歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

神谷書庫にて

2005-11-03 |  文学 Literature

    

10月末に、岡山のノートルダム清心女子大で開催された中世哲学会に出席。帰京の途中で、長島愛生園の神谷書庫に立ち寄る。この書庫には、日本各地の療養所で出版された園誌のバックナンバーがほぼ揃っている。全生園祭の展示「極限を生きた療友達の記録」で、昭和25年に出た「灯泥」という詩誌の創刊号を捜していると聞いてたので、多磨全生園関連の書棚を見ると、そのすべてのバックナンバーがあったのには驚いた。この神谷書庫の文献を蒐集・管理された入園者の方々のご努力に頭が下がる思いがした。とりあえず、「灯泥」の創刊号をコピーしたあとで、明石海人関連の資料を読ませて頂いた。印象深かったのは、海人自身が書写した万葉集。これは眼が見えなくなる前に、毛筆で大きな文字で丁寧に一首ずつ書き取ったもの。敬虔なる仏教徒が写経するのと同じように、万葉集を書写することで海人は万葉人の心を学んだのだろう。

また、愛生園入園前のものを含む明石海人の最初期の歌稿や、俳句ノートもあった。俳句ノートは自由律が主であり、一つの題をもとに連続して百句近く詠むなど、精進の様が偲ばれる。海人は、俳句連作を試みたあとで次のように言っている。

少し眼を使ったら、ぢき虹彩炎で真紅に充血して痛み、起きて居たら発熱するようなこの頃に、いろんなことをやらうとするのは多分無理だらう。日は暮れて道遠しの感に堪えない。もう十年生きたら、歌も句も相当な処まで進むだろうと思うが・・・・。だが、六尺の病床を天地として、あれだけの仕事をなしとげた子規の事を思ふと、うかうかしては居られない気がする。
 生くる日の限り、日に新に日に日に新に成長してゆきたいものだ。
晴れた六月の陽は美しい。金魚草花菱草小町桜が、青葉の中に紅、白、紫、黄、とりどりに輝いてゐる。庭先の崖際には松葉ボタンが開きスヰートピーが匂つてゐる。人生の日暮れに近づいて、いよいよこの世の美しさが身にしみる。雀の声まできれいにきこえる。

この文章を書いているとき、海人は「人生の日暮れ時」にいることを自覚していた。30歳代で「日暮れ時」と言わねばならぬ境遇をかこつことはなく、たんたんとその心境を述べている。「生くる日の限り、日に新に日に日に新に成長してゆきたいものだ」とは、おそらく海人自身を勇気づける言葉であったろうが、それを読む私自身をも勇気づける。自己の最期の時を自覚しながらも、それまでに許された限られた未来の時間において「日に日に新たに成長する」ことを希望しつつ、現在を平常心で生きること-こういう生きざまを示す言葉には滅多に出会えない。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 全生園祭にて | TOP | 「小さき声」復刻版の校正 »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 文学 Literature