ポール・アヌイ神父(ANOUILH, Paul, 1909-1983)は、1951年に長谷川真一ととともに東京少年合唱隊を結成し、とくにグレゴリオ聖歌の歌唱指導したことで、音楽教育の歴史に名前を残していますが、コッサール神父の後を継いで全生園の愛德会の司祭を務めた方でもありました。
全生園愛德会発行の「いずみ」31 復活祭号(1959)「アヌイ神父叙品二十五周年記念特集」、光岡良二の随筆「アヌイ神父様」が掲載されていたので、それを紹介します。
---------------------------アヌイ神父様 アウグスチノ 光岡良二--------------
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アヌイ神父様は、私が会った二人目の神父様であった。
それまで私が頭で描き、きめこんでいたキリスト教というもの、信仰というものは、何か陰うつなもの、苦しいもの、きびしいもの、歯を食いしばって堪えてゆかねばならないような何かであった。ところが神父様が、そのまわりに漂わせていられるものは、かぎりなく明るい、そして軽やかなものであった。それは、春の日光のように、私の固く凝りかたまった「自我(エゴー)」を融かし去った。私はアヌイ神父様によって、はじめてキリスト教が「喜び」の宗教であることの、本当の実感を教えられた。
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アヌイ神父様の御説教は、ほとんど何時も「愛」にはじまり、「愛」に終わる。
神父様は、私たちの中でも、一ばんひどく病気に傷めつけられている重症の人を、真先に、一番深く可愛がられる。そして単純な、心の貧しい人を可がられる。これらの人はきっと天国でも一番高いところに坐るのだと云われる。軽症な者や、若さに溢れている者や、インテリ臭い者や、はみんな後まわしである。
神父様の、このような態度の中に、私は何と云えず深い「味」をいつも噛みしめる。
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神父様にお会いした頃、私は怖ろしい魂の状態にあった。或る暗い情念にとりつかれ、絶望的な場所に突き進んでいることが、はっきり分かっていながら、引き返せない状態にいた。自分の罪を知っていて、罪を自分に認めることを拒絶していた。
こんな私に、アヌイ神父様は、何一つ説教されなかった。私の弱さを認め、愛で包みこみ、慰めと希望だけを与えられた。私が回心の決意を申し上げたとき、神父様が「アリガトウゴザイマス」と、言われた言葉を、私は忘れることが出来ない。
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神父様は、やさしい人であり、又こわい人である。神父様がこわく感じられるときは、じぶんが何処かゆがみ、迷い出している時である。
私は、いつでも神父様の瞳がまっすぐに見られるようにつとめている。
私は、「司祭のための祈り」が好きだ。
「願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝けるかれらの冠とならんことを。」
何とすばらしことだろう。私の魂が、神父様の永遠に輝ける冠の一つになるなんて! そしてまだ、何と重いことだろう。
怠りの時々、私はこの祈りの句を思い出して、心おののくのである。
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光岡良二(1911-1995)は、1933年(昭和8年)に癩の診断を受け東京帝大文学部哲学科に在籍のまま全生病院に入院しました。1934年に入院した北條民雄(1914-1937)より三歳年長の療友で、病院に収容された児童の為の学校「全生学園」(1932年開校)の教員を務め、児童文藝誌「呼子鳥」(1932年創刊)の編集を担当しました。
岩波文庫の「北條民雄集」には、北條民雄が「秩父晃一」の筆名で書いた二篇の童話を収録しましたが、それはこの「呼子鳥」の第三号と第四号に掲載されたものです。
北條の遺作「望郷歌」(文藝春秋、1937年12月)に登場する全生学園の教師「鶏三」のモデルは光岡良二といってよいでしょう。入院直後に光岡は明治学院のハナフォード師によって受洗し、院内の聖書研究のグループに参加していましたが、北條民雄が中心となった文芸サークルのメンバーにもなっていましたた。当時はこの二つのグループは全く没交渉で、「互いに風馬牛であった」と光岡自身が後に回想しています。
光岡良二は、療友の女性と結婚しましたが、もともと症状の軽かった彼は治癒に近い状態が数年続いたので、退院届けを試みに出したところ、それが受理され、重症で手足の不自由であった妻を病院に遺したまま、単身で退院しましたた。戦況が悪化し病院の経営が困難となった当時は、症状のでない患者はどんどん退院させるのが方針であったようです。友人のつてで軍事物資を調達する工場などの職を転々とした後、敗戦を迎えました。戦後は、進駐軍関係の翻訳サービスのような業務に就いた後で、ハンセン病が再発した為に、1948年に再入院を余儀なくされました。さいわい、新薬プロミンによる化学治療が受けられたので、病状が好転、その後は、園内の中学や青年のための英語教育活動、短歌の創作など文芸活動も再開しました。それと同時に、1952年全国十一箇所の国立癩療養所患者自治会の全国組織の初代事務局長となり、戦後の療養所の民主化の運動にも参加しています。
北條民雄の評伝「いのちの火影」につけた自伝的回想のなかで、光岡良二は、癩園に復帰した頃の自分の心の深い傷に言及しています。それは、療養所を退所した後で、ある女性と同棲し、結局はその女性とも別れて、再入院せざるをえなかった自分のエゴイズムに苦しんだからでした。「妻とはもとのようになるためには五年の歳月が必要であった。はたして、ほんとうにもとのようになれたのかどうかは分からない。とにかく、ともに静かな初老にはいりつつある」と、のちに光岡は回想しています。
光岡はすでにプロテスタントの洗礼を受けてはいましたが、「告解の秘蹟」のあるカトリック教会に帰正し、東條耿一の義弟の渡辺清二郎・立子夫妻のいた愛德会の会員となり、会誌「いずみ」に随筆や短歌を数多く寄稿しています。