「ハエ取りリボン」の夢を見た

2013年07月27日 | 日々のアブク

 昨晩,奇妙な夢を見た(毎度のことですが)。それは今から半世紀以上もの昔,私が神奈川県川崎市に住まっていた子供時代の出来事だった。

 その当時,市立病院と道路を隔てた反対側にある古くて粗末な借家に 私ども一家は住んでいた。家の台所は北側に面していて,いつも薄暗くて何となく湿っぽかった。やや幅広の廊下のような細長い形状で,といって広さはせいぜい二,三畳程度だったように思う。いちおう上水道は完備していた。台所のすぐ奥にはガラス戸一枚を隔てて風呂場が続いていたが,この風呂場の方は狭い台所に比べるとけっこう広々としていた。ただし,建て付けが極めて悪かったため隙間風が絶えずスースー通り抜け,冬場などは寒さに震えながら風呂に入ったものだ。風呂釜は薪で焚くタイプだった。焚き付け当番は末っ子の私に回ってくることはほとんどなく,だいたい二人の兄が交代でやっていた。おそらく着火・燃焼テクニックの巧拙が問題とされたのだろう。

 TV番組で『大改造!劇的ビフォー・アフター』というのがあったが(最近はテレビを全く見ないので,今でもあるのかどうかは知らない),要はアレに出てくるような典型的なボロ家でした(もちろん「ビフォー」の方)。その借家があった場所は川崎市中心部の旧市街地で,先の大東亜戦争の空襲により大部分の家屋が焼夷弾火災で焼かれてしまい,あたり一帯は焼け野原の焦土と化したように聞いているが,敗戦から十数年を経た当時は既に復興もかなり進んでおり,数多の家屋がごくアタリマエに密集立地しており,戦争被害の爪痕を見出すことはかなり困難であった。せいぜい,空襲による炎上・崩壊をかろうじて免れた電電公社の立派なビルや,その隣にある私が通っていた小学校の旧校舎などの鉄筋コンクリート建造物の壁面の一部に空襲延焼時の焦げ跡とみられる煤汚れがまだ残っていたくらいである。商店や民家については,戦前からの旧い建屋は全く見ることができず,街中の家々はいずれも戦後に新しく建てられたものばかりであった。比較的しっかりした造りの立派な家屋とバラックのような簡易住宅とが混在しており,割合としては前者の方がだいぶ多かったように思う。わが借家は当然ながら少数派の後者でありました。

 で,夢の中の私は恐らく小学校の四年生くらいで,そのオンボロ借家の暗くて狭い台所で母と何やら話をしているのであった。台所の隅には「ハエ取りリボン」が2本,天井の梁からぶら下がっており,そのことに関しての話だった。ちなみに,昨今の御時世ではこのハエ取りリボンなるものの現物,いやその存在すら知らない人も少なくなかろうから一応説明しておくと,これはリボン状の紙の両面に粘着剤がペッタリ塗られているテープで,これを部屋の天井などから吊り下げておく。すると,室内を徘徊しているハエどもがそのうちにリボンに止まって一休み,でもベッタリくっついて離れなくなってしまい,ハイ,一丁上がり!と首尾よく捕獲する,そんな害虫駆除商品です。「飛んで火にいる夏の虫」を期待する受動的な猟法,トラップ採集用具だ。「ごきぶりホイホイ」がリボンになって天井からぶら下がっているといえばいいか。むろんゴキブリは捕れませんが,ハエだけでなく,カ,ガガンボ,チョウバエ,小型のカメムシ,小さな蛾くらいは捕れる。昔はどこの家庭でも普通に使われていた定番商品だったと思うが,今では恐らくイナカの方にでもいかないと見られなくなったようだ。だいたい昨今の住宅家屋は機密性が極めて高く,しかもそこに住み暮らす住人も,外部の空気を室内に入れる際にはキッチリと網戸でバリアを張って神経質なまでに屋外からのハエやカの侵入を防ごうとしている。そして能動的ないし攻撃的な害虫駆除商品も,古典的な蚊取り線香(金鳥の夏)をはじめとして,殺虫スプレー(キンチョール)だとか,液体蚊取器(アースノーマット)だとか,燻煙剤(バルサン)だとか,虫除けネット(バポナ)だとか,はては人体に直接塗布する虫除けスプレー(スキンガード)だとか,実にさまざまなものが発売されている。要するに,各種薬剤(農薬成分を含む)とのバーター取引により各種害虫の排除が担保されているに過ぎないのだが,そんなわけで,最近では多くの家庭で室内にハエが飛び回ることなどほとんどない。ゴキブリやチョウバエ,羽アリ,それからシバンムシ(!)なんかは網戸などものともせずに室内に侵入するけれども,少なくともハエは見られなくなった。清潔で快適な文化住宅,って訳であります。

 話を本題に戻すと,夢のなかでの私と母とのやりとりは,おおむね以下のようなものであった。


 - ねぇ,母さん。このリボン,低すぎるよ! 頭にくっついちゃうよ。

 - 大丈夫だよ。オマエはまだ小さいんだから,届かないよ。

 - でも,飛び上がったら,アタマが着きそうになるよ。

 - 何でこんなところで,わざわざ飛び上がったりするのさ?

 - 何かにビックリして急に飛び上がることだってあるじゃん。
   ほら,ネズミが出たりとかさぁ。。。


 - いや,これでいいの。低くしといた方がハエがよく取れるんだから。

 - でもさぁ。。。


 すでに何匹かのハエが哀れにもひっついているリボンを眺めながら,私はそれでも何となく不満で,そしてどこか不安であった。ハエの中には つい今しがた付いたばかりで,クソ!失敗した!とばかりに,なおも羽根と脚とをジタバタさせて無駄な抵抗を試みているものもいた。

 と,そのとき,突然後ろから兄がやってきて,私と母との会話を遮るようにしてハエ取りリボンに向かって思いっきりジャンプしたのだ。 ありゃりゃ! 結果は言うまでもない。兄の髪の毛はギリギリのところでリボンに届いて接着し,そしてその勢いでリボンは天井から外れて兄のアタマの上に落下した。
 
 その後はしばし修羅場状態だった。母は大声を発しながら慌てて兄の髪の毛からリボンを取り去ろうとしたが,その粘着材はけっこう強力なのだ。手をベタベタにしてかなり苦労して,それでも何とかリボンを取り去ることができた。そして,それからすぐに隣の風呂場に兄を連れて行き,ヤイノヤイノと叱りながら,水と石鹸でアタマをゴシゴシ洗っていたようだった。けれど結局のところ,洗ったぐらいでは埒があかないというわけで,髪の毛を切ることにしたのだ。

 その頃,兄の髪型は やや短めのボサボサ頭といった感じだった(私も同じでしたけど)。それは,床屋代を節約するために,子どもらの髪が長くなると母が家で適当にチョキチョキ切っていたためだ。床屋に行くことができたのは,せいぜい年の暮れくらいだったろうか。バリカンなんぞ家になかったため,幸か不幸か坊主頭にされることはなく,植木屋さんが伸びた植木を刈り込むように,チョキチョキと短くされていた。それについて,兄はどうだったか知らんが,私としては特に不平不満はなかった。

 ただ,その日に限っては,粘着材ベタベタの影響がひどかったのだろう。兄のアタマは以前に比べるとかなり短く刈り込まれ,結果として「スポーツ刈り」,あるいは当時の流行でいえば「慎太郎刈り」(おお,懐かしい!)のような感じになってしまった。裸で風呂場から出てきたとき,そのカッコイイ髪型を見てビックリしている私に対して,兄は下手なウィンクでもするように顔を半分しかめてニヤッと笑った。 してやったり! という様子だった。


 。。。はい,そんな夢でした。昭和30年代のなかごろ,世の中は六十年安保反対闘争やら高度経済成長やら所得倍増政策やらダッコちゃんやらで元気で騒々しかった時代,そして名将・三原監督率いる我らが太洋ホエールズが奇跡的な初優勝をとげて川崎の町が熱狂で包まれ,さらに地元の星・坂本九ちゃんが『悲しき60才』を歌って一躍人気歌手の仲間入りをした,そんな時代の話であります。割と「後味の良い」夢だったけれども,ま,それも畢竟,封印された記憶の底からふと滲み出た タアイナイ夢物語,といった類のものなんだろう。。。

 その兄が死んで,はや9年,そして母が死んでからも,すでに5年の月日が過ぎてしまった。歳月人を待たず。今では私自身の頭髪もかなり胡麻塩化し,額の生え際もジワリジワリと後退し,毛質も以前に比べるとだいぶ弱々しく頼りなくなってしまったけれども,禿頭となるまでには今暫くの猶予期間がありそうだ。相変わらず床屋には行っておらず,時々気の向いたときに独りでチョキチョキやっております。さて,あと何回のチョキチョキになるのかな?

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