故渡辺清二郎氏の遺稿集「いのち愛(かな)しく」(昭和五〇年一二月八日)のなかに岩下壮一神父の面影を彷彿させる回想記が収録されているので、その一部を引用します。
「前院長ドルトワール・ド・レゼー神父様が重体の折、お部屋が健康者地区にあるため患者は思うように神父様をお見舞いすることも出来ず、大変つらいおもいをさせたことをご承知になり、ご自分の場合は、そんなことのないように「僕が病気の時は、みなさんが自由に見舞いに来られるように、お祈りもしていただきたいしね」などと申された。私はこのお言葉を聞き、胸底に熱いものがこみあげてくるのをどうすることもできなかった。そして神父様はそのお言葉の如く、そこでご臨終を迎えられたのである。(岩下神父は、昭和一五年、ご自分の洗礼名の由来する聖フランシスコ・ザビエルの祝日12月3日に帰天された)・・・・・
楽しい思い出の一つに年中行事の春の山行きがある。この日、果物、飲料などたくさんのお弁当を準備して軽症なもの達が婦女子をまじえて長尾峠、芦の湖方面へ遠足するのである。神父様は一策を案じられ、子ども達を病院専用のT型フォード(旧式で有名であった)に乗せて、御殿場街道を東に向かって先発させ、そして正午過ぎ、峰伝いに汗に喘ぎながら登っていった大人達の一行と長尾峠近くで合流するように計らわれたのである。見晴らしのきく芝原に一同うちくつろぎ、食べる弁当の味は又格別であった。下界はるか沼津市街をはじめ静裏湾から蒲原方面へゆるく海岸線が流れ、大瀬崎辺りは淡く霞んで実にのどかな眺望である。いつしか私たち数名のものは神父様を囲んで、草原に寝ころがって天を仰いでいた。すると神父様が大きな声で「赤城の子守歌」を歌い出された。われわれもそれに和した。雲が湧いては頭の上を流れていく。しばし我が身を忘れ、俗塵を離れて雄大な大自然の懐に憩ったのである。・・・
秋の行事の運動会には、少年組に出場して子ども達と勝負を競うのであるが、その一つに小豆の入った袋を頭に乗せて競争する番組があった。これは頭の安定がないと、なかなか走れない。しかし、神父様は足がお悪いから子ども達のように安定がつけ難い。それで負けず嫌いの新婦様が子ども達に負けまいとして歯を食いしばり、ゴールに駆けててくる。そのご様子が私の眼前に彷彿と浮かんでくるのである。なお神山名物の野球試合の時、神父様のジャンケンの相手は三郎少年に決まっていたが、ある試合中、神父様が失策されたので頭から神父様を怒鳴りつけてしまった。あ、しまったと思ったが後の祭り、神父様は頭を地にこすりつけて謝っておられる。全く汗顔の至りであった。・・・・
懐かしい神父様の思い出は尽きないのであるが、思いあまって言葉足らずになってしまい、充分に筆に表し得ない無力さを残念に思う。擱筆するにあたって、優れた司祭、学者、経世家であられた神父様が、最高学府の教授の栄職も抛って、働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた生涯は、平和や人権が叫ばれるにもかかわらず、人命が軽視され、道義の退廃眼を覆わしめるものがある、暗く腐敗した現代社会に対して、軽少を乱打しているように思われてならない。」(「岩下神父様のこと」、初出は昭和三〇年「黄瀬」六月号)
復生記念館学芸員の森下裕子が語られた「神山復生病院の歩み」というオンライン講演(国立ハンセン病資料館企画 2021/11/27)で、上の渡辺清二郎氏の回想と重なる岩下壮一神父の「映像」をYoutubeで視聴できました。とくに、秋の行事の運動会で子ども達と一緒に走っている岩下壮一神父の姿など、開始から22分くらいのところに収録されています。「働き盛りの年代を田舎において癩者の友として過ごされた」岩下神父のありし日の姿を彷彿とさせる貴重な記録です。
私自身が神山復生病院を訪問したのは15年ほど前で、おりしも大多数の患者が高齢化した多磨全生園で療養所の「将来構想」が論議されていたころでした。高齢化した回復者のリハビリ治療を、一般の病院の患者さんとともに行うかたちで地域社会に施設を開放した「神山復生病院」は、単に日本で最も古い私立のハンセン病病院と言うだけでなく、「隔離から共生に」むかう療養所の将来像をも示していると感じた次第です。