いわゆるカタカナ語の流通について (ギルドからカルトへ)

2000年06月12日 | 日々のアブク
 現在,私が仕事で係わっている世界においては,最近流行の外来語として「ビオトープ」とか「エコトーン」とか「ミチゲーション」とかいうカタカナ言葉が盛んに飛び交っている。科学技術は日進月歩絶えず変化してゆくので,新しい概念,新しい理論,新しい手法が必要に応じて次々と導入されてゆくこと,これ当然の習いである。

 気になるのは,これらの言葉が使用されるそれぞれの場において,かなり高い確率で当事者間の相互理解というか共通認識がなされていないという現状があることだ。例えば,ある開発行為に絡めて「ミチゲーション」(環境影響緩和)なんていう新奇な言葉が発せられると,その言葉の周囲に屯する人々は,各自の勝手な思惑に従って,ある学者先生は「正義の味方の御宣託」という視点から,別のお役人は「事業にお墨付きを与える錦ノ御旗」という観点から,どこぞの環境保護活動家なる輩は「自然崇拝教に反する欺瞞的方便」という思い込みから,はたまた業界人なんぞは当然ながら「将来有望なる新商売ネタ」という算盤勘定から,それぞれに想像力を膨らませる。これを要するに,新作カタカナ語なるものはしばしば拠って立つ場所を軸として個人的資質・特性に由来する空論を助長する。つまり,普遍にあらずして特殊,極めてイイカゲンなシロモノというわけだ。一般人にしてみれば単に「ソレ,ナンジャラホイ?」という疑問符を呈するだけなのだが。

 当然ながら,最近しばしば問題になっているいわゆる「お役所言葉」全般における新着カタカナ語の氾濫現象もこれとほぼ同様な結果を導いているのだろう。スキーム,アカウンタビリティー,インペアメント,フォローアップ,カンファレンス,リターナブル,フリーアクセス,レシピエント,ホスピタルフィー,などなど。よくワカラナイけどみんなが使っているから一応ワタシも使っておこう,てなもんで。それらが「開かれた社会」におけるまっとうな意志疎通に対して何重ものオブラートを被せるだけの夾雑物でしかないことは,恐らく誰もが判っているのに。まことに困った状況である。これは決して「小役人」ばかりが一方的に責められるべき問題ではない。

 ところで,これが趣味の世界の話になると,カタカナ語の意味付けというのは実にハッキリしている。それは排他的社会における符丁,ギルド内部のキーワードのようなものであるからして,単純明快に,山といえば川,温泉といえばキャスター,じゃなかった温泉といえば芸者(同じようなもんか),でなくてはならない。一例として釣りの世界,なかでも一言居士,小言辛兵衛たちの寄り合い所帯であるフライ・フィッシング業界でも引き合いに出してみましょうか。最近,図書館から借りてきた本(そんなモノ誰が買うもんか!)からちょっとだけ引用してみる。

 まず,フライ・フィッシング業界における若手の有望な書き手とされるオニイサンが,『フッキングは「ドリフト」次第』という良くワカラン標題のもとに,「プレゼンテーションしたフライに,トラウトが接近,ライズした,フッキングした,ランディング成功」なんたらかんたらという過程を説明するために,次のような文章をものしている。


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◆久野康弘『ライズを釣る』(山と渓谷社,1998年)◆

 “ナチュラルドリフト”こそが,そして“早い段階からトラウトが流下物に着目”でき,“リラックスして捕食”できる状況こそが,トラウトのクチにフライを吸い込ませる最良の手段なのだ。カディスのスケーティングのように,ドラッグを与えてドリフトする場合も,もしトラウトの追跡が確認できたり,ストライクが予想できるような場所にフライがさしかかったら,可能な限りトリッキーな動きを避け,場合によってはナチュラルドリフトに移行してトラウトが“補食しやすい”状態にした方がいい。 (原文ノママ)


 何のことはない,「疑似餌は“自然に”流しなさい」と言っているだけなのだが,テクニカル・タームを随所にちりばめて,なかなかエラソウナ文章に仕立て上げようとする努力が滲み出ているではないか。さて,この書き様はギルド内部で通用するマニュアルとして成功しているものかどうか,外野席から眺める一観客としてはいささかの疑問ないし不安を禁じ得ない。

 お次は,この方面ではベテランに属する有名人(らしい)オジサンが,『アプローチの基本はクロスからダウンクロスで狙うこと』という標題のもとに,次のように書いている。


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◆西山徹『ミッジング』(山と渓谷社,1991年)◆

 フラットな流れの中のシビアなライズを,真下からアップストリームキャストで狙うとどうなるか。まずフライがライズを直撃すると,スレたトラウトはフライの着水音に驚いてしまい,スーッとどこかへ逃げてしまう。スレたトラウトには,トラウトの狭いフィッシュウインドーの中に,フライを上流から自然に流し込む必要があるのだ。そこで今度はライズのやや上流にフライをプレゼントしようとすると,最悪の場合にはフライラインが,うまく行ってもリーダーかティペットが,トラウトの頭上に落下してしまう。 (原文ノママ)


 うーん,こうなるとますますイケマセン。部外者には正直申して身体に悪い。それにつけても,このような含蓄ある文章(糞づまり文章ともいう)にウムウムともったいぶって納得できないようだと正真正銘のフライ・フィッシャーの仲間入りは出来ぬのだろうか。しかし,これじゃあギルドではなくカルトである。はてさて,こんなことで新たなる信者の獲得は果たして出来るのだろうか。これまた心細い限りである。

 もう一件だけ,関連文章を引用する。この世界では既に古典的人物かも知れぬ自称ダメ・ナチュラリストの先達が,今から20年以上も前に出した図書の中で次のように説いている(なお,この本だけは遙か昔に自ら購入したものである)。


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◆田淵義雄『フライフィッシング教書』(晶文社,1979年)◆

 マスは,その流れの中をエサが流下してきて,そのエサが自分の頭上を通過しようとした時に,自分がそのエサにライズして,流れといっしょに,ちょっとあとずさりしながら,流れの中の自分のテーブルにそのエサが乗った時に,そこでパクッとやるものなんだ。だから,必ずマスやヤマメやイワナがいそうな場所よりも1メートルは上流にフライをプレゼンテーションしなければいけません。そして,フライにドラッグがかからずにうまくマスのテーブルのまん中にフライが乗るように,スラック・キャストで投げなさい。 (原文ノママ)


 やはり符丁がちりばめられていることに変わりはない。ふた昔以上も前からこの世界はかくのごとき状況のもとに成立していたわけだ。ただし,田淵老師はこの本の「あとがき」でカタカナが多く不甲斐ない自らの文章を正直に恥じており,その姿勢には一応の好感がもてる(単に時代のなせる業か?)。確かに70年代を色濃く感じさせる文章ではあるが,少なくとも,表向きは取っつきにくいけれども実はすこぶる楽しい遊びである(らしい)フライ・フィッシングの世界を少しでも多くの人に知ってもらいたい,といった,何というか「暗視野照明的啓蒙」とでもいうべき二律背反的なココロザシを随所に感じさせる。前二者にあっては,はや全く閉じられたサークルでの内輪話に終始しているのに比べると,ずいぶん対照的である。

 要するに,西山某氏や久野某君の辿ってきた道は,彼らの業界の進化というか深化の過程,言い換えれば時代を経ると共に彼らはどんどん「ドツボにハマッていった」という訳だ。「ギルドからカルトへ」の,お定まりのパターンである。カタカナ言葉はその際の有効かつ強力な武器として常に存在してきたし,今後も存在し続けるであろう。

 てなわけで,市井の凡人たるもの,粛然として自戒すべきことではあります。
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