買い物女王または物欲番長をめぐる与太話(その3)

2000年05月01日 | 歌っているのは?
 曙町の「のぼる靴店」でチロリアン・シューズを購入した時代からさらに遡って1960年代の後半,京浜工業地帯の片隅でオチコボレ高校生をやっている頃に,オリベッティの英文タイプライタを購入した。当時は川崎市のほぼ中心地区,川崎市役所の裏手一帯に広がる堀之内歓楽街(知る人ぞ知る)からさほど遠からぬ場所に居住していた。それで,もう名前も忘れてしまったけれど,市役所のすぐ隣りにあった大きな事務用品店が文房具類を時々買いにゆく馴染みの店になっていた。その頃から私には,いわゆるステーショナリー・フリークの傾向が多分にあったようで,これといった買い物をする用事がない時でも,折りあるごとにその店のショーウインドーの前でしばし立ち止まっては,ガラス越しに鎮座まします高価な事務機器の数々を目を輝かせて眩しげに,あるいは物欲しげに眺めていたものだ。それは恐らく,最新のビジネス・マシン群に代表される西欧風ワーキング・スタイルというものが,近い将来必ずや私達日本にとっての正しかるべき社会を切り開いてゆく原動力となり,ひいてはそれらのマシンのひとつひとつが輝ける明日の象徴となるに違いない,などと,未だ社会の仕組みなんぞ碌々知りもしないくせして,未熟なティーンエージャーのアタマでそんな風に妄想を膨らませていたからだ。無論,パーソナル・コンピュータなどという言葉は未だ現実とはほど遠く,ようやくカシオのパーソナル電卓(答え一発!カシオ・ミニ)が市場に現れた頃の話ゆえ,ビジネス・マシンといってもレジスタやドラフタ,機能的で洒落たスチール什器製品,そして何よりもまずタイプライタなどが当面の憧憬対象であった。

 しかしながら翻って現実社会を眺むれば,その時代は未だ「ソロバン」に代表される旧来の経理・経営スタイルが実務の主流であった。そのため,子供らの習い事として全盛を極めていた「ソロバン塾」に通うことを兄弟のなかで唯一拒否した私は,学校教育における算数・数学は比較的得意科目であったにもかかわらず,その先に控える実社会においては畢竟「役立たず」の烙印を押されるであろうことが約束されているものと自覚していた。要するに,幼な心にも「社会参加」に対して引け目を感じていたわけです。さればこそ,たとえ今は高嶺の花,猫に小判であろうとも,タイプライタに代表される最新ビジネス・マシンというものが,近未来において自分を「先導」し「救済」してくれる有力な武器となるに違いないことを信じてゆくしかない,と愚かにもまた愚かにも考えたところで,それはそれで無理はなかろうというものであった。

 何やら随分と回りくどい言い方になってしまったが,ともあれ,そのような「ショーウィンドー詣で」を繰り返しているうちに,何故だか急に英文タイプライタというものを無性に欲しくなったのだ。そして,その切実な願いを実現するためには,具体的に自分はどのような手続きのもとにどのようなアクションをとればよいのかを真剣に考えはじめた。

 その頃の我が家は世間水準をやや下回る(?)程度のビンボー家庭であったゆえ,親から小遣いなどはほとんど貰っていなかった。もっとも,1960年代の日本社会は全体的に見ればまだまだビンボー主流であり,ビンボーという暮らしを人々が何ら恥じることのない,ある意味では幸福な時代であったと思う。で,日本育英会の奨学金(毎月3,000円)が勉強・遊興を問わず私が日常的にほぼ自由に使えるお金であった(実際には学費と本で大部分が消えていたと思うが)。しかし上記の目標を設定した以降は,その毎月の奨学金はできるだけ使わずしっかりと懐中に貯め込むようになりましたですね。現在の自分からは想像も出来ない殊勝な心掛けである。

 加えて,今にして思えば随分奇妙な話なのだが,中学校の警備員のアルバイトなどを時々やって小金を稼いでいた。これは出身校の教頭から直々に頼まれた仕事で,毎週末,土曜の午後もしくは日曜日の昼間,母校である中学校の職員室ないし宿直室に詰めて,留守番,電話番,訪問者への応対,校内の見回り等々をこなすことがその仕事内容であった。正式な資格は市の臨時雇員だったのかな。だいたい昼間は高校生の私,夜は慶応義塾の大学生が分担してその職務を遂行していた。仕事自体は大変気楽なもので,それなりに結構な収入になりました。加えて時折,日曜の昼間なんか退屈だろうと私の身を案じた教師が寿司だのビールだのの差し入れを持ってやってきたり,あるいは逆に,土曜の夜に教師同士が宿直室で行うマージャンのメンツが不足しているからといって当方が無理矢理引っぱり込まれたり,さらには,ムシ暑い夏の宵など,学校前の公園でイチャついているアベックがいることを御丁寧にも教えにきてくれた体育教師といっしょに塀の隙間からノゾキ見なんかもしたりして(もう,とうに時効になっているでしょうな)。ま,かくのごとき中学校教員の実態,人間的なあまりに人間的なウラオモテを知ったこともそれなりの勉強になった。もっとも約半年後,未成年者が学校警備員をやってはマズイということで問題になり,あっさりとクビになってしまったが。

 そのようにして得られた現金収入を少しづつ貯め込み,やがて時至りてエイヤッ!と購入したのがオリベッティのタイプライタである。その頃は確か「レッテラ・ブラック」という機種がオシャレでハヤリ筋であったと記憶している。ただし,それは私にとって価格が少々高かったのでちょっと手が出ず,一番安いヤツ(もう機種名も忘れてしまった。「レッテラ32」だったかな?)を購入した。もちろん手動タイプライタであるが,それでも2万円近くはしたと思う。

 それにつけても,先に示した「将来性」などは必ずしも即「自己所有」とは結びつかないわけで,それほどまでに強い所有欲を生じさせた第一の理由は何だったか? 英文タイプライタというモノのどのような要素どのような側面に自分は惹かれ,それを手に入れたいと切に望むようになったのだろうか? 今になって振り返れば判然としないところも多い。あえていくつかの理由を探してみれば,ひとつには,その頃友人の家に遊びに行った時,ミッションスクールに通っていた友人の姉さんがタイプライタを打っている姿を垣間見て,その真剣な仕草に何とも言えず眩しい知的美しさ,言い換えれば「トキメキ」を感じたこと。またひとつには,高校の同じクラスの某不良少年が,ある日突然,教室にタイプライタを持参して来て,得意げにビートルズの詩などをタイプしている様子をすぐ隣の席で「ウラヤミ」半分で呆気にとられて眺めていたこと。そういった比較的身近な人々の行為が重要なファクターになっていたように思う。するってぇと何か,自分にとってタイプライタとは単なる毛色の変わったオシャレ・アイテムだったってわけか(何ともまたナサケナイ理由だ)。

 苦し紛れの理由付けはさておいて,ともあれ念願かなってタイプライタを入手すると,同時に英文タイプ教則本を買ってきて,さっそくffff jjjj ffff jjjjなどの基礎の基礎から練習を開始した。毎日毎日,独りきりのレッスンを飽きもせずに繰り返した。経験した人は判るだろうが,手動タイプライタは電動タイプライタと違って,ともすればキー・ストロークの強弱による濃淡の違いが出がちである。それを補うために,人差し指や中指に比べてやや非力である小指や薬指などに必要以上に力を入れて打鍵してしまう傾向になる。その結果,レッスンが佳境に入ってくると,まさに「マシンガンのごとき」という形容が相応しいダイナミックなタイピングの様相を呈してくるわけで,狭い家の中が町工場のような騒音に包まれることがしばしばであった。

 ところで,ここがカンジンなのであるが,ある程度打てるようになってから後,自分はそのタイプライタをどのように利用し,何に使っていたのだろうか。具体的にはどんな文章を打っていたのだろうか。それを考えると何とも心許ない気がする。実際の所,タイプしなくてはならないモノなど当時の私はほとんど持ち合わせていなかったような気がする。しょうがないから,例えばサマセット・モームの『人間の絆』の気に入ったフレーズをペーパー・バックスから引っぱり出してはタイプしたりしていた。あとで1部限定の簡単な冊子を作ったりして。そうそう,もう少し後には『私家版ジャック・ブレルJacques Brel詩集』なんぞを作ったこともありましたっけ(あら恥ずかしい。けど懐かしい)。例えば《平野の国》とか《瀕死の男》とか,あるいは《私は知らない》とかのお気に入りの歌をタイプして一冊の本とするわけで。おまけに,キッチリと仏語対応とすべく御丁寧にもアクサンとかセディーユとかの活字をわざわざ交換したりまでしてね(ああ何たるオママゴト!)


  私は知らない。何故,雨が
  ぼくたちの丘をおおい隠す 重い灰色の雲から
  あの美しいキラメキをもたらすのか
  私は知らない。何故,風が
  冬の鐘の音のような子供たちの笑いを運び去ろうと
  明るい朝の中で歌っているのか
  私はそれらを何も知らない
  けれどまだ お前を愛している

  私は知らない。何故,道が
  ポプラ並木に沿って 混乱する寒さの香りを漂わせ
  私を町へと向わせるのか
  私は知らない。何故,霧氷のヴェールが
  死んでしまった愛のために祈る教会のことを
  私に思い起こさせるのか
  私はそれらを何も知らない
  けれどまだ お前を愛している


 さらに付け加えれば,当時,手提げのタイプライタ・ケースを持ってときおり街中を往来するといった行為自体に密かな優越感を抱いていた自分がいたこともまた正直に白状しなければならない。別に英語が得意なわけでも,ECCに入っていたわけでも,ましてや外遊の予定があったわけでもないのに英文タイプに夢中になっていたオチコボレ高校生という存在。要はアレですな。バイオリン・ケースを小脇に抱えて足早に道を急ぐ品の良さそうな少年,あのような人種に対するせめてもの対抗心ですかな。というか,深層心理的には「聖なる連帯感」といった類ですかな。結果として,他人から見れば単なるキザな奴,自己満足少年に映じただけって訳だろうけれど。若年期の拭い去ることのできない汚点である。


  私は知らない。何故,町が
  雨の中を弱々しく愛に向かって歩く私に対して
  その郊外の城門を開くのか
  私は知らない。何故,人々が
  私の悲しみを祝福し葬式に従おうと
  窓ガラスに顔を押しつけているのか
  私はそれらを何も知らない
  けれどまだ お前を愛している

  私は知らない。何故,通りが   
  月の光とともに歩む 無垢で寒々しくむき出しの
  私の行方を導き 語りかけてくるのか
  私は知らない。何故,夜が
  ギタ-のように私の心を奏で そして
  ひとり泣くために この駅の前へと私を来させたのか
  私はそれらを 何も知らない
  けれどまだ お前を愛している


 それでも,当時習得したブラインド・タッチが,現在の仕事に少なからず役立っていることは否定できない。それが唯一の救いといえば救いである。二十歳の頃には60WPM(1分間に300ストローク)くらいは十分こなせたと思うが,今ではさすがに指先が言うことを聞いてくれず,性急にキーボードを叩いていると手元が綻びることしばしばである。また一方,最近では眼精疲労の進行著しく,作業をしながらPCのモニタをずっと見続けることがかなり億劫になっている。それで,ある程度まとまった文を書くときなどは,大体のところ「目をつむって」タラタラ・タラタラとキーボードを叩き続けている(まさにブラインド・タッチそのもの)。従って,少し後に改めて作成した文章を見直してみると,とんでもない誤変換が所々に散見する。それを直すことがまた文章の推敲にもなるわけで,このような文章作成スタイルは結構気に入っている。

 いやいや,仕事の話なんかじゃなかった。モノにまつわる話であった。

 あの時のオリベッティのタイプライタが私の手元から消えて既に久しい。約10年間苦楽を共にし,言ってみれば同志のようにいつも傍らにいる存在だった。けれどその後,20代の中頃に電動タイプライタを購入してからは,ほとんど使われることもなく押入の奥の方に仕舞われたままとなってしまった。それでも決して「不燃ゴミ」などには出さなかった。そんなことは出来やしない。確か後年,身近の誰かに譲ったように思うが,それが何処の誰であったかは今となっては全く思い出せない。ヒドイ話だ。かすかに記憶の底に残っているものといえば,あの手動タイプライタ独特のキータッチ,「Q」や「1」を打つときのぎこちない仕草,ストロークミスをしたときのカチャカチャいう活字の絡まる音,そんな事柄ばかりである。

 モノにまつわる悲しみ。モノを愛し,モノを捨てる悲しみ。それは多分,南太平洋の小島で孤独な40代を過ごしたジャック・ブレルの心情にも通じるところがあるように思う(本当か?)


  私は知らない お前とぼくが今夜乗るはずだった
  アムステルダム行きの この悲しい汽車は
  いったい何時に無人の駅を出てゆくのか
  私は知らない ぼくの心と身体 ぼくたちの愛と未来
  それらを引き裂こうと どんな世界に向けて
  その大きな船は アムステルダムの港を離れてゆくのか
  私はそれらを 何も知らない
  けれどまだ お前を愛している.....

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