信ずるべきもの,あるいは「母なるもの」との交信

2000年08月29日 | タカシ
 前にも記したように(2000/08/12発信),タカシはオトーサーンと言うべきところを「オドーサーン」と言う。アキラーと言うところを「アギラー」などと言う。あるいはプレゼントのことを「プゼレント」などとも言う。舌足らずというわけでは決してないと思うが,概して発声法,言い回しが不明瞭な傾向がしばしば認められる。無自覚に,ファジイに言葉を発声している。タカシにおけるそのような表現形態は,日常の多くの場面にあって自らの発言にイマイチ自信が持てないということに由来している面も多分にあろうかと思われるが,むしろ,言語表現の有効性ないしは「言葉の力」そのものを,タカシがまだまだ信じていないためと言った方がより適当かも知れない。

 それじゃあタカシは,一体何を信じているのかな? 

 恐らくそれは彼自身の感性,意地っ張りで弱虫で気紛れでコダワリ屋であるタカシのコンプレックスな感性に素直に交信し正直に答えてくれるオブジェクト(対象物)だ。石を投げれば必ず描かれる池沼の波紋のような,打てばやがては響きを返す山のコダマのような,助けを求めればいつだって何処からともなく答えてくれる優しい母親(ん?)のような,そう,それはまさに「母なるもの」と言っていいかも知れない。多分は本能的に無意識のうちに,そんなものをひたすら信じようとしている。要するに,まだまだ「甘ちゃん」なのであります。

 しかしながら残念ながら,この膨大なる情報の洪水にまみれ,家族・友人関係すらも錯綜した複雑系のなかで寄せ鍋状態にあらざるをえない昨今の御時世にあっては,そのような対象物が「ヒト」であることはかなりムズカシイというのが実状だ。その結果どうなるかと言えば,「ヒト」との交流においてしばしば齟齬が発生する。表層的には些細な「争い事」に自らを委ねる傾向が生じる。ツマラヌ「勝ち負け」にコダワルようになる。それが高じると明らかな「負け戦」を積極的に回避するようになる。といった案配で,コドモらの世界もなかなかに困難な状況に陥っているように見受けられる(ウチの子だけかな?)

 ごく日常的に見られるタカシをめぐる光景,そのなかでもテンションの高い場面の情景は例えばこんな調子だ。家の中にあっては,あるときは菓子箱やダンボールなどを使った迷路作りに時を忘れて没頭し,あるいは新しいモンスターを次々に書き殴るようにして自由帳をまたたくまにゴチャゴチャとしたイメージで埋めてゆき,また別には『ダンス・ダンス・レボリューション』(byプレステ)の難しいステップを額に汗して繰り返し練習し,などなど。一方,外出先などでは,あるときは本屋の児童書コーナー前の通路にペッタリしゃがみこんで『怪傑ゾロリ・シリーズ』を飽きることなく熱心に読み続け,あるいはゲームセンター内を右往左往しながら面白そうでかつ当たりそうなメダル・ゲームを真剣な眼差しで時間をタップリかけて吟味・選定して巡り,また別に野外アスレチック・コースなどでは難しい遊具はハナから無視する一方でクリア出来た遊具は何度も何度も嬉しそうに再チャレンジする,などなど。

 それらの行為はいずれも,タカシにとっては相応の信頼に足る「母なるもの」との交信である。交信の結果は「喜び」となって彼の元にジカに返ってくる。喜びの獲得,それはやはり一種「戦い」の成果品であり「母なるもの」から賜る供物でありましょう。

 こういった状況を指して,世間一般では「引き籠もり症候群」あるいは「ヴァーチャル・リアリティ依存症」の予備軍などというレッテルが貼られるのだろう。けれどワタクシ自身は,自らの無知・非力を棚に上げて反論させていただくが,そのような見解には決して与しない。予めあてがわれた社会の類型的な鋳型にコドモを無理に当て嵌めようとするのではなく,コドモの感性,コドモの「言動」と,もっと共時的にかつ積極的に付き合ってゆくことによりコドモを取り巻く社会の枠組みを徐々に解読してゆく。むしろそういった方向性こそが,今,コドモの親たる者に求められているのじゃなかろうか。「初めに信じることありき」と,その昔アンリ・ベルグソンも言っていたではないか(え,そんなこと言ってない?)。

 ま,コドモなんて所詮は「昆虫」みたいなもんですから。あるいは「イチョウの実」みたいなもんですからネ。バカ親としては勝手ながら早急な結論はとりあえず保留させていただきたい。
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