自己物語と救済ー明石海人、北條民雄、東條耿一の生と死(脚注)
脚注
[1] 「日本のハンセン病問題」は日本人の韓国と台湾に対する戦中戦後の責任問題も含むということは注意されるべきである。
[2] ここに云う「カトリック」とは、使徒信条に云う「普遍の教会」であって、ローマン・カトリックとか「聖公会」のような特殊な教団に限定されない。信仰告白は、「私は信じる」と述べるものなのであって、決して「我々は信じる」ではない。常に「一人称単数」で宣言するところに、信仰宣言ないし信仰告白(Credo=I believe)の特徴がある。それは、組織のメンバーとしての「我々」の中に個の主体性を埋没させることではなく、あくまでも「一個人に徹する」ことを通じて、「普遍の教会」を信じることを「公に」宣言するのである。
[3] 昭和10年代の療養所の検閲、また、一般の文壇に於ける検閲がどのようなものであるかは、戦後になってから北條民雄全集が再刊されたときに、川端康成が公開したつぎのような療養所の「検閲係」からの書状に示されている。
「謹啓愈々御清栄の段奉賀上候陳者毎度本院収容患者に対して種々と御懇篤なる御指導を賜り誠に有難く御礼申上候。扱て先日来故北條民雄の遺稿に関して之が検閲方を光岡良二より申出有之侯。依て慎重なる検閲の結果、只今御手許へ御送附申上候二編は本院の統制上之が発表せられるは甚だ面白からざる事と存ぜられ候実は故北條民雄の旧友よりの懇望も有之一応右の二編の遺稿を御送附申上候条、何卒御高覧の上は御迷惑ながら御返却被下度伏御依頼申上侯
全生病院検閲係 昭和十二年十二月三十一日 川端康成殿」
[4] 近現代日本ハンセン病問題資料集成(藤野豊編・解説 2002.6- 不二出版)戦前篇第5―6巻参照
[5] 当時の愛生園は、定員過剰のため、12.5疊の部屋に平均して8名から10名の者が雑居生活をしていた。園内作業の賃金は、定員分の経常費から捻出していたため、定員過剰に伴い園内作業賃も切りつめられた。長島事件とは、患者たちが結束して「待遇改善、作業慰労金の値上げ、患者自治会の結成、職員総辞職」を掲げ、作業をボイコットした事件である。この患者作業ボイコットは、昭和11年8月13日に始まり、岡山県の特高課長の仲介で、8月28日に中止された。
[6] 津田せつ子(渡辺立子)曼珠沙華より「北條さんの思出」(昭和56年私家版)
[7] 「人間北條民雄」『医事公論』特輯 昭和14年3月18日
[8] 真筆版北條民雄日記 昭和12年 「柊の垣にかこまれて」(山下道輔・荒井裕樹編集 平成16年6月)による。
[9] 伏せ字(天皇)
[10] 伏せ字(偶像)
[11] 伏せ字(偶像)
[12] 伏せ字(マルキシズム)
文末脚注
本文で言及した萩原朔太郎の詩とともに、東條耿一のいくつかの詩を文末脚注としてここに補足する。なお東條耿一の全作品は
https://tourikadan.com/yutaka_tanaka/tojo/tojo_index.htm
で閲覧できる。
ここでは、本文で引用した作品を注釈で紹介したい。
[i] 樹々ら悩みぬ
―北條民雄に贈る-
東條耿一
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
樹樹ら 悲しげに 身を顫はせて呟きぬ
蒼夜なり
微塵の曇りなし
圓やかに 虔しく 鋭く冴え
唯ひとり 高く在せり
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
樹樹ら 手をとり 額をあつめ
あらはになりて 身を顫ふ
されど地面にどっしりと根は張り
地面はどっしりと足を捉へ
(悲しきか)
(悲し)
(苦しきか)
(苦し)
樹樹らの悩み 地に満ちぬ
彼等はてもなく 呼び應ふ
ああ月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
樹樹ら 翔け昇らんとて
翔け昇らんとて 激しく身悶ゆれど
地面にどつしりと根は張り
地面はどつしりと足を捉へ
(昭和十二年 「四季」 十一月号)
[ii] 閑雅な食慾
萩原朔太郎
松林の中を歩いて
あかるい氣分の珈琲店かふぇえをみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。
をとめは戀戀の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふくを取って
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である
===================
閑雅な食欲
東條耿一
食卓の上に朝日が流れてゐる
どこかで木魚の音がする
読経の聲も微かに聞える
わたくしは食卓の前に
平らな胡座をくんで
暫くはホータイの白い
八ツ手の葉のやうな自分の手をながめる
いつの間にこんなに曲つてしまつたらう
何か不思議な物でも見る心地である
わたくしはその指に
器用に肉又(フォーク)をつかませる
扨て、と云つた恰好で
食卓の上に眼をそそぐ
今朝の汁の実は茗荷かな
それとも千六本かな
わたくしはまづ野菜のスープをすする
それから色の良いおしん香をつまむ
熱い湯気のほくほく立ちのぼる
麦のご飯を頬ばりこむ
粒数にして今のひと口は
どのくらゐあつたらうかと考える
わたくしは療養を全たうした
友のことを考へる
療養を全たうしようとしてゐる
自分の行末について考へる
生きることは何がなし
嬉しいことだと考へる
死ぬことは生きることだと考へる
食事が済んだら故郷の母へ
手紙を書かうと考へる
考へながらもわたくしの肉又は
まんべんなく食物の上を歩きまわる
「有り難う」とわたくしは心の中で呟く
誰にともなくおろがみたい気持ちで・・・・
九月某日
(昭和十五年「山桜」二月号)
[iii] 晩秋
東條耿一
芒のさ揺れ 赤松の幹の光 静かな疎林のほとりからこころに沁みいる アンジェラスの鐘―
―小父チャン 天ニモオ家ガアルンデシヨ
アレハ迷子ニナラナイヤウニ 天ノオ家デ鳴ラスノネ 天ノオ家ハホントノオ家ネ アソコニハ オ父サンヤ オ母サンモ ミンナヰルンデシヨ アタイハヤク行キタイナ ミンナハ天ノオ家 知ラナイノ?
―ミンナハ遊ブコトバカリ知ツテヰテ ホントノオ家ヘ帰ルノヲ 忘レテシマツタ オバカサン イケナイネ・・・・
―ヂヤア 小父チヤンハ?
―アア小父チヤンモ忘レテヰタヨ コレカラハハルチヤント 仲良ク帰ラウネ
―ミンナトンボニナツテ帰ルノネ ステキ ステキ
止んでまた鳴りつぐ 鐘の音の 枯野は寂し
ああ肩の上の少女の聲に
しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。
(昭和十二年「山桜」十月号)
この物語は、4年後に、手記「鶯の歌」(「聲」昭和16年6月号)に於いて、もういちど語り直され、次の様な作品に変貌している。
鶯の歌
東條耿一
夕食後、縁先で萬年青の葉を洗つてゐると、小父さん、と三郎君がやつてきた。
三郎君は今年七つの癩者の孤児である。入院してまだ半年にみたないが父親は十年ほど前に入院し、盲で咽喉を切開し、つい先頃重病室で死んだ。三郎が入院してまもない或日収容病室の付添夫をしてゐる友がつれてきた時、梨かなにかを與へたのが縁で、私と三郎はすつかり仲良しになり、それから少年は毎日のやうに來て、食事も一緒にするやうになつた。三郎は額にちょつぴり赤斑紋があるきりだが、繃帯だらけの私を少しも嫌はず平氣で抱きついたり、肩車に乗つたりした。
私は水筆を捨てて早速三郎君とつれだつて散歩にでかけた。垣ぞひの道まで來ると、私は少年を肩車にのせた。
「望郷臺に登らうよ。だけど、あたいを肩車にのせて、小父さん登れるかい。小父さんはのつぽだけど、ひよろひよろしてゐるからな」
少年は頭の上から私の顔を覗き込むやうにして云ふ。私は桃畑を突切り、椎の並木を望郷臺へ向つた。
「さあ、小父さん、しつかりしつかり」
爪先き上りの細道を喘ぎ喘ぎ登る私に、少年は足をばたばたさせながら云ふ。どうやら頂上に出た私は思はずほつと大きく息をした。冷い風が汗ばんだ肌に快い。一望に開けた眼界を見、少年はバンザーイと叫んだ。私の眼には近くの寮舎の屋根だけが朧に見えた。遠く夕陽がもえ、あたりには早や黄昏の色が立ちこめてゐた。折柄ベトレヘムの園で打鳴らすアンジェラスの鐘が冴々と大空に響き渡つた。
「サブちやん、一寸の間静かにしてゐるんだよ」
と私は十字を印した。少年は祈が濟むまでおとなしくしてゐた。
「小父さん、今の鐘は何處で鳴らすの」「あれかい、天のお家で鳴らすのさ」
「天にもお家があるの」「あるとも、とても良い所で、綺麗なお國さ、良い人ばかりゆけるところさ。サブちやんも行きたいかい」
「うん何時ゆくの」
「死んでからさ」
「ぢや、つまんないなあ」
「つまんなくないさ、サブちやんは死んでから本當のサブちやんになれるんだよ。それに天のお家には、サブちやんのお父さんやお母さんもゐるんだよ」
「みんな天のお家知つてるの、正ちやんや牧ちやんは?」
「忘れてしまつたお馬鹿さん」
「あたい家に帰つたら天のお家のこと正ちやんや牧ちやんに知らせてあげよう」
さういつて少年は暫く黙つてゐたが、小父さんと又言つた。
「天のお家はあの赤いところ?」
少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。
落葉林にて
東條耿一
私はけふたそがれの落葉林を歩いた。粛條と雨が降ってゐた。
何か落し物でも探すやうに、私の心は虚ろであった。 何がかうも空しいのであらうか。
私は野良犬のやうに濡れて歩いた。幹々は雫に濡れて佇ち、落葉林の奥は深く暗かった。
とある窪地に、私は異様な物を見つけた。それは、頭と足とバラバラにされた、男の死體のやうであつた。私は思はず聲を立てるところであつた。
よく見ると、身體の半ばは落葉に埋もり、頭と足だけが僅かに覗いてゐる。病みこけた
皺くちやの顔と、粗れはてた二つの足と……。その時、瞑じられてゐた眼が開かれ、
白い眼がチラツと私を見た。
「アッ、父!!」と私は思はず叫んだ
「親不幸者、到頭來たか……。」
と父は呻くやうに眩いた。許して下さい、許して下さい、と私は叫びながら、父の首に抱きついた。父の首は蝋のやうに冷たかった。
それにしても、どうして父がこんな所に居るのであらうか、胃癌はどうなのであらうか、
その後の消息を私は知らないのだ。
「胃癌はどうですか、どうして斯んな所に居るのですか、さあ、私の所へ行きませう。」
私は確かに癩院の中を歩いてゐたのに、はて、一體此處は何處なのか、私は不思議でな
らなかった。
「お前達の不幸が、わしをこんなに苦しめるのだ。」と父はまた咳くやうに云った。私は
はやぼうぼうと泣き乍ら父に取縋つて、その身體を起さうとした。しかし、父の身體は石
のやうに重かった。
「落葉が重いのだ、落葉が重いのだ。」
と父がまた力なく叫んだ。
「少しの内、待ってゐて下さい。今直ぐに取除けてあけますから……。」
私はさう答へると、両手で落葉を掻きのけた。雨に濕つて、古い落葉は重かつた。
苔の馨りが私の鼻を掠めた。しかし、幾ら掻いても、後から後からと落葉が降り注いで、父の身體にはなかなかとどかない。私は次唐に疲れて來た。腕が痛くなり、息が切れた。私は悲しくなって、母を呼んだ、兄を呼んだ……。
どの位経つたのであらうか。
私は激しい疲勞のために、その揚に尻もちをついた。ぜいぜいと息か切れた。降り積る
落葉は見る見る父の顔も足も埋め盡して、からから佗しい音を立てた。
「噫、父よ、父よ……。」
日はとつぷりと暮れて、雨はさびさびと降つてゐた。
「親不孝者、親不孝者……。」
何處からか苦しげに呻く父の聲が、私の耳元に、風のやうに流れてゐた……。
(昭和16年 「山桜」三月号)
[v] 遺稿「訪問者」 第二編
東條耿一
吾子よ、吾なり、扉を開けよ
汝を地に産みし者来たれるなり
吾、はるばると尋ね来るに
汝、如何なれば斯く門を閉じたる
吾子よとく開けよ
外は暗く、凩はいよよ募れり
噫父なりしか
父なりしか、宥せかし
おん身と知らば速やかに開きしものを
噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり
わが父よ、しまし待たれよ
わが裡はあまりに乏しく
わが住居あまりに暗し
いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ
これ吾子よ、何とて騒ぐ
吾が来たれるは
汝をして悲しませむとにはあらで
喜ばさむ為なり
吾が来れば
乏しくは富み、そが糧は充たされるべし
吾久しく凩の門辺に佇ちて
汝を呼ぶことしきりなれば
吾が手足いたく冷えたり
噫わが父よ、畏れ多し
われおん身が、わが門を叩き
われを求むを知り得たり
されど、われ怯懦にして、おん身を疎み
斯くは固く門を閉したり
噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや
われ如何にしてお宥しを乞はむ
さはれ、われは伏して、裡に愧づなり
わが父よ、いざ来たりませ
吾子よ、畏るゝ勿れ
非を知りて悔ゆるに何とて愧づる
夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ
吾今より汝が裡に住まむ
汝もまた吾が裡に住むべし
父よ、忝けなし
われ、何をもておん身に謝せむ
わが偽善なる書も、怯懦の椅子も
凡て炉に投げ入れむ
わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ
われ囚人めしうどにして、怯懦の子、蝮の裔
おん身を凩の寒きに追ひて
噫如何ばかり苦しませしや
最愛の子よ、吾が膝に来よ
而して、汝が幼き時の眠りを睡れ
そは吾が睡り甘美あまければなり
われおん身を離し去らしめじ
わが貧しきを見そなはして
わが裡に住み給へば
われもまたおん身の裡に生きむ
噫永久とこしへに、われ、おん身の裡に生きむ
父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ
父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ