平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

危険な平等主義

2011-12-31 12:41:17 | Weblog
 激動の2011年も最期の日となりました。何を書こうか悩んでいたら、SNSでアニソンが出たので、前から温めていた考えを書こうと思います。今のアニソンは、悪平等の権化です。

 少し前に『マクロスF(フロンティア)』がU局で放送されていました。初回だけ見逃したのですが、あとは最後まで録画して見ました。この中に二人の歌姫が登場するのですが、主役はランカ・リーという中国名とウリナラ名の合成。テーマ曲も、ウリナラ語を連想させる歌詞でした。ちなみに、作画の中にウリナラ企業も入っています。

 もう一人はライバルのシェリル・ノーム。こちらは不幸な身の上のアイドルですが、二人に共通するのは、肝心の歌で目立たないということです。最初は曲や歌詞が悪いのだろうと思いましたが、どうもそうではなく、バックバンドやコーラスを含めた編成の中で目立たないように扱われているのです。僕はここに、悪しき平等主義を見ました。

 オーディオ評論家の長岡鉄男氏は、天才を出る釘にたとえ、日教組の教育方針は出る釘を叩く悪しき平等主義にあると批判していました。僕は天才ですから、それを身を持って知っているのですが、僕のような反骨心の塊でない普通の小中学生は、日教組の洗脳によって、目立つことを悪だと思うようになります。そんな洗脳された彼らが、今のアニソンを異常と感じないのです。

 今年にゴリ押しされたAKB48やK-POOPも、特に目立つ主役のいないユニットです。主役を意味するセンターはジャンケンで決めるという徹底ぶり。これでは、優れた歌唱力を持つソロボーカリストは音楽界から駆逐されてしまいます。しかし、歌というのは基本的に独立した個人の内的な表現なのです。それが普遍性を持っていれば多くの人に受け入れられ、また時代を超えて愛されるのです。

 そういう意味では、ボーカロイドという新しいジャンルも先が見えてます。初音ミクという仮想歌手は、結局は個人の感性を殺してしまうからです。才能や時間のない人が手軽に歌詞付きの歌を作れるメリットはありますが、それがなぜ初音ミクというキャラクターでなくてはならないのでしょうか。

 バブルの頃に、やたらとブランド品で飾る気持ちの悪い女が増えました。彼女らの深層心理は、虚しくて空っぽの虚栄なのです。虚栄だから、ブランドに寄生して、自己の価値の底上げを画策する。でも、結局は整形と同じで、常に不安に苛まれ、自分に本当の自信を持つことは許されないのです。コンプレックスの権化となっただけでした。

 自分を大切にするということは、他人の創り上げた価値に寄生することではなく、下手でも自分の声で歌い、下手でも自分の手で描くところから始まります。どんなプロも最初は素人。そこから自分を諦めずに磨いた人が、いつかは本当の自分を表現できるようになるのです。

 ブランドは買うものではなくて自分で作るもの。エフライム工房の基本的な精神は、買うよりも作れ。作れないで買うなら、作った人を尊敬しろ。家庭菜園の野菜でも、作った人はその価値を知る。作る事の本質を知らない人は、平気で作る人の心を踏みにじるのです。その結果が悪平等で、主役も作者も不在の音楽。

 ということで、楽器として使えないポストホルンさえ楽団に迎え入れた天才モーツァルトの音楽で、ゆく年くる年を迎えましょう。モーツァルトは楽器の悪平等ではなくて、ちゃんと個性を尊重して調和を創りだしたのです。そういう意味では、オーケストラと落ちこぼれも出そうで出なかったSNSは似ています。紅白?なにそれ美味いニカ?

      エフライム工房 平御幸
コメント (2)
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