亡国(某国)選手が好きな完成度という言葉ですが、この曖昧な定義を理解するのはやさしくはありません。何故に完成されたではなく、完成度という表現を用いるのでしょうか?今回は、前回に引き続き、芸大の試験を例にとって解説します。
芸大日本画の実技試験は二日間で一枚、デッサンに2日、デッサンを通った者だけが着彩に2日です。着彩は花や果物が多くて予算に困り、場所も取るのでデッサンで篩(ふるい)にかけられるのです。時間で見ると、それぞれ12時間と11時間です。研究所ではそれぞれ3日で仕上げるので、試験の時は時間が足りずに困ってしまいます。それで完成度という裏技が使われるのです。
ここまで書けばお分かりのように、完成度は完成させる事とは異なります。分かりやすく説明すると、完成したら良い作品になるだろうな、という期待を抱かせるのが完成度なのです。未完成の名作で説明しましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチは未完の作品が多く、中でも『東方三博士の礼拝』や『聖ヒエロニムス』は、人体や衣服の色を着ける前で制作を止めています。何故に未完で放置されたのかというと、レオナルドの中では完成してしまったからなのです。頭の中で完成してしまい、新たなイメージの喚起をする喜びが無くなってしまったのです。野球の試合でも、継投の失敗とか目に見えていたら最後まで観る気が失せるでしょう。あれと同じで、芸術家にとっては、完成された状態が分からないで、模索しているうちが花なのです。
このように、芸術家というのは、先が見えた段階で情熱を無くす傾向にあります。僕のアンプが未完で放置されているのも同じ理由です。弟子のアンプはさすがに最後の仕上げまで何とかやりましたが…。野球ならファーム、フィギュアスケートならノービスやジュニアに興味を持つのが芸術家なのです。
しかし、このように未完で放置できるのも、実は完成度のお陰なのです。絵の場合、ラフな線描のクロッキー、小デッサン、実物大デッサンや部分(パーツ)のデッサン、下絵、トレース、本画の線描(墨入れ)、下塗り、細部描写、全体のトーンの調節、細部の仕上げ、という段階で、それぞれの完成度が要求されるのです。デッサンはデッサンを観ただけで作品として鑑賞に耐えなくてはならないのです。ですから、クロッキーの延長がデッサンという、僕のデッサン論も成立するのです。
このような高度な意識のもと、大学入試の試験と言えども、1時間経過したら1時間なりの完成度、1日目が終わったら1日目が終わったなりの完成度、という風に常に完成度が意識されているのです。これが出来ない芸術家は二流・三流なのです。アメリカのデッサンの教則本を見ると、画面の上から順番に完成させた状態で描き込んで行きます。これでは、途中の段階で観たら何が描かれているのか分からないし、一枚の絵として見て変なのです。要するに完成度がないのです。ピカソの線描のように、途中の段階でも常に鑑賞に耐えるように手順に気を配る。このような繊細な技法は、アメリカ人には絶対に出来ませんね。
デッサンの極意は、霧の中から時間と共に浮かび上がるように形と空間が形成されることです。最初の一筆から空間が意識され、まるで抽象画のような線描から、段々に具象の美しい形が描かれて行くのです。でも、僕のように教えることの出来る先生がいませんから、今の芸大生に求めても絶対に無理です。曲線を描くことが出来ず、直線でしかデッサンの出来ない平山郁夫教授が学長になった段階で芸大は終わったのです。数百万円という値段の売り絵も、大半は弟子が描いているのですから。
さて、フィギュアスケートでの完成度という表現は、このまま磨いていったら良いプログラム、あるいは良い選手になるだろうなという期待値でしかありません。実際、韓国選手は完成した演技ですが、伸びシロが無くて先が見えています。このように誉めることの難しい選手に対して、何とか言葉を選ぶと完成度という言葉しか出てこないのです。
僕が長洲未来ちゃんを誉める理由は、現段階での完成度の高さから、将来に本当に完成された時のイメージを持つことが出来るからです。これは真央ちゃんも同じですが、演技のどこを切り取っても絵になっているのです。韓国選手には、この絵としての魅力が全くありません。芸大の1次試験であっさりと落とされるグループの質なのです。未来ちゃんはジュニアワールドに回るそうですが、怪我を治して、本当の勝負の来年に備えて欲しいですね。
エフライム工房 平御幸
芸大日本画の実技試験は二日間で一枚、デッサンに2日、デッサンを通った者だけが着彩に2日です。着彩は花や果物が多くて予算に困り、場所も取るのでデッサンで篩(ふるい)にかけられるのです。時間で見ると、それぞれ12時間と11時間です。研究所ではそれぞれ3日で仕上げるので、試験の時は時間が足りずに困ってしまいます。それで完成度という裏技が使われるのです。
ここまで書けばお分かりのように、完成度は完成させる事とは異なります。分かりやすく説明すると、完成したら良い作品になるだろうな、という期待を抱かせるのが完成度なのです。未完成の名作で説明しましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチは未完の作品が多く、中でも『東方三博士の礼拝』や『聖ヒエロニムス』は、人体や衣服の色を着ける前で制作を止めています。何故に未完で放置されたのかというと、レオナルドの中では完成してしまったからなのです。頭の中で完成してしまい、新たなイメージの喚起をする喜びが無くなってしまったのです。野球の試合でも、継投の失敗とか目に見えていたら最後まで観る気が失せるでしょう。あれと同じで、芸術家にとっては、完成された状態が分からないで、模索しているうちが花なのです。
このように、芸術家というのは、先が見えた段階で情熱を無くす傾向にあります。僕のアンプが未完で放置されているのも同じ理由です。弟子のアンプはさすがに最後の仕上げまで何とかやりましたが…。野球ならファーム、フィギュアスケートならノービスやジュニアに興味を持つのが芸術家なのです。
しかし、このように未完で放置できるのも、実は完成度のお陰なのです。絵の場合、ラフな線描のクロッキー、小デッサン、実物大デッサンや部分(パーツ)のデッサン、下絵、トレース、本画の線描(墨入れ)、下塗り、細部描写、全体のトーンの調節、細部の仕上げ、という段階で、それぞれの完成度が要求されるのです。デッサンはデッサンを観ただけで作品として鑑賞に耐えなくてはならないのです。ですから、クロッキーの延長がデッサンという、僕のデッサン論も成立するのです。
このような高度な意識のもと、大学入試の試験と言えども、1時間経過したら1時間なりの完成度、1日目が終わったら1日目が終わったなりの完成度、という風に常に完成度が意識されているのです。これが出来ない芸術家は二流・三流なのです。アメリカのデッサンの教則本を見ると、画面の上から順番に完成させた状態で描き込んで行きます。これでは、途中の段階で観たら何が描かれているのか分からないし、一枚の絵として見て変なのです。要するに完成度がないのです。ピカソの線描のように、途中の段階でも常に鑑賞に耐えるように手順に気を配る。このような繊細な技法は、アメリカ人には絶対に出来ませんね。
デッサンの極意は、霧の中から時間と共に浮かび上がるように形と空間が形成されることです。最初の一筆から空間が意識され、まるで抽象画のような線描から、段々に具象の美しい形が描かれて行くのです。でも、僕のように教えることの出来る先生がいませんから、今の芸大生に求めても絶対に無理です。曲線を描くことが出来ず、直線でしかデッサンの出来ない平山郁夫教授が学長になった段階で芸大は終わったのです。数百万円という値段の売り絵も、大半は弟子が描いているのですから。
さて、フィギュアスケートでの完成度という表現は、このまま磨いていったら良いプログラム、あるいは良い選手になるだろうなという期待値でしかありません。実際、韓国選手は完成した演技ですが、伸びシロが無くて先が見えています。このように誉めることの難しい選手に対して、何とか言葉を選ぶと完成度という言葉しか出てこないのです。
僕が長洲未来ちゃんを誉める理由は、現段階での完成度の高さから、将来に本当に完成された時のイメージを持つことが出来るからです。これは真央ちゃんも同じですが、演技のどこを切り取っても絵になっているのです。韓国選手には、この絵としての魅力が全くありません。芸大の1次試験であっさりと落とされるグループの質なのです。未来ちゃんはジュニアワールドに回るそうですが、怪我を治して、本当の勝負の来年に備えて欲しいですね。
エフライム工房 平御幸