平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

失うことの矛盾

2017-08-27 09:47:54 | Weblog
家族や友人や最愛のペットを失くした時の喪失感。僕の場合は作った作品が行方不明になった時も喪失感に苛まれます (ー_ー;)

未来ばかり見ていれば、また作れば良いと思えるかもしれませんが。良い作品を生み出した時の充実感は、何年たっても色褪せない感覚として残っています。『のだめカンタービレ 最終楽章』で、主人公が演奏をやりきった後、もう二度とこのような演奏はできないと、自分から逃げるシーンが有ります。

自分から逃げる。それは日常ではよくあることで、結婚前のマリッジブルーもその一つだと思います。でも、これはメカニズムが少し違う (゜o゜;

なぜなら、まだ手に入れてないのに、失うことを畏れて逃げているからです。失恋したことのある人は、誰でもが恋愛に臆病になる。幸福から絶望へのダイビングを経験すると、人は飛ぶことに躊躇するようになる。飛ぶことが怖いのではなくて、その後に失うことの辛さに耐えられないのです。

手に入れなければ失うことはない。だから、手に入れる幸福を追求するよりも、失わないで絶望に陥らないように予防線を張る。人間とはかくも複雑な生き物なのです。でも、この光でも闇でもない矛盾に満ちたグレーの人生では本当にいいのだろうか?

坂田靖子のコミック『バジル氏の優雅な一日』に、友人の議員に向かって「君は諦めるためにここへ来た」とたしなめるシーンがあります。諦めることに慣れると、人は無力な自分を正当化するようになる。手に入らないブドウは酸っぱい。反対に、釣り逃した魚は大きい。愚痴と誇大妄想に人生の後半が費やされる。

これと正反対なのがドキュンの夫婦。はためにドキュンでも、彼らは自分の妻を最高だと信じ、自分の夫を最高だと信じている。僕はドキュンは苦手ですが、この伴侶への信仰の強さだけは感心します。だから、自分たちの子供にも最高の名前を与えて満足する。たとえドキュンネームと ( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) されてもお構いなし (;^ω^)

天理教では、自分の伴侶に不足をつけてはいけないと教えます。不足をつけるとは物足らなく思うこと。これは大切な真理です。不足に思うと浮気して家庭崩壊に至る。また、姑と折り合いが悪くなる。では、どうして不足に思うのか?それは、マザコンやファザコンからくる甘えなのです。

この甘えを宗教的に利用したのが仏教。仏教の信仰とは、阿弥陀如来や観音菩薩に対する絶対的な甘えにあるのです。子供が胡麻擦って、親からお菓子をもらうのと基本的に同じ。

自分の甘えを認識して克服しないと、自己愛を相手に押し付けるようになる。それが破局をもたらすまで増幅されると収集がつかなくなる。双方とも歩み寄ることで解決しないと。

また、自己主張が強くなるというよりは、嫌われたと思ったり、自分の欠点を過剰に気にする人がいます。若い時は誰でも容姿を気にするけど、愛されたいと願うよりも、自分が愛することのほうが何万倍も大切。愛する者は愛され。愛さない者は愛されない。愛は鏡のごとし。

整形して美人になったと錯覚した女が、不自然な顔が嫌われて男に逃げられる。美は手にしたが幸福は失った。このように矛盾は至るところにあり、結局は何を手に入れたいかという目的と、そのための手段が大切なのですね。手段が目的になるのを趣味と言うと、オーディオの神様・長岡鉄男が書いていました。恋愛が趣味になると、ドン・ジョバンニという題名のモーツァルトのオペラ・ブッファの世界。最後は、ドン・ジョバンニが地に飲み込まれてしまいます (・。・;

Don Giovanni - Amadeus (1984)
https://www.youtube.com/watch?v=IZbl6jQuyuM
コメント (13)
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