アズナブール,あるいは「コキリの森のデクの樹サマ」

2001年09月20日 | 歌っているのは?
 ここ最近,深夜の秘かなタノシミ,というか夜更け時の束の間のヤスラギとして,シャルル・アズナブール Charles Aznavourのライブ・ディスクなどを聞いている。それも昔のものではなく比較的最近の,1997年から98年にかけて「パレ・デ・コングレ」で行われた公演のライブである。CD2枚組なものだから,一晩一枚にとどめて毎晩交互に聞いたりしている。これが結構飽きないんだな。とはいっても,別にじっくりと聞き入っている訳ではなく,ぼんやりと本を読んだり,片付け事をしたり,PCでデータ入力したり(いや,性分でして),そのような際のBGMとして夜の仕事場空間を劇場化しているといった感じだ。

 そこで歌っているのは御年73才のアズナブール・ジーサンなわけで,その若干しわがれたメニョメニョ声,しかし未だ十分に伸びのある歌声に例の独特の芝居じみた味のある語りを交錯させた陰影に富んだステージは,なかなかに魅力的である。決して功成り名を遂げた老人の懐旧談にとどまらず,過去のさまざまな遺産を実に鮮やかに現在に取り込んで今を生きるその真摯な姿が,まさに聴衆をしてすべからく「アズナブール世界」に没頭せしめ,ある者は陶酔し,またある者は感涙し,個々の受け手にかりそめの幸福な一体感,感性の共有をもたらす。それは言うところの「大根役者」にとって極めてまっとうな自己表現であり,またある意味では極めて過激なメッセージの発信ともなっている。「芸人魂」なんて歯の浮くようなコトバを思わず連想してしまう。それにしても,我が老いたる母の1才年下だなんて,信じられない!

 5年前の私であったら,恐らくはJSバッハの無伴奏チェロ組曲あたりを深夜のBGMとしていたような気がするが,今になってみれば,所詮バッハなんぞはドラッグ(精神安定剤or筋弛緩剤)のようなものでしかないと思える。それが悪いとは決していわないが,ドラッグに依存するくらいならいっそのこと夜更かしなんかせずにさっさと早寝した方がよっぽどマシではないかな。それに対して,アズナブールの歌には,もっとじかに問いかけてくるものが,自らを覚醒させその内面に入り込んでくるものがある。いってみれば,自省のココロを模索し,明日への糧を育む,そんなインパクトを感じさせる。スノッブな聖職者,といったら少々言い過ぎであろうけれど。

 マルセル・ムルージとシャルル・アズナブールとセルジュ・レジアニ,この御三方を「たそがれ三兄弟」などと自ら勝手に名付けていたのは(申し訳ない!),さて,いつの頃だったか? ムルージの亡き今,ワタクシの右のスピーカーからはアズナブール,左のスピーカーからはレジアニ,目を閉じると聞こえてくるのは専らそんな彼らの歌ばっかりだ。あまりに有名すぎる歌の,冒頭の一節だけを引用しておこう。


  昨日 私は二十歳だった
  私は時をいとおしみ
  愛をもてあそぶように 人生をもてあそんでいた
  時の流れに逃げ去ってゆく日々など
  少しも気にもとめず
  私は夜を生きていた
  夢物語のような計画ばかりたて
  吹けば飛ぶような希望を抱きつづけ
  結局どこへ行ったらよいか 迷ってしまったのだ
  眼は天を仰いでいるが
  心は地に葬られてしまった....


 アズナブールがちょうど50才のときに作った歌だ。それから20有余年。いささか自己陶酔気味であるのは相変わらずだが,そのステージでの見事な歌いっぷりは,未だにしっかりと「明日」を見据えていることを強く感じさせる。それはアナタやワタシに対する過去から現在,未来へと続くメッセージ,いわゆる「遺伝子の川」ってヤツなのだろう。願わくば,これから先も能う限りは現役のままで,例えていえば「屋久島の縄紋杉」のように,あるいは「コキリの森のデクの樹サマ」のように,ずっとずっと歌い続けて欲しい。
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