松本馨文庫に「預言と福音」300号によせてをアップした。そのなかに次のようなくだりがある。
松本馨さんのためにテープレコーダーの購入資金カンパが無教会千代田集会で1961年になされた。これによって、以後、テープによって、関根正雄の講義を聴講。1963年8月には『預言と福音』第149号の表紙裏に2頁に「小さき声」掲載された。1967年11月26日、鴎友学園での『預言と福音』200号記念感謝会に松本馨さんも出席された。これが失明後の初めての外出であったという記事を読んで、あらためて松本さんの置かれていた状況に気づく。
私が今井館で関根正雄の旧約聖書講義を聴いたのは1980年代であったから、松本馨さんが関根正雄から決定的な影響を受けたときよりもしばらくあとになる。関根正雄氏から「信頼的絶望」とか、「無信仰の信仰」という言葉を聴いたとき、私の場合は、必ずしも氏の考え方に同調出来たわけではない。
しかし、「小さき声」に収録された松本馨さんの文章は、関根正雄の言葉に独特のレアリティを与えていることに気づいた。言葉の意味は、それを初めて述べたひとよりも、その言葉に動かされ影響された人によって、深まりを増していくと云うことがあると思う。「信頼的絶望」という言葉は、松本馨さんの回心経験という文脈に置かれたとき、私にとってかつて無かったような實在感を獲得したのである。
N氏が関根正雄と袂を分かち、社会復帰していったあとでは、松本さんは、暗誦した聖書の言葉と、関根正雄の「預言と福音」の言葉によって生かされるようになる。そして、園外へは「小さき声」を刊行しつつ、園内では自治会活動という100%世俗的な活動に従事する。これもまた、100%世俗の中に生きることが、100%信仰の中に生きる事になると言う関根正雄の思想の実践であった。
「私が「預言と福音」の購読者になったのは、一九五〇年の十月か十一月ではなかったかと記憶しているが、予め雑誌の内容を知って購読したわけではない。当時先生の名前さえ知らなかった私は、友人のNが先生の読者である事を知って、彼に依頼し取り寄せたのである。この年の春、私は一夜にして失明し、失意のどん底にあった。自分を打つ怒りの神が、同時に恵みの神である事が分らないで、地獄の苦しみを経験していた。暗い病棟の一隅で、この神が分らず幾度か呼吸難に陥り失神しかけた。そんな中で、藁にも縋る思いで闇雲に二、三の雑誌を取って見た。その中に「預言と福音」が入っていたのであるがこの様な状況の中で、雑誌を読んでも分る筈がなく、霧の中を彷徨う思いであった。然し、神は私を見捨て給わなかった。ロマ書三章二一節以下を通し、御自身を啓示されたのである。そして、約二年後の一九五二年に、始めて先生が全生園に見えられ、十字架を私に指し示して下さった。私にとって第二の回心とも言うべき出来事であった。」関根正雄が初めて全生園を訪れたのは、1952年6月20日。無教会千代田集会から、約10名位の信徒が同行したとのこと。(森田外雄氏作成の略年譜による)。これが第一回の聖書講義であった。第二回の聖書講義(9月10日)のテーマは「詩編40」。それ以後、1954年12月まで、毎月第二日曜の夜、全生園で集会が開かれ、詩編の講義が続けられた。1955年は年4回、1956年からは年に1,2回の訪問となるが、1970年頃まで続けられた。関根正雄が最後に松本馨を訪問したのは1995年11月29日とのことである。 1955年7月、『預言と福音』第58号に、松本馨から関根正雄宛の書簡、「ヨブのごとく-ある癩盲の兄弟から-」が掲載されている。
「私が厳しい試練に立たされたのは、Nが先生と別れて独立する、と言い出し、先生か、自分か、どちらかを選ぶ様に二者択一を迫った時であった。私は独立するだけの勉強もしていないし、先生から十字架の信仰を学ぶ為にNと別れた。Nと別れる事は、私にとって自分に死ぬ事であった。私の為に聖書と雑誌を読んでくれる者はN以外に居なかったからである。この問題の起る前に、教会にとどまる事が良心を偽る事であり、神を試みる事であると知らされ教会を出た。教会を出る事は聖書暗誦の奉仕者である二人の兄姉に別れる事であり、聖書と訣別する事でもあった。この時も私は自己に死んだ。そして最後に残ったNとも別れる事になったのである。その後、Nは、私が購読している雑誌だけは読んで上げる、と申し出、何ケ月か続いたがある日、「預言と福音」を持って面会所の個室に行った時、今後「預言と福音」は読まない、と自分の用意して来た雑誌を読んだが、私の耳には何も聞えなかった。あまりにもその衝撃が大きかったからである。神は何故私だけをかく懲らしめ給うのか、私には分らなかった。そして、暗黒の中で幾日も祈り続けた。然し、神は試みに耐え得ないほどの苦しみに合わせ給わない。私から総べてを奪った神は、私の為に、ある準備をしていて下さった。それは先生と、千代田集会の教友達が、私の為に目となるテープレコーダー購入の為の寄附を募っていて下さったのである。」この文は前にも一部引用したが、松本さんが秋津教会を離籍したこと、聖書を暗誦してくれる人を失い、『預言と福音』を盲目の自分に替わって読んでくれたN氏とも訣別したと云うところ、ある危機的状況に松本さんが居たことが判る。そして「暗黒の中で幾日も祈り続けた」。しかし、「私から総べてを奪った神は、私の為に、ある準備をしていて下さった」。絶望の極みから、一転した信頼への転調ー松本さんのこの回想そのものが、旧約聖書詩編の中で我々がであう回心経験の叙述そのものではないだろうか。
松本馨さんのためにテープレコーダーの購入資金カンパが無教会千代田集会で1961年になされた。これによって、以後、テープによって、関根正雄の講義を聴講。1963年8月には『預言と福音』第149号の表紙裏に2頁に「小さき声」掲載された。1967年11月26日、鴎友学園での『預言と福音』200号記念感謝会に松本馨さんも出席された。これが失明後の初めての外出であったという記事を読んで、あらためて松本さんの置かれていた状況に気づく。
私が今井館で関根正雄の旧約聖書講義を聴いたのは1980年代であったから、松本馨さんが関根正雄から決定的な影響を受けたときよりもしばらくあとになる。関根正雄氏から「信頼的絶望」とか、「無信仰の信仰」という言葉を聴いたとき、私の場合は、必ずしも氏の考え方に同調出来たわけではない。
しかし、「小さき声」に収録された松本馨さんの文章は、関根正雄の言葉に独特のレアリティを与えていることに気づいた。言葉の意味は、それを初めて述べたひとよりも、その言葉に動かされ影響された人によって、深まりを増していくと云うことがあると思う。「信頼的絶望」という言葉は、松本馨さんの回心経験という文脈に置かれたとき、私にとってかつて無かったような實在感を獲得したのである。
N氏が関根正雄と袂を分かち、社会復帰していったあとでは、松本さんは、暗誦した聖書の言葉と、関根正雄の「預言と福音」の言葉によって生かされるようになる。そして、園外へは「小さき声」を刊行しつつ、園内では自治会活動という100%世俗的な活動に従事する。これもまた、100%世俗の中に生きることが、100%信仰の中に生きる事になると言う関根正雄の思想の実践であった。