様々なご縁をいただきながら、4月に書いたこの時点で早くも復旧工事に取り掛かることができました。『助けていただく』ことを実感しました。
おさむのひとりごと2011-5
ひどい余震が続く毎日です。いかがお過ごしでしょうか。
『東日本大震災』のことを書こうと思うんです。
でも、でも、余りにも規模が大きく、余りにも深く、余りにも重たい・・・。ぼくが云々書けるレベルではない。全てを失ってしまった人を思えば、ぼくの体験していることなんて微々たるもの・・・そんな風に感じてしまうと、全然言葉が浮かばなくなってしまう。
この『東日本大震災』には、ひとりひとりの『東日本大震災』があったと思う。ひとりひとりがいろんな体験をしているんだ。だから、その立ち居地で感じたこと、わたし自身が体験したことが真実なんだ。20年後、30年後、それを子孫に伝えていくんだ。そう思い返して、『ぼくの東日本大震災』の途中経過を書いてみたいと思います。
≪竹田さんの言葉≫
縁と縁がつながって、奈良から瓦が届きました。その会社、『タケダ』さんのでっかいトラックが事務所に横付けされた時の喜び!!!伝わるでしょうか。その数日後にはかわらぶき職人の植田さんチーム、森田さんチームが8時間かけて龍ヶ崎に到着しました。いよいよ屋根瓦崩落現場の修復が始まりました。
この瓦や職人の段取りをしてくださったのが、前回も紹介した竹田さんです。竹田さんは奈良県の瓦組合の理事長もされている。職人を派遣する時にいつも問題になるのが『手間賃』です。平時の1.5倍の賃金となるのが常です。でも今回は震災なんです。そのことにぼくも違和感を感じていたし、竹田さんも同じだった。そして今回来てくれた職人さん方にもそのことを伝えてくれた。『君ら、組合で出向となれば1.5倍の手間賃になるけれど、きたざわのところはいつもと同じ。それでも行くか?』と。彼らは快諾してくれたんです。その時に竹田さんが言った言葉。
『このままでは日本の瓦がなくなってしまう。ましてこんな時に1.5倍も2倍も手間賃上げて経費もかけてやっとったらなお更のことや。君らきたざわの現場のために行くんじゃない。日本の瓦のために行くんや』
このお話しを聞いた時、ぼくは身震いしました。
≪工事が完了したO様≫
O様のお家を新築させていただいたのは、今から26年前。その後も年末アフターサービスや日頃のメンテナンスでずーっとお付き合いしてきました。昨年ご主人を亡くされ、ひとり暮らしをされているところに今回の震災です。子供たち家族は釜石に住んでおり、甚大な被害を被ったために龍ヶ崎に来ることはできません。屋根瓦が崩落し、ひとり暮らしの夜に余震の連続。恐くてお風呂に入れない毎日が続いていました。とにかく早く修復してあげたい!!
そのO様のお家、奈良のかわらぶき職人の手によって、地域では一番に復旧されました。その時にO様、目に涙を浮かべてこんなことをおっしゃってくださいました。
『きたざわさん、あたしはもうこんなおばあちゃんになっちゃいましたけどね、しんせつにしてくださって、、、、、ありがとう。きたざわさんのおとうさんのじだいから、、、26年間おつきあいしてきて、ほんとうによかった・・・・』
ぼくの存在を必要としてくれている人が、いる。
≪父の姿≫
今回の震災で屋根瓦が崩落してしまったのは、ほとんどが父の時代の建物で20年以上前の建物です。今回の震災で無残な姿となってしまった自分が作ってきた家の数々を、父はどれほどのやるせない気持ちで見つめていたことか。特に地元での信頼が厚かった父は、軒並み崩れてしまったことに自責の念を抱いているかのようでした。
その中の一軒K様邸(築30年)は、父の父、ぼくにとってはお爺ちゃんの時代から縁があるお家です。今は二人暮らしのお家、やはり棟瓦が全部崩落してしまいました。
連日瓦の養生に飛びまわっていたぼくたちですが、まだK様邸まではまわる事ができなかったときのこと。75歳になる父が地下足袋を履き、屋根に上って作業をしてくれていたのです・・・。
危なっかしいったらありゃしない!と思う反面、ぼくはその姿に、感動しました。『自分の娘に振り袖を着せたような家づくり』をカラダで教えてくれたんです。屋根やさんが来れないから仕方ないじゃないか、風が吹いたんだからシートが飛んじゃってもしょうがないじゃないか、余震がすごいんだから屋根なんて危なくて上れないよ、瓦が崩れたって仕方ないよ。そんな言い訳はいくらでもある。
でもこの家、自分が作った人生の足跡なんだ。人生そのものなんだ。そのくらいの気持ちでつくった家なんだ。そしてその屋根の下には不安で不安で眠れないお客様がいる。自分にできることを、なんとかして、なんとかしてやるんだ。。。屋根上地下足袋姿の75歳のおやじ。すごいね。
≪稲川さんとあんちゃん≫
3月11日の震災の翌日朝早く携帯電話が鳴りました。いつもセルロースファイバーの断熱工事や竣工時の完成クリーニングをお願いしている稲川さんです。
『しゃちょう、わたしねー考えたんですけど・・・こんな大変な時にね、、、、仕事やってる場合じゃないよねーーー。わたしにできることがあると思うんですけど・・・とりあえずこれからそっちに行きますから、、、、シート掛けでも何でも手伝わせてください。。。』
それから2日間、稲川さんはまるきりボランティアで馴れない屋根に上り、一所懸命シート掛けをしてくれました。ほんとうに頭が下がります。
ぼくには学校の教員を務める兄貴がいます。いまでも『あんちゃん』って言って慕っています。そのあんちゃん震災後自宅待機となり、土日も重なった。『おさむ、手伝うから』って言ってくれたんです。延べ4日間も!!!、骨身惜しまずまるで瓦職人のごとく働いてくれた。すごいなぁ、ほんと。
こんな時にその人の真価が現れるんですね。順風の時、立派なことを言うことは誰でもできる。美しい立ち居振る舞いをすることは誰でもできるんだ。困難に直面しときにその人の真価が問われる。研修で学んだことをそのまま娑婆で体験しています。
この震災で、むちゃくちゃ嫌な体験、悔しい体験をしました。むちゃくちゃうれしい体験、感動の体験をしました。毎日のように涙を流しました。その様子を毎日ブログに書き込んでいますので、よろしかったらご覧ください。『おさむのブログ』で検索してください。
まだまだ震災復旧は始まったばかり。こんな時こそ力を合わせ、一緒に乗り越えて行きましょう!!!更に素晴らしい世界が必ずある。
おさむのひとりごと2011-5
ひどい余震が続く毎日です。いかがお過ごしでしょうか。
『東日本大震災』のことを書こうと思うんです。
でも、でも、余りにも規模が大きく、余りにも深く、余りにも重たい・・・。ぼくが云々書けるレベルではない。全てを失ってしまった人を思えば、ぼくの体験していることなんて微々たるもの・・・そんな風に感じてしまうと、全然言葉が浮かばなくなってしまう。
この『東日本大震災』には、ひとりひとりの『東日本大震災』があったと思う。ひとりひとりがいろんな体験をしているんだ。だから、その立ち居地で感じたこと、わたし自身が体験したことが真実なんだ。20年後、30年後、それを子孫に伝えていくんだ。そう思い返して、『ぼくの東日本大震災』の途中経過を書いてみたいと思います。
≪竹田さんの言葉≫
縁と縁がつながって、奈良から瓦が届きました。その会社、『タケダ』さんのでっかいトラックが事務所に横付けされた時の喜び!!!伝わるでしょうか。その数日後にはかわらぶき職人の植田さんチーム、森田さんチームが8時間かけて龍ヶ崎に到着しました。いよいよ屋根瓦崩落現場の修復が始まりました。
この瓦や職人の段取りをしてくださったのが、前回も紹介した竹田さんです。竹田さんは奈良県の瓦組合の理事長もされている。職人を派遣する時にいつも問題になるのが『手間賃』です。平時の1.5倍の賃金となるのが常です。でも今回は震災なんです。そのことにぼくも違和感を感じていたし、竹田さんも同じだった。そして今回来てくれた職人さん方にもそのことを伝えてくれた。『君ら、組合で出向となれば1.5倍の手間賃になるけれど、きたざわのところはいつもと同じ。それでも行くか?』と。彼らは快諾してくれたんです。その時に竹田さんが言った言葉。
『このままでは日本の瓦がなくなってしまう。ましてこんな時に1.5倍も2倍も手間賃上げて経費もかけてやっとったらなお更のことや。君らきたざわの現場のために行くんじゃない。日本の瓦のために行くんや』
このお話しを聞いた時、ぼくは身震いしました。
≪工事が完了したO様≫
O様のお家を新築させていただいたのは、今から26年前。その後も年末アフターサービスや日頃のメンテナンスでずーっとお付き合いしてきました。昨年ご主人を亡くされ、ひとり暮らしをされているところに今回の震災です。子供たち家族は釜石に住んでおり、甚大な被害を被ったために龍ヶ崎に来ることはできません。屋根瓦が崩落し、ひとり暮らしの夜に余震の連続。恐くてお風呂に入れない毎日が続いていました。とにかく早く修復してあげたい!!
そのO様のお家、奈良のかわらぶき職人の手によって、地域では一番に復旧されました。その時にO様、目に涙を浮かべてこんなことをおっしゃってくださいました。
『きたざわさん、あたしはもうこんなおばあちゃんになっちゃいましたけどね、しんせつにしてくださって、、、、、ありがとう。きたざわさんのおとうさんのじだいから、、、26年間おつきあいしてきて、ほんとうによかった・・・・』
ぼくの存在を必要としてくれている人が、いる。
≪父の姿≫
今回の震災で屋根瓦が崩落してしまったのは、ほとんどが父の時代の建物で20年以上前の建物です。今回の震災で無残な姿となってしまった自分が作ってきた家の数々を、父はどれほどのやるせない気持ちで見つめていたことか。特に地元での信頼が厚かった父は、軒並み崩れてしまったことに自責の念を抱いているかのようでした。
その中の一軒K様邸(築30年)は、父の父、ぼくにとってはお爺ちゃんの時代から縁があるお家です。今は二人暮らしのお家、やはり棟瓦が全部崩落してしまいました。
連日瓦の養生に飛びまわっていたぼくたちですが、まだK様邸まではまわる事ができなかったときのこと。75歳になる父が地下足袋を履き、屋根に上って作業をしてくれていたのです・・・。
危なっかしいったらありゃしない!と思う反面、ぼくはその姿に、感動しました。『自分の娘に振り袖を着せたような家づくり』をカラダで教えてくれたんです。屋根やさんが来れないから仕方ないじゃないか、風が吹いたんだからシートが飛んじゃってもしょうがないじゃないか、余震がすごいんだから屋根なんて危なくて上れないよ、瓦が崩れたって仕方ないよ。そんな言い訳はいくらでもある。
でもこの家、自分が作った人生の足跡なんだ。人生そのものなんだ。そのくらいの気持ちでつくった家なんだ。そしてその屋根の下には不安で不安で眠れないお客様がいる。自分にできることを、なんとかして、なんとかしてやるんだ。。。屋根上地下足袋姿の75歳のおやじ。すごいね。
≪稲川さんとあんちゃん≫
3月11日の震災の翌日朝早く携帯電話が鳴りました。いつもセルロースファイバーの断熱工事や竣工時の完成クリーニングをお願いしている稲川さんです。
『しゃちょう、わたしねー考えたんですけど・・・こんな大変な時にね、、、、仕事やってる場合じゃないよねーーー。わたしにできることがあると思うんですけど・・・とりあえずこれからそっちに行きますから、、、、シート掛けでも何でも手伝わせてください。。。』
それから2日間、稲川さんはまるきりボランティアで馴れない屋根に上り、一所懸命シート掛けをしてくれました。ほんとうに頭が下がります。
ぼくには学校の教員を務める兄貴がいます。いまでも『あんちゃん』って言って慕っています。そのあんちゃん震災後自宅待機となり、土日も重なった。『おさむ、手伝うから』って言ってくれたんです。延べ4日間も!!!、骨身惜しまずまるで瓦職人のごとく働いてくれた。すごいなぁ、ほんと。
こんな時にその人の真価が現れるんですね。順風の時、立派なことを言うことは誰でもできる。美しい立ち居振る舞いをすることは誰でもできるんだ。困難に直面しときにその人の真価が問われる。研修で学んだことをそのまま娑婆で体験しています。
この震災で、むちゃくちゃ嫌な体験、悔しい体験をしました。むちゃくちゃうれしい体験、感動の体験をしました。毎日のように涙を流しました。その様子を毎日ブログに書き込んでいますので、よろしかったらご覧ください。『おさむのブログ』で検索してください。
まだまだ震災復旧は始まったばかり。こんな時こそ力を合わせ、一緒に乗り越えて行きましょう!!!更に素晴らしい世界が必ずある。