リベラル系の売れ筋本量産出版社であるところの草思社からCDブックというユニークなシリーズ本が刊行されているが,そのなかに,『長岡輝子、宮沢賢治を読む』という全8巻のシリーズがある。定価は2,800円(本体価格)と少々お高く,私の懐具合などからすると,そうそう簡単に全巻いっぺんに揃えるわけにはゆかない。これまでに私が所有していたのは,大分以前にネット・オークションで確か各1,000円前後で手に入れた『第3巻 セロ弾きのゴーシュ』と『第4巻 オツベルと象』の2巻のみである。
以上を前振りとして,話は毎度お馴染みブックオフ・ネタへと移行する。先日,我が町のブックオフで,同シリーズの『第8巻 よだかの星』が売られているのを見付けた。一般文芸書の棚にあったので,本来は定価の半額の1,400円に値付けされているものだが,現在,「夏休みセール中」であるために,半額の半額,すなわち700円ということであった。これはもう買うっきゃないでしょ,というわけで,それ以外に見繕った10冊あまりの雑多な本と一緒に購入することにした。
ところが,であります。お店のレジのオネーチャン,1,400円という値札ラベルを100円と見間違えたようで,後でレシートを見直してみると同書の売価が50円相当に計算されていた。購入時,レジが非常に混み合っていたこと,当方が一度に10数冊の本をドサッと出したためオネーチャンが少々慌てて処理したこと,などが原因と思われる。それにつけても,こういうタナボタは実に嬉しいものだ。誰が不幸になるわけじゃなし。
その夜の深更,買ってきたCDを聴いた。3編の物語が収録されており,最初に《虔十公園林》,次に《よだかの星》,最後に《十六日》,いずれもなかなかに味のある語り口だ。特に,最後の《十六日》には正直なところ降参してしまった。いや,実に上手い! 一般にはあまり馴染みのない小品ではあるが,八月の盆の一日,貧しく若い夫婦の何ともない会話のなかから,ある時代の位相が鮮やかに浮かび上がってくる。決して暗い話ではなく,むしろ微笑ましいエピソードではあるのだが,名もない人々が織りなす歴史に埋もれてゆく“業”といったものを,やるせないほどに感じさせる。そして,輝子オババの語りは,単に方言の手練れというだけでなく,賢治の生まれ育った土地,山川草木の匂い,空の色や雲の形や風の音,そういった風土に対する深い愛着がジワリ滲み出たものとなっている。失礼を承知で言わせていただければ,宮澤賢治に対するこういうアプローチもあったのか,と改めて感服した。いやまったく,おしんの奉公先の店の大奥婆サン,なかなかに侮れないゾ。
ところで,作中人物である新進の大学士は,伊手川上流の河谷を赤金鉱山から姥石峠を越えて山向こうの栗木鉄山へと下り,それから大股川,気仙川の流れに沿って世田米,大船渡方面へと街道を辿っていったのだろう。季節は夏の盛り,途中,恐らくは何人ものアユ釣り人に出会ったに違いない。釣果はどうだったろうか? ヤマメやイワナ釣り人はいただろうか? ひょっとしてアメマスが海から遡上してはいなかっただろうか? あるいは,清澄な渓流のどこかで水中に潜ってハナカジカをヤスで突いている農家の子供らを見掛けなかっただろうか? 想いは北の大地の彼方へと限りなく広がってゆく。
それにしても,いい話を聞かせていただきました。
以上を前振りとして,話は毎度お馴染みブックオフ・ネタへと移行する。先日,我が町のブックオフで,同シリーズの『第8巻 よだかの星』が売られているのを見付けた。一般文芸書の棚にあったので,本来は定価の半額の1,400円に値付けされているものだが,現在,「夏休みセール中」であるために,半額の半額,すなわち700円ということであった。これはもう買うっきゃないでしょ,というわけで,それ以外に見繕った10冊あまりの雑多な本と一緒に購入することにした。
ところが,であります。お店のレジのオネーチャン,1,400円という値札ラベルを100円と見間違えたようで,後でレシートを見直してみると同書の売価が50円相当に計算されていた。購入時,レジが非常に混み合っていたこと,当方が一度に10数冊の本をドサッと出したためオネーチャンが少々慌てて処理したこと,などが原因と思われる。それにつけても,こういうタナボタは実に嬉しいものだ。誰が不幸になるわけじゃなし。
その夜の深更,買ってきたCDを聴いた。3編の物語が収録されており,最初に《虔十公園林》,次に《よだかの星》,最後に《十六日》,いずれもなかなかに味のある語り口だ。特に,最後の《十六日》には正直なところ降参してしまった。いや,実に上手い! 一般にはあまり馴染みのない小品ではあるが,八月の盆の一日,貧しく若い夫婦の何ともない会話のなかから,ある時代の位相が鮮やかに浮かび上がってくる。決して暗い話ではなく,むしろ微笑ましいエピソードではあるのだが,名もない人々が織りなす歴史に埋もれてゆく“業”といったものを,やるせないほどに感じさせる。そして,輝子オババの語りは,単に方言の手練れというだけでなく,賢治の生まれ育った土地,山川草木の匂い,空の色や雲の形や風の音,そういった風土に対する深い愛着がジワリ滲み出たものとなっている。失礼を承知で言わせていただければ,宮澤賢治に対するこういうアプローチもあったのか,と改めて感服した。いやまったく,おしんの奉公先の店の大奥婆サン,なかなかに侮れないゾ。
ところで,作中人物である新進の大学士は,伊手川上流の河谷を赤金鉱山から姥石峠を越えて山向こうの栗木鉄山へと下り,それから大股川,気仙川の流れに沿って世田米,大船渡方面へと街道を辿っていったのだろう。季節は夏の盛り,途中,恐らくは何人ものアユ釣り人に出会ったに違いない。釣果はどうだったろうか? ヤマメやイワナ釣り人はいただろうか? ひょっとしてアメマスが海から遡上してはいなかっただろうか? あるいは,清澄な渓流のどこかで水中に潜ってハナカジカをヤスで突いている農家の子供らを見掛けなかっただろうか? 想いは北の大地の彼方へと限りなく広がってゆく。
それにしても,いい話を聞かせていただきました。