標題(その4)を久しぶりに書き記す。これまでにダウン・ジャケット(1977),チロリアン・シューズ(1971),タイプライタ(1966)という具合に現在から過去へと時代を辿っていったが,今度は逆に時間を少し遡ってみる。
1970年代の後半に電動タイプライタを購入した(丸井自由が丘店で,10回クレジットにて)。購入を決意するに至った理由の半分は,ビジネス(生物分類のデータ整理)及びプライベート(趣味的創作活動)の双方において横文字の清書をする必要がしばしば発生したため。もう半分は,さる国立研究機関において電動タイプライタを一寸使わせてもらった折り,連続的に行う多量の打鍵がすこぶる楽チンであったこと,かつ出力が非常に美しいことに魅せられたためである。特に,約10年間苦労して手動タイプライタを打ち続けてきた身には電動タイプライタのあまりに「軽やか過ぎる」キータッチに少々ムズガユイような,戸惑いにも似た快感を覚えたものだ。ただし懐具合と相談した結果,購入したのはブラザー製の安物である。
そして,それが80年代以降現在に至るまで怒濤のように連綿と続いてゆくことになる我が嵐のOA遍歴の第二の始まりといってもいい。タイプライタという製品自体について申せば,とりわけビジネス&スタディの世界においては,それから程なくして「パソコン+プリンタ」という形式が急速に普及してゆくのと相反して完全に駆逐されてしまい,いまでは恐らく「骨薫品」としての存在意義しか残ってはいまい。そしてアンチークであるからには電動タイプライタよりも手動タイプライタの方がマテリアルとしての価値・評価は一層高く見積もられようってものだ。その後私の所有するブラザー電動タイプライタが辿った悲しい末路は,当の本人を含め残念ながら誰も知らない。というか思い出したくもない!
そんなわけで話はあっさりとパソコン方面にシフトする。
私自身がパソコンなるものを初めて所有したのは1981年のことで,当時は「マイコン」あるいは「パーコン」といった名称の方が一般的であったように思う。「パーソナル・コンピュータ」を略して「パソコン」などという言い方は絶対にオカシイ!と主張してその新造語を断固拒否するマニア連中も少なくなかった。よく考えてみれば全くそのとおりで,それだったらウチのアキラのように「パショコン」とでも言った方が耳障りも良いし,よっぽどマシではないかな。
それはさておき,私の選んだ機種はNECのPC-6001であった。武田鉄也がCMをやっていたんだっけ?(苦笑)。客観的かつ冷静に判断すれば,単なるコンピュータの初歩的原理を学ぶためのトレーニング・マシン。その必要性を一向に認めない私のような者(もちろん無知・無縁という意味で)にとっては,全くもって単に新奇かつ高価なるオモチャでしかなかった。モニタは家庭用TVで代用し,記憶媒体はカセットテープ(ハードディスクはおろか,フロッピーディスクすらなかったのだよ!)。無論まともなアプリケーション・ソフトなどもあろうはずがなかった。それで,マイコン雑誌の記事として掲載されていた主としてゲーム関係のベーシック・プログラムを必死こいて入力したりしていた。全行を入力し終わってからイソイソとプログラムをRUNさせると,あるときは無情にもSN error,またあるときは何やらヘンテコリンな造形的シロモノがモニタ上を蠢いたりして,それらを眺めては一喜一憂するといった具合。今にして思えば,やはりどこかオカシナ生活様式にハマリ込んでしまったように思う。まさに若気の至り,ハヤリ病に真っ先に感染したお調子者そのものであったと思う。
パソコンでワープロ・ソフトを使い始めるのはその翌年,カシオCASIOのFP-1100を購入した1982年頃と記憶している。極めてマイナーな泡沫機種ではあったが,私にとってはNECのPC-6001に比べれば格段に利用価値のあるキカイであった。某アマチュア・ユーザが作った簡単なワープロ・ソフトを動かしたり,あるいは統計処理関係のプログラムを移殖したりして,それなりに公私ともども実用的な道具として結構利用した(実際のところは,私が抱えていた統計計算などデスクトップ・パソコンの手を煩わせずとも関数電卓程度で充分用は足りたのだけれど)。いずれにしても,そこにはパーソナル・コンピュータという文明の利器を積極的に操作することによって時代のフロンティアに追従しようとしている,ある意味では分不相応なまでにイジマシイ自分がいたわけであるが,反面,その新たな道具によって諸々の創作活動に対する意欲が一層かきたてられたこともまた事実である。
ところで,このカシオのパーソナル・コンピュータFP-1100については少なからぬ思い出がある。当時の私は《FP友の会》という名の同好会に所属していた。これはFP-1100というハード最高&ソフト最低であった機種のユーザが集まって設立した会である。発端は大阪方面に在住する数名の同好の士がその目一杯マイナーな境遇(情報の不足,ソフトの貧困)に我慢できずに一念発起して会を立ち上げたのだが,その後徐々に全国的に会員を増やし,盛期には会員500人以上を数えた。
その頃,都内の零細企業に勤めるしがない給与生活者をやっていた私は,ビンボー暇ナシの日々の合間を縫って《FP友の会》東京支部リーダーの役などを努めていた。会の主な活動内容は,月に一度の例会,システムの解析記事等を載せた会報の発行,優秀な会員が作成したオリジナル・プログラムの各会員への回覧配布などで,支部リーダーの仕事といえば,月例会のダンドリ決めや会報・プログラムの配布等を取り仕切るメッセンジャーみたいなものであった。支部の例会は東京駅八重洲口や飯田橋方面で行われることが多かった。年がら年中繁忙期の仕事の最中にあっても,例会の日がやってくると夕方過ぎに一時退社してノコノコと会合へと出掛け,会が終わると再び会社に戻って徹夜仕事を続けたりしたものだった。ナンダカンダ申してもまだまだ若くて体力もそれなりにあった時代の話である。
また,支部リーダーとしての役目のなかで,毎月,東京支部内の各会員に会報及び回覧プログラムを配布する際に,さまざまな事務連絡事項に添えて,余計なことではあるが,私自身の日々感ずるところを勝手なコメントとして書き添えたりしていた。どこぞの雑誌の「編集後記」のようなものであります。それは当時私が抱えていた理不尽なまでの超過密スケジュール仕事に対する一種のアンチテーゼ,低賃金労働者としてのままならぬ生活に対するせめてもの抵抗,というか,束の間の「ガス抜き」のようなものであった。例えば1985年2月号の会報には次のようなコメントが添付されている。
================= ココカラ ====================
(前略) それにつけても月日のたつのは早いもので、あっという間にひと月が過ぎ、またまた大量の巡回ソフトがドーンとめぐってまいりました。どなた様も、先月のソフトは充分に吟味されましたでしょうか。日を追うごとに会員の数も増え、投稿プログラムも増え、まさに前途洋洋、現在の8ビットパーソナル・コンピュータのなかでソフトウエア、ハードウエアの知識が「量的な豊富さにおいて」「質的な多様性において」「利用の容易性において」「そしてまさにその言葉の真の意味におけるパーソナル・ユースとしての有益性という点において」これだけ高度に集積された例は他にちょっとないといっても過言ではないでしょう。
しかし翻って考えますれば、これほどまでにFPに関して情報多過になりますと、少なくとも小生なんぞは、まるで《最後の晩餐に居合わせたユダ》のごとき身持ちについついなってしまう趣、また禁じ得ないところであります。アア、オ腹ガクチイ..... 確かにそれぞれのプログラムは、いずれも会員ひとりひとりが精根こめて作りあげた労作・佳作・快作・怪作に違いありませんでしょう。けれど、私共はそれらに対して敬意を払うことはやぶさかではないにしても(この点は是非とも強調しておかねばなりません)、必ずしも皆に義理立てするあまり、律義にもそれらを全て動かす必要はないのではなかろうかと考えます。むしろ、おつきあいでちょいとRUNして「ハイ、サヨウナラ」するだけなら、それはかえって作者に対して非常な失礼に当たるようにも思います。例えばNEC・PCユーザーにおける大方の不幸は、自らの無知・無能力を棚にあげて、出来合いのソフトをまるで「パソコン批評家」のごとくに論じるところにあることは周知の事実でありますが、私共はそれを他人事として笑えるものでしょうか。もちろんPC'sさん達のその行為自体は、それなりの対価を支払っている限りは当然のことなのですが、ただ、それを言ってしまうと最終的には最も売れ筋の機種を選択するというところに話が落ち着いてしまいますので、ここではその点は不問にしておきましょう。おっと、論旨が混乱してまいりました。何をウダウダ言いたいのかと申しますと、これを要するに、私共が毎月享受している巡回ソフトなんぞは、所詮「テキスト」でしかないのですね。そして、ナマケ学生にとって教科書が不用であるように、FPに係る度合いの少ない者にとっては、巡回ソフトははっきり言って不用物なのです(ナマケが極まれば隠れるもよし去るもよし、それは個々人の主義の問題となります)。もちろんこのような言い方には限定条件が付くのでして、あるジャンルだけに興味があるという者にとっては、Aは月で、B.C.D...はスッポンであるという具合になります。けれど程度の差はあれ、結局のところアマチュアが余暇に趣味で係っているのである限りは、全ての「持ち札」を自らの手の裡に納めることなどとうてい出来っこない(そんなお方はとうの昔にプロフェッショナルに転向しておるに違いありません)。次から次へと目の前に見知らぬソフトの山が築かれてゆくのがオチというものです。そしてその際(ここがポイントなのですが)、本だのレコードだの或いは種々雑多な日常耐久消費材だのと違って巡回ソフトは高々ひと月当りディスク2枚ないしテープ1本ですから、別にそれほど場所塞ぎになるというわけでもありませんでしょう。だったら当座はごく事務的にテキパキと、ラベリングをしてトランク・ルームにでもしっかりしまっておき、「隠し資産」として自らの財産目録に計上しておけば良いようなものです。資産が有効に活用出来るかどうかは、いずれ時至れば明らかになることでしょう。不遜な発言だと非難するなかれ。誤解をおそれずに言わせてもらえば、それはFP友の会会員としての当然の権利でもあるわけです。要は整理の問題なのです。
言葉を変えて繰り返しましょう。《FP友の会》の貴重な資産としてのソフトが不用なのではない、それらのソフトを全て巡回するということが(少ナクトモ現在ノワタクシニトッテハ)不用なのだ、という認識を常にしっかりと持っておくことが、今こそは、そしてこれまで以上に、改めて必要とされる時なのではないでしょうか。そう思えば、毎月の「ソフト地獄」に上手に対処する術もまたおのずから生まれてこようというものです。なまじオイシソウナお菓子を飽食し過ぎると味覚がマヒしてしまい、いずれ何を喰ってもアンコロモチといった状況におちいります。アンコロモチははっきりいって身体に毒であります。どなた様も、くれぐれもお気をつけて(!)
コマーシャル・ベースを離れた純然たる「趣味の」集団に身を置く限り、以上のような問題はどうしても避けて通ることが出来ないと思われるのですが、いかがなものでございましょう。わたくしの好きなシャルル・アズナブール Charles Aznavourの歌に《昔かたぎの恋》というのがありましたが、このタイトルは素直に訳せば「流行にとらわれない楽しみ」となるんじゃなかろうか? 私共は現在のパーソナル・コンピュータをめぐる一種「超常世界」のなかにあって、FPという素敵な「神器」をなかだちとした流行にとらわれない楽しみを今後も大切に育んでゆきたいものと念願しております。
それにしても、しっかりとエラソウナことをラフ・スケッチのままあれこれ申してしまいました。今月は何にも書くことがなかったものですから、ついワープロの手がすべっちまって..... 御座興としてお許し下さい。 (後略)
================= ココマデ ====================
何だか15年前の私の方が現在の自分に比べて数段サービス精神に溢れていたような気がする。韜晦と欺瞞に満ちていることは本来の性格に由来するものゆえ致し方ないが,少なくとも自らの意思ないし主張を他者に正しく伝達するためは少しでも説得力のある文章を,と努めて心掛けていたようには思われる。そのスタイルは,身近な例で言えばインターネットのパーソナルなホームページにおける好ましかるべき正統的文章作法に似通っている(一方的にブツブツ文句をたれるなんてことは決してしない!)。てなことをオモンバカルにつけて,昨今の我が精神のダラク振りはまことにナサケナイものよと,ただただ恥じ入るばかりであります。ま,谷川俊太郎を引用するまでもなく,誰だって年をとりますしネ。
閑話休題。その後のコンピュータ世界における技術革新は,周知のとおり非情なまでに日進月歩いや秒進分歩であり続け,この愛着深いFP-1100も数年もたたぬうちにあっという間に陳腐化してしまった。新しい酒は常に新しい器を必要とする。以後,私のパソコン遍歴は,PC-9801F(NEC) → PC-286(Epson) → PC-386M(Epson) → PC-486GS(Epson) → 466L(Dell) → 486MXV(Dell) → P100PCIPowerStation(Micron) → G6-180(Gateway2000)とさまよい続けた挙げ句,現在のDimensionXPST450(Dell)に至っている。また,それとは別にノート・パソコンについてもPC386NAE(Epson) → SENSPro600(Samsung) → Let'sNote(Panasonic)と彷徨している。現在所有する機種にしたところで最新機種に比べれば性能の点で既にかなり陳腐化しているのは言うまでもなく,彼らの行く末を考えるのは少々ツライところである。
以上がワタクシのOA遍歴,パソコン関係物欲史の変遷であります。パーソナル・コンピュータ創世記と歩を合わせるようにして爾来20年余り,その間には数々の喜びの歌が唄われ,同時にその裏では悔悟と反省とが流れ星の数ほど傍らを横切っていったが,それでも「コンピュータ」は私にとって常に身近でかけがえのない道具として存在し続けた。それが幸せであったのかどうか? その答えは,そうさな,吹きゆく風にでも問うてみるがいい(ワタシは知らん!) ただ少なくとも,私と同様のオロカナ経験を重ねてきた人々,そして現在も同様の境遇をかこっているであろう人々が推定約500人はいるものと思われ,そのことが今の私の人生のココロのササエのひとつにはなっているのだけれども。
1970年代の後半に電動タイプライタを購入した(丸井自由が丘店で,10回クレジットにて)。購入を決意するに至った理由の半分は,ビジネス(生物分類のデータ整理)及びプライベート(趣味的創作活動)の双方において横文字の清書をする必要がしばしば発生したため。もう半分は,さる国立研究機関において電動タイプライタを一寸使わせてもらった折り,連続的に行う多量の打鍵がすこぶる楽チンであったこと,かつ出力が非常に美しいことに魅せられたためである。特に,約10年間苦労して手動タイプライタを打ち続けてきた身には電動タイプライタのあまりに「軽やか過ぎる」キータッチに少々ムズガユイような,戸惑いにも似た快感を覚えたものだ。ただし懐具合と相談した結果,購入したのはブラザー製の安物である。
そして,それが80年代以降現在に至るまで怒濤のように連綿と続いてゆくことになる我が嵐のOA遍歴の第二の始まりといってもいい。タイプライタという製品自体について申せば,とりわけビジネス&スタディの世界においては,それから程なくして「パソコン+プリンタ」という形式が急速に普及してゆくのと相反して完全に駆逐されてしまい,いまでは恐らく「骨薫品」としての存在意義しか残ってはいまい。そしてアンチークであるからには電動タイプライタよりも手動タイプライタの方がマテリアルとしての価値・評価は一層高く見積もられようってものだ。その後私の所有するブラザー電動タイプライタが辿った悲しい末路は,当の本人を含め残念ながら誰も知らない。というか思い出したくもない!
そんなわけで話はあっさりとパソコン方面にシフトする。
私自身がパソコンなるものを初めて所有したのは1981年のことで,当時は「マイコン」あるいは「パーコン」といった名称の方が一般的であったように思う。「パーソナル・コンピュータ」を略して「パソコン」などという言い方は絶対にオカシイ!と主張してその新造語を断固拒否するマニア連中も少なくなかった。よく考えてみれば全くそのとおりで,それだったらウチのアキラのように「パショコン」とでも言った方が耳障りも良いし,よっぽどマシではないかな。
それはさておき,私の選んだ機種はNECのPC-6001であった。武田鉄也がCMをやっていたんだっけ?(苦笑)。客観的かつ冷静に判断すれば,単なるコンピュータの初歩的原理を学ぶためのトレーニング・マシン。その必要性を一向に認めない私のような者(もちろん無知・無縁という意味で)にとっては,全くもって単に新奇かつ高価なるオモチャでしかなかった。モニタは家庭用TVで代用し,記憶媒体はカセットテープ(ハードディスクはおろか,フロッピーディスクすらなかったのだよ!)。無論まともなアプリケーション・ソフトなどもあろうはずがなかった。それで,マイコン雑誌の記事として掲載されていた主としてゲーム関係のベーシック・プログラムを必死こいて入力したりしていた。全行を入力し終わってからイソイソとプログラムをRUNさせると,あるときは無情にもSN error,またあるときは何やらヘンテコリンな造形的シロモノがモニタ上を蠢いたりして,それらを眺めては一喜一憂するといった具合。今にして思えば,やはりどこかオカシナ生活様式にハマリ込んでしまったように思う。まさに若気の至り,ハヤリ病に真っ先に感染したお調子者そのものであったと思う。
パソコンでワープロ・ソフトを使い始めるのはその翌年,カシオCASIOのFP-1100を購入した1982年頃と記憶している。極めてマイナーな泡沫機種ではあったが,私にとってはNECのPC-6001に比べれば格段に利用価値のあるキカイであった。某アマチュア・ユーザが作った簡単なワープロ・ソフトを動かしたり,あるいは統計処理関係のプログラムを移殖したりして,それなりに公私ともども実用的な道具として結構利用した(実際のところは,私が抱えていた統計計算などデスクトップ・パソコンの手を煩わせずとも関数電卓程度で充分用は足りたのだけれど)。いずれにしても,そこにはパーソナル・コンピュータという文明の利器を積極的に操作することによって時代のフロンティアに追従しようとしている,ある意味では分不相応なまでにイジマシイ自分がいたわけであるが,反面,その新たな道具によって諸々の創作活動に対する意欲が一層かきたてられたこともまた事実である。
ところで,このカシオのパーソナル・コンピュータFP-1100については少なからぬ思い出がある。当時の私は《FP友の会》という名の同好会に所属していた。これはFP-1100というハード最高&ソフト最低であった機種のユーザが集まって設立した会である。発端は大阪方面に在住する数名の同好の士がその目一杯マイナーな境遇(情報の不足,ソフトの貧困)に我慢できずに一念発起して会を立ち上げたのだが,その後徐々に全国的に会員を増やし,盛期には会員500人以上を数えた。
その頃,都内の零細企業に勤めるしがない給与生活者をやっていた私は,ビンボー暇ナシの日々の合間を縫って《FP友の会》東京支部リーダーの役などを努めていた。会の主な活動内容は,月に一度の例会,システムの解析記事等を載せた会報の発行,優秀な会員が作成したオリジナル・プログラムの各会員への回覧配布などで,支部リーダーの仕事といえば,月例会のダンドリ決めや会報・プログラムの配布等を取り仕切るメッセンジャーみたいなものであった。支部の例会は東京駅八重洲口や飯田橋方面で行われることが多かった。年がら年中繁忙期の仕事の最中にあっても,例会の日がやってくると夕方過ぎに一時退社してノコノコと会合へと出掛け,会が終わると再び会社に戻って徹夜仕事を続けたりしたものだった。ナンダカンダ申してもまだまだ若くて体力もそれなりにあった時代の話である。
また,支部リーダーとしての役目のなかで,毎月,東京支部内の各会員に会報及び回覧プログラムを配布する際に,さまざまな事務連絡事項に添えて,余計なことではあるが,私自身の日々感ずるところを勝手なコメントとして書き添えたりしていた。どこぞの雑誌の「編集後記」のようなものであります。それは当時私が抱えていた理不尽なまでの超過密スケジュール仕事に対する一種のアンチテーゼ,低賃金労働者としてのままならぬ生活に対するせめてもの抵抗,というか,束の間の「ガス抜き」のようなものであった。例えば1985年2月号の会報には次のようなコメントが添付されている。
================= ココカラ ====================
(前略) それにつけても月日のたつのは早いもので、あっという間にひと月が過ぎ、またまた大量の巡回ソフトがドーンとめぐってまいりました。どなた様も、先月のソフトは充分に吟味されましたでしょうか。日を追うごとに会員の数も増え、投稿プログラムも増え、まさに前途洋洋、現在の8ビットパーソナル・コンピュータのなかでソフトウエア、ハードウエアの知識が「量的な豊富さにおいて」「質的な多様性において」「利用の容易性において」「そしてまさにその言葉の真の意味におけるパーソナル・ユースとしての有益性という点において」これだけ高度に集積された例は他にちょっとないといっても過言ではないでしょう。
しかし翻って考えますれば、これほどまでにFPに関して情報多過になりますと、少なくとも小生なんぞは、まるで《最後の晩餐に居合わせたユダ》のごとき身持ちについついなってしまう趣、また禁じ得ないところであります。アア、オ腹ガクチイ..... 確かにそれぞれのプログラムは、いずれも会員ひとりひとりが精根こめて作りあげた労作・佳作・快作・怪作に違いありませんでしょう。けれど、私共はそれらに対して敬意を払うことはやぶさかではないにしても(この点は是非とも強調しておかねばなりません)、必ずしも皆に義理立てするあまり、律義にもそれらを全て動かす必要はないのではなかろうかと考えます。むしろ、おつきあいでちょいとRUNして「ハイ、サヨウナラ」するだけなら、それはかえって作者に対して非常な失礼に当たるようにも思います。例えばNEC・PCユーザーにおける大方の不幸は、自らの無知・無能力を棚にあげて、出来合いのソフトをまるで「パソコン批評家」のごとくに論じるところにあることは周知の事実でありますが、私共はそれを他人事として笑えるものでしょうか。もちろんPC'sさん達のその行為自体は、それなりの対価を支払っている限りは当然のことなのですが、ただ、それを言ってしまうと最終的には最も売れ筋の機種を選択するというところに話が落ち着いてしまいますので、ここではその点は不問にしておきましょう。おっと、論旨が混乱してまいりました。何をウダウダ言いたいのかと申しますと、これを要するに、私共が毎月享受している巡回ソフトなんぞは、所詮「テキスト」でしかないのですね。そして、ナマケ学生にとって教科書が不用であるように、FPに係る度合いの少ない者にとっては、巡回ソフトははっきり言って不用物なのです(ナマケが極まれば隠れるもよし去るもよし、それは個々人の主義の問題となります)。もちろんこのような言い方には限定条件が付くのでして、あるジャンルだけに興味があるという者にとっては、Aは月で、B.C.D...はスッポンであるという具合になります。けれど程度の差はあれ、結局のところアマチュアが余暇に趣味で係っているのである限りは、全ての「持ち札」を自らの手の裡に納めることなどとうてい出来っこない(そんなお方はとうの昔にプロフェッショナルに転向しておるに違いありません)。次から次へと目の前に見知らぬソフトの山が築かれてゆくのがオチというものです。そしてその際(ここがポイントなのですが)、本だのレコードだの或いは種々雑多な日常耐久消費材だのと違って巡回ソフトは高々ひと月当りディスク2枚ないしテープ1本ですから、別にそれほど場所塞ぎになるというわけでもありませんでしょう。だったら当座はごく事務的にテキパキと、ラベリングをしてトランク・ルームにでもしっかりしまっておき、「隠し資産」として自らの財産目録に計上しておけば良いようなものです。資産が有効に活用出来るかどうかは、いずれ時至れば明らかになることでしょう。不遜な発言だと非難するなかれ。誤解をおそれずに言わせてもらえば、それはFP友の会会員としての当然の権利でもあるわけです。要は整理の問題なのです。
言葉を変えて繰り返しましょう。《FP友の会》の貴重な資産としてのソフトが不用なのではない、それらのソフトを全て巡回するということが(少ナクトモ現在ノワタクシニトッテハ)不用なのだ、という認識を常にしっかりと持っておくことが、今こそは、そしてこれまで以上に、改めて必要とされる時なのではないでしょうか。そう思えば、毎月の「ソフト地獄」に上手に対処する術もまたおのずから生まれてこようというものです。なまじオイシソウナお菓子を飽食し過ぎると味覚がマヒしてしまい、いずれ何を喰ってもアンコロモチといった状況におちいります。アンコロモチははっきりいって身体に毒であります。どなた様も、くれぐれもお気をつけて(!)
コマーシャル・ベースを離れた純然たる「趣味の」集団に身を置く限り、以上のような問題はどうしても避けて通ることが出来ないと思われるのですが、いかがなものでございましょう。わたくしの好きなシャルル・アズナブール Charles Aznavourの歌に《昔かたぎの恋》というのがありましたが、このタイトルは素直に訳せば「流行にとらわれない楽しみ」となるんじゃなかろうか? 私共は現在のパーソナル・コンピュータをめぐる一種「超常世界」のなかにあって、FPという素敵な「神器」をなかだちとした流行にとらわれない楽しみを今後も大切に育んでゆきたいものと念願しております。
それにしても、しっかりとエラソウナことをラフ・スケッチのままあれこれ申してしまいました。今月は何にも書くことがなかったものですから、ついワープロの手がすべっちまって..... 御座興としてお許し下さい。 (後略)
================= ココマデ ====================
何だか15年前の私の方が現在の自分に比べて数段サービス精神に溢れていたような気がする。韜晦と欺瞞に満ちていることは本来の性格に由来するものゆえ致し方ないが,少なくとも自らの意思ないし主張を他者に正しく伝達するためは少しでも説得力のある文章を,と努めて心掛けていたようには思われる。そのスタイルは,身近な例で言えばインターネットのパーソナルなホームページにおける好ましかるべき正統的文章作法に似通っている(一方的にブツブツ文句をたれるなんてことは決してしない!)。てなことをオモンバカルにつけて,昨今の我が精神のダラク振りはまことにナサケナイものよと,ただただ恥じ入るばかりであります。ま,谷川俊太郎を引用するまでもなく,誰だって年をとりますしネ。
閑話休題。その後のコンピュータ世界における技術革新は,周知のとおり非情なまでに日進月歩いや秒進分歩であり続け,この愛着深いFP-1100も数年もたたぬうちにあっという間に陳腐化してしまった。新しい酒は常に新しい器を必要とする。以後,私のパソコン遍歴は,PC-9801F(NEC) → PC-286(Epson) → PC-386M(Epson) → PC-486GS(Epson) → 466L(Dell) → 486MXV(Dell) → P100PCIPowerStation(Micron) → G6-180(Gateway2000)とさまよい続けた挙げ句,現在のDimensionXPST450(Dell)に至っている。また,それとは別にノート・パソコンについてもPC386NAE(Epson) → SENSPro600(Samsung) → Let'sNote(Panasonic)と彷徨している。現在所有する機種にしたところで最新機種に比べれば性能の点で既にかなり陳腐化しているのは言うまでもなく,彼らの行く末を考えるのは少々ツライところである。
以上がワタクシのOA遍歴,パソコン関係物欲史の変遷であります。パーソナル・コンピュータ創世記と歩を合わせるようにして爾来20年余り,その間には数々の喜びの歌が唄われ,同時にその裏では悔悟と反省とが流れ星の数ほど傍らを横切っていったが,それでも「コンピュータ」は私にとって常に身近でかけがえのない道具として存在し続けた。それが幸せであったのかどうか? その答えは,そうさな,吹きゆく風にでも問うてみるがいい(ワタシは知らん!) ただ少なくとも,私と同様のオロカナ経験を重ねてきた人々,そして現在も同様の境遇をかこっているであろう人々が推定約500人はいるものと思われ,そのことが今の私の人生のココロのササエのひとつにはなっているのだけれども。