サヨナラ,貧民の友

2006年03月31日 | 本屋さん
 現在,わが家族が住み暮らしている首都圏辺縁部に位置するこの小都市には,毎度おなじみ貧民の友「ブック・オフ」が2店舗も立地している。それぞれの店は,当市が拠って立つところの山間盆地の東寄りと西寄りの場所にあり,両者の距離は地図上の直線距離で測ると3.7km,実際に道なりに辿れば4.6kmほどである。ここで,当該2店舗を東のA店,西のB店としよう。拙宅の所在地は,地図上ではA店-B店を結んだ線を底辺とする三角形のほぼ頂点付近の北部山麓地域にあり,A店までは2.6km,B店までは2.9kmほどだ。各店の海抜高度はA店が約92m,B店が約153mなので,標高143mにある拙宅からA店に行くには,おおよそ7m登って68m下って10m登ることになり,一方,B店までは7m登って18m下って21m登ることになる。自転車での移動を前提とした場合,A店へのルートは往路は楽だが復路は少々キビシイ。一方,B店へ行くのは往路も復路もさほど苦にならずにスイスイゆける。加えて,沿線道路の整備状況,交通量,信号機の数,道中の景観などなどを総合的に勘案すると,A店よりもB店の方により足繁く通うことになってしまうのは人情として致し方ないことかも知れない。

 何をクドクド述べているのか。いえ,単にアイデンティティー&マンパワー,座標系及び仕事量について一寸説明したまでであります。

 ところで不肖ワタクシ,ここ最近は平均して週に2~3回くらいの「貧民の友」通いをおこなっている。ただし,基本的には自転車徘徊の途中での気紛れ寄り道訪問のため,その時々の走行ルートによりA店,B店の選択はランダムとならざるを得ず,また,店内における滞在時間もせいぜい10~20分程度である。それにしても,ブックオフという新興マーケットの何が私をこれほどまでに惹きつけるのだろうか? 

 以前は訪問のミヤゲとして,あるいは転んでもタダでは起きないゾ,というサモシイ根性の結果として,だいたい数冊の本を買って帰ることが多かった。もっとも,原則として100円本しか買わないことにしているので,1回当たりの出費は105円の倍数,多いときでも精々が420円くらいである。道楽オヤジがパチンコ屋に日参したり,不良少年がゲーセン通いにハマッたりするのに比べればチットはマシか,という程度だろうか。いや,行為そのものではなく,無駄金を使わないという意味においてデスガ。さらに申せば,それらは時に数倍~数10倍になって還元されることもあるのであって,一例を挙げれば,『日本の川地図101』(復刊ドットコム:123票)が105円→2600円とか,まさに趣味と実益を兼ね備えているのでありました(あー,全くもってサモシイ)。

 けれども最近ではそこら辺りの小市民的メンタリティに幾分かの変化が生じ,もっぱら店内での立ち読みだけ,というか店内散策に終始するようになっており,よっぽどの本を見付けない限り購入することはなくなった。要するに店側から見ればマンガ立ち読みオンリー少年たちと同類の,さして歓迎されざる客なのである(店内の賑わいに寄与していることだけは一応確認しておきたい)。ただし私の場合,1冊ないし数冊の本を熱心に集中的に立ち読みするわけではなく,単行本,文庫,新書,実用書,専門書,豪華本,さらには学習参考書までも,それぞれの棚全体を端から端まで一通りざーっと見て回る。そして書架に並んだそれら雑書の山々を概観しつつ,新たに入荷した本,既に売れて消えてしまった本,長いこと動かない本などなど,棚の動き具合,商品の経時的な流動状況を逐一チェックしたりするのである。

 いや,別に本部から派遣されたマーケティング担当ではございません。それはごくごく私的な興味のありようとして,この限られた地域において,そのことはまた本邦地方都市における社会経済活動のなかで,とも敷衍できるだろうが,要は昨今の日々の暮らしのなかで,「本」というメディアの集合体が指し示す文化の多義的で錯綜した歴史的現状,平たくいえば漂流するサブカルチャーの動向なんぞを見つめることによって,そこに今という時代の反映を読み取ろうとしている,そんなショーモナイ作業なのだ。ちなみに,ブックオフ・ウォッチングの心得なるものを何項目か設けており,列挙すると以下のようである。


◆其ノ一: 店内全体の品揃えをある時間断面のみで切り取って評価してはならず,すべからく経時的に追跡すること。とにかくブックオフでは本がよく動く。しかも思いもかけぬモノが突然現れては消えていったりする。それは日々活気に満ちあふれた「魚市場」ないし「青果市場」などに通じるものがある。生鮮食料品の動きを眺めるのは楽しい。出来れば日参したいくらいだ。

◆其ノ二: 並べられている商品の価格を気に掛けないこと。ある日1,500円で売られていた本がその翌日には105円になる。そんなことが当然のようにまかり通る世界。マーケットというよりも「一攫千金漁場」ないし「合法的賭博場」のようなものだ。決してドツボに嵌ってはならず客体視が必要な所以である。

◆其ノ三: 100円本の棚で「お宝本」(高値で転売できそうな本)を見付けたとしても,自らが必要としない限りは購入しないこと。それらをしばし「泳がせて」おいてその後の動きを観察追跡することの方がよっぽど我が身のためになる。

◆其ノ四: 店内の客層をさりげなく,かつ仔細に観察すること。現行の大衆文化の形成に与る人々の行動生態観察といってもいい。総じて10才前後の少年と30~40代のオバサンに元気があるのが目立つ。やはり今日日オバサンはニッポンの未来なのでしょうか。

◆其ノ五: 店内を流れるBGMに耳を澄ますこと。最近はとくにラッパー系,ミーハー系が多いようだ。中高年をまったく無視しているかのような軽いノリの歌や演奏の垂れ流しに我が身を浸す。滝に打たれる修業のようなものであるが,それはそれで異文化摂取に役立つ。


 何やら駄言を連ねてしまったようで恐縮です。偏屈趣味と言われれば返す言葉もない。けれども,こういったことは新刊書店などでは決して味わえない一種趣のある安価で安直な楽しみナノダ,と手前勝手に了解していることも確かである。だって,考えても御覧なさい。ジュンク堂でも紀伊国屋でもYBCでも丸善でも,少し下がって三省堂でも有隣堂でも,そういった売り場面積1000坪を超えるような大型書店といえども,その圧倒的なヴォリュームを誇る陳列棚には,しょせん出版・取次サイドのストック商品が気の利いたレイアウトのもとに適当に按排されているに過ぎないのである。たとえ,大書店としての強い立場を背景とした個々の店の独自戦略,営業方針なるものが仕入れや棚揃えに色濃く反映されていると言ったところで,やはり無い袖は振れないわけで,品切れ・絶版本はそもそも並べようがない。例えば,少し前に亡くなられた松下竜一センセの文庫本,『豆腐屋の四季』,『砦に拠る』,『潮風の町』,『ルイズ』(以上講談社文庫),『風成の女たち』,『暗闇の思想を』,『明神の小さな海岸にて』,『五分の虫,一寸の魂』,『狼煙を見よ』(以上,教養文庫),『怒りて言う,逃亡には非ず』(河出文庫)のごとき,いずれもビンボー人の必読図書,それらのうちの1冊でも棚に並べている書店があるのか~! と,当地のちっぽけなブックオフ(いずれも小規模店舗の範疇に属する)でそのうち7冊を手に入れたワタクシとしては,声を大にして申し上げたいのである(約10年がかりで,いずれも100円本として)。まぁ,松下センセは余り適切な事例ではないかも知らんが,言わんとするところはお判りいただけようかと思う。出版社-取次-新刊書店というラインは,基本的にはあくまで供給側の支配下にある市場なのだ。出版文化人,書店文化人たちのさまざまな奢り(啓蒙的奢りであったり,山師的奢りであったり,コンナモンデヨカンベ的奢りであったり)が跳梁跋扈する市場なのだ。

 その昔,芥川龍之介は日本橋丸善だかの薄暗い店内の一隅にひとりあって古今東西の膨大な書物の山に埋もれながらそれらを丹念に閲覧した挙げ句 《人生は一行のボードレールに若かない...》 などとシミジミ述懐した。いわゆる大文豪の小さなカンチガイなわけだが,龍之介をしてそのような感慨を呼び起こさせるほどに,大書店に陳列されている圧倒的な本の山は,見方によっては知の総合センターであり,文化の博物館であり,あるいは人類歴史の見本市であるとも言っていいくらいだ。その魅力は,そうさな,キレイドコロを仰山集めた超高級クラブにも比肩されるだろうか(よく知らないけど)。そしてまたこれがキビシイ現実だと思われるのだが,そういった豪勢で魅力的な新刊大型書店のみならず,長い歴史と伝統に裏付けられた格式の高い古書籍店においても,あるいはまた巷の何処にでもあるようなごくアリフレタ雑本全般を扱う街の小さな古本屋においてもこれまた同様に,供給サイドのすぐれて恣意的な取捨選択が昔も今も「本屋さん」というマーケットを形成している。もちろん形式ではなく内容の話である。同じく「文化」を標榜しながら公共図書館,とりわけ理想型としての市民図書館との決定的な違いがそこにある。

 で,そういった旧弊を長いこと引き摺ってきた閉塞的かつ硬直的マーケットに突如新たに参入したブックオフという特異な存在は,既存のブック・マーケットの側からはどのように受け止められたのだろうか。市井に埋もれた玉石混淆本展示室の新装開店,などと言えばいささか綺麗事に過ぎよう。ペーパーカルチャーのドリームアイランド(夢の島)。活字系のみならずヴィジュアル系・サウンド系を含めたゴッタ煮的ゴミ捨て場。無知蒙昧な新参者のトンチンカン的チンドン屋。雑貨の大海・文化の頽廃。セドリの天国・シタドリの地獄。などなど。(あー下らない) 要するに,供給者(生産者)からは徒に平地に乱を起こす掟知らずのフトドキ者として強い反発を受けたのであろうが,その一方で,受給者(消費者)からは安価でネタの新鮮な魅力的市場として手放しで歓迎されたのだ。それがちょうどバブル経済の末期,今から10数年前のことだったろうか。穿った見方をすれば,時代の転換期においてドサクサ紛れになし崩し的に社会から認知された,それはそれで一つの正義であったのだろう。

 その後の展開は周知の通り。時代の鬼っ子はやがて時代の寵児となって加速度的に拡大・発展を続け,そして今やブックオフという存在は,コンビニエンスストアが街々の日常にごくごくアタリマエに定着しているように,都市小売業の基本科目,市民生活の日常に組み込まれた必須アイテムとして無くてはならないものとなっており,さらに言えば既にして地域商業におけるエスタブリッシュと化しているのが現状だ。何やら世紀を跨いだ壮大な「出エジプト記」のごとき疾風怒濤の10年間であった,などと外野的に評すればいささかオオゲサに過ぎるだろうか。

 ま,以上のグダグダは判官贔屓的立場から変革者の行動生態を一寸推量したに過ぎないんですけれどもネ。それはそれとして,現時点での私自身の本音を述べれば,ブックオフというものをそのように商業戦略,経営形態の面から云々することには,はっきり言って急速に興味をなくしている。それは昨今チマタに蔓延しているラッパー・シンガーたちの群,フレミングの左手の法則なんぞにやたらと御執心の彼ら彼女らのアホダラ経的ミュージックの隆盛ぶりに対して当初の興味を全く失い,今では反射的に耳目を塞いでしまうのと同類の感覚である。

 今あらためて問われたら,こんな風に答えるだろう。ブックオフですって? そうさな。それは例えていえば,水を満々とたたえて緩やかに滔々と流れる大地の川の,その蛇行部の少し手前あたりに形成された小さな中州のような存在だろうか。空と水とが織りなす世界に現れた小さな異空間。侵食と堆積,遷移と興亡の営為を際限なく繰り返し,洪水があれば瞬時にして消滅してしまうこともあるカリソメの別天地。その水際部には小島を縁取るようにしてツルヨシやヤナギタデなどの植生が流れと混交し,やや小高く盛りあがった乾性マウンドにはススキ,チガヤ,カワラヨモギ,エノコログサなどの群落が自生する。上流から流れ着いた大小の流木などもいくつか点在するだろう。春の一日,陽は中州全体に燦々と降り注ぎ,川面を渡る風は心地よく灌木の緑を揺らし,時間の流れは川水と陽光に同調する。木々の葉枝が迷彩の影をなす湿った窪地には,ひょっとしたらカヤネズミの兄弟たちが遊ぶ秘密基地が潜んでいるかも知れない。やがて夏が近づけばオオヨシキリのつがいが旅の途を休め営巣にとりかかるかも知れない。今はまるで芝居が終わった劇場の舞台裏のように雑然としはているものの,何故か心休まるアジール(聖域)のごとき存在である。そんななかにあって私自身はアユやウグイやヨシノボリのような魚というわけではなく,あるいはエルモンヒラタカゲロウやサトコガタシマトビケラのような水生昆虫でもなく,プラナリアでもなくカワニナでもなく,ましてやサワガニでもモクズガニでもない。多分は河水に紛れた一介の漂流者,流されゆくアブクに過ぎないのだろう。

 あーあ,例によってツマラナイ結論になってしまった。いいかげんブックオフ・ネタを吐露するのはこの辺で打ち止めにしよう。とにもかくにも,そういう次第で今日もワタシは我が愛車(XtC850)を駆って街へと走り出すのである。ブックオフに立ち寄るかどうかは,ままよ,風まかせだ。もっとも最近の傾向としては,川沿いを辿ったり,農道をワインディングしたり,山へ向かって坂道をゆっくりと登っていったりすることが多くなっている。身体がそれを望んでいる。いや,脳がそれを望んでいるといった方が適当かも知れない。現世よりも来世へと興味が移行していることの証左であろうか。 とりあえず,さよならブックオフ,とか言ったりして。

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