昭和12年1月、すでに腸結核を併発して病床にあった北條民雄は、「井の中の蛙の感想」と題する文を『山櫻」に寄稿している。この文は、前年の昭和11年8月の「長島騒擾事件」に言及して、ストライキをした患者達を「井の中の蛙」と批判した日本MTL(mission to lepra という当時の「救癩」団体)理事の塚田喜太郎の文章に対する反論である。
「長島事件」については、ハンセン病問題に関する検証作業の一環として現在ではその状況が歴史的に解明されているが、当時国家的なキャンペーンとして行われていた「無癩県運動」のために、国立療養所愛生園が定員を大幅に超過し、患者の医療・生活条件が極度に悪化したために起きた患者の作業ボイコット事件であった。
塚田は「長島の患者諸君に告ぐ」と題して次のように書いている。(昭和十一年 「山桜」10月号)
井の中の蛙大海を知らず、とか。実際、井の中の蛙の諸君には、世間の苦労や不幸は分からないのであります。(中略)蛙は蛙らしく井のなかで泳いでいればよいのであります。また、大海も蛙どもに騒がれては、迷惑千万であります。身の程をしらぬといふことほど、お互いに困ったことはないのであります。(中略)患者諸君が、今回のごとき言行をなすならば、それより以前に、国家にも納税し、癩病院の費用は全部患者において負担し、しかる後、一人前の言ひ分を述ぶるべきであると。国家の保護を受け、社会の同情のもとに、わずかに生を保ちながら、人並みの言い分を主張する等は、笑止千万であり、不都合そのものである。
塚田のこの見解に対する北條のコメントが、翌年の山桜の一月号に「井の中の正月の感想」と題して掲載されている。
諸君は井戸の中の蛙だと、癩者に向かって断定した男が近頃現れた。勿論、このやうな言葉は取り上げるにも足るまい。かやうな言葉を吐き得る頭脳といふものがあまり上等なものでないといふことはもはや説明の要もない。しかしながら、かかる言葉を聞く度に私はかつていったニイチェのなげきが身にしみる。「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」
全療養所の兄弟諸君、御身達にこのニイチェの嘆きが分かるか。しかし、私は二十三度目の正月を迎えた。この病院で迎える三度目の正月である。かつて大海の魚であった私も、今は何と井戸の中をごそごそと這い回るあはれ一匹の蛙とは成り果てた。とはいへ、井のなかに住むが故に、深夜沖天にかかる星座の美しさを見た。大海に住むが故に大海を知ったと自信する魚にこの星座が判るか、深海の魚類は自己を取り巻く海水をすら意識せぬであろう、況や-
北條のこの文章は、慈善事業に携わる者が、同情をよそおいながら相手を差別する偽善を指摘したものであるが、それはまた、「救癩」の美名を掲げつつも、恩恵を受けている「病者」が、自己の権利を主体的に主張したときに不快感を感じて侮蔑的な言辞を吐く「健常者」にたいしても、公正であろうとする「病者」の「苦悩」を吐露したものでもあった。
北條民雄が引用した「兄弟よ、汝は軽蔑といふことを知ってゐるか、汝を軽蔑する者に対しても公正であれ、といふ公正の苦悩を知ってゐるか」という「ニイチェの嘆き」とは、「ツァトゥストラ」の第一部「創造する者の道」にある言葉である。
岩波文庫の「北條民雄集」にはいくつか注釈をつける必要があったので、私は、昭和10年から12年にかけて、一般に、日本でニイチェがどのように読まれていたか、またとくにハンセン病療養所の中でどのようにニイチェの本が読まれていたかを調べてみた。そのなかで浮かび上がってきたのが、生田長江によるニーチェ全集翻訳のもつインパクトであった。1935年4月には、ニイチェの「ツァトゥストラ」の改訂文語訳が日本評論社から出版されているが、1936年1月に逝去した長江が、ハンセン病による失明と肢体の麻痺による身体的な苦痛の中で、畢生の作ともいうべき『釈尊伝』の執筆を続けていたことは、全生病院の療養者の間でもよく知られていた。
「山櫻」1936年(昭和11年)8月號の巻頭言には、
「こんな時代(癩遺伝思想に支配されている時代)には、よしや癩者に傑れた文学者があつたにしても、それらの思想に阻まれて、その病名を隠匿してゐなければならなかったとしても無理ではあるまい。現に最近逝去した我国屈指の作家某氏が癩者であった事実を世人は余り知らないであらふ。併し、現代はそれらの旧い因習を打破して伝染説の確認されている時代である。そして我々は癩である事実を隠匿することなく生々しい闘病生活の中に癩者としての光明と救ひを見出すべく文学せねばならない、それがこの時代の我々の文学であり、時代の正しい思想の啓示でもあるのだ」
とあるが、ここで「最近逝去した我国屈指の作家某氏」とは生田長江のことである。彼のニイチェ翻訳は、明治時代の文語訳聖書を彷彿とさせる宗教的熱情に満ちた格調の高いものであったが、単に文体が優れていたのみならず、その根本思想の解釈においても、世人が宗教と呼ぶものを否定すると解したニイチェのニヒリズムのうちに、より深い意味での宗教性を見出し、それを仏教の菩薩道の精神において肯定するものであった。言うなれば、「ニイチェから仏陀へ」という高山樗牛や姉崎正治が歩んだ日本のニイチェ解釈の道を、生田長江もまた歩みつつ「釈尊伝」を書くことを生涯の課題としたのであった。自らハンセン病者として盲目と手足の麻痺に苦しみながら創作活動を続けていた彼の著作は、伊福部隆輝をはじめとして、彼と親交のあった同時代の多くの作家達に大きな影響を与え、「没落」の運命を自ら引き受けて生きる勇気を与えたのである。
ところで、生田長江は自ららの生活の信條(一の信條)を次のように自筆で書き残している。「一の信條」の「一」には、生田よりも遙か前におなじくハンセン病の病苦に苦しみつつもプラトンとアリストテレスの哲学を継承したプロチノスの「一なるもの」を想起させるが、それを生田は次のように要約している。
私は信じてゐるー第一に科学的なるもの眞と、第二に道徳的なるもの善と、第三に芸術的なるもの美と、
この三者がつねに宗教的なる者聖に統合せられて三位一体をなすことを。
(生田長江全集第9巻口絵より転載)
真善美という三つの価値が、「聖という宗教的な場」においてひとつに統合されること、その一なるものを生きるということが生田長江の信條であった。