受験話で盛り上がるシーズン,のようで。。。

2011年02月16日 | 日々のアブク
 時こそ今は花は香炉に打薫じ,ではないが,時こそ今は吾子は入試に討参じ,という時節である。ウチの息子2名は,昨年度,大学と高校のダブル受験を何とか無事済ませたので今年はそれぞれにノンビリとしたものであるが,一年前のちょうど今頃はまことに大変な時期であった。今,受験生の子供を持つ親御さんはさぞ気を遣われていることでしょう。何よりも受験生当人が大変だ。明日は神奈川県公立高校の後期試験か。みんな,思いっ切りガンバルンダヨ!

 個人的には,昔から「受験」というものに興味・関心がある方だと思っている。受験制度というよりも受験という行為自体,ないしはその過程に関する興味といった方が適切かも知れない。今でも,例えばインターネットのブログでは『とよ爺のつぶやき』という某学習塾の先生が書かれているものをちょくちょく拝見しており,なかなかに得るところが多い。また『インターエデュ・ドットコム』という受験情報発信サイトの掲示板などを時おり覗くこともある。ただし,同じインターネット情報でも『2ちゃん』なんぞは読んで気分を害するだけなので,まず見ることはない。あるいはまた,半年ほど前だったか『東大合格高校盛衰史 60年間のランキングを分析する』(光文社新書)なる本をブックオフ100円コーナーにて入手し,ある意味バカバカしいとは思いつつも,時折パラパラ眺めてはあれこれ思いを馳せたりもしている。なんだ,単なる「受験ミーハー」ジャマイカ!と指摘されれば,それはそれで返す言葉もないケレドモ。

 私事になるが,遙かな昔のこと,小学校の4年から6年にかけて通学した学校は人口百万人の大都市・川崎市の市街地中心部にあり,現在ではどうだか知らないが,当時はいわゆる名門公立小学校とされていた。何しろ,クラスの半数近くが学区外居住者だったのだ。バスや電車で通学しているその子らは一様に首から定期入れをぶら下げていた。これは昭和30年代中頃におけるビンボー主体の社会通念からすると一種異様な光景だったように思う(私は当然,学区内在住の児童でありましたが)。クラス内で上位の子は,とにかく聡明利発で小洒落た身なりの子が多く,日常生活における諸々の所作,発言等に対してもちょっとついてゆけないところがあった。当然,学習能力も非常に高かった。彼ら彼女らの大部分は小学校から中学校に進学するに際して私立や国立付属の中学を受験した。今でいう「中受」である。国立では学芸大付属,教育大付属,横浜国大附属,私立では麻布,栄光学園,雙葉,フェリスなどが主な進学先で,ほかに都内の大田区,品川区などの有名都立中学に進んだ子も何人かいた(私は当然,学区内の公立中学に入りましたが)。

 高校は,自宅から電車やバスを使わずに通える学校ということで,市内の県立高校を選んだ。家から約2.5kmの距離にあり,徒歩では毎日が少々ツライので自転車通学を行っていた。いちおう,旧制中学以来の伝統を引き継いだ歴史ある高校,いわゆる名門校,トップ校などと称される高校であった。もっとも,昭和40年代初頭の当時は神奈川県内では湘南高校がダントツのトップ校であり,少なくとも大学進学実績等にかんしては二番手以下の数校はどこも同じようなレベルであったと思う。また,高校から大学への進学事情について言えば,当時は現在に比べれば大学の数も少なければ募集人員も少なく,社会全体として見れば大学進学率は全国平均で恐らく20%前後だったのではないだろうか。そして,トップ校においても進学率は90%程度で,残りの10%は就職組その他であった。それでも私の高校の場合は,進学校としての役得なのかどうか,岩波書店だとか日本航空だとかNHKだとか,かなり名のある企業に就職する者もいたようだ。

 そんなわけで私自身,高校を出たあとは大学に進もうか,あるいは就職しようか,正直なところかなり迷った。何しろ家はビンボーで,加えて三年に進級した時点ではいつのまにやら学内でもかなりのオチコボレの部類に属するようになっており,学業成績は学年400人中の300番台前半をウロウロしていたと記憶している。とりあえず毎朝キチンと学校には行くものの(親に要らぬ心配をかけるわけにはゆかないので),気に入らない授業は自主的に欠科(サボり)とすること度々であった。最低3分の2の出席があれば出席日数不足により単位を落とすことはなかったので,その辺はしっかりチェックのうえ調整していた。クラス内では私の他にも欠科の目立つ者が何名かいた。そのうち,仮にA男,B夫としておくが,この2名は具合の悪いことに出席簿の順番(五十音順)が私の前後なのであった。すなわち,三名連続して欠科,という授業もしばしばあったわけで,担当教科の教師の方も出欠を取る際にさぞや苦虫を噛み潰していただろうと思う。ちなみに,A男は純文学カブレの男であったが日大医学部に,B夫はオシャレな伊達男であったが東京水産大に進学した。彼らは彼らでソレナリニ真剣に将来を見据えていたわけだ。

 で,そのAとBとに挟まれた私は,あれこれと逡巡したあげくに結局は地理学の勉強をしたいという思いが勝り,よし,大学に行ってやろうじゃないかと決めた。ただし!家庭の財政事情から私立大学への進学はまったくの問題外であり,対象は国公立大学にあらかじめ限定されていた。その当時,国立大学の受験制度は一期,二期に分かれており,2回の受験チャンスがあった。大体,一期校グループは旧帝大を含む上位クラス,二期校グループは一部の例外を除き下位クラスの大学が主体であった。それで,滑り止めとして二期校のなかで一番カンタンに入れそうな大学はどこかといろいろ調べて,私は文系だったものだから,ここでアカラサマに名前を挙げてしまうが弘前大学教育学部中学校社会科教員養成課程というところを滑り止めのターゲットにおいた。もし理系だったら,おそらく北海道の北見工業大学か帯広畜産大学あたりを滑り止めにしたのじゃないかと思う。弘前大学という選択肢は,これは当時,作家の安岡章太郎が旧制高校を受験する際に「都落ちの最たるものは東・弘前,西・高知」という言い伝えがあったなどという昔話をどこかで述べていたのに触発されたと記憶している。そして,台風銀座である南国高知に行くのはちょっとイヤだったので,雪国である弘前の方を選んだ次第である。以後,約半年の期間はそれこそ死にもの狂いで受験勉強に没頭した。ところで,安岡御大御自身は結局のところ遊び呆けた受験生活を過ごして二浪?したあげく,その最低の高校にも受かることができずに慶応予科あたりに進んだのではなかったろうか。ま,いろんな受験生がいるものです。

 弘前大学受験のための準備は,弘前までの鉄道の切符や現地で泊まる旅館の手配など,すべて自分ひとりで行った(お金だけは親に出してもらったが)。確か奥羽本線経由の急行夜行列車で出掛けたと思う。春三月のやや遅い頃,初めて訪れた末だ雪深い弘前市街の土手町あたりの煤んだ商店街をうつむき加減でトボトボと歩く自分を,今でもはっきりと思い出すことができる。町の郊外にあった弘前大学の校舎やグランドや施設の外観はすこぶる地味で小じんまりとしていて,まるで地方の高校みたいにサエナイ佇まいと見受けられ,いわゆる大学のキャンパスで御座いといった雰囲気はまったく感じられなかった。何だか都会の高校から田舎の高校に転校するみたいなものかなぁ。ああ,こんな所でこれから先の四年間を過ごすことになるのかなぁ,といった感慨を抱いたような気がする。今にして思えば幾ばくかの悲壮感すら漂っていたのだろう(何もシベリアの僻地に赴くわけでもあるまいに!) ただし,弘前市の名誉?のために一言付け加えておくと,その北国の小都会の気候風土や地形地勢,古風で落ち着いた家並みの景観,あるいはそこに暮らす人々のノンビリとした言葉遣いといったものが,大都会の場末に生まれ育った小生意気なハイティーンの自分をどこか不思議に魅了したことだけは確かでありました。

 受験結果については,第一志望の大学に何とかギリギリ滑り込むことができ(競争倍率は表向き約40倍,実質約15倍と無駄に高かった),みちのくの地の果てへと都落ちすることはなくなった。けれどもされども,もしあのときに弘前大学に行くことになっていたら,その後,私のジンセイはどのように変わっていただろうか。田舎の中学校の先生にでもなって田舎のコドモらとうまくやっていたのだろうか。田舎のムスメと所帯を持って子作り子育てに励んでいただろうか。そして田舎の野山を日々自転車で走り回ったりしていただろうか。などと,見果てぬ夢 un impossible rêve をつかのま追いかけてみたりもするのである。夢は枯野を駆け巡るのである。ま,ことほどさように受験というものはジンセイの一つの大きな岐路,重要な通過ポイントなのであります。今いちど陰ながら声を掛けておこう。明日の受験生諸君,せいいっぱいガンバルンダヨ!

 あぁ,なんだかまるで子の親みたいに,一寸シンミリしてしまった(子の親ダロ~ガ!)

 ところでウチの息子らの現況でありますが,まず上の方は,第一志望の大学には残念ながら受からなかったけれども,現在は美大でデザイン一筋の日々。運動系・文化系・お遊び系のサークルにも入らず,小遣い稼ぎのバイトも行わず,もっぱら大学での講義・実習に執心する毎日である。もともと絵を描いたりモノを作ったりすることが好きな子だったので,とりあえずは良き道へと進んだのだろう。大学での勉学以外にも,さまざまな一般公募のデザイン・コンペをインターネットで探しては次々に応募しているようだ。まぁ,そちらは課外授業だと思って頑張りなさい。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるかも知れないから,なんて言っていたら,何故か一発当たってしまった。加えて,最近では日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)なる組織の学生会友になったとかで,東京・六本木あたりにしばしば出掛けては協会の手伝い(要するに体のよい小間使い)をしているらしい。そうかそうか。それはそれで良い社会勉強になることだろう。願わくば,六本木とか青山あたりのチャラチャラした都会の絵の具に染まらないで帰って~♪ と祈るばかりである。

 それから下の方は,何とか第一志望の高校に合格し,現在は理数系一筋の日々。昨年3月に入学祝いとしてノートパソコンを買ってあげたのだが(親としてはかなり無理して),1年もしないうちにその機能・性能に満足できなくなったようで,自らの貯蓄を切り崩して高性能のデスクトップパソコンを独自に購入した。そして,LinuxやらUbuntuやらRubbyやらC+やらといった,私のまったく知らない世界に深夜遅くまでドップリと浸かっている。また,数学の素数だとか群論だとかにものめり込んでいるようで,これも私にはチンプンカンプンの洋書などを自費で購入している(購入自体は私がAbeBooksあたりで安い古書を探して手続きしてあげている)。今年の数学オリンピックは惜しくも予選敗退だったようだが,それにメゲルことなく,来年またガンバル!などと当人は言っている。そうかそうか,好きこそものの上手なれだから精一杯頑張りなさい。願わくば,ルーピー系・スッカラカン系にはならぬように!と祈るばかりである。

 あぁ,ヤッパ曲がりなりにも哺乳類の親みたいだ。世代交代はまだまだ完結しないゾ。
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