ヤドカリの 殻を自慢の オロカ者

2000年04月20日 | 自転車ぐらし
 交通規則ないし公衆道徳について。あるいは市民社会における「掟破り」ないし「ならず者」の存在について。

 昨日,自転車で駅前近くの通りを走っているとき,対向車が私の直前で方向指示器も点けず急に右折した。咄嗟にあわてて急ブレーキをかけ,キキキーッと車輪を横滑りさせながら相手の車のほんど1m手前で停止したが,何とか転倒だけはまぬがれた。私の左側にはパチンコ屋の立体駐車場があったのだ。それにしても当方は普通に直進しているのだし,曲がりたいんだったらウインカーで知らせるのが当然のルールではないか。

 ムッとした顔で相手のドライバーを見ると,先方も同じくムッとした顔で当方を睨み返した。よくよく見れば,ダークグレーの背広を着た50代の眼光鋭いパンチ・パーマである。おまけにクルマはベンツ(旧タイプのSクラス)である。その姿かたちからして「善良な一般市民」であるとはとても思われない。一方こちらのいでたちときたら,ウインドブレーカーを着込みデイパックを背負いマウンテンバイクに乗っている小柄な老人(ノヨウナモノ)。これはどうしても当方に圧倒的に分が悪い。で,それ以上の意思表示はせず,そのまま脇をすり抜けてソソクサとその場から立ち去った。

 さて,上記の出来事において私のとった態度は「不甲斐ない」「ナサケナイ」との誹りを受けるに値するだろうか。怒鳴りつけるなんてのはまずもって無理としても,少なくとも一言穏やかに注意くらいはすべきであったろうか。後々のために相手の車のナンバーくらいは覚えておくべきだったろうか。あるいは,これがパンチパーマ・ベンツではなく,金髪ヤンキー・シャコタンだったら,どんな対応になっただろうか。我ながらどうにも心許ない。

 一般に,市民生活における個々人間の様々な軋轢,それらが特に現れやすいのは道路交通に係る場合であると思われる。すなわち「クルマ対クルマ」における対立的構図である。より正確に言えば「強いクルマ」対「弱いクルマ」の共存・拮抗関係の破綻である。それらはしばしば相互に強い不快感・不信感を生じさせ,時には悲劇的な不幸さえをも生む(「クルマ対ヒト」という図式については,そのような緊張関係はハナから成立しえない)。

 大型車に乗っているのもニンゲンなら,バイクに乗っているのも同じニンゲン,なんてユメユメ思ってはならない。殻長5cmを超える大型ヤドカリは殻長3cmにも満たない小型のヤドカリに対して常に優位性を保持する。クルマという貝殻を背負ったとたん,ヒトはその貝殻の大きさ立派さ強靱さイコール自らの全人格であると錯覚してしまうのだ。「ドライバーのモラル」なんて共通概念はしょせん絵に描いた餅でしかない。新聞やTVなどで,自転車に乗った幼いコドモがクルマにはねられたといったニュースを見聞するたびに,あぁまた愚かな巨大ヤドカリ奴が!と溜息まじりに思わざるを得ない。この点,ワタクシはすこぶる悲観論者である(むろん,ニンゲンとしての個々人のモラルの確立というものは,それとは別の重要なテーマなのであるが)。

 このような状況を克服するためには,結局のところ公的権力の介入しか手だてはないような気がする。道路整備計画の抜本的見直し,道路交通法の改正,さらには運輸税制の改正をも視野に入れた強者制裁,弱者救済である。すなわち,クルマに乗るということは,それだけの覚悟がいるってわけだ。

 当座の現実的な対応として,いまさら言うまでもないことだが,道路交通諸問題における「警察」ないし「官憲」の果たす役割がすこぶる重要であろう。警察は道路交通上の「予防的取り締まり」を現在以上に強化すべきである(ノルマ稼ぎのネズミ捕りやミニパト・チョークのことではありませんぜ)。そして「掟破り」を行う「ならず者」に対しては,常に厳罰をもって臨むべきである(自動車産業からのカウンターなどを恐れてはならない)。何たってケーサツは善良な市民の味方なわけですからね。特に我らがカナガワ・ケンケーなんかはね(んな筈ないってか?)。

 何やら慎太郎的な品のない言辞になってきたが,それはそれで御愛敬。ともかく昨今,クルマという「野蛮機械」をあまりに「人格化(神格化?)」しすぎる風潮があるようなので,ついついブツブツ申し述べてしまった次第である。それにしても,クルマはオッカナイ!
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