徳島の読者からぶどう饅頭と本物の葡萄を頂きました↓。葡萄はユダ族のシンボルですが、葡萄とイチジクの組み合わせなら、南ユダ王国と北イスラエル王国を暗示します。
似た組み合わせに凝乳と蜂蜜があります。この場合は、ヤコブの祝福で「ユダの歯は乳によって白く、目は葡萄酒によって赤い」と書かれているように、凝乳がユダ族、又は南ユダ王国を指します。対して、ミツバチは下エジプトのシンボルですから、蜂蜜が下ナイルで象徴されたエフライム、すなわち北イスラエルとなります。イザヤ書7章-15では次のように記されています。
「その子が悪を捨て、善を選ぶ事を知るころになって、凝乳と蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶ事を知る前に、あなたが恐れている二人の王の地は捨てられるからである」
これはアッシリアによって、北イスラエル王国と南ユダ王国が攻められる前のイザヤの預言です。凝乳は南ユダ、蜂蜜は北イスラエルの象徴ですから、岡山の読者がヨーグルトに蜂蜜を混ぜて食べたそうなので、イザヤの預言とは正反対に、二つの国の日本は一つにまとまる事になります。実に、この契機となるのが僕の旅行だったのです。
旅行の最後は、読者が是非にと案内してくれた蒲郡の竹島でしたが、竹島の名前は琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)から来ています。今の竹生島神社は、明治の神仏分離令により弁財天社から改称したもので、日本三大弁天(残りは江ノ島と厳島)の一つです。蒲郡の竹島には八百富神社がありますが、これは『千載和歌集』の選者である藤原俊成が国司として赴任した際、琵琶湖の竹生島より勧請したものとされています。この時に、竹生島の竹(ホテイチク)も移植されて、本家に倣って弁財天を祭り、今では日本七大弁天に数えられます。
ところで、僕が弁天様にこだわるのは、弁天様は学問だけでなく芸術の神様として親しまれているからです。ピカソがモデルの女性を変えるたびに画風が変化したように、昔からミューズの神は女神なのです。しかし、竹島弁財天はいくら検索しても室町時代の絵の画像しか出てこないのです。もしかしたら秘仏なのでしょうか。
竹島の八大龍神社の祭神は豊玉彦命ですが、僕は古代史で豊玉彦命はヨセフの外戚(義理の父)である、オン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラであると書いています。もうお分かりですね。祭っているのがポテペラだからホテイチクなのです。中国の唐の晩期、布袋(ほてい)のモデルとなった僧が居るそうですが、僕は布袋そのものがポテペラをモデルとしたものと思っています。唐時代の景教の影響ではないでしょうか。
竹島の竹は松竹梅の中央ですが、梅は「食べる事なかれの木(実)」で、食べたら死ぬと神に忠告された木の実を口にした人間の罪を表しています。ここから、梅の紋は「ナカレ」の紋に位置付けられます。「ナカレの紋」とは、「牛を拝む事勿(なかれ)」を表した「物」という字の部族にふさわしいもの。そう、物部氏の名前は「牛を拝む事なかれ」と言ったモーセから来ています。従って、梅の紋もモーセの一族にこそふさわしいのですが、僕は古代史で五弁の家紋はユダ族に関係しているのではと推量しています。果たして、ユダ族に付帯したモーセの子孫が梅の紋なのか?少なくとも、物部氏の布留(天理)の地で信仰を集める天理教が梅の紋である理由の説明にはなりました。梅も物もナカレなのですから。
さて、岸和田の城神社は橘と木瓜(もっこう)で、こちらもユダ族の家紋と考えられます。竹島の神社は桐の紋で南ユダのベニヤミン。竹生島は背の高い浅井姫命の切り落とされた首が島になったとされていますが、背の高い姫様と言えばどう考えてもオンの祭司ポテペラの娘アセナテですよね。獄から宰相に取り立てられた小柄なヨセフが結婚したのが背の高いアセナテ。要するに、弁財天のモデルはアセナテだったのです。このように、僕の今回の旅は、徳島と岡山のエフライム(北イスラエル)から、岸和田の南ユダを経て、最後にエフライムの母であるアセナテが弁財天として祭られる竹島で終わったのです。
僕の旅は、分裂したイスラエルが元の一つに戻る未来の象徴でした。今回のルートに入らなかった地方へも、やがて足を運ぶ機会があると思います。奇しき因縁があればこその日本の旅。僕の封印を解く行脚も続きそうです。
エフライム工房 平御幸
似た組み合わせに凝乳と蜂蜜があります。この場合は、ヤコブの祝福で「ユダの歯は乳によって白く、目は葡萄酒によって赤い」と書かれているように、凝乳がユダ族、又は南ユダ王国を指します。対して、ミツバチは下エジプトのシンボルですから、蜂蜜が下ナイルで象徴されたエフライム、すなわち北イスラエルとなります。イザヤ書7章-15では次のように記されています。
「その子が悪を捨て、善を選ぶ事を知るころになって、凝乳と蜂蜜とを食べる。それはこの子が悪を捨て、善を選ぶ事を知る前に、あなたが恐れている二人の王の地は捨てられるからである」
これはアッシリアによって、北イスラエル王国と南ユダ王国が攻められる前のイザヤの預言です。凝乳は南ユダ、蜂蜜は北イスラエルの象徴ですから、岡山の読者がヨーグルトに蜂蜜を混ぜて食べたそうなので、イザヤの預言とは正反対に、二つの国の日本は一つにまとまる事になります。実に、この契機となるのが僕の旅行だったのです。
旅行の最後は、読者が是非にと案内してくれた蒲郡の竹島でしたが、竹島の名前は琵琶湖の竹生島(ちくぶじま)から来ています。今の竹生島神社は、明治の神仏分離令により弁財天社から改称したもので、日本三大弁天(残りは江ノ島と厳島)の一つです。蒲郡の竹島には八百富神社がありますが、これは『千載和歌集』の選者である藤原俊成が国司として赴任した際、琵琶湖の竹生島より勧請したものとされています。この時に、竹生島の竹(ホテイチク)も移植されて、本家に倣って弁財天を祭り、今では日本七大弁天に数えられます。
ところで、僕が弁天様にこだわるのは、弁天様は学問だけでなく芸術の神様として親しまれているからです。ピカソがモデルの女性を変えるたびに画風が変化したように、昔からミューズの神は女神なのです。しかし、竹島弁財天はいくら検索しても室町時代の絵の画像しか出てこないのです。もしかしたら秘仏なのでしょうか。
竹島の八大龍神社の祭神は豊玉彦命ですが、僕は古代史で豊玉彦命はヨセフの外戚(義理の父)である、オン(ヘリオポリス)の祭司ポテペラであると書いています。もうお分かりですね。祭っているのがポテペラだからホテイチクなのです。中国の唐の晩期、布袋(ほてい)のモデルとなった僧が居るそうですが、僕は布袋そのものがポテペラをモデルとしたものと思っています。唐時代の景教の影響ではないでしょうか。
竹島の竹は松竹梅の中央ですが、梅は「食べる事なかれの木(実)」で、食べたら死ぬと神に忠告された木の実を口にした人間の罪を表しています。ここから、梅の紋は「ナカレ」の紋に位置付けられます。「ナカレの紋」とは、「牛を拝む事勿(なかれ)」を表した「物」という字の部族にふさわしいもの。そう、物部氏の名前は「牛を拝む事なかれ」と言ったモーセから来ています。従って、梅の紋もモーセの一族にこそふさわしいのですが、僕は古代史で五弁の家紋はユダ族に関係しているのではと推量しています。果たして、ユダ族に付帯したモーセの子孫が梅の紋なのか?少なくとも、物部氏の布留(天理)の地で信仰を集める天理教が梅の紋である理由の説明にはなりました。梅も物もナカレなのですから。
さて、岸和田の城神社は橘と木瓜(もっこう)で、こちらもユダ族の家紋と考えられます。竹島の神社は桐の紋で南ユダのベニヤミン。竹生島は背の高い浅井姫命の切り落とされた首が島になったとされていますが、背の高い姫様と言えばどう考えてもオンの祭司ポテペラの娘アセナテですよね。獄から宰相に取り立てられた小柄なヨセフが結婚したのが背の高いアセナテ。要するに、弁財天のモデルはアセナテだったのです。このように、僕の今回の旅は、徳島と岡山のエフライム(北イスラエル)から、岸和田の南ユダを経て、最後にエフライムの母であるアセナテが弁財天として祭られる竹島で終わったのです。
僕の旅は、分裂したイスラエルが元の一つに戻る未来の象徴でした。今回のルートに入らなかった地方へも、やがて足を運ぶ機会があると思います。奇しき因縁があればこその日本の旅。僕の封印を解く行脚も続きそうです。
エフライム工房 平御幸