修復作業がどんどん進んでいるころのおさむのひとりごと8月号です。いやーーーーでもこのころは、ほんとうに暑かった。というか熱かった。かわらぶき職人のみなさんの汗だくな姿を想い出します。
おさむのひとりごと 2011-8
つい先日7月号の『ひとりごと』を書いたと思ったら、もう8月号の要請。ほんとに時間が経つのは早い。2011年としてみても3分の2が過ぎようとしているわけですからね。暑い暑い、と言ってみてもあと一ヶ月もすればお彼岸、秋です。いかがお過ごしですか。
3月11日から毎日毎日屋根の上のわたし。今月号もその震災のお話を書くようになっちゃうのかなぁ、、、、と案じていたら、ちょびっと楽しいトピックスが浮かんできました。震災による屋根工事で出会った北越瓦工業の板垣社長との出会いです。
先月号でご紹介した新潟の友人あきちゃんの尽力によってご縁がつながった北越瓦工業さん。早速7月10日より社長共々3名のかわらぶき職人が龍ヶ崎に乗り込んでくださいました。日曜日のこの日、長旅ながらお昼ごろに着くと直ぐ様 『現場に行きましょうか!』と板垣さん。
一日二日で新潟に帰られるのかと思いきや、板垣さん自ら屋根に上り、水曜日まで重量級の現場を陣頭指揮してくださいました。むっちゃくちゃ暑い、というかあっちっちに熱い屋根の上、楽をしようと思えばいくらでもできるものを・・・・。屋根の上から眺めるブルーシートの屋根の連なりを見て、『いや~、思っていた以上ですわなぁ。メドが立つまでは帰れませんわなぁ』そのリーダーシップに感動すら覚えたのでした。
帰省日の水曜日、新潟まで2tダンプで板垣さんお一人で帰るというので、龍ケ崎市発行の被災証明を使ってわたしも同行することになりました。高速代金が無料になりますからね。
その車中が実に楽しかった!!!漫才道中というか、なんというか。あっという間に新潟に着いたって感じです。ぼくは板垣さんの人柄にすっかり包まれてしまいました。
実は北越瓦工業さんのある新潟県村上市は、ぼくにとって忘れ難い場所なんです。ガタンガタン揺れるダンプを運転しながら、ぼくの記憶は23年前にさかのぼっていました。。。。21歳の頃のおさむです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
20歳の時に那覇から北海道宗谷岬まで日本縦断徒歩旅行を完歩し、『生きる意味』をはっきりと手にしたわたし。でも日々の暮らしはそうカンタンではなかった。バブル絶頂のこの頃、カネに狂った社会に背を向けるような悶々とする日々は続いた。荒れた暮らしを続けていたときふと、『縦断したんだから、横断もやってみようかなぁ』と思いついた。バブルの学生はヒマでしたから、早速実行計画。
総予算1万円、主食パンの耳。外泊しない、外食しない、車に乗らないは縦断の時と同じ。で大洗から・・・んんと、このルートを通って、、、そうだなぁ、、、、新潟の村上まで行ってみよかぁ。だいたい450km。2週間くらいかな。そうだ、せっかくだから大洗の太平洋の海水を村上の日本海に混ぜてみよう!!何か起こるかも!!!
電車を乗り継いで大洗に到着。いよいよ始まる。一升瓶に太平洋の海水を詰め込み(いや実はこれが予想以上に大変だったんです。波で衣服がビシャビシャ!(笑))そして、てくてくと歩き始めました。
てくてくてくてく、、、、ただただ荷物を背負って歩くだけ。でもそんなくだらないことなんですけど、ぼくのこころの中は自由だった。バブルも人間関係も無縁だった。
2週間後、たくさんのご縁やエピソードに支えられ、新潟県村上市の日本海の広がる砂浜に到着。そして、荷物の中に鎮座していた太平洋の海水の一升瓶を万感の思いで取り出し、、、栓を開け、、、逆さに・・・・・。ドクドクドクと日本海に流れ落ちる太平洋の海水・・・・・・!!!
ぼくの日本横断徒歩旅行は完了しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ガタンガタンガタンと揺れるダンプの中。狭い車内で4時間以上もご一緒ですから、板垣さんとぼくはもう旧知の仲のような感覚でした。そしてぼくにとってかけがえのない村上市とのご縁のこの日本横断徒歩旅行のお話などして、車内は絶好調なほど大盛り上がり!!!
で、その時の板垣さんの反応がすごかったんです。ぼくはこれまでにもこの旅行のお話をしてきましたが、板垣さんのような反応は初めてでした。先輩の板垣さんに若造のぼくが言うのもなんですが、ぼく以上に感性がずば抜けて素晴らしい!!!それはこんな言葉に代表されます。
『いやー、太平洋の海水を日本海に混ぜるなんて、そんなバカげたことをやる人の話は初めて聞いたべさ。そいでもその、なんつーかなぁ、日本海もたまげたべなぁ。「うわ、うわっ!何事だ!!」みたいな、「おいおまえ、どこのモンだ!!」みたいな。「うわ、こいつら太平洋の連中だ!」みたいな、、、、(爆笑)』
まるで当事者なんです。
板垣さんの感性って、思い出すといつもそうなのかもしれません。支援の要請のため初めて新潟の会社にお邪魔させていただいた時のこと、崩れた屋根瓦の写真を見て『これじゃぁ瓦がかわいそうだ・・・』『なんとかしてやらねばなぁ・・・』アタマで考えたら、こんな言葉でてきませんよね。打算の方では絶対に出てこない言葉だと思う。
リーダーがこういう方ですから、職人のみなさんも素晴らしい。とにかく現場が明るい。人間ですから全部が全部ではないと思いますし、きっとうまくいかないこともあると思うのですが、それにしてもリーダーの創る社風というか雰囲気がこれほど見事に現場に現れている会社さんも少ないのではないかと思う。
この震災がなかったら出会うことのなかった板垣さん。震災復興後もずーーっとお付き合いさせていただきたいな。行徳先生の言われる、まさに『余韻を感じさせる人』だから。
酷暑に放射能に不安定な政局に・・・・だれもが『いったいどうなっちゃうの!?!?』の今日、考えることも大切だけれど、感じることを意識した毎日を送りたいと思います。そして一日も早く、崩れた屋根を治します。
おさむのひとりごと 2011-8
つい先日7月号の『ひとりごと』を書いたと思ったら、もう8月号の要請。ほんとに時間が経つのは早い。2011年としてみても3分の2が過ぎようとしているわけですからね。暑い暑い、と言ってみてもあと一ヶ月もすればお彼岸、秋です。いかがお過ごしですか。
3月11日から毎日毎日屋根の上のわたし。今月号もその震災のお話を書くようになっちゃうのかなぁ、、、、と案じていたら、ちょびっと楽しいトピックスが浮かんできました。震災による屋根工事で出会った北越瓦工業の板垣社長との出会いです。
先月号でご紹介した新潟の友人あきちゃんの尽力によってご縁がつながった北越瓦工業さん。早速7月10日より社長共々3名のかわらぶき職人が龍ヶ崎に乗り込んでくださいました。日曜日のこの日、長旅ながらお昼ごろに着くと直ぐ様 『現場に行きましょうか!』と板垣さん。
一日二日で新潟に帰られるのかと思いきや、板垣さん自ら屋根に上り、水曜日まで重量級の現場を陣頭指揮してくださいました。むっちゃくちゃ暑い、というかあっちっちに熱い屋根の上、楽をしようと思えばいくらでもできるものを・・・・。屋根の上から眺めるブルーシートの屋根の連なりを見て、『いや~、思っていた以上ですわなぁ。メドが立つまでは帰れませんわなぁ』そのリーダーシップに感動すら覚えたのでした。
帰省日の水曜日、新潟まで2tダンプで板垣さんお一人で帰るというので、龍ケ崎市発行の被災証明を使ってわたしも同行することになりました。高速代金が無料になりますからね。
その車中が実に楽しかった!!!漫才道中というか、なんというか。あっという間に新潟に着いたって感じです。ぼくは板垣さんの人柄にすっかり包まれてしまいました。
実は北越瓦工業さんのある新潟県村上市は、ぼくにとって忘れ難い場所なんです。ガタンガタン揺れるダンプを運転しながら、ぼくの記憶は23年前にさかのぼっていました。。。。21歳の頃のおさむです。
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20歳の時に那覇から北海道宗谷岬まで日本縦断徒歩旅行を完歩し、『生きる意味』をはっきりと手にしたわたし。でも日々の暮らしはそうカンタンではなかった。バブル絶頂のこの頃、カネに狂った社会に背を向けるような悶々とする日々は続いた。荒れた暮らしを続けていたときふと、『縦断したんだから、横断もやってみようかなぁ』と思いついた。バブルの学生はヒマでしたから、早速実行計画。
総予算1万円、主食パンの耳。外泊しない、外食しない、車に乗らないは縦断の時と同じ。で大洗から・・・んんと、このルートを通って、、、そうだなぁ、、、、新潟の村上まで行ってみよかぁ。だいたい450km。2週間くらいかな。そうだ、せっかくだから大洗の太平洋の海水を村上の日本海に混ぜてみよう!!何か起こるかも!!!
電車を乗り継いで大洗に到着。いよいよ始まる。一升瓶に太平洋の海水を詰め込み(いや実はこれが予想以上に大変だったんです。波で衣服がビシャビシャ!(笑))そして、てくてくと歩き始めました。
てくてくてくてく、、、、ただただ荷物を背負って歩くだけ。でもそんなくだらないことなんですけど、ぼくのこころの中は自由だった。バブルも人間関係も無縁だった。
2週間後、たくさんのご縁やエピソードに支えられ、新潟県村上市の日本海の広がる砂浜に到着。そして、荷物の中に鎮座していた太平洋の海水の一升瓶を万感の思いで取り出し、、、栓を開け、、、逆さに・・・・・。ドクドクドクと日本海に流れ落ちる太平洋の海水・・・・・・!!!
ぼくの日本横断徒歩旅行は完了しました。
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ガタンガタンガタンと揺れるダンプの中。狭い車内で4時間以上もご一緒ですから、板垣さんとぼくはもう旧知の仲のような感覚でした。そしてぼくにとってかけがえのない村上市とのご縁のこの日本横断徒歩旅行のお話などして、車内は絶好調なほど大盛り上がり!!!
で、その時の板垣さんの反応がすごかったんです。ぼくはこれまでにもこの旅行のお話をしてきましたが、板垣さんのような反応は初めてでした。先輩の板垣さんに若造のぼくが言うのもなんですが、ぼく以上に感性がずば抜けて素晴らしい!!!それはこんな言葉に代表されます。
『いやー、太平洋の海水を日本海に混ぜるなんて、そんなバカげたことをやる人の話は初めて聞いたべさ。そいでもその、なんつーかなぁ、日本海もたまげたべなぁ。「うわ、うわっ!何事だ!!」みたいな、「おいおまえ、どこのモンだ!!」みたいな。「うわ、こいつら太平洋の連中だ!」みたいな、、、、(爆笑)』
まるで当事者なんです。
板垣さんの感性って、思い出すといつもそうなのかもしれません。支援の要請のため初めて新潟の会社にお邪魔させていただいた時のこと、崩れた屋根瓦の写真を見て『これじゃぁ瓦がかわいそうだ・・・』『なんとかしてやらねばなぁ・・・』アタマで考えたら、こんな言葉でてきませんよね。打算の方では絶対に出てこない言葉だと思う。
リーダーがこういう方ですから、職人のみなさんも素晴らしい。とにかく現場が明るい。人間ですから全部が全部ではないと思いますし、きっとうまくいかないこともあると思うのですが、それにしてもリーダーの創る社風というか雰囲気がこれほど見事に現場に現れている会社さんも少ないのではないかと思う。
この震災がなかったら出会うことのなかった板垣さん。震災復興後もずーーっとお付き合いさせていただきたいな。行徳先生の言われる、まさに『余韻を感じさせる人』だから。
酷暑に放射能に不安定な政局に・・・・だれもが『いったいどうなっちゃうの!?!?』の今日、考えることも大切だけれど、感じることを意識した毎日を送りたいと思います。そして一日も早く、崩れた屋根を治します。