多磨全生園の自治会長として、らい予防法の改正・廃止の運動に早くからかかわってきた松本馨さんについては、荒井英子さんの書かれた「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店 1996)を通じて知ったが、「信仰と人権の二元性」を越えるキリスト者の実践のあり方を知る上で、彼の無教会主義キリスト教の信仰がいかなるものであったのか知りたいと思った。
松本さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」を纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容に強く惹かれた。
松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。
戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。
松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。世俗の直中において福音を証すること、という無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。
晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっておられ、2003年5月から前田靖晴さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの校正と推敲の作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことであった。 松本馨さんの公刊された著作(単著)は、
(1)「この病は死に至らず」(1971) キリスト教夜間講座出版部
(2)「十字架のもとに」(1987) キリスト教図書出版社
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」 (2003) 文芸社
の4点である。
(1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能だが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しい。
これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版された。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四号にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せているが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。
現在のところ、「小さき声」を創刊号から第12号までを電子テキストとして復刻した。1962年9月から1963年8月までである。全体のほんの一部に過ぎないが、松本さんの声に、虚心に耳を傾けたいという気持ちから始めたものである。
ところで、「小さき声」という伝道の書の「小さき」が何を意味するかについて考えてみた。列王記上19章のホレブに於ける預言者エリヤが「主」とであった経験を叙述する箇所につぎのような文がある。
そういう「かすかな沈黙の声」、そのなかに主の声を聞いたエリヤに倣って、私は松本さんの過去からの「小さき声」のメッセージに耳を傾けたい。
松本さんが1962年(昭和37年)から1986年(昭和61年)にかけて毎月一回刊行された個人誌「小さき聲」を纏めて製本したものが全生園の図書館にある。私は「小さき聲」の最初の100頁ほどを読んだが、その内容に強く惹かれた。
松本さんは1918年4月25日、埼玉県に生まれ、1935年、17歳の時にハンセン病と診断されて、全生病院に収容され、2005年5月23日に、87才でなくなられるまで、70年の間、療養所で過ごされた。プロミンが開発される前の戦前の療養所、戦中のもっとも苦しい暗黒の時代、戦後まもなく起きた最初の予防法改正運動、1960年代後半の自治会再建の呼びかけ、療養所の歴史を療養者の目から纏めた「倶会一処」の刊行、ハンセン病図書館の創設、など療養所の過去の歴史をつぶさに体験しつつ、そのただなかで活動された方である。
戦後まもなく、奥様が若くしてなくなられたあと、御自身も1950年に失明されるという大きな試練に出会われたが、関根正雄の無教会主義キリスト教との出会いによって立ち直られ、1962年から一信徒としての伝道の書「小さき声」を24年にわたって刊行された。
松本さんの伝道活動は、全生園のなかでの自治会活動と不可分の関係にある。世俗の直中において福音を証すること、という無教会主義の思想の実践者として、1968年に自治会の再建を呼びかけ、1974年から87年までの13年間、自治会長として、また全国の療養所の支部長会議と連帯しつつ、らい予防法の改正ないし廃止の必要性を訴えられた。そういう活動も、多磨誌への寄稿も、「小さき声」の刊行も、すべて、盲目と肢体麻痺というハンディキャップを乗り越えて、多くの方々の協力を得て為されたものである。
晩年の松本さんは、口述筆記故の誤植を含むこの個人誌を推敲した上でもういちど出版したいという願いをもっておられ、2003年5月から前田靖晴さんのご協力を得て読み上げの作業を続けられた。 2004年7月にこの校正と推敲の作業が一応終了したので、前田さんは修正ずみの原本を拡大コピーし、数部を製本された。現在ハンセン病図書館にあるものはそのうちの一部であるとのことであった。 松本馨さんの公刊された著作(単著)は、
(1)「この病は死に至らず」(1971) キリスト教夜間講座出版部
(2)「十字架のもとに」(1987) キリスト教図書出版社
(3)「生まれたのは何のために―ハンセン病者の手記」 (1993) 教文館
(4)「零点状況―ハンセン病患者闘いの物語」 (2003) 文芸社
の4点である。
(1)(2)(3)はハンセン病資料館で閲覧可能。また(4)は新刊として入手可能だが、あとはなかなか書店から入手するのも、一般の図書館で閲覧するのも難しい。
これらの著作の内、創作である(4)以外は、すべて「小さき聲」に掲載されたものを中心として編集・出版された。たとえば(1)の第一部は、松本さんの「回心記」であって、「小さき聲」の一号から二四号にわたって連載された。松本さんはこの「小さき聲」を毎月刊行しつつ、自治会の激務をこなされ、同時に、「多磨」誌におおくの評論を寄せているが、そういう自治会活動にかかわる評論も(1)の第三部に収録されている。
現在のところ、「小さき声」を創刊号から第12号までを電子テキストとして復刻した。1962年9月から1963年8月までである。全体のほんの一部に過ぎないが、松本さんの声に、虚心に耳を傾けたいという気持ちから始めたものである。
ところで、「小さき声」という伝道の書の「小さき」が何を意味するかについて考えてみた。列王記上19章のホレブに於ける預言者エリヤが「主」とであった経験を叙述する箇所につぎのような文がある。
「見よ、主が過ぎゆかれ、主の前に強い大風が山を裂き、を砕いた。しかし、風の中には主はいまさなかった。風の後に地震があったが、地震の中には主はいまさなかった。地震の後に火があったが、火の中に主はいまさなかった。火の後でかすかな沈黙の声があった」この「かすかな沈黙の声」のなかに、預言者エリヤは、主の声を聴く。この声こそ、松本さんの「小さき声」そのものではないだろうか。大風、地震、火のような天変地異、大げさな現象の中には主はいない。むしろ、その後の、「かすかな沈黙の声」のなかでエリヤは主とであう、という内容である。
そういう「かすかな沈黙の声」、そのなかに主の声を聞いたエリヤに倣って、私は松本さんの過去からの「小さき声」のメッセージに耳を傾けたい。