頃「ホーホケキョ」という声を聞くことができました。ウグイスの初音ですがすがしい気持ちで職場に向かったものでした。たぶんホームでウグイスの声が聞けるのはここだけではないでしょうか。
そして滋野駅の皆さんとの交流でした。東信濃風土記さんがホームページで書いてるとおりです。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」という声に癒されたものです。こんなステキな駅は他にはないと思っています。私の人生の思い出のひとこまひとこまの中に滋野駅があります。お世話になった気持ちを形にしたいと思い、今年「滋野駅を愛する会」に入会しました(すみません。まだお掃除には参加できていません)。