歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

「小さき声」復刻-第13号について

2005-11-08 |  文学 Literature
小さき声の第13号を復刻した。42年前の9月に書かれた文章である。秋の虫の声を聞きながら松本さんが思ったことーそれが率直に綴られている。全生園は草木の多い所であるから、虫の大群のうめきは、松本さんには、「無数に地の底から湧き上がってくる」ように聞こえる。決して俳人が虫時雨と形容するような生やさしいものではない。その声は松本さんにはどのように聞こえたのであろうか。

松本さんは旧約聖書詩編22の6節
「しかし、わたしは虫であって、人ではない」
を引用する。旧約聖書では「虫」は人間の尊厳を踏みにじられたものの象徴である。松本さんは、妻と死に別れ、肢体不自由である上にさらに盲目となり、来る日も来る日も壁に向かって「石のように」座しているような状況、「神の言葉の飢餓」に苦しんでいるさなかに、旧約聖書のこの言葉にであう。詩編22の1節は、イエス十字架の上で言われた言葉でもある。 松本さんは、パウロの次の言葉も引用している。
「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ロマ書8章22節)。

「小さき声」の第二号に書かれた「ミミズの歌」では松本さんはご自身を、土を食らっていきるミミズに喩えている。光りを奪われた自己が生きる世界はまさにミミズの生きる地中の世界であり、自己の体内にできる「空洞」を神の言葉が通過する、そういうすさまじい心象風景を彼は詩にしていた。そういう松本さんにとって、秋の虫の集く声は、そのまま救済を求める被造物の訴えに重なる。十字架に付けられたイエスは、詩編22の詩人が予言した如く、人間であることさえ放棄して、みずから虫となって、松本さんに直に語りかける存在である。キリストは神とひとしきものであることを放棄して人間になられた。そして十字架の死を引き受けられたとき、人間であることも放棄され、「虫」になられたのである。それはすべて苦しみの中にいる被造物を救うためであったーそのようなイエスに出会い、自己自身よりも低きところに、苦しみの底の底まで、絶望の底の底までくだりたもうたイエス。その十字架上の死に自己自身を重ねるところにキリスト教への回心があったこと、このようなイエスを信じる復活の信仰こそが自己を活かすものであること-この原体験を伝えるために、松本さんは繰り返し繰り返し、自己の回心の瞬間に立ち返るのである。
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1 Comments

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虫の声 (T. Endo)
2005-11-14 20:01:02
虫時雨を被造物の救済を求めるうめきととらえるところ、また、人となられただけでなく、人のしての尊厳も捨てられて虫となられたというところ、松本さんの十字架の信仰の徹底したところを教えて頂きました。有り難うございます。
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